カモメが頭上で鳴くのを聞きながら、海人は頬杖をついて全く変わらない景色を眺めていた。海人の視線の先には、雲ひとつない空と深い海、永遠に続くかと思われる水平線が広がっている。
こんな何もない景色を飽きもせず眺めていた頃があった、と海人はふと思い出したが、それが遠い昔のように感じる。
実のところ、遠い昔というのは間違っていない。
およそ三十年。
それが海人が神殺しとなってから経った年月だった。成人していたあの時から三十年も経てば結婚して子供が出来てもおかしくない年だ。現に愛代と仁実は……。
水平線を眺めていた海人は、大きな欠伸をした。やはり飽きずに海を眺めていたのも、昔のこととなってしまったのだ。こうしてしばらく我慢していても、全く面白くない。
つまらなくなった理由はわかっている。人間だった若い頃とは違い、神殺しになった今なら丈夫な体と天候を操れる権能を手に入れ、この三十年で人間のいる場所は全てと言っていいほど行きつくしてしまった。
この三十年で海人にとって世界は、未知でも冒険する場所でもなくなってしまったのだ。
「海人様、そろそろ見えるっすよ」
ひょこっと顔を出したデルピノスが、もうすぐ十三湊が見えると教えてくれる。
「……なあ、デルピノス」
「なにっすか?」
「俺達が十三湊を最後に寄ってから、どれくらい経った?」
「そうっすね……。だいたい、十年ってところっすかね」
「そうか……」
もうそんなに経っていたか、と海人は思った。いくら海を眺めるのが面白くないといえど、それしかやる事がない。そして海を眺めていると、この状態が永遠に続くと感じてしまうのだ。
なにせ、と海人は自分の体を眺めた。海人の体は五十年の歳月をかけても、未だ瑞々しい肉体を失っていなかった。二十台の若々しく健常な体のままなのだ。
アテルイの言っていたことは本当のことであり、海人は老いによって死ぬことはない。人間と同じ時の流れの中にいるのではないのだ。
やがて、本州が見えてくる。愛代は、仁実は一体どんな姿になってしまったのだろう。
「デルピノス、そろそろ上がってこい。俺がいない間、留守番を頼む」
「了解っす」
海人は頭の中で船が右に曲がるよう、風の流れを変えた。
ポセイドンとの戦いの時よりも、海人は権能の扱いが巧みになり、今では頭の中で念じるだけで操作できるようになっていた。
雷雲は呼び寄せないといけないが、雨を降らせずに雷だけ落とすことができるようになった。しかし八郎太郎の権能は上手く扱えなければ自分にも影響が及ぶことは変わらず、これはどんなに使い慣れても海人に不利になって働くだろう。
風を受けた帆船は進行方向を曲げ、十三湊へと向きを変えた。船は水の上を滑るように、静かに進んでいった。
◆
「な、なんだありゃあ!?」
誰かが驚きで大声を上げた。その者の視線の先には、十三湊の港に入ってくる海人の帆船があった。
海人の船は、三十年前に重蔵が造り上げた船をそのまま使っていた。大したダメージも負わず、形を保っていた。しかし老朽化が進み、船の全容はまるで木造の廃墟が水に浮かんでいる様だった。
幽霊が住んでいるかと思われるほど、船は不気味だった。
港にいる民の視線を一身に浴びながら、船は帆を閉じずにゆっくりと速度を落とすと、桟橋の近くで泊まった。錨が下ろされ、船から海人が下りてくる。その海人に向かい、様子を伺っていた安東の兵が二人駆けつけた。
「止まれ!」
「うおっ、何だ何だ」
「貴様、何者だ! あんな今にも崩れそうな船に乗り、もしや妖魔の類ではないだろうな!」
衛兵二人は槍を海人につきつけ桟橋を塞ぎ、海人は両手を制して落ち着かせようとする。
そんな時、群れた野次馬の間を掻き分けて、壮年の男性が現れた。男性は上質な鉄の鎧を身に着けていた。
兵士の一人がその男性に気づき、男性を役職で呼んだ。
「あっ、隊長!」
「何をしている?」
「はい、怪しい船から降りてきた男を問いただしていた所で……」
隊長と呼ばれた男はまず船、そして海人の顔を認めると、何か思い当たったのかしきりに頷いた。
「隊長……?」
「ん……? ああ、その方はいい。槍を下ろせ」
「は、しかし……」
「下ろせと言っている! ……申し訳ありません、海人様。私の部下への教育がなっていないばかりに……」
隊長は部下を押しのけると、海人の前に跪いた。驚く二人の部下を尻目に、海人は一応擁護した。
「よい。そいつらは若い、十年以上帰ってこなかった俺を知らなくても無理はない。逆にお前はよく覚えていたな」
「はっ、恐縮です」
あんな幽霊船のような船が来れば、十年経っても忘れられないだろう。隊長と呼ばれた男性もその当時の事はよく覚えていた。十三湊の民にとっても同じように大騒ぎになったのを、忘れられない出来事として覚えている者が少なくない。
現に野次馬の中からも年長の者が思い出し、周囲の人間に説明していた。
「た、隊長……。その男は一体……」
恐る恐る尋ねる部下に、隊長は跪きながら振り返り答えた。
「この方は安東海人様。仁実様の兄に当たるお方であり、外国を巡り旅をしておられる。そして神より教えを受け、この奥州の地に並び立つ者がいないと称されるほどの槍の使い手だ。我等安東海軍の長でもある」
それを聞いた部下の表情は滑稽で、なかなか忘れられそうにないほど見事なものだった。
◆
それから群集を掻き分けて港から離れた後、海人がまず向かったのは湊城だった。さすがにあの隊長が特別覚えていただけであって、ここ数年で配属された門番も海人の素性を知らなかった。
身元の確認が済んだ後、海人は城に入ることができた。どうやって身元を確認したかというと、海人を知っている者に来てもらったのだ。
城の廊下を歩く海人と、海人を知る人物。海人は並んで歩く、血縁上息子に当たる人物に話しかけた。
「しかしお前だったとは。容姿を見ただけではわからなかったと思うぞ。……成長したな、
「はい、あなたは十年経った今でも全くお変わりないようで」
真に迫る表情で海人の隣を歩いているのは、愛代との間に儲けた実季という息子だった。顔を見るのは七歳の頃から十年ぶりである。男子三日会わざれば刮目して見よとは言うが、十年も会わなかった息子の姿はまるで別人だった。
それに実の親子だというのに、どこか仰々しい。表情も硬く、小さな頃は活発で明るい男子だったというのに。
「あっ、兄様! 帰ってらっしゃったのですか!」
そんな時、廊下を歩いていた仁実が海人を認め、駆け寄ってきた。久しぶりに会った仁実は、また年をとっていた。
「仁実か。久しいな。元気にしていたか?」
「兄様こそ……。十年も一体どちらに?」
親に駆け寄る子を思い起こさせるがしかし、外見年齢は真逆だった。
海人は五十になるというのに瑞々しい肉体を保ち、対して仁実は顔にしわが増え、声もしわがれている。実際は海人が数歳年上なのだが、仁実が母親で海人が息子と勘違いされてもおかしくない外見である。
「実季も一緒だったのね。十年ぶりでしょう?
「自分はこの人を、父親と思ったことはありません」
「実季、なんてことを言うの! 兄様に謝りなさい!」
海人を父親として認めないという実季を、仁実は叱りつける。だが撤回するつもりはないようで、実季は海人を正面から睨みつけていた。
「ですがこの人は当主を引き継がず、その役目を継いだ母上の助けもせず、外国をふらふら船で放浪するばかり。父親らしいことなど何一つしなかったではありませんか!」
「実季、それは仕方なかったんだ。俺が厄介なものに目をつけられて、この十三湊の民にも被害が及ぶまいと……」
「仕方なくッ……! だったら! 一生帰ってこなければよかったんだ!」
海人は訳を説明しようとした。神殺しの厄介ごとを引き寄せてしまう体質を、そのせいでアンフィトリテというまつろわぬ神に現在付けねらわれていることを。だがそれが実季の神経を逆なでし、逆効果になってしまった。
「母上はずっとあなたが帰ってくるのを待っていた……。だがあなたは帰ってこなかった。母上はあの人は帰ってくる、帰ってくるとうわ言のように呟いていた。あなたに出会わなければ、いなければ母上は幸せになれたんだ!」
「実季!」
仁実が大声で再びしかりつける。実季は海人を見るが、海人は怒るでも悲しむでもなくただ冷静に見ていた。あれだけ言っても何も感じていないようだった。
「……失礼します。私はこれでも、あなた以上に国務を任されているので」
「待ちなさい、実季!」
仁実の制止を無視し、実季は廊下の角を曲がって姿を消した。
仁実も追いかけるつもりはなかったようで、実季に伸ばした手を下ろし海人に頭を下げた。
「ごめんなさい、兄様。あの子は普段本当にいい子なんですよ。本当ならあんな事を言う子じゃ……」
「いや、実季を怒らないでやってくれ。あいつの言っていることも、あながち間違いではないしな」
海人は今もなお、アンフィトリテに追い回されていた。アンフィトリテは自分が生み出した神獣を尖兵として戦わせ、自らは一切顔を見せなかった。デルピノスも以前はアンフィトリテと感覚を共有して位置を知らせあっていたが、裏切りが判明すると繋がりが切れて居場所がわからなくなってしまったのだ。
アンフィトリテは神獣に手を下させて、自分は一切手を汚さないつもりなのだ。
未だにアンフィトリテの居場所はつかめず、定期的に来る神獣を殺すことが日常だ。
「ですが兄様を誤解させたままでは……」
「あのままでいい。自分の考えを素直に言えるのはいいことだ。もう必要もないことだしな」
「必要ない……?」
海人はしまったと表情に出し、口を片手でふさいだ。
「いや……忘れてくれ。俺は愛代に会いに行くよ」
「お兄様……」
海人は誤魔化すと、仁実に背を向けて逃げるように早足で歩いた。
仁実はそう言って遠ざかっていく海人を、ただ立って心配そうに見送った。
「もう、どこにも行きませんよね……?」
◆
「そんなことがあったの……」
太陽も落ちて空が暗くなった頃、海人は愛代に昼に起こった出来事を話した。
場所は愛代の寝所であり、愛代は年をとり寝床から自力で起き上がれない寝たきりの体になっていた。
海人はそんな愛代の枕元に座っていた。愛代はそんな体になっても、訪れた海人にしわくちゃな笑顔を向けた。
「ああ。だからお前に擁護を頼もうと思ってな。あいつは俺よりも愛代に懐いていたからな」
実季は次男であり。上には
だが実季は海人の記憶が正しければ、小さい頃は母親にべったりだったはずだ。
「そうね。だけど私もあの子の年の頃は、もう母親離れしていた。しなくてはならなかった、と言ったほうが正しいでしょうけど……。とにかく実季にはこの十三湊の城を任せなくてはいけないから、私に頼らないでしっかり自分で考えて、大人になってほしいの」
お家を揺るがす大事件があれば、さすがに助言するけど、と愛代は付け加えた。
「だから突き放したのか?」
「言い方は悪いけど、そうよ。あの子が業季ほどに大きくなったら、当主を任せようと思うの」
だが海人は、実季に構ってやらないのは逆効果ではないかと思っていた。実季は安東全体のためというよりも、自分本位の考えで言っているように感じた。海人の直感でしかないが、実季のあれは八つ当たりだ。
母親に褒めてもらいたくて高潔で冷徹な人格者を演じてはいるが、当の母親が自分を心配して目をかけてくれないため、邪魔者に思っているのかもしれない。
「それよりも、海人。旅の土産話を聞かせてくれないかしら?」
だが、海人は黙っておいた。久しぶりの夫婦会話であった。いらぬ気苦労をかけることもないだろう。それに愛代のほうがずっと実季を見てきた。あとでさりげなく仁実に言っておくだけでいいだろう。
海人はアンフィトリテの追っ手をまく際に訪れた、発展著しい英国の話を始めた。途中話を聞いて興奮した愛代が大きく咳き込むが、大丈夫だと言う彼女の言葉を信じ、海人は重く気に留めなかった。
それからも外の国の景観や文化の話は続き、夜は更けていった。
◆
蝋燭の火が消えたのをちょうど良い区切りとし、海人達は話を切り上げることにした。愛代の肩まで布団をかけ、寝るまで傍らにいることにした。
夜は更け、障子から月明かりが漏れる。それだけがお互いの表情を判断できる手がかりだった。
「海人、どうしてそんな恐い顔をしているの?」
愛代に言われて、海人は自分の表情が強張っていることに気づいた。
「……なんでもない。寝て起きたら、全て元通りの日常に戻る。ゆっくり休め」
海人は穏やかな笑顔をつくって愛代に向けた。
「……お願い、海人。私が寝るまで手を握っていてくれる?」
「こうか?」
海人は愛代のしわしわの手をそっと握った。
「海人の手、暖かい……」
愛代の手は、冷たかった。
「おやすみ、海人」
「ああ、おやすみ」
そうして目蓋を閉じた愛代は、しばらくするとすーすーと穏やかな寝息をたてはじめた。
愛代が眠りについたことを確認すると、海人は障子を開けてそっと部屋を出た。
空を見上げると、満月だった。町明かりがないおかげで星が綺麗に見える。
少し空を眺めた後、右を振り向いた。すると満月や星に照らされた廊下の先には、仁実が立っていた。幽霊の様に存在の薄かった仁実に気づいておらず、海人はわずかに目を見開いた。
「何処に行くのですか、兄様?」
「ちょっと厠に寄ってから、寝床にな」
「嘘をつかないでください。厠はこっちにはありません」
「そうだったか。焼け落ちて立て替えたのか?」
「この十三湊は築城してから一切攻め込まれていません!」
仁実がずんずんと威圧感を撒き散らし廊下を一直線に近寄ってくる。それでも深夜なので足音は立てなかったが、逃げられない気迫を感じた。
「まさか、また十三湊を出るつもりなんですか!? まだ一日も経ってないんですよ!」
すぐ近くまで寄り見上げてくる仁実に、海人ははぁとため息をついた。
「そうだ。すぐ近海に神獣が出た。俺が海に出てそいつを引き付ける。大丈夫、町に被害は出さない。お前達の日常に影響はでない」
「……兄様から見れば、私達の日常は守れるかもしれない。だけど愛代様と、そして私にとっての日常は、兄様がいて初めて元通りになるんです! 兄様がいなくなったあの日から、私達の日常はずっと戻ってきていないんですよ……」
そっと胸に顔をうずめてくる仁実の肩に手をおき、海人はそっと仁実を胸から離した。
「行かないでください。それでも行くというのなら、私も……」
「駄目だ。お前じゃあ神獣には勝てない。もし奇跡的に勝てたとしても、まつろわぬ神には……」
「昔よりも、術は上手く使えるようになりました!」
「それでも、お前はもう長旅に耐えれるような体じゃないだろう。いつでも愛代みたいに寝たきりになってもおかしくない年なんだ」
海人は仁実の体を眺めた。健常で病気にかかっていない健康体だが、もうおばあちゃんと呼べる年であり、老化で体の機能が衰えている。
それに寿命という生物にとって逃れられない概念が、すぐそこまで迫ってきているのだ。
「私は、まだ兄様に命を助けてもらった恩を、返せていないんです……!」
「それも元々は神殺しの巻き込まれ体質が、お前を巻き込んでしまったからだ。沢山の命を犠牲にしてしまったが、お前が気に病むことではないんだ……。本当にすまなかったな、俺がお前の人生を縛り付けていたんだな」
「兄様……!」
「じゃあな、またその内帰ってくるよ」
海人は仁実に背を向けると、湊城の城門がある方角へと向かった。
仁実はその姿を何もできずに見送った。しかし決して海人の力になれず、悲壮に暮れていたわけではなかった。
◆
──その後、安東家当主である愛代が亡くなった。寿命であり、この時代では多くはない親族に見送られての死だった。だが、その場に愛代が最もいて欲しかった海人の姿はなかった。
愛代の遺言の通りに安東家の次期当主は、長男である業季に決まった。しかしこれを不服に思った実季が、業季相手に真正面から戦を始める。兄弟の間で安東家の家督争いが目に見える形で起こった。
その最中、業季と実季の叔母である仁実は、消息不明となる。
十三湊で実権を握った実季は、海人の十三湊入りを禁じた。安東の支配地域では言語統制も行い、海人や神殺し、まつろわぬ神に関することは発言を禁止した。海人の船は見つけ次第、警告なしに大筒で沈めるよう命令された。
あまり事を荒げたくない海人は、段々と寄ることはなくなり、それから一切十三湊に寄ることはなくなった。愛代の墓参りもしていないのにだ。
──そして海人が十三湊を離れて、船を操り世界を放浪する中。
およそ一世紀の時が流れた。