レイフォンはゆっくりと目を開けた。
そのまま目だけを動かし、周りを確認する。
ベッドは三つ並んでいて、中央のベッドに自分は寝かされている。部屋の隅にはパンパンに膨れ上がったスポーツバッグが置いてあった。
そのスポーツバッグに、レイフォンは見覚えがある。
それは紛れもなく自分がこの合宿のために準備した宿泊用の衣類などを詰め込んだスポーツバッグ。
つまり、寝かされている部屋は自分の部屋。
レイフォンは身体を起こそうとして、首筋に走った痛みに顔を歪めた。ベッドに仰向けに倒れこむ。剄を身体中に意識的に巡らせる。
「……あ、そうか。僕はルシフに負けたんだ」
負けた悔しさは別になかった。
やっぱりかという納得だけが心にあった。
勝てる見込みがゼロに近かったのは分かっていたし、ルシフに勝つイメージすらできなかったのに現実で勝てるわけがない。
これで分かった。
ルシフはもう僕がどれだけ努力しても届かない高みに上っている。僕だけじゃルシフが暴走した時、ルシフを止められない。
そこまで思考して、部屋の扉が無造作に開けられた。ノックも無しだ。
レイフォンは視線を扉の方に向けた。そこにはフェリが立っている。
「気が付きましたか?」
「ええ、たった今」
フェリはレイフォンが寝ているベッドまで近付いた。その手には、白い布がかけられている水が入ったバケツを持っている。
フェリはバケツの水に白い布を浸し、ぎゅっと布を絞って余分な水を布から抜く。
「頭、少しいいですか?」
「はい」
レイフォンの頭を少し上げ、フェリが首筋に布を当てた。首にひんやりとした感触が伝わってくる。気持ちいいと、素直に思った。
布を首筋に当てたら、レイフォンの頭からフェリは手を離した。
フェリはレイフォンの顔をじっと見つめる。
「……あの? 先輩?」
「フォンフォン。二人の時は呼び捨てで呼ぶと決めた筈ですが」
確かに老性一期と戦う前の移動の時、強引にフェリがそう決めた。
フェリも自分をあだ名で呼んでほしいと言って、レイフォンは色々あだ名を考えたが、結局最後は名前を呼び捨てで呼ぶだけでいいとなった。
「すいません。えーと……フェリ」
身体は十二才くらいの大きさでも、フェリは自分よりも年上。
呼び捨てで呼ぶのは未だに慣れない。
「あなたは本当にバカですね」
「いきなりそれ!?」
「こうなると薄々分かっていたんでしょう? それなのに、わざわざ自分から傷付くような真似をして、これがバカじゃなくてなんなんですか」
「むむむ……」
「何がむむむですか! まったく! 『僕は君を倒す』とかカッコいいこと言ってたくせに。新しく編み出した剄技は大したことなかったようですね」
結果だけを見れば、レイフォンの新しい剄技はルシフの頬を浅く切っただけで終わった。弱い剄技と思われても仕方がない。
「ああ、実はその剄技、失敗したんです。少し剥がしただけで終わっちゃいました」
「失敗? なら、成功していたらルシフに勝てたんですか?」
「ええ、多分。ただ、ルシフとは一生成功しないと思いますが」
「駄目じゃないですか」
「まぁ、そうですね。でも、周囲に女王陛下や天剣授受者が複数いたら、ルシフに勝てるかもしれません。もっとも、彼らが僕に協力してもらうこと前提ですが」
しかし、女王陛下も天剣授受者も我が強い。自分に協力する可能性は高くないだろう。良くて半々。あるいは、ルシフがお互いにとって倒すべき『敵』にならない限り。
できれば、そんな日は来てほしくない。
最初の頃は、なんてイヤな奴だと思った。力を誇示して周囲を威圧し、あるいは屈服させ、己の欲を通す。他人が何を思おうが、どうなろうが知ったことではないという態度。
その印象が変わってきたのは、ツェルニに汚染獣三体が襲来した時のルシフの行動を映像で観た後。
ルシフにも都市に住む人々を守ろうとする意思があったんだと、その時に気付いた。
それからはそんなにイヤな奴だと思わなくなった。たまに腹が立つようなことを言ったり、他人を好き放題振り回すところに苛立ちを覚えたりしたが、それでも最初よりは印象が良くなってきている。
「……私には分かりません。なんであなたはルシフに勝とうとするんですか? しかも武芸で。あなたは武芸以外の道を探したかったんじゃないんですか?」
フェリがレイフォンを責めるように無表情で睨んでいた。
同じ思いを持つ者同士だった二人。
フェリはレイフォンに裏切られたと感じているのかもしれない。
レイフォンとて、武芸以外の道を探すのを諦めたわけではない。
レイフォンが武芸をするのを快く思わない者はグレンダンには大勢いて、武芸以外の道を見つけるのがレイフォンにとっても、彼らにとっても最良なのだ。
ただ、なんとなくではあるが、いつかルシフとぶつかる日が来ると思っている。
レイフォンには一つ懸念があった。
それは、ルシフがアルシェイラにボロボロにされたこと。
ルシフの性格からして、負けたままで終わらす筈がない。いつか力を付けて、グレンダンに天剣を奪いに行くとも言っていた。
今のルシフが、グレンダンを戦場に女王と天剣授受者を相手にする。
正直な話、あの時のように都市の被害を考えず、都市そのものを消し飛ばすような技をルシフが暴走して使うイメージしか思いつかなかった。
グレンダンには守りたい人たちがいる。
だから、ルシフが暴走する前に倒さなければならないのだ。その日が来るまでに、武芸の実力を高めなければならないのだ。
「せんぱ……フェリは、ルシフのことどう思います?」
「力で自分のわがままを通す、最低な男だと思います」
フェリの容赦ない言葉に、レイフォンは苦笑した。
「確かに、なんでも力で思い通りにしようとする奴です。だからこそ、僕の大事なものを力でどうにかしようとした時に、なんとかして止めたいって思ったんです」
「……フォンフォン?」
フェリがレイフォンの顔を訝しげに見つめた。
レイフォンはフェリの視線に気付き、いつの間にか強張っていた表情を和らげる。
「え~と、あくまで万が一の場合ですから、そこまで真剣に考えてるわけじゃないですけど」
「……そうですか。隊長から伝言があります。夕食まで安静にしていろ、とのことです」
「分かりました」
フェリはバケツを持ち直して、レイフォンの部屋の扉に向かって歩く。
扉の前で、フェリが立ち止まった。
「フォンフォン、その万が一が来ないといいですね。多分あなたでは、ルシフを倒せないと思いますから」
「……それは僕自身がよく分かってますよ」
フェリは扉を開け、レイフォンの部屋から出ていった。
レイフォンはなんとなく天井を眺めた。
──ルシフに『勝てない』じゃなくて、『倒せない』……か。
レイフォンはしばらくそうしていたが、やがて目を閉じて自身の体力回復のために眠った。
◆ ◆ ◆
広いキッチン。
黒髪の少女──メイシェンがエプロンを身に付けて黙々と野菜を洗っていた。
メイシェンの目は若干涙目。
──なんでこんなことに……。
おかしい。
ナッキとミィの話では、第十七小隊の中で料理ができるのはレイとんだけらしく、一緒に料理ができるかもしれないと教えられた。
メイシェンはそぉ~と自分の隣にいる人物を見る。
赤みがかった黒髪に赤の瞳──ルシフ・ディ・アシェナがメイシェンと同じように野菜を洗っていた。
おかしい。何この状況。
メイシェンはありったけの勇気を振り絞り、口を開いた。
「あの……なんでここにいるんですか? みんなと訓練……しなくていいんですか?」
「今日はもういい。アルセイフと闘ってそれなりに楽しめたからな。だから、今日はアルセイフに前の借りを返すために料理を作ってやることにした」
「借り……ですか?」
「ああ。廃都市探索任務の時に奴に助けられた。その時の借りだ。
それはそうと、お前は何の料理を作るつもりだ?」
ルシフがメイシェンの方に目をやり、メイシェンはしどろもどろになった。目線をあちこちに彷徨わせる。
「え……っと、シチュー……と、鶏肉の香草蒸し……です」
「ふむ、シチューと鶏肉の香草蒸しか。なら俺は、オムライスとサラダを作ろう」
「あ……」
メイシェンは涙目で顔を俯けた。
ルシフは怪訝そうな表情になる。
「どうした?」
「……えっと、わたしだけじゃそこまで作れないって思って……パン……準備してて……」
ルシフはメイシェンの言葉に合点がいき、一つ頷いた。
「成る程な。なら、オムライスは明日にしよう。今日はそのパンでハンバーガーを作ることにする」
メイシェンは目を丸くした。
「……ハンバーガー……って何?」
「ああ、お前は知らないか。軽く焼いたパンの真ん中を切り、その間に肉や野菜を入れて挟む……サンドイッチのような料理だな。だが、ハンバーガーはその名の通り、肉をいかに美味くパンで食べるかを考えた料理。サンドイッチとはまた違った味と食感だ」
「へぇ~」
メイシェンは見たことも聞いたこともない料理に目を輝かせた。
「ハンバーガーならフライドポテトもいるな。サラダはレタスサラダにするか」
二人は本格的に調理に入った。
料理ができる人間らしく、要領よく下ごしらえをしていく。
メイシェンは鶏肉に塩をふって揉んだり、野菜を食べやすい大きさに包丁で切っていた。
ルシフは牛肉を包丁で細かく刻んだり、トマトや野菜を薄切りにしていた。
メイシェンはルシフの料理慣れした動きに驚いた。
それに、料理している姿も不思議とルシフは様になっている。場違いの筈なのに、そんなこと一切思えない。
だからこそ、メイシェンは複雑な気持ちになった。
この動きが一朝一夕で身に付く動きではなく、料理に真剣に向き合った人間だけがたどり着ける動きだと、メイシェンは理解できるからだ。
料理が嫌いなら、こんなにも楽しそうに料理はできない。
「あの……ルッシーは料理、好きなんですか?」
「ああ。奥が深いからな」
ルシフはじゃがいもを半分に切り、それぞれくし切りで六等分していた。
「奥が深いから……好き?」
「料理には明確な正解がない分、どこまででも突き詰められる。その試行錯誤が楽しい」
「わたしも……好きです。美味しくしたいって気持ちを込めれば込めるほど、料理が美味しくなっていく気がするし、美味しそうに料理を食べてる人見ると、こっちも嬉しくなるから……あ、ごめん……なさい。一人で興奮して……」
メイシェンは顔を赤くした。
「いや、いいんじゃないか。そこまで熱中できるものがあるのは素晴らしいことだと思う」
「……そうかな」
「そうだ。この俺が言うのだから、間違いない」
ルシフのどこまでも自信満々な言葉に、メイシェンは微かに笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
それからしばらく無言で二人は調理に専念した。
そして、もうすぐ調理が終わるところで、メイシェンは口を開いた。
「……今のルッシーは……怖くないね」
「うん? 何を言っている?」
「わたし、料理好きな人に悪い人はいないって思ってて……でも、ルッシーはいつも怖い雰囲気だから、なんで今みたいに怖い雰囲気を無くさないのかなって。そうやって怖い雰囲気でいても、周りの人が離れるだけだよ」
「別にお前には関係ないだろう」
「関係……あるよ。わたしだって、できたらミィみたいにルッシーと話したいもん。でも、怖いの。怖くてたまらないの。どうしてなの? どうして今のルッシーみたいに、怖い雰囲気を無くさないの? 周りの人を無意味に怖がらせるの、止めてください」
メイシェンは剄を使えない。
だから、ルシフの威圧的な剄を正確に感じられないが、それでもなんとなくは感じられる。
メイシェンは今回料理をルシフと一緒にして、ルシフが普段身に纏っている威圧的な剄はわざとやっていると確信した。
「──無理だ」
メイシェンは驚いて目を見開いた。
「……どうしてですか?」
「必要だからだ。俺の目指すもののために」
「周りから怖がられるのが必要なことってなんです?」
「それをお前が知る必要はない」
「……そう。なら……もう何も言いません」
やはり、この人は好きになれない。
メイシェンはそれきり口を一切開かず、作った料理の盛り付けを始めた。
◆ ◆ ◆
訓練が終わり、夕食の時間。
全員が広いテーブルの席についている。彼らの前にはそれぞれシチューに鶏肉の香草蒸し、ハンバーガー、フライドポテト、レタスサラダが置かれていた。テーブル中央にはパンが盛られた皿。
誰もがごくりと生唾を飲み込んだ。
「え……と、シチューと鶏肉の香草蒸しはわたしが作りました。ハンバーガーっていうのと、フライドポテト、レタスサラダはルッシーが作りました」
「何!? ルシフ、お前料理ができたのか!?」
ニーナは絶句した。
「俺はなんでもできるからな、基本的に」
「もし足らなかったら、中央にあるパンを食べてください」
「ああ、了解した。ありがとう。じゃあ、せっかくの料理が冷める前にいただこう」
ニーナの言葉を合図に、全員が目の前の料理を食べ始める。
ニーナは紙に包まれたハンバーガーを手に取った。肉やチーズ、野菜に黄色と赤色のソースがかけられ、パンに挟まれている。
(これは……サンドイッチみたいなものか?)
ニーナはハンバーガーをひとかじり。
「んッ!?」
あまりの美味しさに、ニーナは思わず声が出た。
軽く焼かれたパンの柔らかく香ばしい食感。
次に、肉の柔らかくもしっかりとした食感がニーナの口に広がる。脂を含んだ肉汁が口の中にとろけ、シンプルに味付けされた塩と香辛料が、肉の味を殺さず肉の旨味を更に引き出していた。
そして、甘酸っぱいソースで味付けされた野菜が肉の味を引き立て、とろけたチーズがそれらにアクセントを加える。
口の中で挟まれた具材が絶妙に調和し、変化していく食感と味を十分に楽しんだ後、ニーナはゆっくりと飲み込む。
今、ニーナを満たしているのは満足感。
こんな料理を、まだまだ楽しめる。本当に幸せだと思う。
ニーナはちらりと周りを見た。
誰もが最初にハンバーガーを食べたらしく、紙包みを手に持って満足そうにため息をついていた。
やはり、誰もがこうなるか。
正直、ここまで美味しい料理はツェルニに来てからは全く、自分が育った都市でもあるかないかといったレベルだった。
ルシフがこれを作ったというのは信じがたいが、もし本当なら神は一体いくつ才能をルシフに授けたのか。
ニーナはハンバーガーを皿に戻した。一気に食べてしまうのはもったいないと思ってしまったのだ。
ニーナは箸でフライドポテトを一つつまむ。フライドポテトの皿の隅にはケチャップがある。
──さすがに、これは誰が作ろうと差はそんなに出ないだろう。
ニーナはとりあえず塩だけで味付けされたフライドポテトをそのまま口に入れる。
ニーナは数秒前の自分をぶん殴りたい気持ちになった。
全く違う。
最初にカリッとした食感。そして、口の中でポテトがほろほろととける。ポテト本来の甘みと塩のしょっぱさが口の中を満たしていく。シンプルであるが故に、ポテトの味と食感を存分に味わえる、素晴らしい出来のフライドポテト。
次にニーナはケチャップを付けて、フライドポテトを食べる。
「ッ……!?」
これは反則。
甘みとしょっぱさに甘酸っぱさが加わり、更にポテトを味わい深いものにしている。
これがフライドポテト……だと?
なら、今まで食べてきたフライドポテトはなんだったんだ?
これを食べた後に今まで食べてきたフライドポテトを思い出すと、それらがポテトを冒涜しているようにさえ思えてしまった。
──いかんぞこれは……。本当にいかん。
ルシフ……なんて恐ろしい男だ。
料理一つで価値観すら崩壊させるほどの衝撃を与えるとは……。
瞬く間にテーブルから料理がなくなっていく。
ルシフの料理にも負けず劣らずのメイシェンの料理も大好評だった。
テーブル中央にあったパンも全部無くなっていた。シチューがパンの最高の味付けになったのだ。
テーブルの上にあった料理は全て平らげられた。
「ごちそうさまでした」
ニーナは両手を合わせた。
「いや~、最高の夕食だった。ルシフ、お前がまさかここまで料理上手だとは思わなかったぜ」
シャーニッドは満足そうに腹を右手で軽くさすっている。
「久しぶりに大将の料理を食ったが、やっぱ一番だわ」
「本当に美味しかったよルシフちゃん! 洗い物は私がするね」
バーティンがテーブルの上の空いた皿をキッチンに持っていく。
マイもバーティン同様に空いた皿を手に持った。
「私も手伝います」
皿を持って奥の方に消えていく二人をナルキとミィフィはテーブルに座って眺めていた。
「わたしも手伝ってこようかな。色々あの二人からルッシーについて話を聞きたいし!」
「わたしは遠慮しとくよ。メイもいるし、あまり大人数でも手持ちぶさたになるだけだしな。シャワー浴びてくる」
こうして、合宿初日は終了した。