一晩経っても帰ってこない海人を心配した愛代は、祠へ続く道を進んでいた。だが愛代の足取りは遅い。昨晩義父から言われた「海人を頼む」という言葉が頭をよぎり、愛代は足に錘がついている気分だった。
何を話せばいいのだろう? 海人は皆の先頭に立ち、危険な場所にも率先して踏み込んでいく。そんな印象を持っていた。愛代は海人の落ち込んだ姿など見たことがなかった。だからどんな言葉を掛けていいものか、皆目見当がつかなかった。
そんな重くとも右左と交互に動いていた足取りは、愛代を祠の前まで運んでいた。
祠の前で愛代は、うつ伏せで倒れる海人の姿を発見した。
「きゃあ! 海人!」
一瞬驚くもそれが海人だと分かると、愛代は駆け寄って抱き起こした。
直前まで悩んでいたことも忘れる驚きだった。
名前を呼びながら抱え起こした海人を揺すると、呻きながら海人はゆっくりと目を開けた。
「う……。愛代……?」
「海人! 一体どうしたの!?」
「ああ……? そういや俺は、アテルイと殴り合っていて……」
頭を押さえながら海人は、愛代の手を借りて起き上がった。
「そうだ、俺は奴に投げ飛ばされたんだ。……なんで此処にいる?」
海人の記憶は、何度目かになるアテルイに投げ飛ばされた時点で途切れていた。
祠を見ると、中への扉が開け放たれて御神刀を祭る台まで表に出ていた。その台の上に御神刀はなく、その先には幽世へと繋がる暗闇が広がっていた。
海人が前に一歩踏み出すと、土ではないものを踏んだ。足元を見ると御神刀の顕明蓮が転がっていた。
「戻しておけってことか……」
海人は足元の顕明蓮を拾うと、祠の中に入り台の上に戻した。それだけで幽世の入り口は閉じ、後には祭壇が広がっていた。
その現象を初めて見た愛代の目は釘づけだった。
「すごいね、その刀。幽世に行くには普通だったらもっと大掛かりな儀式が必要なのに……」
「まつろわぬ神の持ち物だからな、すごい物なんだろ。それより今日は政の勉強があると言っていたじゃねえか、なんか急ぎの知らせか?」
「え!? えっと……」
海人についていろ、と重蔵に言われたことをそのまま伝えるわけにはいかない。愛代はしどろもどろになりながら、言い訳をしぼりだそうとした。
「特に何も……」
「ならいつも通りだな。大した用事で此処に来たことないだろ」
「そ……! そんなことないよ!」
突然の大声に海人は驚く。
「ここに来る時は『海人に会う』ってちゃんとした目的があったもん!」
「お、おお、そうか。とりあえず腰掛けろ」
海人は縁側に座ると、地面の上に座っている愛代に自分の隣を薦めた。
愛代は自分が恥ずかしいことを言っている自覚があるのだろうか? 海人は心なしか自分の体温が上がった気がした。
愛代は海人の隣に座った。しかしこうして二人だけでこの祠に居るのも久しぶりだ。愛代は小鳥のさえずりと心地よい日差しを浴びながら思った。
愛代は安東の血をひく者として政を覚えるために忙しく、海人は海軍の仕事でそれぞれ忙しかったためだ。仁美が拐われてのんびりしている場合ではないと分かってはいても、久しぶりに味わうこの空気。愛代はもっとこのままでいたいとも思ってしまった。
愛代はちらりと横を見た。海人は上の空で、ぼーっと斜め上の方向を見上げていた。その海人は少し間抜けな顔だとは感じても、特に落ち込んでいるようには見えなかった。
「海人、何かいいことあった?」
「……というと?」
「なんか……落ち着いているから。仁実が攫われたこんな時、海人は苛立っていると思ってたから……」
そう言われ、海人にも思い当たることはあった。
「ああ、そうだな。確かにあった。そのせいかもしれんな、こうしていられるのも」
海人はさっきまでアテルイと殴りあって、こっぴどくやられたのだ。そしたら海人はどうしてかすがすがしい、晴れやかな気分になったのだ。
今海人の頭の中にあるのは、いかにしてアテルイを打ち負かすか、それだけだった。自分が落ち込んでいたことすら忘れていた。
海人は思い出したのだ。自分は強者を求めていた。簡単に一蹴できてしまう敵だけの中、どう足掻いても勝ち目が見えないような強者を求めていた。それを海人は仁実を助けられなかったことで、自分を責めて忘れていた。
海人はアテルイに救われたのだ。
「今まで以上に鍛えてアテルイに勝つ。そうすれば仁実を攫ったまつろわぬ神にも敵うはずだ」
そう語る海人の表情はひきしまり、心の中は熱くたぎっていた。愛代から見ても語る海人の表情からは、海人は目標が出来たのだと納得できる熱を持っていた。
その表情を見て愛代も思い出していた。自分はこの海人の姿に憧れていた。自由に生き、先頭に立って道を拓く海人の姿が。
「そう。目標ができたのね、海人」
「ああ。仁実を助けに行く。それには船が必要だ。……親父はどうしてる?」
「船の改造をしてる。どんな荒波にも耐えられる不沈艦を造るんだってはりきってたよ」
「ははは、親父はからくりも酒ぐらい好きだからな。幾日で完成する?」
「一月」
海人は船の完成する期日を聞くと、立ち上がり愛代に振り向いた。
「しばらく帰らない。船が完成するまでに、俺はアテルイを越える」
拳をぐっと握り締めて海人は決意した。神殺しの海人であっても一撃も当てることができなかった。
二十年の努力を無駄とされた気がしてならない。二十年の努力でも敵わなかった相手をたった一月で越えることができるのか。
「やってやるさ。そうでもしなきゃ奴のは敵わない」
「ご飯持ってくる?」
「助かる」
海人は祠の中に入ると、幽世の扉を閉じるために戻した御神刀を、再び手に取った。
愛代と海人の前に暗闇が広がる。その先は別世界、人の目と周囲への被害を気にする必要がない理想的な修行場が広がっている。
「まずはアテルイの動きを死ぬ気で覚える。……ふふふ、楽しくなってきた!」
海人の顔に喜色が浮かぶ。心の中では避けたいという思いよりも、強敵と戦えるのが楽しみで仕方がなかった。
◆
そして一ヶ月後、重蔵が手がけた船は完成した。
ここは港。時刻は日の出、人もまばらの明け方だった。丹精こめて造り上げた船の全体を眺めていた重蔵は、背後に接近する気配を感じ振り返った。
「おお、海人! 久しいな、大事ないか?」
「このとおり健康そのものだ。……これが船か。すげえ大きさだな」
海人も船を見上げた。港に並ぶ船の中でもその船は異彩を放っていた。その船の大きさはまさに見上げるほど、甲板の高さが他の船の二倍以上だった。注目されていないのは、十三湊が異国の船がたくさん訪れる日の本有数の貿易港だからだ。
「ああ、異国の技術も取り入れた、俺の最高傑作だ。快適な船旅を保障する」
重蔵はそう言うと海人の他、船に乗る仁実救出隊の面々を見渡した。各々が重蔵が全幅の信頼を寄せる精鋭。全員が海賊だった時から付き合いのある荒くれ者達だ。
重蔵と愛代以外の見送りはいない。極秘裏に進めていたため、知っているのはごく小数だ。
「愛代、お前はついて行かなくていいのか? しばらく会えなくなるんだぞ」
もしくは一生、と心の中で続けた。重蔵は愛代に問いかけた。
「いいんです。私は海人の帰ってくる場所を守ります。十年、二十年経ったとしても、あの人が帰る場所があるように」
行っても足手まといになるだけ。ついて行きたい本音を必死に抑え、愛代は見送ることを決めた。
「どうした、何話してるんだ二人とも?」
二人に流れるしんみりとした空気を不思議がり、海人が口をはさむ。
「海人……生きて帰ってきてね。あなたの帰る場所は、私が守るから」
「おう、留守は任せたぞ、愛代。体は大切にしろよ」
「ありがとう」
それから二言三言交わしたあと、海人は船に乗り込んだ。
船はゆっくりと十三湊の港を出航し、未知の大海へと進路を向けたのだった。