それまで両親には十分に甘やかされていたと自覚したのは、厳しい修行にほぼ暇なく忙殺されてからだった。母は私に立派な後継者に育てようと、厳しい修行を言い渡した。
私は自分を忘れるほどに無我夢中に修行をこなし──気がつけば最後に海人君と会ってから、一年ほど経とうとしていた。
安東氏の真実を知ってからは、檜山に訪れる理由はない。仲が良い──というわけではないが、湊と檜山はどう安東氏を後世まで存続させるか、その手段で袂を分かった。
それでも『まつろわぬ神』という強大な敵を前に、一丸となって抗っている。敵の敵は味方。私の檜山への説得は、ほとんどが無駄だった。
けれども檜山に訪れたことに、私は意味がなかったとは思わない。
私はいつもどおりに、檜山への使節団改め、連絡役に同行した。そして個別行動をとると、あの祠へと向かった。
一年も音沙汰なく、海人君は私のことを覚えているか、許してくれるか心配だった。うじうじ迷っていた心も、彼を見たときには吹き飛んでいた。
海人君はいた。相も変わらず槍の鍛錬をしていた。
私は鍛錬の邪魔をしないように、そっと回り込んで祠の縁側に腰を下ろした。
私は海人君の鍛錬を観察しはじめた。一年ぶりに見る彼は、驚くほど成長していた。肩幅ががっしりと固まり、身は引き締まり、それでいて服の上から筋肉がよりついているのがわかる。体格は見違えていた。
海人君が一息つくと、こちらに気づき声をかけてくれた。私も手を振って応えると、私は心の底からほっと胸を撫で下ろした。彼は私との間には、気まずさといったものを全く感じていないように思った。一年前が懐かしく感じ、遠い昔のように思い起こされた。
海人君は変わっていない。何も知らなかったあの頃に戻れる。
そんな私の希望は、海人君が次に語った言葉によって、早々に儚く打ち砕かれることになる。
海人君はこの私が居なかった一年で、何があったのかを語った。
父親が戦場に駆られて、命を散らしたこと。
そして身寄りのなくなった自分は引き取られて、引き取られた義父の姓名をもらい、『安東』の姓を名乗るようになったことも。
海人君は、私の遠い親戚になった。衝撃的で、しばらく言葉を失った。彼はしてやったりという顔をしていたが、私はそれどころではなかった。
あの頃にはもう戻れない。そう現実を突きつけられている気がして、いたたまれなかった。海人君は一年を埋めるように積極的に話しかけてくるが、彼の内心を考えようとすると、うまく言葉が出なかった。
安東家の一員となったということは、安東家に執着するまつろわぬ神のことも聞かされているはずだ。そうなると、私のことも──。
時は過ぎさり、必ず訪れる。人は変わらなければいけない。
けれども私はこのとき聞くのが怖かった。彼がそれを聞いて、どんな思いを抱いたのか。
知るのが怖かった。
◆
その後も私は、休暇が与えられるたびに檜山を訪れた。
ある程度自由なことをさせてもらえた私に、父は檜山に行く条件を出した。湊の巫女となる修行を優先すること。それさえ守れば檜山であろうと何処に行こうと許された。
久しぶりに海人君に会った時、私が黙って微妙な雰囲気の中、最初に口を切ったのは彼の方だった。
自分は安東の姓を名乗れることになったが、まだ安東のことは何ひとつ教えられていない、のだと。
それに自分を引き取った義父は、檜山安東家から勘当されて、政には全く関わっていないという。
そんなはずがない。
勘当されたのなら安東の姓を名乗れるはずがない。即刻打ち首になるではないか。
海人君に裏を感じずにはいられなかったが、彼は必死に弁解していた。その態度からは心意に心の底から思っていることを吐き出しているようだった。
それに海人君が一年前と中身が変わっていないのだとしたら、嘘をつけるような人ではない。
私は、彼をとりあえず信じることにした。しかし頭の隅には、私が見破れないほどとぼけるのが上手いのではないか、と疑念があった。
私は彼に、檜山城に行ったついでに寄っていると説明した。
もちろん嘘だ。檜山城に用事などないし、そもそも顔さえ出していない。何も知らなかった頃の自分を、澄ました表情で騙していたと思うと、顔を合わせにくかった。私は父以外の安東の人間が信用できなかった。
海人君も父と同じ例外、安東家の信用できる人に入る。ただそれも、いつ崩れるから予想できなかった。
私は友達がいない。小さな頃から大人たちに囲まれて、城の中でぬくぬくと育ち、食べることに困らない、湊のお姫様だ。
私と同年代の子供達が、遊んでくれることはなかった。あの自分は私達とは違う、あの子は自分達とは別世界で生活している。そう思っていることだろう。
私が頼めば絶対に断らない。だがそれは自分が傷つけられるのが怖いだけであり、対等な関係ではない。私のことを『お姫様』という重い先入観で見てしまえば、対等な友達関係など築けるはずがなかった。
だけど海人君は私を、色眼鏡で見ることはしなかった。
初めて会ったときも、高価な着物を着た私を物珍しくは見ても、気遅れはしていなかった。
私が湊の安東家の姫だと打ち明けても、彼は一言「驚いた」とだけ言って、接する態度を変えたりはしなかった。
それが彼に興味を持ったきっかけだったのは間違いない。
海人君は私に庶民の生活をたくさん教えてくれた。私は彼に異国のいろんな品を見せた。私達の間にはさまざまな思い出が積み重なっていく。そして海人君は、私の特別な存在になっていく。
私が家族以外に、唯一悩みを打ち明けられる人だった。私を叱ってくれる人だった。私と対等の人だった。
海人君の人柄に触れて、思い出を積み重ねていき、あるとき私はふと気がついたのだ。
私は海人君が好いている。
子を生してもいい。
この頃からはっきりと自覚し始めていた。
この胸の中の熱い鼓動は、私だけのもの。他の誰にも真似できない。
だから私は、私の事情を知られるのが嫌だった。海人君に知られて、関係が崩れるのを恐れていた。
いずれは海人君も養父から安東氏の内情を教えられ、私がどんなことをしているかを突きつけられるのだ。
知った後、海人君は私にどんな目を向けてくるのか。想像したくもなかった。
◆
そしてついに、私の生活が劇的に変化してから、五年の歳月が過ぎ去った。
母が犠牲になってから、五年だ。自分の番が回ってきたのだ。
未だに、海人君の口から、聞くことはできなかった。
私は、自分が思っている以上に臆病だったようだ。
生贄になることに恐れはない。それ以上に、親しい男の子に嫌われることが怖い。
いや、男の子ではないか。それに私も子供ではない。成人の儀を済ませてから五年経っている。なのに心は子供のままだ。
海人君と会える最後の機会。檜山は軍を進める。私は父親と一緒に、山を登り、まつろわぬ神が住み着く湖へと行かなくてはならない。
私は彼に尋ねた。本当に檜山との関係はない、持っていないのかと。
『神様? なんの話だ』
海人君は、本当に何も知らなかった。
私は騙されていたわけではなかった。
「……嘘じゃなかった」
私の想像していた心配は、杞憂に終わる。だがその代わりに、秘密を墓まで持っていく様な、責任感を背負わされることになった。
まつろわぬ神の存在を、彼に教えてはいけない。
私が生贄になると言えば、軽く蹴散らしてやるよと言ってまつろわぬ神に立ち向かっていくかもしれない。
海人君が人一倍の力を持っていたとしても、人間では勝てないのだ。
最後に私は、幼い頃に約束した、先延ばしにしていた答えを尋ねた。
私の中では今で色あせずに思い返される。海人君は今でも覚えていてくれるだろうか?
『……覚えている。お前が俺に惚れているという話だろう』
覚えていてくれた、これほど嬉しいことはない。
内容のほうは散々で、海人君とは喧嘩別れのようになってしまったけれど、これでよかったと私は思う。
あの約束は、私をここに縛るお呪い。それに決着がつき、私は納得した。私はここで終わる。だけど彼は私よりずっと生きて、私以外の誰かと結婚して、子供を作って……。
……少し納得はしていない。だけど、後悔はしていない。
その役には、本当は私がなりたかった。仕方が無いことなんだ。
「……じゃあね、海人。さようなら」
最後をわざと小さくして、私は胸の痛みを無理やり納得させた。
海人には、私の分まで末永く生きて欲しい。