征海魔王   作:カンジョー

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五十六話、平穏

 この空間にいると、時間の感覚を忘れる。外ではもう、あれから一ヶ月の月日が流れたという。

 安東仁実は軒下の縁側から空を見上げた。あいにく此処は、時が経てば太陽が昇り、やがて沈むなどということはない。何百年もこの変化のない幽世に身を置いているので、人間の生活のリズムなどとうの昔に崩れていた。

 

 仁実の住んでいる此処は『幽世』といい、人の住む現世とは違う世界である。あらゆる情報が記録されており、まつろわぬ神はこの幽世で受肉すると言われている。

 そんな世界の一部に仁実はいた。元々ここは『アテルイ』というまつろわぬ神が隠居していた場所であり、二百年前に海人を通じ、仁実が譲り受けた場所だった。

 

「ふぅ……」

 

 湯飲みの茶を一口飲み、仁実は一息ついた。

 綾花がヴォバン侯爵に攫われてから、早一ヶ月。二度と攫われぬよう警戒態勢の強化に奔走し、ようやく一区切りついたところだった。この幽世から出ていないので体力的な疲労はないが、今のように心の休まる時間はなかった。

 

 密閉された変化のない空間で人間が正気を保っていられるのは、約三ヶ月だと言われている。しかし幽世はすべての記憶が存在する空間であり、刻々と変化する変化する現世の様子を、水晶玉を通じて伺うことができた。

 そして何よりも、仁実には海人という待ち人がいた。海人のことを思えば、何百年の年月を耐えることができたのだ。

 

 海人が帰ってきた今でも、自分に課した『海人の帰る場所を守る』という使命は終わっていない。

 これから何世紀も後まで海人が戻ってこれる場所を守る、それには現世で手足となって働いてくれる組織が必要だ。組織のトップには私に従順な安東の者を据える。そのためには綾花を使って……。

 

 そこまで思考を巡らせたところで、仁実は頭をブンブンと振って考えを振り払った。

 

「考えないようにしているのに……」

 

 仁実には、海人以外をどうしても道具のように考えてしまうのだ。それは遠い子孫の綾花も含まれている。道具に看做さぬよう努力はしているのだが、家の存続を思案すると浮かんできてしまう。

 

 兎に角、これは一時の休息だ。仁実の心配事はまだある。

 特に大きいのが、仁実の思い人の精神状態についてだ。

 

「ん……?」

 

 その時、室内の水晶玉に反応があった。水晶玉は現世との窓の役割を果たしている。

 仁実は室内に戻ると、通信に応答した。すると水晶玉に綾花の顔が映った。

 

『おはようございます、仁実様』

 

「おはよう、綾花。……傍に誰もいないなら、そんな仰々しい呼び方をしなくていいわ」

 

『はい、お母様』

 

 どうやら仁実は知らずのうちに夜を越してしまったようだ。

 その後二言三言、他愛も無い会話を交わし、仁実は今一番気になっていることを聞いた。

 

「兄様は、まだ調子が戻らないのかしら?」

 

『はい、残念ながら、まだ……』

 

「そう。私達に出来ることはないから、時間が解決してくれるかどうか……」

 

 ヴォバンに囚われた弟子の魂を解放し、海人はそれを嬉しそうに語っていた。その時は気分も良かったのだが、しかし段々と落ち込んできていた。原因もわかっているが故に、仁実も心配していた。

 仁実達に出来ることもあるにはあるが、それは一時しのぎにしかならないことだ。

 

「引き続き、兄様の傍にいてあげて。あの人を引き止められるのは、多分あなただけだから」

 

『はい、承知しました。……それともうひとつ。お伝えしたいことが』

 

「何かしら」

 

『正史編纂委員会から連絡があり、お父様と話がしたい、と』

 

「兄様に?」

 

 海人に伝えたいことがあれば綾花に言伝を、と何年も前から取り決めがあったはずだ。

 綾花を挟まずに直接会話がしたい訳とは……。仁実は訝しんだ。

 

『内容は知りません。けどお父様と話したがっている相手は、草薙護堂様だと言っていました』

 

『草薙護堂! ますます分からないわね……」

 

 仁実は名前を聞いて驚いたが、すぐに眉をひそめた。

 草薙王は戦を好まない性格だと聞く。いまさら同胞の先達に挨拶に来るわけでもあるまい。

 

 しかし只の人間なら突っぱねることもできたが、カンピオーネの頼みならば易々と断ることもできない。

 

『如何いたしましょう、お母様』

 

「……」

 

 しばらく考え込んだ後に、仁実は口を開いた。

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 海人の神獣達がいつも集まる、海に突き出た堤防の先。そこで海人は大きなため息を吐いていた。

 何もやる気が起きない。

 東京から帰ってきてから数日間は達成感に満たされていたが、それも日に日に冷めていき、ここ数日は怠惰な日々が続いている。

 

 海の中を海人の神獣が泳ぎまわっている。それを海人は眺めていると、座っている堤防の近くの水面からデルピノスが顔を出した。

 

『海人様、次は何処に行くっすか? 西っすか、南っすか。それとも東っすか?』

 

「そうだな……」

 

 海人は上の空で返答した。デルピノスは他の神獣とは違い、戦闘能力ではなく脳が発達している。人間の様に考え行動できるデルピノスは海人と会話もでき、海人の造った神獣の指令塔でもある。

 二人が話し合っているのは、次の旅の行き先だ。海人は神獣を連れて、見たこともない世界を船ひとつで冒険してきた。

 デルピノスは海人を元気付けようと話題をふったのだが、海人の反応は芳しくない。めげずにデルピノスは続けた。

 

『アメリカには自由の女神も、ハリウッドも見に行ったっす。イギリスのロンドン塔も、フランスのエッフェル塔とモンサンミッシェルも、エジプトのピラミッドとサハラ砂漠も、エルサレムの岩のドームも、インドのタージ・マハールも、中国の万里の長城も、北極でのオーロラも、南極での白夜も、どれも楽しい思い出っす。皆魚だから表情は変わらないっすけど、ウキウキして身を弾ませてるっすよ!』

 

「そうか……。そうだな……」

 

 海人は若干乗り気になり、デルピノスはほっと胸をなでおろした。

 だが、その後の話し合いは難航した。目的地が決まらなかったのだ。

 神獣達を目立たせないために海沿いであることが条件なのだが、何も見ないのでは海人の知識にも限りがある。

 

 決定は難航し、遅々として進まなかった。そのため海人の行きたい場所の候補を決めてから、再び話し合おうという事になった。

 その時、海人を呼ぶ声が響いた。

 

「海人様ー!」

 

 声のした陸の方角を、海人とデルピノスが揃って向いた。堤防の上を綾花が手を振りながら歩いてくるのが見えた。

 

「どうした、綾花!」

 

 やがて綾花が二人の近くに着くと、持っていた者を海人に差し出した。

 

「携帯電話は持っていますか? 電池が切れていたら、この携帯充電器で充電してください」

 

「ああ、携帯か。持っているぞ。デルピノス、出してくれ」

 

『了解っす』

 

 海人に言われ、デルピノスが口からぽろっと携帯電話を落とし、それを器用に口先で咥えて差し出してきた。

 綾花はぎょっと驚き、海人は淡々と携帯電話を受け取った。

 

「ど、何処に携帯を持っているんですか!?」

 

「いいじゃないか。こいつの腹の中が、濡れないし、手が届きやすい。……立ち上がったが、電池が切れかけているか」

 

 海人は充電器を受け取り携帯差し込むと、携帯の画面に視線を落とした。携帯の画面には不在着信が五件あった。

 一ヶ月前に二件、三日前から一日おきに別の場所から三件。どちらも発信元は不明だった。海人の携帯の番号を知っている人間は限られており、それこそ仁実と綾花しか知らないはずだ。

 横から綾花が画面を覗き込んできた。

 

「一ヶ月前の二件は、私が助けていただいた正史編纂委員会の方の携帯電話から連絡したものです」

 

「そうなのか。悪かったな。普段はこうしてデルピノスに預けているんだ」

 

「助けていただいたので気にはしていませんけど、すぐに取れなければ携帯電話の意味がないですよ。……それで、残りの着信ですけど」

 

 その時、海人の携帯の着信音が鳴った。三日前から一日おきに連絡してくる、不通知の番号だった。

 海人と綾花は一度見合わせると、綾花が頷いた。海人は通話のボタンを押した。

 

「……安東海人だ」

 

『あっ、ようやく繋がった。……お久しぶりです。草薙護堂です』

 

「草薙護堂? ああ、後輩か。よくこの番号がわかったな」

 

『はい、甘粕さん……。正史編纂委員会の人に教えてもらったんですよ』

 

 正史編纂委員会の人とは、おそらく綾花を助け出した者のことだろう。それなら知っていてもおかしくはない。

 

「タメ口でいいぞ。後輩とは言ったが、敬語で話す必要はねぇ。いつかどうせ戦うことになるんだしよ」

 

『……あんたも、ドニのような事を言うんだな。もしもまたまつろわぬ神や他の神殺しがいない場所で出合ったら、あんたともそうなるのか?』

 

「今はまだ、その時じゃない。お前に借りがある。綾花を助けてもらったという借りがな……。その借りを返したなら、そうなるかもな」

 

『……じゃあ、今からその借りを返してもらうってのは、どうだ?』

 

「俺に何を要求するんだ? 言ってみろ」

 

『俺と、あと女子が一人。かくまってもらいたいんだ』


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