波はとても穏やかだった。それもそのはず。海人達海賊団がいるここは陸奥湾。津軽半島、夏泊半島、下北半島と四方を陸に囲まれている、本州最北端の湾だ。海に出るには西館海峡を抜けるしかない。海人達はそこから陸奥湾に入ったのだ。
陸奥湾の中から見る景色を楽しもうにも、空の天気はあいにくの曇り。しかしこれから行うことを思えば、海人にとっては好条件だった。
「これは……。なかなか壮観な景色じゃねえの。敵さん、これだけの水兵を隠し持っていたとはね」
海人は目の前に広がる軍勢を眺めて、つぶやいた。これからその軍勢に突撃する者とは思えない口調だった。
曇天の空の下、海人の眼前、陸奥湾に展開するのは、南部の十数隻の戦船だった。
対して海人達は一隻。愛代から貰い受けた軍艦で、海賊だった時からの乗組員だけ動かしている。
勝敗は火を見るより明らかだ。
ただし、海人という特別を加えれば、その戦況は一転も二転もする可能性があった。
「俺達が無法者だった頃だって、こんな無茶はやらなかった」
「ういッス、船長」
船首で眺めていた海人の後ろに、いつのまにか船員の一人がいた。
「その船長って呼び方、まだ慣れねえな。俺の中では『若頭』で『副船長』なんだがな」
海人は頭の後ろをかき、むず痒そうに言った。『安東水軍頭領』という新しい呼び名は慣れるのが早かったが、昔からの呼び名が変わると調子が狂った。
政に時間をとられる重蔵にかわり、海人は海賊団の船長の座を譲られていた。重蔵から一人前と認められていたのだ。
「そっすか? 自分達からすれば、ずっと前から『頭』で『船長』にふさわしい。そう思っていましたがね」
「他の奴等もそう言っているのか?」
「さあ? だけど口で言わずとも、皆船長を認めている気がしますよ」
「そうか……。それでどうした、何か問題でもあったか?」
海人は尋ねた。こうして誰かが直接、海人に聞きに来るのは珍しい。大体のことは仁実が対処してくれるのだが……。
そうか、と思い至る。どうやって倒すかだけを考えていたせいで、足のことにさえ気が回っていなかった。
「海賊だった頃なら
「ああ、そうだったな。今から助けに行くんだから、いないんだったな。……出航が遅かったのも、そのせいか?」
「ええ、指示がなくとも、海賊時代の要領で皆やれましたが、それもあるかもしれないっす」
海人にとって仁実は、自分の後ろをちょこちょこ着いてくる、犬か猫のような存在だった。居るのがあたりまえで、海人が一度海賊船に乗れば、居ない時はなかった。
仁実がいない海賊団は、想像できなかった。だが実際に仁実がいなくなってから、初めてその大きさに気づかされたのだ。
「船長、普通に考えてあの大軍に真正面から喧嘩を挑むのは、無茶にも程があるっす。どんな作戦でいくのか、皆聞きたがってるっすよ」
船の甲板を振り返ると、海賊だった乗組員全員が揃っていた。古くから知っている顔を見下ろすと、二人を除いて揃っていた。二人とは重蔵、そして仁実だった。
「作戦か……」
それも仁実と、たまに親父が一緒になって考えていたな。海人は仁実がどれだけ大きな役割を背負っているか、知っているつもりでいた己を恥じた。
「お前等聞け! 俺達は今から仁実を助けに行く。向かうのは恐山、そこに仁実を攫ったまつろわぬ神がいるはずだ」
ざわざわと騒がしくなる。海賊達は、仁実がまつろわぬ神に連れてかれたことを今知ったのだ。
「そのためには、まずあの大船団を突破しなくてはいけない。見ろ、鼠一匹逃さぬと網を張る南部勢の水軍を。……俺達が海賊だった頃では突破は敵わなかった。だが今この時は俺がいる。神殺しとなった俺がいる」
海人は遠目でしか見たことのない恐山を頭に浮かべた。そこに七頭の竜と同じ存在、まつろわぬ神がいると思うと振るえが走り、四肢にちからがみなぎっていく様だった。
「目的地は恐山。作戦は簡単だ。あの船団を突破し、追っ手を撒いた後、船を隠して恐山に仁実の救出に向かう。救出した後に船に戻って、南部の領土から脱出する。しかしこの作戦には、この船に乗る者全員の信頼が必要だ」
ここにいる全員、元は自分達のため、生きるために無法者となった海賊だ。それが重蔵を頭として纏まって、海賊団となった。自ら命を捨てにいくような真似はしない。
「俺がまつろわぬ神から奪った権能で、奴等を蹴散らす。神の力なんぞ信じねえって奴がいれば、近くで降ろしても構わん。俺を信じて、お前等の命、俺に今一度預けちゃぁくれねえか」
今の仲間がいるのも、重蔵の手腕が大きい。降りる奴もいるんじゃないかと思っていた海人だったが、予想をいい方向に裏切り、待っても名乗り出る者はいなかった。
「お前等、命が惜しくはねえのか。俺達は、胡散臭いまつろわぬ神の力に頼って、あの数に喧嘩を売ろうって言うんだぞ」
「何言ってんですか船長、これ以上に無謀なことなんて、何度もやってきたじゃないですか。もう数え切れませんよ」
「そうそう、そんな大きな仕事のときは近辺の海賊達を集めて襲撃を仕掛けましたけど、その時だけ無法者の海賊が纏まれたのは、重蔵元船長だけの力じゃない。海人船長の力もありました。重蔵海賊団の『鬼の海人』って名に集まった奴等だっているんですから」
「海人船長がいればどんな修羅場も乗り越えられるって、俺達は海人船長に前から命を預けてるっすよ」
海人は口から変な笑いを漏らした。仲間に恵まれた嬉しさと、振り返ればすぐわかったはずの仲間、それに気づかなかった自分の不甲斐なさを笑ったせいだ。
「ほら、自分の言ったとおりっしょ」
近くにいた船員が自慢げな顔で言った。海人は返す言葉もなかった。
「ああ、お前の言う通りだったな」
海人は船の進行方向を向いた。その先にはもう目前に迫った南部の船団がある。
海人は右手にずっと持っていた愛用の槍を掲げて、喚起の声を上げた。
「まずはこの大軍勢を突破する。船速全開、一点突破で蹴散らして突き進む! 雑魚にかまわず、立ちふさがる者はすべて突き崩す。安東水軍に弓引いたことを後悔させてやれ!」
「了解、船長。……お前等、船速全開! 船長を信じて突き進め!」
「ははっ、それでこそ船長だ! 真正面から叩き潰せぇ!」
海人に続いて掛け声を上げた船員達は、それぞれの持ち場に戻っていく。
そして海人は仲間たちの声と応援を背に受け、決意を強めた。目を閉じて、自分の内に眠る七頭の竜の力に呼びかけた。
勝者に従ってもらうぞ、まつろわぬ神。海人のまぶたの裏には七つの頭を持った蛇の姿が、まつろわぬ神の権能がこの世から消えても抗っていた。
仁実を取り返すため、目の前の壁を打ち砕くため、力を渡せ。今からお前の所有者は俺だ! そう宣言した瞬間、海人は身体に権能の一端を掴む感覚を覚えた。
「あ、追い風が……」
マストに大きく帆が張られると、狙い済ましたかのように船の背後から強い追い風が当たる。
「我は厄災の化身……」
ひとりでに口が動き、呟きがもれる。それは聖句、権能の力を強める呪文だった。
「八頸の竜蛇なり。大地よ火を吹け、炎塊を降らし、大地を均せ。普く生命に禍いを齎すもの也!」
追い風が一気に強くなり、突風となって海人の服をばさばさとはためかせた。無風で穏やかだった湾に、突如として嵐が巻き起こった。陸奥湾を少しでも知っている者ならば、ありえないと目を疑う事態だ。
海人が七頭の竜──八郎太郎から奪った権能の能力。それは自然の力を味方につけ、民衆が『神の怒り』と想像する災害すべてを、気ままに操る力。それが八郎太郎の権能の正体だった。
嵐は海人が引き起こしたのだ。
「いくぞ、波に舵を取られるなよ!」
◆
その戦は、歴史上類を見ない大番狂わせとなった。
一対十四。素人でもわかる圧倒的戦力差に、四方を陸で囲まれた湾内。勝敗は始める前から明らか、そのはずだった。しかし南部の水兵たちは、目を疑う光景に遭遇する。
海水が、天に吸い上げられている。突如として起こった竜巻。突風から顔をかばい視線を戻してみると、雷鳴轟く嵐が吹き荒れていた。
しかも竜巻はひとつだけではない。三つ、近づけば船が巻き込まれてしまいそうな竜巻は、すべて海人が生み出したものだ。
向かい風は船を押し返すかの如く強く、荒れ狂う波は一瞬でも気を抜けば転覆するほど激しい。そんな嵐の中を突っ込んでくる船、海賊船は波乗りをしているかのように接近してきた。迎撃する暇もなく手一杯な南部は、まんま懐に入るのを許してしまう。
自ら射程に入ってきてくれたと、大砲に火を入れようとした船もあった。そんな船は、逆に稲妻に撃ち据えられた。マストに落ちた雷で、感電死したのだ。
船を近づけて乗り込もうとした船もあった。その船は前触れもなく発生したマストより高い波に呑まれて、乗員すべてが押し流されてしまった。
その狙い済ましたかのようなタイミングと、海賊船が被害を被っていない異様を見て、噂を知る南部の兵士は叫んだ。
「安東の鬼は、天候にまで恐れられるというのか!」
振るえなかった拳を握り締め、兵士は悔しがった。海賊船は既に包囲網を抜けられ、遥か後方だ。船団は嵐に舵を取られ、しばらく追えそうになかった。
◆
南部の領地で任務に従事していた重蔵の部下に、船の見張りを任せる。海人たち海賊団は真っ先に恐山に入った。しかし入った途端、海人たちは民衆の壁に阻まれていた。住民は誰も彼もが痩せこけていた。
「いけません、この先では領主様が祈祷に入っておられます! 何者も通すなとのお達しです」
「お前等は仁実を捜索しろ。この先に行くのは俺ひとりだけで十分だ」
「聞いておられますか!?」
引き止めてくる長らしき老人を無視して、海人は船員に命令を下した。忍の術でもまつろわぬ神の枕元では、仁実の居場所を突き止めることはできなかったらしい。
百人以上いる民衆を掻き分けて、海賊が前進する。彼らにとっては止めなければ命にかくゎるのだが、民衆も武器を持った者達を無理やり引き止めるのは、さすがに躊躇った。
「この先では領主様が雨乞いを行っておるのです! あの天を覆う白い灰を取り除き、雨を降らせてくれるようにと、神に祈っておられるのです!」
「本当にそう言ったのか?」
突然怒気をこめた声とともに睨むと、老人は驚きたじろいだ。海人はずんずんと仲間達の後に続くと、立ち入り禁止の境界線で立ち止まり、集まった農民たちを眺めた。
海人も、忍からここの情勢はざっとだが耳に入れていた。不作が続いていたこの土地に、ある日この世のものとは思えない美貌の女性が現れた。彼女が天に最も近い場で祈ると恵みの雨が降り注ぎ、野は花や草に覆われ、作物がぐんぐん育った。そうしてその女性は領主となり、天の神と民草を仲介する聖職に就いているのだと。
海人は息をはくように騙す女性に嫌悪を感じ、簡単に騙される百姓たちにも腹が立った。
「だとしたら大法螺吹きだ。なんせその女が神なんだからな」
「え、それはどういう……」
老人の疑問も無視し、海人は槍を地面に向けて横に薙いだ。境界線の上から、さらに深い溝を刻んだ。
「俺の名は安東海人! 我等の邪魔をしようと、この線踏み越えようとする者あらば、女子供であろうと容赦なく排除する! 鬼の力、その身で味わうことになるぞ」
安東海人。いきなり現れた男の名は、敵国の安東氏の身内の者だった。それだけでも恐怖の対象として十分なのだが、相手はさらに鬼の海人と称される人物。怪力で人間を吹き飛ばし、空を飛ぶという突拍子もない噂まである危険人物だ。
海人の名を聞いた、集まっていた者達は悲鳴を上げて我先にと逃げ出した。
そんな中、海人は隣にへたり込んだ老人を見下ろした。視線を向けられてびくついた老人は、どうやら腰が抜けて動けなくなってしまった様だ。
「さっきの疑問の答えだがな」
「へ……?」
「神がいるとしたら、そいつは俺達に害しかもたらさねえ。いつだって、俺達を弄ぶんだ。……早く逃げろ、ここもいずれ戦場になるぞ」
海人に脅され、地べたを這って逃げ去っていく老人を傍目で見送り、海人は奥へと進んだ。
◆
硫黄の匂いが鼻につき、湯気が海人の視界を覆い隠す。海人の歩く右や左、温水で温泉が湧き出ているのではない、硫黄の匂いがするのは吹き出ているからで、温水はどこかから湧き出た水が地表で熱されているからだった。
まさに水の無駄使い。これだけの水があれば、民に分け与えることもできるはず。まつろわぬ神が何を考えているか海人にはわからなかった。
奥に進むことしばらく、空が見える開けた場所に出た。だがそこは、特殊な結界でも張られているのだろうか。巨大な浴場になっており、人肌程度の湯が足首の高さまで張られていた。
そこは湯気が結界のせいで外に逃げず、まるで蒸し風呂のような熱気だった。湿気に一瞬たじろくが、意を決して中に入る。
広く湯が張られた
そしてこの全身に力が行き渡る感覚。アテルイを前にした時と同じ、重蔵の推測は合っていた。
女性、否、まつろわぬ神は海人に背を向け、華奢な背中と綺麗なうなじを無防備に見せ付けていた。
「誰? 決して立ち入ってはならないと伝えたはずですが」
「入るに決まっているだろ。入らなきゃ、お前を殴ることさえできねぇ。……まつろわぬ神、仁実を返してもらうぞ」
「あら、この感覚は……。そうですか、もう尋ねてきたのですね。早くてもあと二、三日はかかると踏んでいましたから……。意外に気が早い、そんな男は嫌われますよ、神殺し。それとも、安東海人と呼んだほうがいいでしょうか?」
振り返ったまつろわぬ神の貌は、体つきから想像したよりも美しかった。さほど女に興味を持たない海人が見ても、息をのむほどの美しさ。まさしくこの世のものとは思えない美貌だった。
だが相手はまつろわぬ神、神殺しとは宿敵同士。海人は槍を構えた。
前を隠さずに無造作に立ち上がるまつろわぬ神。しかし海人は眉根ひとつ動かさない。海人の身は愛代に捧げ、身内を守るためにあるのだ。心が乱れる余地などなかった。
「私の裸体を見て何も反応がないとは、なんとも味気ない。どうです、殿方にこうして見せるのは初めてなのですが」
「まつろわぬ神に名を知って貰えているとは恐縮だがな……。くだらない問答をする暇があったら、さっさと仁実の居場所を吐いて、俺に殺されやがれ。仁実に手を出したお前を、俺は絶対に許さない」
海人が斃したまつろわぬ神は、七つの頭を持つ異形の怪物だ。人型のまつろわぬ神とは戦ったことがなかった。
普段は猪突猛進な海人でも、命の危機を感じれば慎重になる。海人はまつろわぬ神を集中し、出方を伺った。
「そうですか。ああ、本当から飽き飽きします。話し相手としてなら、あの男のほうがまだ面白味がある。……ですがまあ、いいでしょう」
相手の第一手は、海人の予想外な場所から行われた。
まつろわぬ神が、手を払う。海人は四方に注意を散らすも、何も起きない。だが動こうとして、ある変化に気づいた。足が思うように動かない。
足首まで張られていた透明な湯が、まるで泥のように張り付いていた。海人は湯から足を抜くことができなかった。
「あなたはおびき出されたのです。水が豊富に流れるこの場所、私の権能が最大限に発揮できるこの庭に!」
まつろわぬ神が両手を広げ大の字となる。するとまつろわぬ神の足元の湯が泡立ち、彼女の体を包みこんだ。
泡が割れて現れたまつろわぬ神は、薄い青色の和服を着ていた。施された意匠は、河の流れを連想させる。
「我が名は水天! この名を地獄へ送られる、あなたへの手向けといたしましょう」
まつろわぬ水天は、高らかに名乗った。