麓まで戻ってきた海人を待っていたのは、慌てふためく船員たちだった。
現れた海人を認めて一人の船員が駆け寄ってくる。
「船長! 大変っす!」
「ああ、お前か。どうした、仁実に何事か起きたのか?」
「そうっす。姉さん見つけたはいいんすけど……」
すると海人から見て左の方向から、バリバリと木の砕ける破砕音と共に男衆の悲鳴が聞こえてきた。
一瞬そちらに顔を向けるも、直ぐに向き直って情報交換を行う。
「牢屋を聞き出して行って、姉さんを見つけたと思ったら先客がいて、その男が姉さんを抱えて逃げようとしてるんすよ! 何人でかかっても手がつけられなくて、とにかく早くお願いしますっすよ、船長!」
「わかった、直ぐに行くぞ」
「あの船長、そっちのほうは……」
「片はついた。お前等、ついて来い!」
海人はその場にいた船員達を連れて、仁実の元に急行した。
◆
海人がその場に到着した時、その場は死屍累々。船員たちが至る所で血を流して倒れていた。
うめいている船員達を見て、海人はまだ息があることにひとまず安堵した。それも一瞬だけ、海人は仲間をこんな目にあわせた男を捉えた。
途端に体に緊張感が走る。まつろわぬ水天との戦いで落ち着いてきた心臓がまた跳ねて、体が臨戦態勢へと叩き起こされた。
「おう、お前が神殺しか。ここに来たということは、そうか。アナーヒタは敗れたのだな」
水天と対峙した時と同じ感覚、まつろわぬ神だ。海人は警戒を強めた。
「アナーヒタ? 誰のことだ?」
海人は問いかけた。
「上にいただろう? ここでは水天と呼ばれているのだったか。奴は元々アナーヒタの名で呼ばれ、大陸で信仰されていたのだ。……人の子の生きる要である大河の女神であった奴は、創造神にも並ぶ扱いを受けていた。だが時代が下るにつれて堕落し、神祖に落ちる寸前であった。それを俺が拾い上げ、神力の一部を分け与えてやったのだ」
「そういえば言っていた気もするが……。ところでお前が脇に抱えた仁実、こちらに渡してはくれないだろうか? そいつは俺の妹なんだ」
男が脇に抱えていたのは、仁実だった。ぐったりして意識がないようだが、乱暴には扱われていないようだった。
「この娘は仁実というのか、いいことを聞いた! これから伴侶となる女の名も知らないというのは、流石にどうかと思っていたところだ」
飛び出してきた言葉に、海人は耳を疑った。
「……どういうつもりだ?」
「俺はこの仁実に惚れた、一目惚れだ! だから俺の島に連れて行くつもりだ。そこで我が側室として俺に尽くさせる。どうだ、光栄であろう?」
「ふざけるな! 誰がまつろわぬ神なんぞに妹を差し出すか!」
カッと頭に血が上った海人は、まつろわぬ神に向かって駆け出していた。
まつろわぬ神の眼前まで踏み込むと槍を突き出した。しかしまつろわぬ神の体に届く直前に受け止められてしまう。
海人は目を剥いた。まつろわぬ神の右手には己の身の丈もある獲物が現れていた。獲物は先端で三つに分かれている。先端は漁戟の様に返しがつき、鉄には見えない蒼い色をしていた。
まつろわぬ神は三叉戟で、海人の槍を片手だけの力で弾いた。あまりの腕力に驚愕する海人を側に、今度はまつろわぬ神が海人の腹に三叉戟を突き出した。
「せあッ!」
「ぐっ、おおおおおおおッ!」
刺し貫かれる寸前で槍での防御が間に合った海人だが、目にも止まらぬ速さで突き出された三叉戟を空中で受けて吹き飛ばされてしまう。
海人は受身をとって態勢を立て直し、まつろわぬ神に向き直った。まつろわぬ神には全く労になっていない様だ。
「ふむ、筋のいい一撃だったな。だが少し不用心ではないか? 俺が手加減しなければお前は今頃串刺しだぞ」
海人は愕然とした。二柱の神に通じた槍が、全く通じなかったのだ。
「その様子だと、どうやら本気だったようだな……。そうなるとお前が倒した神の中に、戦神はいなかったと見る。お前が生き残ったのは、運が良かったからか」
するとまつろわぬ神からただならぬ危険な雰囲気が立ち上る。海人の肌がビリビリと逆立ち、第六感が危機を訴えてくる。
「俺の名はポセイドン。戦を生業とする戦神の武術、その身でとくと味わえ!」
ポセイドン。世界に名を響かせる海の王が、三叉戟を持ち海人に襲いかかった。
◆
「ぐっ……ガッ……!」
そしてついに海人は地面に倒れこみ、うつ伏せで力尽きてしまう。
土の味を噛み締めながら、絶え間なく食らわされた波状攻撃で失いそうになる意識を何とか保つ。
海人を見下すポセイドンは、海人の攻撃を涼しい顔で受け流し、全く意に介していなかった。
「惜しいな。あと五十年、いや三十年あれば俺と渡り合えたかもしれないが、実に惜しい」
「仁実を……返し、やがれ……!」
「ほう、まだ吠えるか。根性のある奴だ。……よし、決めた!」
ポセイドンの右手の三叉戟が消える。替わりに虚空から羅針盤が右手に現れた。ポセイドンはしゃがみこむと、それを海人の前に置いた。
「謝罪しよう、仁実がいるせいで槍が鈍っていたな。この試合の決着は、日を改めて行おうぞ。……その羅針盤は、俺の作った島を指している。それを頼りに追ってくるといい」
左腕に抱えた仁実を抱え直すと、ポセイドンは海人に背を向けた。海人は必死に手を伸ばした。
「返せ……!」
「俺に勝てたらな。いい試合になるよう、せいぜい鍛錬をこれまで以上に重ねることだ。期待しているぞ、神殺し」
そう言い残すと、ポセイドンは海の近い北東の方角へと歩き去っていった。
「船長!」「しっかりしてください、船長!」
海人とポセイドンの戦いを見守っていた船員たちが駆け寄ってくる。
俺よりも仁実を追っかけろ……! そう怒鳴りたかった海人だが、精神が既に限界を超えていた。ゆっくりと意識が暗闇へと沈んでいく。
船員たちが追っかけたとしても、結果は変わらなかっただろう。海人が敵わないまつろわぬ神相手に、只人の船員たちが敵う道理がなかった。海人がやっつけてくれると信じていたからこそ、肉壁となってポセイドンの足止めができたのだ。
時間稼ぎができたこと自体が十分な戦果だった。
◆
こうして海人はまつろわぬ水天、もといまつろわぬアナーヒタを討滅するも、仁実を救出することが叶わなかった。
ポセイドンと名乗るまつろわぬ神に、仁実をまんまと連れ攫われてしまった。
船に戻り、十三湊まで帰ってきた海人は、出迎えてくれた愛代に合わせる顔がなかった。
仁実を救出する手がかりは、ポセイドンが置いていった羅針盤。その針は東、大陸があるかすらも分からない広大な大海を指していた。
これもすべて、家族を取り返すため。どんな困難が待ち受けていようとも、絶対に救い出す!
海人が心を固めるのに、そう時間はかからなかった。