「兄さんッ!」
「仁実!」
死闘の末、山頂にあるポセイドンの邸宅にたどり着いた海人は、出迎えてくれた仁実を抱きしめた。仁実が攫われてから、およそ半年の時間が経っていた。
「えっ、私が寝ている間に、もうそんなに時間が……」
「ああ、愛代も心配しているはずだ。すぐに十三湊に帰ろう」
「ですが、この大陸にいる、ポセイドンに連れてこられた人達は……。このまま見捨ててはおけません」
「いいのです、仁実様」
仁実の傍に付き従っていた日本人の女性が、覚悟を決めた面持ちで言った。
「我々のことは構わずに、日ノ本に向けて出立なされてください」
「何を言ってるんですか! あなたも日ノ本に帰りましょう。他の人達も時間はかかるでしょうが、元いた故郷に帰れるのですから」
ポセイドンの支配に縛られていた時とは違い、大陸の周囲を渦巻いていた海流も解かれているはずだ。
ポセイドンは斃れた。海人の片手に握られた三叉槍トリアイナがそれを物語っていた。
「いいえ、帰ることはできません。実は、この大陸に来てから子を生した者もいます。私もその内の一人です」
仁実と海人は驚いた。海人は子を生したとは思えぬ外見に、仁実は世界を彼女が世界を旅していたと言っていたからだ。
「生まれた私の息子からしてみれば、ここが故郷なのです。この大陸しか知らないのです。それに他の人達も、なんだかんだでこの大陸での生活に慣れてきました。……一番の理由として、故郷に帰ったとしても、家がありません。ポセイドンに家ごと運ばれましたからね。今にして思えば、ポセイドンはそれも見越して家ごと運んできたのかもしれませんね」
女性はにっこりと、海人達を落ち着かせるように笑った。
「だから気にしないできださい。私は──」
その時、邸宅を大きな地震が襲った。揺れは、足をふんばってなんとか安定する大きさだった。飾られていた花瓶や立て掛けられていた絵画が落ちる。
仁実はしゃがみながら頭を両手で守った。女性も同じく、地揺れには慣れていた。
しかし地震はいつまでもおさまらなかった。
「まずいな……。ここを出るぞ、崩れるかもしれない」
「は、はい……」
海人達三人はポセイドンの邸宅を出た。だが地震は一向に収まる気配を見せなかった。揺れは弱まるどころか、むしろ強くなってい気がした。
「こりゃ自然に起きたもんじゃねえな、何が起きてやがる……」
そんな時だ。海人が持っていたポセイドンの遺物、トリアイナが震えた。
はっとトリアイナを確認すると、海人の頭に直接語りかけてくる者がいた。
『はじめまして、海人様』
「ッ! 誰だ、どこから話してやがる!?」
「えっ、何!? 兄様、一体?」
思わず返答を大声で出した海人に、仁実がびっくりして飛び上がる。
「いや、誰かがはじめましてとか言ってきやがったから……」
すると、また海人の頭の中に言葉が響く。
『はじめまして、海人様。私の名前はトリアイナ』
「トリアイナ、ってまさかこのポセイドンの槍が喋ってるのか?」
『その通りです。正確には、あなた様の槍です。まつろわぬポセイドンから簒奪され、私の所有権は海人様にあります』
そして謎の声の正体であるトリアイナは説明を始めた。
海人が持つ三叉槍トリアイナは、まつろわぬポセイドンから簒奪し、海人の権能となっていた。このトリアイナの声は所有者である海人だけに届き、他の者には原則聞こえないという。
トリアイナの声の役割は、所有者の思考を読み取り、その思惑通りに自身や他の権能を制御すること。ポセイドンが三本の水鉄砲を操りながら馬も操れたのは、水鉄砲の制御をトリアイナが担当していたらしい。
もしトリアイナの助けがなかったのなら、ポセイドンは水鉄砲の軌道にも思考を割かねばいけなかったという。
「はぁん……。でもいいのか? 前の主をそんな呼び捨てにしちゃって」
『前の私の所有者といっても、海人様に所有権が渡る際に記録は全て消去されています。以前の私が何をしたかは、この大陸中に私が手を加えた跡が残っているので、それを掬い上げたからわかるのです』
「手を加えた、ねぇ……。例えば、前のお前は一体何をしていたんだ?」
『おおよそですが判明しています。この大陸周囲に海流を発生させること。そしてツギハギだらけのこの大陸を繋ぎとめておくことです』
「この地震はそのせいか……」
ポセイドンが所有者だった時のトリアイナが担っていた仕事なので、海人に移る際に放棄せざるを得なかった。
そのせいでこの地震は起きている。この振動はのりの役割を果たしていたトリアイナがいなくなったことで、島全体が崩壊している証だ。
「あの、兄様。もしかしてその槍と喋っているのですか」
「ん、ああ。そうか、お前には聞こえないのか」
海人は会話を口に出していたが、トリアイナの声は海人にしか聞こえていなかった。傍から見れば、海人は槍に話しかけて相槌を打っているように見えた。
「おい、仁実にも聞こえるようにしてやれ」
『ですが』
「いいからやれって。これじゃ俺が痛い奴みたいじゃないか。お前の主の名誉回復のためにも」
『……承知しました。では仁実様に、私に触れるようにと仰ってください』
海人がそれを伝えると、仁実がトリアイナに触れる。それと同時に海人は体から力がガクッと抜ける感覚に襲われた。
『聞こえますか、仁実様』
「あっ、聞こえます。本当に喋れるんですね」
「おい、鉄の棒。俺の体に何かしやがったか?」
『はい。呪力をお借りしました。……仁実様は人間です。私と会話するだけで、人間の身で神の権能を扱うことになります。膨大な呪力で守らなければ仁実様の体が弾けてしまうでしょう』
「やめさせろ、今すぐ!」
『かしこまりました』
トリアイナはすぐさま仁実との会話を断った。
「それで、島の崩壊は止められないのか?」
『はい。島の根幹である部分が崩壊し、島は海に沈むのみです』
「残る道は、脱出するしかないか……。ちょっと聞くが、船は何処にあるか」
海人は、仁実と一緒に連れ出した女性に在りかを問うた。トリアイナの言うことが正しければ、島の周囲の海流もなくなっているはず。普通の船で脱出できるはずだ。
メイドの女性は、ふるふると首を横に振った。
「船はありません。私達はほとんど内陸から連れてこられました。海沿いに住み、なおかつ造船経験のある者がいるなどという偶然が起きるはずありません」
「ちっ、仕方ない……。だったら俺の船に乗せれるだけ乗せるしかない。山を下るぞ」
◆
「子供とお年寄りが先に乗り、次に女、最後に男だ。ゆっくり乗り込んでくれー」
島の住人達が次々に海人の船に乗り込んでいく。船に乗せれるだけ乗せて、重量に耐え切れず沈んでしまう心配はしていなかった。海の水そのものを動かして船を進めようと考えていたからだ。
八郎太郎の権能は細かな調整が難しい。だがトリアイナから、自分に任せれば出来ると進言されたのだ。ついさっき会話したばかりの意識に任せるのは抵抗があったが、海人は一人でも多くの人を助けられるのならばとトリアイナに賭けた。
「権能の制御は任せたぞ、トリアイナ」
『お任せください』
「だ、だれか。うちの息子を知りませんか! 遊びに出かけたまま帰ってこないのです!」
そんな時、膝をついて祈りを捧げる姿勢で助けを求める女性の声を、海人は耳に入れた。
すぐさま女性の元に駆け寄ると、しゃがんで女性の手をとった。
「どんな服を着ていた? 名は?」
「え、えっと、その……」
「……ええい、まどろっこしい! 仁実、こいつを持っていろ!」
「ええ、えええ!?」
海人は立ち上がると、仁実にトリアイナを投げ渡した。仁実はそれを慌てて受け取る。
すると海人はくるりと反転し、またしゃがむと今度は女性に背中を向けた。
「一緒に探しましょう。さ、乗って」
「だ、大丈夫です。歩けます。それにポセイドンの呪縛から私達を解き放ってくれた者に、そのような事をさせるわけには……」
「あんたと一緒に走るよりも、こっちのほうが速い。それに俺が好きでやっていること。気にするな」
「は、はい……」
おそるおそるといった様子で女性は体重を載せると、海人は立ち上がった。
「あんたの息子は普段どこで遊んでる?」
「あちらの広場で──きゃッ!」
女性の指さした方向に、海人は人一人背負っているとは思えない加速で走り出した。
◆
「いましたッ! あの子です!」
島中を駆け巡って見つけた女性の息子は、道端にうずくまって隠れていた。無理もない、島の揺れは立っているのも困難なほどに大きくなっていた。
女性が息子の元に駆け寄っていく。その時、海人と二人の間の大地に大きな亀裂が入った。アトランティスの限界が近づいているのだ。
大地の亀裂を飛び越えようとした海人だが、踏みしめた足場が崩れた。亀裂の底には海水が浸透していた。
海人は出っ張りにつかまるが、大地にできた亀裂はクレバスの様に大きなものだった。海人は亀裂の下方におり、すぐ下には海面があった。海人にロッククライミングの経験はない。時間がかかる。
「くそっ、やっぱり全員は助けられないか……」
船がないと聞いていたときから分かりきっていたことだ。島の住人全員は助けられない。いくら足が速かったとしても、海人一人では物理的に無理があった。
もうこれ以上、まつろわぬ神との戦いの余波で犠牲者は増やしたくない。
セイレーンの歌に魂を吸われて、船員達を失ってから海人はそう心に決めていた。しかしポセイドンはこうして島を崩壊させる仕掛けを施して、海人を苦しめていた。
せめて数があれば……。海人の脳裏に犠牲になってしまった船員達の顔が浮かぶ。
「猫の手も借りたいとはこのことか……」
「猫じゃないっすけど、手は貸してやれるっすよ! いや、正確には手じゃなくヒレっすけど……」
海人の下にある海面からイルカが顔を出し、海人の独り言に返答してきた。ポセイドンと戦う前に別れたデルピノスだった。
「デルピノス? お前、どうして……」
「島の人達には世話になってるっすからね。自分も助けるの手伝うっすよ」
「だがお前ひとりじゃ」
「そこんところも心配無用っす。助っ人をいっぱい呼んできたっすよ」
デルピノスの隣から、馬の神獣が顔を出した。ヒッポカムポスに似ているが、体色が違った。体が海の色に近く、たてがみは太陽の光で虹色にきらめいていた。
「アリオンっていう名があるっす。他にもいろんな仲間が助けに来てくれたっすよ。海人様、こいつに乗ってくださいっす。海の中も海面も、もちろん陸も走れる優れた馬っすよ」
「いいのか? 俺はポセイドンを斃した。お前は俺を恨んでいると思ったが……」
「逆っす。感謝してるっすよ。自分達はポセイドン様に造られたわけでもなし、今なら言えるっすが横暴に耐えかねていたっすから」
「ポセイドンも言っていたな。じゃあお前を造ったのは……」
その先を言おうとした海人だったが、掴んでいた岩が崩れて海の中に落っこちた。アリオンにしがみつき海上に顔を出した海人は、言おうとした疑問を忘れてしまった。
「それじゃ手分けして探すっすよ! 仲間達には自分が指示をだすっす。助けた人達は海賊船に集めればいいっすよね?」
「ああ、それで頼む」
「了解っす!」
◆
その後、デルピノス達海に住まう神獣の助けもあり、海人は島に住む全ての人達の救出に成功した。
海賊船にところ狭しと敷き詰めることでなんとか全員を乗せることに成功し、トリアイナの船の制御の下、アメリカ大陸に向かって出立した。
途中何度か別の船とすれ違ったが、周りに見たこともない数十匹の海生動物を侍らせる船は、異様に見えたことだろう。
一週間ほどで無事ひとりも欠けることなくアメリカ大陸に到着した海人一行は、そこで島の住人達を降ろした。
住んでいた家はアトランティスと共に沈んだ。家がないのを承知で元いた国に帰るのもよし、それともこの進展地で新たな生活を始めるのもあり。住人達は決断することになった。
ヨーロッパ諸国による植民地化が進んでおり、ちょうど開拓されているアメリカで仕事には困らないだろう。
海人はというと仁実、そして唯一日本人であったメイドの女性とその息子を加えて、海人は日の本へと帰った。
海人が十三湊を出立してから、およそ一年の歳月がたっていた。