苦手な方はご注意ください。
第46話 魔王の決意
拝啓。
夜が涼しくなり、過ごしやすくなってまいりました今日この頃、親父様はいかがお過ごしでしょうか。私はと言いますと、狭い部屋に三人押しかけてきてくっそ暑いです。なんで私はいつも貧乏くじを引かされるのでしょうか。
ゴルネオは自分の不幸を呪いながら、強張った表情で床に正座していた。グレンダン出身の武芸者なら、当然の行動である。
天剣授受者が三人、ゴルネオの部屋にいた。その内の一人はよく知る人物だが、ゴルネオにとってそれは幸運ではない。むしろ不運といってもよかった。
「やぁ、ゴル。大きくなったねぇ」
親戚の叔父が言うような言葉を、サヴァリスは言った。
ゴルネオの顔に汗の玉が浮かぶ。
「兄さん。どうしてここに?」
「ゴル、何を言ってるんだい? 君は手紙になんて書いた?」
ゴルネオははっとした表情になる。
「まさか、廃貴族を手に入れるために? ルシフと、闘うのですか?」
「ま、そうなるかなぁ。ただ、どうも僕の予想以上に手強そうなんだよ」
サヴァリスは楽しそうに笑っている。他の二人は深刻そうな顔をしていた。
「手強いどころではあるまい。我ら三人が束になっても捕らえられぬかもしれん」
「それどころか返り討ちにされるかも……」
ゴルネオはサヴァリス以外の二人の顔にも、見覚えがあった。女王陛下と並んで立っている姿を、遠目から見たことがある。女がカナリス。男がカルヴァーン。確か、それで正しかった筈だ。遠い昔の記憶のため、確信は持てなかった。
「兄さん。俺は見た。ルシフが、都市を一撃で消滅させるのを。それも、ツェルニほど大きな都市だ。兄さんが化け物みたいに強いと思っているのは今も変わらない。しかし、兄さんに同じことができるとは思えない」
「確かに僕にはできないなぁ。やったことないけど、半分くらいが限界だと思うよ。そうか、ルシフは都市を消滅させられるのかぁ。想像を絶するほど強いんだろうなぁ。闘うのがとても楽しみだ」
サヴァリスは強がりではなく、本心でそう思っているようだった。
ゴルネオには、何故負けると分かっている闘いを楽しめるのか理解できなかった。
「五体満足でいられないかもしれません。ルシフと闘えば。最悪、殺されるかも。兄さんに、そんな目に遭ってほしくない」
「あはは、ゴルは優しいねぇ。兄らしいことはしてこなかったから、嫌われてると思ってたけど」
「……別に、嫌ってなどいません」
嘘ではなかった。自分は兄を嫌っていない。苦手なだけだ。
「ルシフから廃貴族を回収する。これは陛下直々の命なんだよ。何故、陛下がこの任務に天剣を三人もあてたか分かるかい?」
「……いえ」
「カナリスさん、弟に説明してあげてください」
カナリスは不愉快そうにサヴァリスを睨んだ。サヴァリスは笑みを浮かべたままだ。兄のことだ。話すのが面倒になってきたのだろう。こういうところは昔と変わらない。
カナリスがため息をついた。
「あなたは陛下がツェルニにいらっしゃったのを知ってる?」
「知りません」
「ルシフが入学してそれほど日が経っていない頃、ルシフが重傷を負ったときがあった筈よ」
「……そういえば、ルシフが入院していた時がありました。ルシフに個人的な感情をもっている他都市の武芸者がやったと生徒会長は言っていましたが、陛下だったのですね」
女王陛下ならば、ルシフに重傷を負わせるのも容易いだろう。陛下の強さは今のルシフと同じく、底が見えない。
「ここでのポイントは、陛下がルシフに重傷をお与えになったことじゃないの。ルシフがグレンダンを探っていたのは、諜報員からの報告でずっと前から分かっていた。にも関わらず、陛下はわざわざツェルニに入学するのをお待ちになった。意図的に、戦場をルシフの出身都市であるイアハイムでなく、ツェルニにしたのよ。それがどういう意味か分かる?」
「イアハイムで陛下がルシフと闘われた場合、陛下が負ける可能性があったということですか?」
信じられない話だが、ルシフの制裁を待った理由はそれ以外考えられなかった。
カナリスは呆れたように首を振る。
「違うわ。陛下が負けるわけないでしょ。陛下がイアハイムを戦場にしなかった理由は、イアハイムが壊れるほど激しい戦闘になると予想されたからよ。陛下は無関係な人まで巻き込むつもりはなかった」
「周りを気にする余裕がなさそうだった、というわけですか」
「ここ数年、イアハイムは優秀な武芸者を積極的に集めてる。グレンダンに次ぐ武芸の都市、とまで言われるようにもなった。諜報員から、ルシフ以外にも天剣並みの剄量をもった武芸者が二人いるらしいと報告も受けている。更に、天剣に及ばないまでも、それに迫る実力がある武芸者が百人近く。陛下がその気になれば倒せるでしょうけど、都市に甚大なダメージを与える可能性が高い、と陛下は判断されたの。都合の良いことに、ルシフがツェルニに入学する情報は手に入れていた。だから邪魔が少ないツェルニで、ルシフに制裁を与えることに決めたの。レイフォンという不確定要素はあったけど、レイフォン一人程度なら、ルシフの味方をしても都市に被害を出さずに倒せる計算だった」
「そういうことですか」
わざわざイアハイム以外の都市で闘うほど、イアハイムは闘いづらい都市と陛下が判断されている。その判断は、陛下が脅威と感じている裏返しでもあった。
「さて、ここからが本題」
カナリスが仕切り直しの意を込めて、一度手を叩いた。
「イアハイムに今どれだけ戦力が集まっているかは理解できたわよね? それに加え、陛下に匹敵する力とまで言われている廃貴族の力を、ルシフが使いこなしたらどうなるか……分かるでしょ?」
「グレンダンにとって無視できない脅威になると?」
「その通り。万が一、ルシフが陛下より強くなってしまった場合、イアハイムがグレンダンを蹴落とし、武芸者の集まる都市になる可能性がある。詳しくは言えないけど、それは世界そのものが危うくなるくらいの緊急事態なの」
話が見えてきた。
ルシフが廃貴族を手に入れると、都市のパワーバランスが崩れるおそれがあり、それを陛下は快く思っていない。
だから、勝てないからと逃げるわけにいかないのだ。何がなんでも、ルシフから廃貴族をうばわなくてはならない。
「生け捕りが難しそうなら、殺してもいいって私は考えてるわ。ルシフ以外なら、廃貴族を手に入れても脅威になる可能性は低いしね。ルシフさえ排除してしまえば、後はこっちのものよ」
ゴルネオは絶句した。
ルシフを殺す。いくらなんでも極端過ぎないか。
確かにルシフは、危うい性格をしている。だが、バカじゃない。世界が危うくなると知れば、ルシフは協力する筈だ。敵対することにメリットはない。問題はただ一つ。世界が危うくなるなどという突拍子もない話を信じるか。そこだけがネックであり、同時に一番難しいところでもあった。
「ちなみに、ルシフを殺す方法は考えているのですか?」
「一番確実なのは毒ね。食べ物か飲み物に毒を入れるの」
「それはさすがに……」
卑怯、というより外道すぎないか。
武芸者と思えない発言に、ゴルネオは嫌悪感を覚えた。
それに、一体どうやって毒を入れるつもりなのか。
おそらく三人とも、ルシフと面識がない。そんな人物から理由もなく食べ物や飲み物を渡されるのは、不自然極まりない。
「一人の命で世界が安定するのよ。迷う必要なんてないわ。ちなみに、毒入りの食べ物か飲み物を渡すのはあなたの役目よ」
「え゛っ!?」
「何驚いてるの? 私たちの存在をツェルニの住民に知られるわけにはいかないから、あなたしかいないじゃない。安心して。あなたは立派だったって陛下にちゃんとご報告するから」
ゴルネオは最後の言葉を聞かなかったことにして、思案する。
天剣三人はどうも、正規のルートでツェルニに来ていないようだ。違法滞在という形になっているため、存在がバレれば即ツェルニから退去するよう命令されるだろう。
ツェルニの住民たちとなるべく波風立てないようにしたい、と天剣三人は考えているようだ。
「そう言われましても……兄さんからも何か言ってください」
「正直、僕も毒なんてやり方は反対だけどねぇ。でも、ルシフが死ねば廃貴族はフリーになるわけじゃない? 陛下に匹敵する廃貴族の力、使ってみたい気持ちもあるんだよ。だから、別にどっちでもいいかなぁ。どっちも面白そうだし」
ゴルネオは頭を抱えた。
そうだ。兄はこういう人間だった。
サヴァリスがゴルネオの肩をぽんと叩いた。
「ま、いつまでになるか分からないけど、僕たちはそれまでこの部屋に厄介にならせてもらうよ。別に構わないよね?」
「……ハイ」
断るという選択肢はなかった。
親父様。もう二度と、私は親父様の顔を見れないかもしれません。
追伸。
私の胃がストレスでマッハです。
◆ ◆ ◆
リーリンは病院にいた。
レイフォンの右腕骨折の治療のためだ。
レイフォンの右腕はギプスに固定され、包帯でぐるぐる巻きにしてある。
リーリンとレイフォンは待合室のソファに隣同士で座っていた。
「そういえば訊きそびれてたんだけどさ」
「何?」
「いつ、リーリンはツェルニに来たの? 武芸大会が近いから外の警戒はしっかりやってたし、他都市や放浪バスの情報も生徒会長が教えてくれたけど、マイアス以外にツェルニに接近した都市や放浪バスは聞いてないんだよね」
「そ、そうなんだ」
リーリンはニコニコと演技のようなあからさまな笑みをしている。
リーリンの内心は複雑だった。
リーリンがツェルニに来た方法は、通常の方法ではない。極一部の武芸者しかできない方法だった。
その方法とは、マイアスからエアフィルターすれすれまで跳び、自由落下でツェルニに着地する方法。
武芸大会の真っ只中だったため、念威端子は飛び交っていたが、さすがにエアフィルターすれすれのところまで探査しようとは思わない。誰にも気付かれず、天剣三人と自分はツェルニに入れただろう。
天剣三人から、存在は秘密にしてくれと頼まれていたため、天剣三人についてリーリンは一切話すつもりがなかった。
天剣三人の情報を抜き、かつ辻褄が合うようにレイフォンに説明しなければならない。
「実はツェルニに向かう途中、マイアスに滞在することになったの。レイフォンも知ってると思うけど、行きたい都市に行くためには都市をいくつか中継しないといけないから」
レイフォンは頷いた。
レイフォン自身、ツェルニまで行くのに交通都市ヨルテムと二、三別の都市を中継している。
「それで、マイアスに滞在している時にツェルニと武芸大会が始まったの。ツェルニがわたしの行きたい都市だったから、このチャンスを逃して何週間も待つのはバカらしいって思って、マイアスからツェルニまで走ってきたの」
「武芸者同士で争う中を突っ切ってきたの!? 無茶するなぁ。怪我したらどうするのさ」
リーリンは、たまに驚くほど強情で大胆な行動をする時がある。ルシフをビンタしたのもそうだが、もう少し自分の身を大切にしてほしい、とレイフォンは思う。
「ご、ごめん」
「まぁ、怪我がなくて良かった」
「うん」
リーリンは申し訳なくなり、顔を俯けた。
少しの間、沈黙が訪れた。
「ねぇ」
リーリンがずいっとレイフォンに顔を近付けた。
「手紙に書いてあった人たちのこと、教えてよ」
「ああ、うん。分かった」
「あっ、その話する前に一つ訊きたいんだけど」
「何?」
「どうして手紙に書かれている人全員、女の子なのかな……?」
「えっ!? べ、別に深い意味はないよ!」
「女の子はべらせて、楽しい?」
「そんなんじゃないってばッ!」
「あはは、冗談冗談。それじゃ、教えてね」
「うん。まずは──」
レイフォンの話を聞きながら、リーリンは迷っていた。
養父のデルクから預かった錬金鋼を渡すために、ここまで来た。
しかし、渡してしまえば、自分はツェルニにいる理由が無くなる。
もっとレイフォンの近くにいたい。
そんな思いが、錬金鋼を渡すのを躊躇わせた。
まだ、覚悟もできていない。
もしレイフォンが錬金鋼を受け取らなかったら。レイフォンが今さらなんだと怒ったら。自分はそれを、受け止められるか。
自信は全くない。だから、自信がつくまでは、このままで。
それが逃げと理解しつつも、リーリンは逃げ道を走った。
◆ ◆ ◆
ルシフは部屋のリビングのソファでくつろいでいた。
今は武芸大会翌日の夜。
頭痛は未だにおさまらない。マイが自害しようとした瞬間を見た時からずっとだ。
ルシフがコップを手に取り水を飲んでいると、部屋の呼び鈴が鳴った。
ルシフが玄関を開けると、マイが立っていた。
ルシフの目が凍りついた。
「ルシフ様、こんばんは。部屋にあがってもよろしいですか?」
「あ、ああ」
マイがテーブルの椅子に座る。
ルシフも向かい合わせで座った。
「マイ、一つ訊きたい」
「はい」
「首の火傷の跡、消せなかったのか?」
ルシフが驚いたのはそこだった。
ツェルニの医療技術なら、火傷の跡を消すくらいできる筈なのに、消えていない。これは一体どういうことなのか。
マイは笑みを浮かべた。前と全く同じ笑顔の筈なのに、どこか陰がある。
「いいえ、私が消さなくていいって言ったんです」
「何故だ?」
「だって、この火傷の跡は、ルシフ様が私を必死に助けようとしてくださった証です。消すなんて、そんなことできませんよ」
「そんな跡がなくても、俺はお前を大切に想っている」
「ルシフ様。この火傷の跡は、ただルシフ様から助けられた証というだけじゃないんです。私はルシフ様のものなんだと、この火傷の跡を見るたびに実感できるんです」
マイの火傷の跡は、正面から見ると赤い首輪のように見えた。手で首を掴んでいたから、そういう形の跡になってしまった。
以前のマイだったなら、火傷の跡を消していただろう。自分の身に傷跡を残すなど、許せなかった筈だ。
やはり、どこか違和感がある。
「ルシフ様……私を抱いてくれませんか?」
甘い吐息が耳を突き抜けていった。
「…………は?」
ルシフは自分の目を疑った。目の前で起こっていることが理解できない。
マイが服を脱いでいた。下着も何もかも全て。
マイは一切身体を隠していなかった。色白で綺麗な身体をしている。女の裸は見慣れていたが、それでも頭に甘い痺れのようなものがはしった。
ルシフは咄嗟に視線を逸らした。
ルシフの方に、マイが歩み寄る。
ルシフの右手を取り、マイは自分の胸を触らせた。
柔らかいが、しっかりとした弾力がある。
頭に血が上っていくのを自覚した。
「私がルシフ様のものだと、今度は私の中に刻みつけてほしいんです。それに、ルシフ様も四ヶ月以上溜め込んでお辛いでしょう? ルシフ様はお一人でできないって聞きましたから」
「……ちょっと待て。誰がそんなこと言った?」
確かにルシフはマスターベーションというものをしたことがない。
理由は至ってシンプルで、女が都市にいるのになんで一人でやらないといけないのか、という大半の男が嫉妬で怒り狂う理由。
だが、これは誰にも言ったことがない。他人が知れる筈がないのだ。
「細かいことは、別にいいじゃありませんか。さあ、ルシフ様も早く脱いで……」
「マイ、ツェルニは学園都市だ! そういう行為は固く禁じられている! 子供ができたら困るからだ! だから無理だ! 分かったら、服を着ろ!」
マイは首を傾げた。そして、頷く。
「ああ、そういうことですか。でしたら、子供ができないやり方ならよろしいですね?」
マイの両手の指が、太ももから股間へと這っていく。
「私が、口と舌でします。ご安心ください。お部屋は汚しません。出されたモノは全部飲みます。ですから、ルシフ様は私に何もかも任せてください」
ルシフはマイの両手を掴み、股間からどけた。
立ち上がり、上着を脱いでマイの頭から被せる。
「とりあえず、それで身体を隠せ。女が自分を安売りするな。俺は恥じらいのない女は嫌いだ」
「あ……ご、ごめんなさい、ルシフ様! 私、ルシフ様にもっと必要とされたくて……。お願いですから、嫌いにならないでください」
ルシフはため息をついた。
「マイ。そんなことをしなくても、お前は俺にとって必要な存在だ。嫌いにもならない。
火傷の跡を消したくないのも分かった。だが、人前に出る時は布か何かで隠せ。跡が見えると、周りに余計な気を使わせる」
「分かりました」
マイはうなだれている。落ち込んでいるように見えた。
ルシフの視線が、自然と下にいく。ちらちらと見えるマイの裸がルシフを刺激した。
ルシフがマイに背を向ける。
「俺はちょっと出かけてくる。落ち着いたら、自室に帰れ」
「はい」
ルシフは玄関を開け、自室から消えていった。
マイ一人になったルシフの部屋。笑い声が響いた。
「ふふふ……やっぱり、ルシフ様は他の男どもと違う」
マイは顔を上げた。嬉しそうな笑みをしている。
──すまないな。本当はお前を抱きたかったが、お前を大切にしたいんだ。
「分かってるよ、ルシフ様。また今度……ね」
マイは右手の人差し指の先端を舌で軽く舐めた。
◆ ◆ ◆
ルシフがツェルニの外縁部を走っている。外縁部に沿って走っているので、大きな円を描いているような形になっていた。殺剄で剄を極限まで抑え、内力系活剄による肉体強化は一切していない。鍛えるためではなく、疲れるために走っていた。
マイの身体ととろけるような言葉が、脳に焼き付いて離れない。
感情が昂っている。あのまま部屋にいたら、興奮がいつまでも冷めず、眠れなかっただろう。
走りながら、色々なことを考えた。
マイは元に戻ったように見えて、何かがおかしくなっている。以前にも遠回しに何度か誘惑してきたことはあるが、返事を聞く前から服を脱ぐなんてしなかった。誘惑の仕方も冗談を言うような軽さがあり、断るのが容易だった。
しかし、さっきのマイは冗談交じりに誘惑するのではなく、ストレートに誘惑してきた。本気で言っていた。
これは自分の予想でしかないが、マイはずっと昔から自分と関係を持ちたかったのだろう。しかし、本気で誘惑すると、俺との関係が悪くなってしまうかもしれないと不安だった。そういう理性が働き、軽い冗談で終わっていた。いわば、欲望を吐き出す前のブレーキがあった。
今のマイは、そのブレーキが壊れていると感じる。欲望を、欲望そのままに吐き出すようになっている。
おそらく、理解したからだ。汚ない部分や醜い部分をさらけだしても、俺から嫌われないと。今の関係が良くなりはしても、悪くはならないと。
正直、本心で言ってしまえば、マイを抱きたい。自分の内に燃え上がる情欲の全てをマイに叩きつけ、滅茶苦茶にしてみたい。
しかし、もしそれをしてしまったら、マイはどうなる? もっと自分に依存する。もっと自分から離れられなくなってしまう。それは、自分が望んでいる関係じゃない。
それと、マイを抱いたら、自分はマイがいるだけで満足するような、小さい人間になってしまうのではないか。昔の自分に逆戻りしてしまうのではないか。そんな不安もある。
マイに出会うまで、自分から苦労するのはバカがやることだと思っていた。勝てないものにぶつかっていって何が手に入ると、全力で生きている人間を嘲笑っていた。
その考えが壊れたのは、マイに出会った瞬間だった。
全力で生きている人間を、初めて想像ではなく実際に見た。全身を何かで打たれたような衝撃があった。
必死にもがき苦しむ姿を、羨ましいと感じた。自分も本気で生きてみたいと思った。マイは、確かに自分が持っていないものを持っていた。
出会った時のマイは、もっと強さがあった。何がなんでも自分一人の力で生きていこうとする覚悟のようなものがあった。世界という強大な敵に、全力でぶつかってやるという気概があった。
そんなマイを、俺は美しいと思った。そんなマイに、俺は惚れたのだ。
しかし、今のマイからそんな強さは微塵も感じない。
マイから強さを奪い、堕落させた。それをしたのは自分だった。マイに優しくしても、厳しくはしていなかった。だから、マイから牙が抜けてしまった。その他大勢の人間と同じになってしまった。
優しさしかマイに与えてこなかった。優しいだけでは、何も成長しないのだ。心を殺し、嫌われる覚悟を持って厳しくしなければ、心は弱くなるばかり。本当の意味で心が成長しない。
──取り戻す。
心から惚れた女を。自分が殺してしまった強さを持つ女を。
ならば、どうやって取り戻す?
全ての
今まで、自分がやろうとしたことに疑問を持ったことはない。世界を手に入れた先に、自分の望むものがあると信じていたからだ。それが揺らぎ始めていた。本当に望むものが、世界を覆した先にあるのか。自分はこのまま最後まで突っ走っていいのだろうか。
マイだけにルシフが力を注げば、マイを救うのも難しくないだろう。だが、ルシフにその発想はできない。
ルシフの不幸は、自身が誰よりも優れていると信じ込んでいる傲慢さにある。彼の強大すぎる才と自尊心は、たった一人に自身の全てを注ぎ込むことを是としない。何故なら、たった一人を救うことはその辺の凡人でもできるからだ。
一人だけを救うなどと小さいことは考えられず、どうせなら同じ境遇にいる全ての人間を救おうと考えてしまう。彼のスケールが大きすぎるからこそ生じる、途方もない理想と満たされない心。それが、本当に救いたい人や手に入れたいものを曇らせている。
自分は一体どれだけ走ったのか。
ルシフはそれすら分からなかった。ただ黙々と走り続けた。脳から、マイの裸と言葉は消えていない。消えろ。そう強く思えば思うほど、より鮮明に脳に描き出された。
ルシフは走るのを止めて、ゆっくり歩く。歩きながら、荒くなった呼吸を整えている。
しばらく歩くと殺剄を解き、剄を解放した。強大な剄が、外縁部から波紋のようにツェルニに広がった。
ルシフが目を閉じた。仮想敵に、自分を選択する。真っ暗な空間に、自分の影が浮かび上がった。
目を閉じたまま、イメージの自分と素手で闘い始める。鋭い突きを払い、蹴りをくり出す。蹴りをかわし、ひじ打ちをする。
ルシフは激しく動きつつも、目を開けた。イメージで創り出した自分は消えていない。そのまま闘いを継続する。目にも止まらぬ速さで動くイメージの自分に、付いていく。
本来の自分を壊したかった。人を傷付けて悦ぶ自身の性情を、打ち倒したかった。獣から人になりたい。人として、『王』として生きたい。ずっとそう思いながら生きてきた。
目の前の自分のイメージが別の何かに掻き消された。エリゴが正面にいる。拳を振るってきた。右手で払う。
エリゴの攻撃は終わらない。防いでも、連続で攻撃がきた。それらをよけ、あるいは防ぐ。別方向から気配。咄嗟に頭を下げる。頭があったところを、右足が通り過ぎた。レオナルトだった。
エリゴとレオナルトの二人を同時に相手をする。前後左右上下と、変幻自在の連携攻撃を防ぎ続けた。唐突にまた別の気配。二人と違う方向から、三人がタイミングをずらしてそれぞれ襲いかかってきた。一撃、防ぎ切れなかった。後ろに吹き飛ぶ。空中で一回転して体勢を整え、着地。顔を上げる。フェイルス、バーティン、アストリットが立っていた。近くにレオナルトとエリゴもいる。
会話はなかった。いや、言葉など必要なかった。
五人が再び素手で攻めてきた。見事に連携した、隙のない連続攻撃。足捌きと体捌きでかわしながら、かわせない攻撃を両手で払い落とす。
時間にして三十分、五人からの攻撃を防ぎ続けた。何度か防ぎきれず、体勢を崩した時もあった。
五人は攻撃してくるのを止めた。
「余計なお世話でしたか?」
エリゴが汗を浮かべて訊いてきた。
「いや、いい運動になった」
五人とも、組み手の相手をしてくれたのだ。おそらく自分の剄を感じて、ここまで来たのだろう。
イメージで組み手をするのもいいが、イメージ故のパターンがあり、複雑さが足りない。組み手相手がいた方が相手の動きに複雑さがあり、充実した時間を過ごせる。
そういう意味で、ルシフは五人に感謝していた。
マイアスで暴れた光景が脳裏によぎる。
どこか気まずい気持ちになった。
「まさかお前たちが、俺に力を貸してくれるなど思わなかった」
「何言ってんだよ、大将。俺たちは好きであんたに力を貸してんだ。貸さないわけないだろ?」
「私情を抑えず、欲のまま力を振るった。俺がお前たちに禁じたことを、俺は破った。幻滅されても、不思議じゃない」
口にした後、少し弱気な発言をしてしまったのを後悔した。もしかしたら、かなり精神的に追い詰められているのかもしれない。
五人が顔を見合わせた。
呆れたように首を振るエリゴとレオナルト。アストリット、バーティン、フェイルスは笑みをうかべた。
「マイアスでのことを言ってんのか?」
ルシフは反応しなかった。ただ黙って五人を見た。
「大将、一つ訊かせてくれ。自分がマイアスでしたことを思い返して、どう思う? 正しかったと今も思ってるか?」
「いや……マイアスの武芸者に関しては、やり過ぎたと思っている。あそこまで、する必要はなかった」
マイアスで暴れていた時に感じていた高揚感も優越感も嗜虐心も、今となっては消えていた。何故自分がそんなことで満足していたのか、説明も理解もできなかった。残ったのは、やり過ぎたという罪悪感と自己嫌悪だけだった。
レオナルトが嬉しそうに笑った。
「そんでいいよ、大将。大将はまだ若い。感情を抑えられない時だってあるさ。大事なのは間違いを素直に認め、反省することだろ。それが、人の生き方じゃねぇか」
「レオナルトの言う通りだぜ、旦那。人間なんざ、間違うのが普通だ。間違いながら、成長していくもんだ。何をするにも完璧な人間、なんてヤツは人間じゃねぇ」
「間違うのが普通か」
ずっと前から、俺のすることは正しいと思っている。
先頭に立つ者が間違ったり迷えば、後ろを歩く人間が戸惑うからだ。
間違いながら、進んでもいいのか。正しいと常に思いながら進むのが、『王』の道ではないのか。
「迷い始めている。本当に俺のやろうとしていることは正しいのか。俺の望む形が、進む先にあるのか。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだ」
「……旦那。一つだけ確かなことは、あんたがどんな答えを出したとしても、俺はあんたに付いていくってことだ。俺にはそんくれぇしか言えねぇ」
「俺もエリゴさんと同じだぜ。たとえ世界の全てが大将の敵になったとしても、俺は大将の力になる。あんたはただ前だけ見てりゃいいんだ」
「私はマイロードこそ世界の頂点に立つお方だと思っております。その手助けなら、喜んでやらせていただきますよ」
「ルシフちゃん。私はいつだってルシフちゃんの味方だからね!」
「私も、どこまでもルシフ様にお供いたします」
ルシフは五人に背を向け、寮がある方に歩き始めた。ルシフの後ろを五人が付いてくる。
「お前ら、魔王って分かるか?」
「娯楽小説とかによく出てくるヤツですよね。悪役で」
フェイルスが答えた。
ルシフはある結論が出ていた。世界も、人の心と同じではないかという結論。
世界も優しさだけでは成長しない。それだけでは、駄目になっていくのではないか。成長させるためには、厳しさが必要なのだ。たとえ周りから嫌われようと、恐れられようと、それを体現する存在が。
だから、娯楽小説で出てくるような悪役──魔王が現実でも必要なのではないか。
「俺は魔王を目指そうと思う。それでも、お前らは付いてくるか?」
「別に魔王を目指すのはいいが大将、一つ訊きてぇ。理想は変わってねぇか?」
「ああ」
世界から汚染獣の脅威を無くす。都市間戦争を無くす。治安を良くする。無駄に人が死なない、人が人らしく生きれる世を創る。その理想を揺るがせるつもりは一切ない。
「なら問題ねぇ。俺たちはあんたの部下である前に、同じ志を持った同志だ。それさえ分かれば、どこまでだって付いていけるぜ」
ルシフは振り返り、五人の顔を見た。
五人は笑って頷いている。
「……そうか」
ルシフは再び前を向いた。
いつの間にか、脳からマイの裸が消えていた。
今夜はよく眠れそうだ。
寮に向かいながらそう思った。
おそらくルシフはこの時、決意したのだろう。魔王を目指し、魔王として生きる決意を。
これにて、原作八巻終了です。原作八巻は短編集みたいな感じなんで、章に原作八巻は入れません。