ついに対峙した、海人とまつろわぬ神。
まつろわぬ神の方は突然湧いた障害だ。だが海人にとっては願ってやまない、父から教えられ必死に鍛えた槍の腕を振るえる、かつてない敵だった。
ついでに背中の愛代を助ければ、不幸を被る者はいなくなる。海人は背中の後ろに隠した愛代に向かって、軽く声をかけた。
「よう愛代、しばらく会わないうちに随分化粧が濃くなったな。すっぴんのほうが俺は好きだったがな」
「す、好きだなんて、そんな軽々しく……!」
「つっかかることはそこじゃねえだろ。ともかく何事もなくてよかった」
「この姿を見て、本気でそう思ってる?」
海人は後ろをちらりと振り向くと、愛代の全身を眺めた。泥と返り血で顔が汚れて、下町の貧民よりも酷い有様となっていた。
「随分とやつれた顔になったと思ってさ。そんなに俺に断られたのが衝撃で、そこまで性根が腐っちまったのか?」
「そんなことは──きゃッ!」
言い終わる前に、海人は愛代を抱きかかえてその場から飛びずさった。一足違いで竜の頭が二つ、元いた場所を通過した。獲物を見失い空を切った竜頭が、地面を食う。
愛代を抱えて飛び上がった海人は、竜の首が届かない場所に一跳びで降りた。
「か、海人……」
海人の腕に収まった愛代が、気遣うように海人に声をかける。
「大丈夫だ。……取り込み中だ。神のくせに、場の空気すら読めないのか?」
「我の威光を目にしておきながらその蛮行、許しておけぬ」
「つまり無視されて怒ってるのか? 神様ってのは気が短いんだな」
「黙れ!」
七頭の竜は激昂し、ドンと体を打ちつけ地を揺るがした。
「我が手心を加えていなければ、あっけなく散るだけの存在が……。どこまで我をコケにする!」
「じゃあその本気とやら、見せてもらおうか。ミミズ」
海人が挑発する。それが引き金となり、ついに七頭の竜は理性の欠片もない、獣の如き声で咆哮した。
思わず愛代は耳をふさぐ。海人はまつろわぬ神に背を向け、わき目も振らずに全速力で走り始めた。
さっきの七頭の竜の前で見せた威勢はなんだったのか。あっけに取られる愛代だが、自分を追ってきた時よりも何倍も速く迫る竜に、恐怖で言葉を封じられてしまう。
海人は右へ左へ時には大きく跳躍し、森の障害物を避けなければならない。対してまつろわぬ神は木だろうが大きな岩だろうが構わず壊して突き進んでくる。愛代は海人にしがみつき、必死に恐怖に耐えた。
竜頭のひとつが、大きく顎を開いた。
「海人危ないッ!」
「ッ!」
愛代が海人の耳元で叫ぶ。海人は即座に右に飛び退いた。次の瞬間、竜の口から水鉄砲が飛び、海人が立っていた大岩を砕いた。
愛代が警告しなければ、海人は愛代もろともお陀仏だった。
「助かった、愛代。後ろが見えない、そのまま頼む」
「頼むって! 危ないッ、今度は二つ!!」
物申しようにも、次から次へと水鉄砲が飛び、封じられてしまう。海人は山の複雑な地形を生かし、まるで自分の庭のようにこれを避けた。猿のように木から木に飛び移り、人一人抱えながら森を駆け抜ける。
不意に、海人は愛代の耳元で大声で囁いた。
「愛代、そのまま聞いてくれ。俺がお前と結婚してくれたら、どんな事でもしてくれるって話、覚えてるよな?」
「ッ!? げ、ごほっ! み、右! 右からくる!」
緊張して溜まった唾を飲み込んだちょうどその時、海人からそんな話をふっかけられた。唐突なことで気管に詰まって、愛代はむせてしまう。
海人は危なげなく水鉄砲をかわし、愛代は横目で恨めしそうに睨んだ。
「前に返した答えを、取り消させてほしいんだが。
「どうして、今になって」
「愛代が居なくなった時の喪失感と、お前が生贄にされる、そう舜季に教えられた時の怒りでようやく気づいたよ。──俺はお前が好きだ。結婚してくれ」
「違うわよ! 今はそんなことを言っている場合じゃないでしょ!」
「違わない、今のこの状況に十分関係ある話だ。答えなきゃ逃げ回り続けなきゃならん。……で、どうだ? 俺の女になるのか、ならないのか」
愛代は声をつまらせた。雰囲気も何もあったものじゃない。もっとこう、想像では結婚の申し出は甘い空間で行われるものだ。貿易で仕入れた西洋の春本で読んだ。こんな命の駆け引きをしている状況で行われるものではないはずだ。
これではまるで、未練ではないか。
高鳴る心の臓を落ち着かせながら、いつか使いたいと心に留めておいた言葉を吐露した。
「わたしも好きよ、海人と結婚したい。……どう? これでどうなるの?」
「よっしゃ、言質とった!
直球すぎる愛の告白に、愛代はキッと海人をにらみつけた。こんな状況で言わないでという抗議と嘆願だったろうが、顔が真っ赤に染まり、本意ではないのは誰から見ても明らかだった。
「隙ありッ!」
そんな愛代がまつろわぬ神から目を離し、海人の方を向いた一瞬の隙を突いて、自分の唇をこちらを睨む可愛らしい顔の唇と重ねた。
いわゆる接吻である。やわらかい感触。
ほんの一瞬だけの接触で、海人は唇を離した。まるで何事も起きてないとばかりに前に向き直った。
ぱくぱくと口を開閉させて爆発寸前の愛代だったが、目の前に現れた光景を見て、さーっと顔を青ざめた。顔色が赤から青に変わっていく様は海人にはとても面白かったのだが、愛代には冗談にできなかった。
前方では切り立った崖が大きく口を開いていた。広がる景色からは、人が落ちたら五体満足ではいられないことが容易く想像がつく。
道を逸れるか減速しなければいけないが、後ろからはまつろわぬ神が巨体で地を滑って迫る。トラックに跳ね飛ばされるほどの衝撃を受けてしまうだろう。
だから海人は愛代の想像を超えるかのように、減速するどころか更に加速した。
「しっかり捕まってろ!」
海人の脚が地面から離れて、二人は崖から飛び出した。
愛代はぎゅっと目をつぶる。頭の中では地面に激突する未来が浮かんだが、まず来たのはぐいと後ろに引っ張られる感覚だった。自由落下のときに感じる、無重力状態での内臓が引っ張られる感覚ではない。
直後に感じたのは、背中からドンと押される感覚。これはまつろわぬ神が水鉄砲を放って、地面に落ちた衝撃だとわかった。だが投げ出される感覚はしても、引っ張られる感覚も健在だった。
それもそのはず。海人の手には、いつの間にか持ったのか、密林に生えるような長い蔦が握られていた。
ぐるりと大きく円を描き、右の崖に海人は着地した。
愛代が目を開けたときには、崖の下からまつろわぬ神の断末魔が聞こえていた。
◆
海人と愛代の元に、遅れて重蔵と仁実が駆けつける。
海人は、抱きかかえていた愛代を脚から降ろす。愛代は、同じ安東生まれの二人に駆け寄った。愛代は二人のことを知ってはいたが、そこまで深い仲ではなかった。最後に顔を合わせたのは、五年前の討伐隊が編成される前。挨拶程度はしたものの、こうして会話するのは初めてだった。
「……重蔵さん、仁実さん」
「よっ、おめでとさん。生きてるってことは、そういうことなんだろ?」
「……」
仁実は半目で愛代をじとっと睨みつけた。
仁実はまだ納得しておらず、自分は不機嫌だぞと全身で示していた。義兄の前では意識の外にできたのだが、事の元凶が目の前に現れては面の皮もはがれてしまった。
「おら、挨拶しろ仁実」
「うう……お久しぶりです、愛代さん」
重蔵はお構いなしに、仁美の頭を掴んで頭を下げさせた。仁実は身内にはとことん弱かった。重蔵よりも若いとはいえ、彼女は湊安東家の姫様である。そうなれば重蔵の最初の一声も許されるものではないのだが。
とはいえ、ついさっきで状況は変わった。愛代は海人と夫婦の契りを交わしたこと、先ほど起こったことすべてが二人に伝わっていると悟った。
「ちょっと海人! ……あれ?」
暴露したであろう海人に文句を言おうとした愛代だったが、その張本人がいないことに気づく。後ろを振り向いても崖からの景色が見えるだけだ。
するとつい今までへらへらとしまりない顔で笑っていた重蔵が、急に締まった真剣な顔で言った。
「海人はもう行った、そういう手はずになっている。俺たちはいち速くここを離れて、山を下る。姫さんも行くぞ」
「不本意ですが、あなたを生かして連れて帰れと兄様からのお達しです」
仁実としては海人の力になりたかったが、今の自分は足手まといになるだけ。拳を握って我慢していた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 海人はどうなるんですか!?」
愛代は尋ねたが、海人がどこに行ったか分かっていた。一緒に逃げないのならば、まつろわぬ神の元に向かったに決まっている。二人の表情で確信した。
「助けに、行かないのですか?」
「俺たちがいても邪魔になる。それに無策ではない、竜も倒せる手段はある。心配しなくても、海人は必ず帰ってくるさ」
重蔵が説き伏せようと言った。だがまつろわぬ神の恐怖を目の当たりにしてきた愛代には、それが甘い憶測だとしか思えなかった。
「そんな……。重蔵さんは、まつろわぬ神を、あの化け物を直に見ていないから、そんな憶測で言えるんです! まつろわぬ神を倒せる手段があったとしても、海人が対峙して平常でいられるわけがありません!」
「姫様、あなたは海人と一番付き合いが長い。海人について、俺と仁実に知らないことも多いでしょう。ですがあなたは海人の『海賊としての顔』を知らない。海人は自ら先頭に立ち、兵をばっさばっさとなぎ倒す。まさに一騎当千の働きをします。海人ならば必ずや成し遂げてくれるでしょう──神殺しという偉業を」
「いいえ、違います」
重蔵の駄々っ子をあやすような声色を、愛代はばっさりと一刀両断した。愛代にはそう断言できるだけの明白な根拠があった。
それは自分が海人に抱きかかえられた時のこと、海人とこの身が触れて感じた変化だ。
「海人は確かに、わずかに震えていました。表には出さなくても、恐怖でまともな思考などできません!」
それを聞いた重蔵は、考えるそぶりでいかばかりか間を開けて、こう答えた。
「そうだとしたら、海人は冷静ではいられないでしょうね」