つらい行軍だった。天に見放されているかのような悪天候だ。豪雨に暴風、いつ真上から雷が落ちてきてもおかしくない。
愛代は、まつろわぬ神の巣食う湖、十和田湖へと行くため、道を開拓しながら進んでいた。
まつろわぬ神が居座ってから百年と余年、十和田湖周辺は密林、未開の大地と言っても過言ではなかった。十和田湖から十キロは住み着いてからは住んでいる人はいない。動植物が無秩序に成長して、足の踏み場も満足にない状態だった。
安東の兵士が鉈を使って枝や雑草を刈り取っているが、同行する人数が多ければそれだけ進むのも遅くなる。愛代と舜季、二人に同行しているのは信頼のおける、最低限の兵士だけだった。
古くから建てられた、石で出来た目印を頼りに、愛代たち一向は山林の奥へと突き進む。
「愛代様、道が拓けました」
「ありがとう──きゃっ!」
木々の隙間から、強烈な風が打ちつける。たまらず愛代の体は、ぐらりと傾いた。
「大丈夫か?」
あやうく後ろに倒れそうだった愛代の体を、舜季は受け止めた。
「ありがとうございます、お父様」
「踏ん張れよ、此処を切り抜ければ……」
続く言葉は、雨粒をのせた強い風に吹き消された。しかし愛代には、父の唇が動いたとは見えなかった。
いまだこの奥羽の地が蝦夷と呼ばれた時代、安東家のご先祖様は『蝦夷管領』という役職を賜っていたらしい。
蝦夷地と呼ばれ、奥羽がまだ開拓されていない、蛮族の住まう地だといわていた時があった。重犯罪者の流刑地としても見られていた時代から安東氏はここを支配し、先駆けとなったのだ。そう考えれば、愛代たちのしていることは蛮族を討つ行為。飛躍すれば征夷大将軍の使命につながるのではないか。
だが愛代たちが討とうとしているのは、坂之上田村麻呂が征伐した人間ではない。気まぐれで天変地異を起こす人智を超えた存在、まつろわぬ神なのだ。
愛代は懸命に足を踏みしめ、一歩一歩確実に進む。
奥に立ち入るごとに、嵐は激しくなる。まるで一向をまつろわぬ神が拒絶し、追い払おうとしているかのようだった。
生い茂る茨を越えて、ついに愛代たちは嵐の壁を突破する。
「ついたぞ……!」
あれだけ荒れ狂っていた嵐が、ぱったりと止んだ。迷いの森がなくなり、空の開けた場所に出た。
そこにあったのは、大きな湖。遠くに見やる端がなければ、海と見紛うほどの面積を持つ、十和田湖という名の湖だった。覗き込む湖面は顔を映すほど澄んで美しく、景色はおもわず深呼吸をしてしまうほど開放的だった。
愛代たちが十和田湖の景観に思わずも見惚れる中、一度来たことがある舜季は眺めるのもそこそこに、鋭い目で周囲を見渡した。
忘れもしない五年前、舜季はまつろわぬ神を前にして、立ちすくむことしかできなかった。ついにはうつむき、まつろわぬ神に字軍を蹂躙されるのを黙って待つことしかできなかった。
舜季がこうして生きて、またここに立っているのは運がよかっただけでしかない。たまたま神の手を逃れ、無様に生き残ってしまったにすぎない。
ついに万の生命がおそれる、大地の支配者が顕れる。
湖面が、ゆらり、と揺れる。次の瞬間、一向は、湖の中から山が現れる錯覚に陥った。
それは山岳を思わせるほどの巨躯を持つ化物だった。水が引いて現れたその姿は、びっしりと全身が苔や藻に覆われて体表が窺えない。なにより目を引くのは、八つに伸びた長い首。それぞれの頭に生える角は、絶対強者の竜の証。
愛代の前に現れたのは、八つ首という異形の姿を持つ『まつろわぬ神』だった。
「我が寝所に無断で入りし、小さき者どもよ。雨と風の拒絶を受けてもなお、ここに立ち入ったということは、貴様等が此度の贄だな?」
八つの首のひとつが、最もまつろわぬ神に近かった愛代の目の前まできた。
二対の眼光が、愛代を観察する。まつろわぬ神の顔の大きさは、愛代の身長よりも大きかった。愛代はその巨大な眼に射すくめられ、完全に萎縮してしまった。
「畏れながら、神よ」
一度姿を見たことがある舜季が、愛代とまつろわぬ神に割って入る。だがその声は、わずかに震えていた。
「それよりも先に、御身に捧げるため、多量の酒を運んでまいりました。大樽八つ、十分に酔える量かと。どうか胃にお納めください」
舜季は目配せすると、後ろからついてきた兵たちが酒樽をまつろわぬ神の前に並べた。ひとつの大きさは、四人がかりで運ばねばならぬほど大きかった。
「気が利くではないか。……どれ、まずは一口」
チロチロと蛇の如き細長い舌を伸ばすと、まつろわぬ神は酒を舐めた。表情は変わらないが、まつろわぬ神の前に居てかかる重圧が、心なしか軽くなったような気がする。気に入ってくれたようだ。
金縛りにあったように動かなかった愛代だが、竜に視線をはずされて、ようやく動くことが叶う。しかし恐怖はしっかり心に刻み込まれてしまった。愛代は震えながら、静かに頭を垂れた。
策は順調に進んでいた。
舜季がたてた策はこうだ。このまま酒を浴びるほどに飲ませて、まつろわぬ神を泥酔させる。頭の回転が鈍ったところで、この八つ首の竜の狙っている愛代を逃がす。
愛代が逃げる時間は、舜季たちが稼ぐ。すぐにあの巨大な顎で食い破られてしまうだろうが、同時に別の方向に向かえば逃げられる時間は増えるはずだ。
愛代が、湖の反対側で待機しているはずの檜山の本軍まで逃げ切れれば、愛代の命は助かる。
舜季は、自分自身が助かろうとは思っていなかった。
「ところで」
酒を舐める頭とは別の首が動き、湖の反対側を眺めやる。檜山の本軍がいる方向だ。
いやな予感がする。舜季は冬でもないのに寒気に襲われた。
「向こう岸にいる虫どものことだ。我が版図に我が物顔で入りこみ、居座っておる。贄を喰ろうた後に潰してやろうと思うのだが……。はて、もしや奴等は、貴様の手駒か?」
また別の首が舜季の前に寄り、顎を開いた。口内には鋭い歯が無数に並び、鉄より硬く、岩すら噛み砕いてしまいそうだ。
この場所から反対岸の檜山の本軍が見えるあたり、このまつろわぬ神には人間では図りえない『眼』を持っているのだ。
「偽りの事実を吐いてみよ。その時は頭蓋を砕いてくれよう」
七首の竜は剣歯をちらつかせ脅してくる。人のことは微塵も理解できないまつろわぬ神だ、言ったからには人一人殺すことにためらわないだろう。
舜季は神への恐怖から顔を伏せ、声を絞り出した。
「いいえ、私めには存ぜぬことです。おそらく、私達湊の者たちではなく、檜山の軍勢でしょう」
だが舜季はそんな威圧にも耐えた。平静を取り繕い、顔を上げ、嘘を吐いた表情は努めて冷静だった。
焦りからが乱れ、心臓の鼓動が激しい。まつろわぬ神に聞かれないことをただ願った。
しばらくそのまま舜季と七つ首の竜の間に、沈黙が流れる。まつろわぬ神の重圧から声を発せない愛代とその他が固唾を吞んで見守る中、先に動いたのはまつろわぬ神だった。
むき出しの牙をしまい、舜季の前から離れる。
舜季は安堵し、肺の空気を大きく吐き出した。
「語るに落ちるとはこのことだな、下郎が」
その言葉が耳に入った瞬間、舜季はその場から大きく飛びずさった。
ほぼ直感に頼っての行動だった。それは正解で、彼の命を少しだけ延ばすことになる。
つい一瞬前まで舜季がいた場所を、地面ごと竜の首が抉り取った。
すぐさま舜季は体制を立て直す。現状にようやく把握する。しかし何故攻撃されたのか飲み込めない。
「軍勢と言ったか、貴様。我は人間がいると言っただけで数は言っていないぞ」
遅すぎる得心だ。言葉を選んだつもりだったが、自分は思っていた以上に緊張し、ぼろを出してしまったのだ。
「前言は曲げぬ。我を謀ろうとした罪、此の場にいる総ての命をもって償え」
「逃げろ、愛代!」
真っ先に浮かぶのは、愛娘の生存。呆然といまだ立ち尽くす愛代に、とっさに叫んだ。
◆
父の声ではっと我に返り、まつろわぬ神に背を向けて、一心不乱に駆け出した。
「危ないッ!」
その時、ひときわ大きく響いた声とともに、愛代の背中が押された。押したのは、酒樽をここまで運んできた男の一人だった。
愛代のすぐ後ろで、竜の牙がかみ合わさる。
押された愛代は両膝と手をつく格好となり、押した男は上半身と下半身がなき分かれた。鮮血が飛び散って、愛代の背中に熱いものがかかる。
おそるおそる後ろを振り向こうとする愛代に、父親の叫び声が背中を叩いた。
「振り返るな、走れッ!」
今度は声に押されて、あわてて立ち上がる。草木が生い茂るでこぼこ道を走る。愛代はわき目もふらずに、竜の首が届く範囲を走り抜けた。
「走れッ、走れッ!」
父の叫びを背中に受け、愛代は走った。枝で足を切って血が出ても、突き出た石につまずき足首をひねっても。
愛代は涙をこらえて走りつづけた。
◆
「……ふん、不味い」
そう言って竜の頭のひとつが、赤い何かを吐きとばした。それは人だったもの、口の中でミンチにされ、ただの肉塊へと成り下がっていた。
六つの頭それぞれが、人間を口の中で咀嚼している。あたりには鮮血が飛び散り、野草や木の葉や枝につき、赤く染め上げていた。そこはまさに地獄絵図だった。
だがこれは地獄の端にすぎない。このまま、まつろわぬ神をのさばらせれば、もっと大きな規模で地獄が出来てしまう。斬られ、潰され、なくなり、穿たれ、喰らわれる。
五年前は、森が人の血肉の色で染まった。戦でもあれほど悲惨な光景は見ない。舜季の頭には今も忘れられずに、その光景が刻み込まれている。
死肉が臭わす異臭だ。胃からこみ上げてくるものを口を押さえて飲み込みながら、ゆっくりと迫る竜頭に立ち向かった。
あの光景をまた生み出さない、そのためには。
「神よ、なぜこのような、人を喰らうのです!? 安東家の子供は、もはやあの娘しか残っていません。どうして安東の人間だけを差し出させるのです」
「知らぬ」
「……は?」
舜季は返されたことが一瞬理解できず、呆けた顔をさらす。
「我は『女子を生贄として捧げよ』などとは一言も出しておらん。そちらから言い出したことだ。よい寝床を見つけたので、この辺りの人間を追い出した。そうしたら人の子がひとりだけで、此処に現れた。それからというもの、五年ごとに白装の女が現れる。……我の寝所に踏み入ったものは、何者であろうと喰らう。ただそれだけの話よ」
舜季は衝撃を受け、頭の中が真っ白になった。
それが真実なら、安東は思い違いをしていた。安東氏の先祖は生贄を送り、それ以降はまつろわぬ神による被害が無くなった。それが怒りを静めたと勘違いして、その勘違いが今の安東家まで伝わってしまったのだ。
なぜ今まで気づかなかったのだ。そう思っても後の祭りだった。
「それだけか? ならば死ね」
さび付いた扉のようにゆっくりと顎を開く。
舜季は足元を見る。左足が、かかとから先がなくなっていた。食べられたのだ。これでは満足に立つこともできない、走るなんて出来るはずがなかった。
仲間の血液で光った竜の口内が迫りくるのを眺めながら、祈ることは、愛娘が生きること、ただそれだけだった。