五十話、先触れ
日本の東京、文京区のとある潰れた古書店。潰れた後は民家となったその場所の電話がジリジリと鳴った。
暦は梅雨時の六月下旬。湿った空気の日の、夜も更けた十時頃のことだった。草薙護堂が受話器を取ると、耳に快活な男の声が聞こえてきた。
「はい、草薙です」
『やあやあ護堂、久しぶりだね。僕だよ僕。君の一番の親友』
「人違いです」
護堂は叩きつけるように受話器を下ろした。また掛かってくるかもしれないと思い、電話線を引っこ抜いた。
受話器から聞こえたのは、護堂にとって聞きたくはなかった声だった。
「くそっ、あの野郎、ついに復活しやがったのか」
護堂が悪態をつくと、今度はポケットの中の携帯電話が鳴り響いた。取り出し着信画面を見ると、送信者の名前が『通知不可能』と出ている。
これもあの男からの着信か? これ以上つき纏われても困ると判断した護堂は、覚悟を決めて通話ボタンを押した。
『酷いじゃないか、護堂! 一方的に通話を切り、親友である僕の声を忘れるなんて!』
「たしかに聞き覚えのある声だが、そいつには電話番号を教えていないし、何より親友であったことなんて一時たりともない! ……どちらのイタリアの神殺しか知りませんが、番号を間違えていますよ」
『番号は部下に調べさせたんだ。というより、誰だか分かっているじゃないか、護堂!』
「……何の用だ、サルバトーレ・ドニ」
『……ねえ、何時から君と僕、用がないと電話しちゃいけない関係になったの?』
「切るぞ」
『ああ! 待って待って』
それから少しの時間、親友だ友じゃない、といった押し問答を繰り返した後、サルバトーレ・ドニは本題を切り出した。
『君はデヤンスタール・ヴォバンの名前を知っているかい?』
「ああ。たしかあんたの近所に住んでいる偏屈じいさんの大魔王だろ?」
『じゃあもちろん、安東海人の名前も知っているよね?』
「知っているに決まっているだろ。こんな体になる前に教えてもらったよ」
それは護堂がサルデーニャ島で、二柱の神々の争いに巻き込まれた時のことだ。共に巻き込まれた騎士の少女、エリカ・ブランデッリに、人間が神に勝利することがあると教えてもらったことがあった。
──神に勝利するって、あんなのだぞ? とうてい信じられないな。
──そう? 護堂にとっても、そんなに遠い世界の話ではないはずよ。護堂の国にも居るわよ、神への勝利者、カンピオーネが。
──え!? 日本にか!?
──ええ、ほんの数年前、サルバトーレ卿と時期を同じくして、日本出身だってことが判明したの。それまでは生死すら判明していなかったんだけど……。
そんな会話があったはずだ。
しかし『信じられない』と言った護堂も神殺しを成し遂げ、八人目の魔王となった。
草薙護堂は世界で最も若く、新しいカンピオーネであった。サルデーニャ島で軍神ウルスラグナを斃し、日本で二番目の羅刹王になったのだ。
「今は世界を放浪しているんだろ? たまに騒動を起こして、気まぐれでまつろわぬ神と闘っているって耳にしてるぞ」
『ふーん。その様子じゃ、まだ同じ国の同胞とはまだ会ってないみたいだね』
「ああ。それで、その神殺しの先輩に、魔王のじいさんが一体なんの関係があるんだ? 俺はその二人の顔も知らないぞ」
『ヴォバンのじいさまと海人船長は、深い因縁があるんだよ。なんでも十八世紀の中頃から一世紀以上衝突してたって話だからね。お互いに性格も闘い方も、一番よく知ってるんじゃないかな?』
一世紀。スケールが大きすぎて、護堂には想像できない話だ。
だが、それを今話したのは、どんな意図があってのことだ?
『そのひとり、ヴォバンのじいさまが今日本の何処かにいるらしいから、アドバイスにと思って連絡したんだ』
「日本にって……。まさか、その海人ってカンピオーネと闘いに来たのか?」
『そうだ、とは思うんだけど……。今日本に行くのはちょっと釈然としないんだよね。海人船長は四年前に日本にいるって判明したから』
「そうだな。来るなら三年前でも四年前でもいい気もするな」
まあ、何時だったとしても、来てほしくはないというのが護堂の本音だった。
「ああ……。なんでこう、次々の厄介ごとが舞い込んでくるんだ!」
『そういえば、護堂はあのアテナを撃退したらしいじゃないか。強い敵が次々に襲いかかってくるのは、カンピオーネの宿命だから仕方ないよ』
「俺は降りかかった火の粉を払っただけなんだがな……」
ここで護堂は、ドニに会話の中で気になったことを尋ねた。
「ドニは、安東海人っていう日本のカンピオーネと会ったことがあるのか? 会ったような口ぶりだったが」
『うん、二度あるよ。一度目は一言二言話しただけで決闘したし、二度目は普通に会話をしたよ。まあ、決闘はあっさりと負けちゃっただけどね』
「一、二回話しただけで決闘って……。あんたが興奮して吹っかけたんじゃないだろうな?」
『ち、違うよ!? あの時はまつろわぬ神を斃して、海人船長とは連戦だったんだから! 僕からは決闘を申し込んではいないし、その前にまつろわぬ神と闘っていなかったら善戦できてたはずだよ!』
サルバトーレ・ドニは嘘がつけるような性格をしていない。とすると安東海人という人物は、ドニの様に嬉々としてカンピオーネに闘いを挑んでくるような人ということだ。
その同胞とも闘うことになる可能性があると思うと、護堂は腹に爆弾を抱えている心境になった。
「その『船長』ってのはなんだ?」
『船長は勝手に僕が言ってるのさ。彼、すっごい大きな帆船持っているんだ。カリブの海賊のような、映画でしか見れないような船に、僕も乗せてもらったんだ』
「一回会って決闘したってのに、二回目でそんな仲になったのか?」
『僕もあっちも、その時はそんな気分じゃなかったしね。あ、でも再戦は絶対にするよ。海人船長とも、もちろん護堂ともね!』
「お断りだ」
その後、護堂はドニはヴォバン侯爵についての情報を教えてもらった。食欲以外の欲が薄いところや、『貪る群狼』から始まるヴォバンの持つ権能の概要などだ。
それを聞くと、護堂は通話終了のボタンを押した。
今、安東海人は日本にいない。ヴォバン侯爵の狙いが安東海人ならば、叶わないはずだ。なら別の狙いがあるのか?
これ以上考えても仕方ないと思った護堂は、明日『万理谷祐理』か『エリカ・ブランデッリ』に相談することにした。
祐理は日本の魔術組織『正史編纂委員会』に所属する媛巫女であり、エリカはイタリアの魔術結社『赤銅黒十字』の魔術師だ。この場で頭を悩ませるよりも、護堂より魔術師界隈に通じている彼女達に相談したほうが手っ取り早いに違いない。
だが、それは叶わなかった。相談する前に、それどころかこの会話以前に、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバンが引き金を引いた騒動は、既に始まっていたのだった。
◆
その日、東北の秋田の地では、突発的な暴風と雷雨に襲われていた。降水確率が低く快晴なのにも関わらず、夕方から降り始め、日が沈む頃には黒い雷雲が空を覆っていた。
秋田綾花は、県内の大学に通う一年次生だ。講義が終わり、在来線を使い駅に降りた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
駅を出て、綾花は空を見た。駅から自転車で十分ほどかかる場所に、実家の神社がある。しかし雨が降っているし風も強いため、どうしようか迷っていた。
すると声をかけられたのだ。声の方を振り向くと、夜の闇から現れたかのように、スーツを着た老人が立っていた。
「君が、安東海人の身内かね? 名は何と言ったか。あとでまた聞くとしよう。……私に着いてきたまえ」
老人は緑柱石の色の瞳は、風雨の夜でもはっきりと浮かび上がっていた。その瞳に捉えられた綾花は、背筋の凍る寒けに身震いした。
すぐさま踵を返し、綾花は雨の中を全速力で逃げた。駅員に助けは求めなかった。あの老人は安東海人の名を語っているので、助けを求めれば無闇に一般人を巻き込んでしまう恐れがあったからだ。
その判断は正しかった。後ろを振り返ると自動車ほどの大きさの狼の群れが、綾花を追跡してきていた。
細い横道に入り、曲がりくねった複雑な小路で狼達の視界から消えようとする。フェンスを飛び越え、穴を潜り抜け、荷物を投げ捨てる。
知り尽くした地元の道で必死に追っ手から逃げようとするも、生まれてからの生粋のハンターから逃げ切ることはできず、綾花は狼達に袋小路へと追い詰められてしまった。
「さて、随分と頑張ったようだが、もう終わりだ。私に同行してもらうぞ」
「……海人様に……、私に、何の用事が……あるのですか……?」
綾花は息も絶え絶えになりながら、ヴォバン侯爵に問いかけた。右手には、仁実から贈られたお守りが握られていた。
「君には餌になってもらおう。ああ、狼の餌ではない。安東海人をおびき出すための、生餌になるんだ」
ヴォバンはそのエメラルドの瞳を輝かせながら言った。
瞳が輝き綾花が捉えられた瞬間、綾花の脚は石のように動かなくなってしまった。
「まずは逃げれぬよう、餌には不要な手足を落とすとするか。……む?」
すると何故か綾花の脚を石にしたというのに、不振な表情を浮かべた。
「まあいい。塩にならないのなら好都合だ。猟犬どもに連れてこさせよう」
ヴォバンが手を振り上げると、取り巻きの狼数匹が綾花に接近してきた。恐怖で固まって動けない綾花は、左腕を狼の一匹に噛み付かれてしまった。
激痛が走る。このまま引き摺っていこうとしているのだ。綾花は痛みに目を白黒させ、悲鳴を上げながら必死に抵抗する。
「いやッ……いやッ、いやああああああああぁぁぁあぁッ!」
「煩いな……。舌を抜いてしまおうか。だが、鳴いたほうが獲物も寄ってきやすくなるだろう。そのまま連れて来い」
腕を無我夢中で振り回そうとするが、狼の体躯が大きく、顎の力も強く離れない。
綾花がじわりと涙を浮かべた時、侯爵の嘲笑と狼達のうなり声を引き裂き、凛とした女性の声が響き渡った。
「お止めください、侯! 一般市民を相手に何をなさっているのです!?」
腕に噛み付いていた狼の体に銀色の一閃が入り、狼は闇に溶け込むように消えた。
しかし、綾花は気を失ってしまった。狼に腕を噛み付かれた時の痛みに耐え切れなかったのだ。
ヴォバンの前には、無防備になった綾花が横たわることになる。ヴォバン侯爵の態度からして客人の扱いはされないだろう。
だがそのヴォバン侯爵と綾花の間に、銀髪の少女が割ってはいった。
リリアナ・クラニチャール。魔術結社『青銅黒十字』の騎士で、今回のヴォバンの日本遠征にお供として従っている者だった。
「一体何故このような事を!? 魔術の存在を知らない女性に『貪る群狼』を焚き附けるなどと!」
「クラニチャールか。君にはマリヤの件とは別件があること、明かしてはいなかったな。……その娘は安東海人の身内だ。その娘が捕らえていれば、奴も呼び寄せられるだろう」
リリアナは驚愕し、背後の綾花の顔をまじまじと見つめた。彼女の『最古参の魔王』に対するイメージは、ほとんどヴォバン侯爵から来ている。神々との闘争を生業とする、世捨て人なのだろうと。
なので近年誕生したカンピオーネならまだしも、最も高齢の魔王に家族がいるとは考えてもいなかった。
「丁度いい。クラニチャール、その娘を魔女術でホテルまで運べ。いかに雨といえど、私の猟犬は目立つからね」
「承知いたしました。ですがカンピオーネの身内なのであれば、客人として丁重に持て成させて頂きます」
「構わぬ。だがこの娘、ヴォバンを前にしても抗う気力は持ち合わせているようだ。逃げ出さぬよう、首輪代わりに脚の石化はそのままにしておく。……君が面倒を見ろ、クラニチャール」
「……仰せのままに」
リリアナは、ヴォバン侯爵と綾花を『飛翔術』でホテルまで運んだ。
その後ヴォバン侯爵がホテルの一室に入ると、リリアナは綾花を担ぎ上げ、別の一室のベッドの上に綾花を横たえた。そして綾花の腕の治療を行い、石化した脚の状態を注視した。
脚は、膝のあたりまで石化していた。だがヴォバンは魔術の心得はなく、石化の権能を持たない。隠された権能という線もあるが、どの様にこの現象を起こしたのか気になることだった。
石化は、このままにしておく他ない。リリアナ程度では、魔王の奇跡に対抗できるはずもなかった。
◆
次の日、リリアナを供とするヴォバン侯爵は、綾花を連れ去り、東京へと向かった。
次なる目的は、まつろわぬ神招来の儀式に要する人材『万理谷祐理』だ。
東京を舞台に、カンピオーネ同士の闘争が引き起こされようとしていた。