檜山は、民衆に重い税を課している。その税が軍備の強化に当てられていることは、税を渡している民達も知るところであった。
檜山安東家の強大な軍事力は、民衆が汗水垂らして働いた血税の上にできている。庶民は重い税を払うかわりに、安全な生活を保障されているのだ。絶対はない。だが政治に関わりのない一般人は、檜山のおかげで戦火に巻き込まれることを気にせずに、日々を暮らせているのだ。
そのことは、国境が接する他国からも知られている。国境付近で小さな小競り合いはまれにあるものの、本格的な侵攻はなかった。檜山と湊の関係が劣悪なのは周知の事実であり、湊との争いにかまけて、檜山側から攻撃してくることはないと確信しているからだ。
一番の根拠としては、軍事的に見ても特に重要な場所ではないことと、作物が育たない土地であることだ。檜山の周囲は高い山で囲われており、天然の要塞だ。そこを突破して侵略したとしても、報酬が苦労に見合わなければ、だれも手を出すことはなかった。
このような理由により、檜山は背後を気にすることなく、湊との戦に専念できる。それに檜山の城下町は、他と比べて割かし治安が良かった。衛兵の熟練度がよく、暴漢や盗人をひっとらえてくれるからだ。
そんな檜山が、兵を徴収しようとしている。
強制ではない。だが無視できない、由々しき事態である。
五年前の大戦の前と比べても、檜山の軍隊は引けをとらないほど立て直している。兵農分離も行われて、さらに大して訓練もされていない農民まで駆り出そうというのだ。
◆
次の戦は、総力戦となる。
五年前の大戦とは比べ物にならないほど大規模な決戦。檜山は湊と長い争乱に終止符を打つつもりなのだろう、と重蔵は推測を述べた。彼もこのおふれ書きには驚きを隠せないようで、寝耳に水だったのであろう。
育て親からそんな概要を聞いた海人は、仁実の制止を無視して、あの小さな祠に向かった。
愛代なら、湊のお姫様である愛代なら、今起こっていることを詳しく知っていると思ったからだ。
◆
「愛代!」
しかし、海人が祠に到着したときには、愛代の姿は見えなかった。
当然だ。海人は愛代と今日この時間に、ここで会う約束などしていなかった。会えるはずがなかった。
そういえば、愛代に自分から会いに行くなんてことは今までになかった。あいつが勝手に来て、知らず知らずに話すようになって。
海人は今更そのことに気づき、彼女のいない祠がひどく静かに感じられた。意識し始めると、気になって仕方がなかった。
自分が焦っても、愛代とは話せない。槍でも振っていよう。
逸る気持ちを抑えて、海人はここまで走ってきて上がっていた息を整えた。そして心を落ち着かせるため、いつもの日課をはじめた。
槍を抜く。こんなときでも、海人は自分の得物を手放さなかった。
ただただ無心に、突く、引くの繰り返し。それでも海人の頭は冷静にはなったが、愛代のことは頭から抜けることはなかった。
海人から見て、愛代はどこまでも純粋で、そして何より感情に鈍感だった。個人の気持ちなど考えたことなどないのだろう。彼女は何度も愚痴で、海人にこぼしていた。
どうしてこんな無益な争いを続けているのだろう、と。
海人はその言葉が、愛代の心の底からの本音だと理解してしまった。そう言ったときの彼女のきょとんとした顔は、とても嘘を言っているように思えなかった。
愛代は、悪意という概念を全く理解していないのだ。だから戦争が起きるのが不思議でならないし、同じ一族だがらなおさらだ。
海人の中では、国の役人は金に汚いイメージがあった。金や名誉のためなら汚いことを平気でする、そんな先入観が。そんな大人たちに愛代が説得しても、大人たちからは綺麗ごとに聞こえるので、耳を傾けてくれない。だから海人は、愛代の仲介は成功しないのだと思っていた。
愛代との仲は親密だ。下世話な冗談も交わせるほどに。
いつでも、そんなことじゃ成功しない、と教えることはできた。海人はそれをしなかった。しなかった訳は──。
「海人?」
「うおッ!」
「うわッ!」
そこまで考えたところで海人は、自分の顔を間近で覗き込んでくる愛代に驚いた。上の空だった海人は、近すぎる顔と顔の距離に、一歩後ずさってしまう。
対する愛代も海人のリアクションに驚いて、短い叫び声を上げた。
「びっくりしたな。いきなり現れるんじゃねえよ」
「こ、こっちこそ、驚かせないでよ。……いつもは槍を振ってばかりの海人が、どこかを見て呆けているから、何事かと思って」
「ん? ……あ、ああ。そうだったのか。悪かったな、心配かけて。考えごとをしててな」
海人は、槍を振るう鍛錬を止めていることに、愛代に指摘されてようやく気づいた。
「……ふーん。やっぱり何処か悪いんじゃないの? 海人が考え事するなんてさ」
「だからお前は俺のことを」
「それに! 槍を振る手を止めるなんて、海人らしくないよ。どうしちゃったの?」
海人は言葉に詰まった。それについては海人自身も驚いていた。こんなことは、槍の鍛錬を始めてから一度もなかったことだった。
どうして手が止まった? 海人は考える。そう、こうなったのはつい先ほどから──。
「……愛代のことを考えていたから?」
「ッ!?」
海人は思わず考えていることを漏らしてしまい、それを聞いた愛代はびっくりして赤くなった。
「なっ、どっ、どういうこと、それ!?」
「あー、口に出てたか? お前に聞きたいことがあったんだよ」
「……聞きたいこと?」
声のトーンを落として、とても残念そうな様子を見せる愛代に、海人は構わず尋ねた。
「今起こっている、兵の徴兵についてだ。檜山と湊が同時に軍備を整えている。両者は一世一代の決戦に挑むかもしれないと、親父が言っていた」
それを聞いた愛代の反応は、驚愕。それも特大の、頭を強く打たれたように、ポカンと口を開けて驚きを露にした。一瞬、我に返った愛代は、それでも動揺を隠せずに、海人に詰め寄った。
「海人のお父様ってことは、安東家の人だったんでしょ? 聞いてないの?」
「だから……。昔から何度も言っているだろう。親父は檜山から抜けた、関係はないから今の檜山の現状を何も知らないってな」
「そんな……。じゃあ、本当に何も知らないの? 山の神様のことも!?」
「神様? なんの話だ」
愛代は腕を組み、ブツブツと独り言をつぶやく。「まつろわぬ神」「征伐」などの言葉が途切れ途切れで聞き取れたが、それだけでは海人には推測がつかなかった。
やがて納得したように頷いた愛代に、海人はイライラしながら問いかけた。
「おい。いい加減、どうなっているか説明してくれ」
「……やだ」
「は!?」
「話せない理由ができました」
「ひとりで納得してないで、俺にも教えろ」
「だめでーす。国家機密でーす」
「てめえ。……さっきまで、俺が知っていても問題ない口ぶりだっただろう。何故駄目になった」
かたくなに口を割ろうとしない愛代に対して、海人は切り口を変えて問いただす。
愛代は仲間であった者がそうではなかった、そんな複雑な心境を表すさびしげな表情をしていた。
「湊と檜山、ふたつの安東家の問題だから。知らなければ、あなたに火種が飛ぶこともないでしょうし。……それにしても、本当に檜山安東家とは関係なかったみたいね」
「当たり前だ。俺は嘘を言った覚えはない、ずっと本当のことを言い続けていたぞ」
「ふふ、そうね。海人は嘘をつけないもんね」
「おい、誰が単純馬鹿だって?」
「そんなこと言ってない」
そうして、どちらから先でもなく海人と愛代は笑い始める。
ふと、愛代が空を見上げると、彼女は何かを思い出したように顔色をはっと変えた。海人もつられて上を向く。海人が鍛錬を始めた時は東にあった太陽が、ほぼ真上に昇っていた。ずいぶんと時間が経っていた。
「そうだ。私、駕籠を待たせているんだった」
愛代は、人を待たせていることを思い出したようだ。海人が時間を忘れて鍛錬に集中することはよくあるが、愛代がそうなるのは珍しかった。海人は手を払って、どうでもよさげに突き放した。
「そうか……。なら、俺となんか話してないで、さっさと用事を済ませてこい」
「何言っているの。海人が、私の用事なんだよ」
「は?」
まだ理解が追いつかない海人に、愛代は同じ言葉を繰り返す。
「海人が、私の用事なの。海人がそう言うなら、さっさと用事を済ませちゃうね。時間もないし。……私、しばらくここに来れなくなってしまうから、それを海人に報告しに来たの」
「はっ、その言い方じゃまるで、俺達が恋人同士みてえだな」
茶化して笑い飛ばす海人に、愛代はにっこりと笑みを返す。慌てて否定もしない愛代に、海人は二の口がつげなくなった。いつもなら真っ赤になって否定してくるはずなのに、余裕を見せる彼女に、海人は目を奪われていた。
「恋人ね。たしかに違うけれど。でも、海人が許可してくれれば、いつでも成る覚悟はできてる。……ねえ、私の気持ち、知っているでしょ」
覚悟を決めた顔でそう言った彼女に、海人は冗談を切り出すことができなかった。
◆
忘れるはずがない。忘れられるわけがない。決心して、凛とした佇まい、澄み渡る雰囲気を出す愛代に、海人の目は釘付けだった。
手を伸ばせば届きそうな距離で、じっと見詰め合う海人と愛代。海人は、愛代から目を離すことができなかった。そうすれば、なぜか負けた気分になりそうだったからだ。
「ずっと昔、私があなたに言ったこと、覚えてる?」
「……覚えている。お前が俺に惚れているという話だろう」
愛代に問いかけられ、突き動かされて海人はそれだけを何とか口にした。
両者ともに小さい頃、海人は愛代から告白を受けていた。『結婚を前提に、お付き合いをしてください』と、一国の姫から申し込まれていたのだ。海人は自分が幼いことを自覚しており、両親もまだ健在だった時だ。
好きか嫌いかなど考えたこともなかった海人は、返答の保留を提案した。愛代はそれを了承して、海人の返事をずっと待ってくれた。
それ以来、愛代からその話が出たことはない。だが愛代は、恋慕していると思わせる仕草をしている。海人は何度も気づいていないふりをしたり、難聴であるかのように振舞ったりしていた。
「よかった。……今、その時の答えを聞かせてくれない?」
「どうして今になって。その話だって、お互い年端も行かねえ餓鬼の頃のことじゃねえか」
「私はずっと本気だよ。それに、その気持ちは今も変わってない」
愛代の喋る言葉の一つ一つに、力強い意志が感じられた。目を張り、笑って誤魔化すな、と訴えてきた。
「聞かせて、海人。私の湊安東家に婿に入って、家族になってくれない?」
「俺は……」
海人は一瞬躊躇したが、幼い頃からずっと考えていた答えを出した。
「愛代とは一緒に行けねえ。……今までこうして対等に会話していること自体が奇跡のようなものだ。俺とお前の立場は、平民と一国の姫なんだ。身分が違う」
「……それが答え? 海人の気持ちを聞いてない。海人、あなたは私をどう思っているの?」
普段の間抜けな行動からは想像できない、勢いよく詰め掛ける愛代に、海人はついに目を逸らしてしまった。
「お前のことは、どうとも思ってねえ。元々勝手に此処に来て、いつのまにか居なくなるやつだったろうが。……俺達の関係なんて、いつか立ち消える程度の弱いものなんだよ」
「……私のこと、嫌い?」
懇願するような撫で声に、海人は愛代に背を向けて言い放った。
「ああ……。嫌いだ」
規制だ規制だとわめく、お偉いさんは。
海人は心の中でつぶやいた。そうしてそのまま、目の前の現実から目を背けるように、海人は止めていた槍の鍛錬を再開した。海人の思考は、先ほどとは違って完全にクリアだった。
「……じゃあね、海人。……さようなら」
鍛錬に没頭する海人を端目に、愛代はひっそりと立ち去った。海人からしてみれば、いつのまにか、消えていることになるだろうが。
いつも別れを見送っていたのなら気づいただろうが、海人は聞こえていなかった。
愛代のその、海人に向かって初めて口にした、『さようなら』という別れの言葉を。