ニーナは練武館にある第十七小隊訓練室の扉の前に立っている。
ちなみに今日、訓練の予定はない。ルシフに今の時間に一人で来るよう呼び出されたから、ここに来た。
ニーナは通路にある時計を見る。待ち合わせ時間十分前になっていた。
ニーナが隣に視線をやる。リーリンが立っていた。
リーリンはツェルニ滞在三日目だった。生徒会長の計らいで、リーリンはツェルニに一時的に入学した。問題は学費だったが、リーリンの学力は申し分ないものだったため、学費は免除されたらしい。
短い付き合いだが、明るく活発的な性格のため、すぐに仲良くなれた。レイフォンという共通の話題があったのも、すぐに打ち解けることができた要因の一つだろう。
そして、ルシフと一人で会うことをちょっとした話題で出した。別にルシフから、口止めされてもいない。その話を聞いたリーリンはとても驚いていた。
リーリンは、ルシフと一人で会うのを心配していた。マイアスで暴れたルシフしか知らなければ、そう思うのも無理はない。
その後、リーリンが自分も付いていくと言って付いてきたため、一人で来るよう言われているのに二人で来てしまった。
ニーナは軽く息をつき、気持ちを切り替える。
ルシフはマイアスとの武芸大会終了後、感情に任せて暴れていない。武芸大会が始まる前のルシフに戻ってきていた。だから、二人で会っても激昂しないだろう。……多分。
ニーナが扉を開ける。
両脇に様々な武器が立て掛けてあり、部屋の隅には沢山の
ニーナの視界にそれらは入らなかった。部屋の中心。普段は組み手やら訓練を行う位置に、ルシフが立っていた。両拳を握りしめている。
ルシフが先に部屋に来ているのに、ニーナは驚いた。待ち合わせ時間丁度に来るイメージがなんとなくある。しかし、今までの訓練やら集合を思い返してみると、ルシフは時間に理由なく遅れたことが一度もない。仮病かもしれないが、休む時も休む理由をしっかり連絡してくる。無断欠席は絶対にしなかった。
ルシフは自分がルールと言わんばかりの行動や立ち振舞いをしているような感じがするが、実際はルールを堅実に守る。制服だって常にきちんと着るし、錬金鋼を所持する許可も生徒会長からもらっていた。
おそらくこういう部分が、ルシフがどんな人間か掴めなくなる一番の理由なのだろう。ニーナ自身、未だにルシフがどういう人間か断言できない。
「来たぞ。話はなんだ?」
「もう少し待て。まだ全員揃っていない」
「他に誰が来るんだ?」
「……どうやら来たみたいだぞ」
ルシフの言葉で、ニーナが後ろに振り向いた。
ニーナの後ろにフェリが立っている。無表情だが、少し不機嫌そうに見えた。
フェリは部屋に入ると、扉を閉めた。
「これで全員か?」
「ああ。余計なのが一人いるようだがな」
ルシフがリーリンの方に視線をやった。
「あなたのような人と友だちを二人きりで会わせるわけないでしょ。一体何を企んでるの?」
「だらだら話すつもりはない。単刀直入に言わせてもらう。マイと仲良くしてやってほしい」
「………………は?」
三人の声が重なった。
なんというか、拍子抜けしたというのが正直な感想だ。
「ただそれだけを言うために呼んだのか? そんな話なら、訓練の後にでも話せばよかったじゃないか」
「アルセイフやエリプソンに聞かれたくなかった。分かっていると思うが、マイは男を極端に嫌っている。男にこの話をしても意味がない。面倒が増えるだけだ」
「……そもそも、そんな話をいきなりしたのは何故だ?」
ルシフの表情が微かに暗くなった。そんな気がした。
「マイは俺に依存している。マイには、俺無しでも強く生きられるようになってほしい。初めてマイに出会った時、マイは身体中に打撲傷があり、服すら着ていなかった。マイにとっての世界は、そういった恐怖が支配する世界なんだろう。しかし、その認識は間違っていると。世界はそれ以外のものもちゃんとあるのだと、教えてやってほしい」
「……お前がマイに教えてあげればいいだろう」
「俺が教えても、マイの依存が悪化するだけだ。なんの解決にもならん」
ルシフの両拳は、握りしめられたままだ。微かに震えている。かなり強く握りしめているようだ。
「そもそも、マイの依存に気付かなかったのか?」
「マイが俺に依存しているかもしれないと、疑ったことはある。だから、マイをツェルニに入学させた。もし俺に依存しているなら、ツェルニで一年間も過ごせないと思っていた。だが、マイは何事もないかのようにツェルニで一年過ごし、俺が与えた任務も難なくこなした。それで俺の思い過ごしかと思い、マイの依存を疑わなくなった」
「そうか」
ルシフはずっと前からマイの依存を疑っていたのだ。だが、その疑いが晴れたことで、依存の可能性がルシフの頭から排除されてしまったのだろう。
「ねぇ、ニーナ」
リーリンが小声で声を掛けてきた。小声といっても他に音を立てているものがないため、フェリやルシフにも聞こえているだろう。
「なんだ?」
「あの人って双子? とてもよく似た兄弟がいるのね。わたし、びっくりしちゃった」
「……リーリン。目の前にいる男は、お前がビンタした男と同一人物だ」
「…………じゃあ、多重人格なのかな? なんて名前の人?」
「ルシフだ。多重人格でもないと思うぞ」
リーリンはルシフをしばし凝視した。
「………………えー」
リーリンにとって、ルシフの第一印象は最悪だった。今のルシフが、リーリンの第一印象から外れすぎている。それが、リーリンには納得できないらしい。
ルシフの方に視線を移すと、眉がピクピクと動いていた。必死に表情を崩さないようにしようとしているようだ。
こうして観察すると、なかなか面白い。
「リーリン。お前が最初に会ったルシフは、今までで最悪のルシフだった。そっちの方が異常で、普段のルシフはこんな感じだ。早くルシフのイメージをこっちにしろ。でないと、毎回混乱することになるぞ」
「……努力するわ」
「さっきから随分な言い草だな、おい」
ルシフが口を挟んだ。我慢できなかったらしい。
「わたしはおいじゃありませんよー。リーリン・マーフェスっていう、ちゃんとした名前があるんですー」
ルシフは言葉を失っていた。あまりに幼稚な返しに、呆れ果てているのかもしれない。
リーリンは、頑なにルシフの印象を良くしたくないらしい。何故かは分からないが、リーリンの全身から、ルシフと仲良くするものかという意思のようなものが滲み出ている。
ルシフは軽く頭を掻いていた。イラつくと頭を掻く癖があるのかもしれない。
「……もういい」
ルシフはリーリンとの会話を諦めた。面倒になってきたからだろう。
「ルシフ」
フェリが口を開いた。
「なんだ?」
「自分じゃ何もできない。だから、わたしたちに問題を丸投げして、マイさんの依存を治そうとする。今まで好き放題やってたくせに、少し虫がよすぎるんじゃないですか?」
「フェリ、少し言い過ぎだ」
ニーナがたしなめた。
フェリは止まらない。
「……マイさんは、自分の命の価値はあなたのところにしかないと言っていました。分かりますか? マイさんにとって、あなたは自分の居場所そのものなんです。マイさんの依存を治すとか言ってますけど、本当にそれは治さなくちゃいけないものですか? あなたが傍について、ずっと守っていればいいだけの話じゃないですか。
わたしの目には、その重圧から逃げようとしているように見えます」
ルシフはしばらく口を開かなかった。ただ床を見つめて、両拳を握りしめ続けているだけだ。両拳の震えは、さっきより大きくなっている。
「……逃げてなどいない。俺はただ、マイが心から笑えるようになってほしいだけだ。今のマイの笑顔は、どこか陰がある」
ルシフが床を見つめたまま言った。
「わたしが見た限り、あなたといる時のマイさんは、心から笑っているように見えますが? マイさんの笑顔に違和感があるのは、あなたがそう思い込んでいるだけではないですか? マイさんがずっと隠していた部分を知って、あなたが戸惑い拒絶しているだけなのでは?」
「違う。言っただろ? 俺はマイに、一人でも生きられる強さをもってほしいだけだ」
だんだん、ルシフが何を考えているか分かってきた気がする。
そもそも、マイの依存を手っ取り早く治すなら、ルシフがマイを一時的に突き放せばいい。そうすれば、マイは自分の存在価値を、自分一人で認められるようになる筈だ。荒療治かもしれないが、この方法が一番依存を治せる可能性が高い。
それを選ばず、ルシフはわたしたちに協力を頼んで様々な経験をマイにさせることで、マイの世界を拡げるやり方を選んだ。
つまり、ルシフは依存を治したいと思いつつも、今のマイとの関係を壊したくないと考えているのだ。だから、こんな遠回しなやり方になってしまう。
しかし、ニーナは知っている。以前、サリンバン教導傭兵団と闘った時に気付いた。マイの心は壊れていると。
ルシフと一緒にいるためならなんでもするし、ルシフからの命令はなんでも喜んで従う。ルシフさえ世界にいれば、それ以外の人間はどうでもいい。
そんな狂気と危うさがあるのを、ニーナは知っていた。
もしそういう風に思える相手に拒絶されたら、マイは一人でも生きていこうと思えるだろうか。拒絶された次の日、自らの念威端子で首を切り、自殺している姿が寮の部屋で見つかるのではないか。
ニーナは自分の想像にゾッとした。
だが、絶対にこうならないとは言い切れない。
「それはあなたのわがままでしょう? マイさんの気持ちは確かめたんですか?」
「確かめるまでもないだろう。一人で生きていけるようになることに、デメリットが何かあるのか?」
「あなたはそうやっていつも人はこうあるべき、こういう考えが正しいと決めつける。そういうところがあなたのダメなところです。もっと他人の意見や考えを聞こうとするべきです」
「俺より劣っている奴らに、俺よりいい意見などあるわけないだろう? 聞くだけ時間の無駄だ」
フェリがため息をついた。
フェリのその気持ちはとてもよく分かる。
ルシフは自分が一番優れていると信じきっている。だから、自分より優れた意見を他人から聞けるわけがないという単純な思考回路になっているのだ。ルシフにとって意見を求めるとはつまり、自分が相手より劣っているのを認めるのと同義。
ゆえに、ルシフは相談を絶対にしない。今回も、マイと仲良くしてくれと一方的に言ってきた。何故、『マイの依存を治したいと思うが、どうすれば治せると思うか意見がほしい』と言えないのだろうか。
こういう部分がルシフの短所だと、ニーナは思う。逆に言えば、この傲慢ささえなければ、ルシフはかなり好感の持てる人間になる。
「フェリ、とりあえずそこまでだ。話がズレてきている。
わたしは、マイの依存を治せるなら治したい。わたしにできる範囲で、力になりたいと思う。フェリ、お前はどうだ?」
「……わたしも、マイさんの依存は治したいと思います。あんな姿は二度と見たくありません。ですが、努力するべきなのはわたしたちではなく、依存対象のルシフでしょう?」
「確かにお前の言う通りだが、ルシフの言い分も間違いとは言えない。結果的に依存がひどくなったら本末転倒だからな。
とりあえず、買い物とかちょっとしたお出かけにマイを呼ぶようにして、親しくなろうと思う。フェリとリーリンにも付き合ってもらうことになるかもしれないが、どうかな?」
「わたしなら大丈夫。ツェルニのお店とか色々見てみたいって思ってたし、そのついでだと思えば全然迷惑じゃないよ。むしろこっちからお願いしたいくらい」
リーリンは明るく笑っていた。
ニーナは少しホッとして、表情を和らげた。
「……毎回は無理かもしれませんけど、たまになら」
フェリが無表情のまま、淡々と言った。
「それだけで十分だ。ありがとう」
「……いえ」
フェリはニーナから顔を逸らした。
ニーナがルシフの方を見る。
「とりあえずこれでやってみる」
「ああ。ありがとう、お前ら。恩にきる」
ルシフの表情が少し柔らかい表情になった。
ニーナら三人は部屋を出ていく。ニーナが最後だった。
部屋を出る直前、ニーナは一度振り返った。ルシフがこちらを無表情で見ている。両拳は握りしめられたままだ。結局最後まで、ルシフの両拳がひらくことはなかった。
◆ ◆ ◆
ルシフと話をした三日後。
ニーナはフェリ、リーリン、マイと一緒に中心部に来ている。今日は授業がないので、一日休みだった。
休みの日は店を経営している学生も店の方に力を入れられるため、いつもより店に活気がある。お菓子やケーキなどを売っている店には、『バンアレン・デイの贈り物はここで決まり!』『意中の男子のハートを甘いプレゼントでゲット!』と書かれた宣伝ポスターが貼られていた。似たような内容の宣伝ポスターは至るところに貼られている。
バンアレン・デイとは、気になる異性にお菓子を贈ることがそのまま自分の好意を示すことになる、特別な日。
発端はツェルニではなく、その風習がある元の都市。そこの住民がツェルニに入学し、一種の販売戦略としてバンアレン・デイを利用したことで、ツェルニにもその風習が一気に広がった。ツェルニは多感な時期の人間ばかりが集まる学生都市である。恋愛に関わるイベントのウケが悪い筈がない。
もうすぐそのバンアレン・デイの日になるため、様々な店がその日に向けた多様な宣伝を行っている。闘いはすでに始まっているのだ。
「こんなイベントがあるんだ。グレンダンじゃなかったな」
リーリンが左右の店を見ながら言った。
「そうなのか?」
「うん。というか、イベント自体ほとんどないかも。武芸大会とかならしょっちゅうやってるけど」
「さすがに武芸の本場と言われるだけはあるな」
ニーナは苦笑した。
ニーナ自身、お菓子を渡すことが何故そんなに重要な意味を持つのか、いまいち理解できない。ここら辺はグレンダンと同じく、バンアレン・デイのようなイベントが出身都市のシュナイバルにないからかもしれない。
「それで……ニーナは誰かに渡す予定あるの?」
リーリンが悪戯っぽい笑みで尋ねた。
「いや、別に誰にも渡すつもりはないが」
「どうして? 好きな人、いないの?」
「それもあるが……うーん、お菓子を渡すことが特別な意味を持つということに、ピンとこないからかな」
「別に深く考えなくてもいいじゃない。好意とかじゃなくて、ちょっとした感謝の気持ちとかであげてもいいと思うよ」
「そういう考え方もあるか。一応考えておこう」
ニーナがちらりとマイを見た。
マイは私服ではなく、いつもの武芸科の制服を着ていた。火傷の跡がある首は包帯が巻かれており、右手は
おそらくこの錬金鋼の杖を手に持たなくなった時が、マイの依存が治った時なんだろう。
首の包帯はマイと今日会った時に訊いた。それで、火傷の跡がまだ残っているのを知った。火傷の跡に関しては、消せる筈なのに何故消さなかったか、ニーナは分からなかった。マイにとって重要な意味を持つのかもしれない。
「マイ。お前は誰かにお菓子を贈るか?」
「はい。もちろんルシフ様に」
マイは柔らかな笑みを浮かべている。
「あの人のどこがいいの? わたしはツェルニに来て一週間くらいだけど、あの人のことを悪魔とか鬼とか言ってる陰口を聞いたよ」
リーリンの言葉に、マイは笑みを消した。
「あなたは確か……リーリンさんでしたっけ? ルシフ様をビンタした……」
「え、ええ、そうよ」
「じゃあ、逆にリーリンさんに訊きます。『人間』ってなんですか?」
「……え?」
「どういう生き方をしていたら、『人間』なんです?」
「ええと……」
リーリンは言葉を詰まらせた。
普段当たり前すぎて全く意識しないことを何かの拍子に意識すると、上手く言葉で説明できない。そんな感覚に襲われた。
「分かりませんか? なら、教えて差し上げます。『人間』とは強者に媚びへつらい、弱者に威張り散らして好き放題する生き物です。『人間』は誰一人として私に優しくしてくれませんでした。私からすれば、『悪魔』の方が何百倍も良いです。次ルシフ様のどこがいいとか訊いてきたら、八つ裂きにしますからね」
リーリンが身体を強張らせた。
マイにとって、ルシフが他人からどう思われようが知ったことではない。だが、ルシフのどこがいいなどと訊かれるのは、とても不快だった。
「マイ、あまり怖がらせないでくれ」
ニーナが言った。
マイはからかうような笑みになる。
「ふふ、冗談ですよリーリンさん。本気にしないでください」
「な~んだ、おどかさないでよ」
リーリンの緊張が解け、表情が和らいだ。
それから製菓関係の店を色々見て回った。
今は喫茶店で軽食をとっている。テーブルには紅茶とケーキがそれぞれの前に置かれていた。
「スイーツを食べるこの時間は、最高の贅沢だと思います」
マイはチョコレートケーキを一口食べる度にうっとりとした表情になっている。どうでもいい話だが、錬金鋼の杖を持ちながら食べている姿は違和感しかない。
「私、実は料理とかお菓子作りとか全然したことないんです」
マイが紅茶で一息入れて言った。
フェリは無表情だったが、ニーナとリーリンは意外そうな顔をする。
「え、そうなんだ。なんとなく、料理とか得意そうに見えるけど」
「わたしも意外に思うな。ルシフに自分の料理を食べさせているイメージがどことなくある」
マイは少し暗い表情になった。
「今まで、ほとんど念威の鍛練に力を注いでいましたから。掃除や洗濯は人並みにやれる自信はありますが、料理は全然手をつけてないんです。ルシフ様の料理の腕が超一流というのも関係あるかもしれませんが」
「えッ!? あの人って料理できるの!?」
リーリンが驚いている。
「ああ。一度だけ、ルシフの料理を食べる機会があった。はっきり言って、今まで食べてきた料理の中で一位、二位を争う美味しさだった」
ニーナは合宿で食べた料理を思い出して、懐かしい気分になった。
確かにあれほどの料理の腕があるなら、料理で喜んでもらおうとはなかなか思えない。
「プレゼントのお菓子は、手作りしたものをルシフ様にお渡ししたいと思ってるんです。ここにいる誰かに手ほどきを受けたいと思うんですが、皆さんはお菓子作れますか?」
「「…………」」
ニーナとフェリが視線を泳がし沈黙する。そんな二人の様子を見て、リーリンは察した。
「わたしはお菓子作れるよ。って言っても難しいのは作れないけど」
「じゃあ、時間がある時に教えてもらってもいいですか?」
「うん、いいよ。わたしも手作りのお菓子をプレゼントにしようって思ってたところだから、その時に一緒に作ろうよ」
「はい。ありがとうございます」
「……あの」
フェリが口を挟んだ。
全員の視線がフェリに集中する。
「……いえ。やっぱりなんでもないです」
フェリは顔を伏せた。
三人の視線が重なり合う。
「 もしかして……一緒にお菓子作り、したいの?」
フェリは顔を伏せたまま、少し顔を赤くした。そして、小さく頷く。フェリ以外の全員が微笑んだ。
「じゃあ、一緒にお菓子作りしようね」
「……はい」
フェリは返事をし、窓の外に視線を向ける。
フェリの表情が微かに変わった。
「マイさん」
「はい?」
「あれを見ても、あなたの心は変わりませんか?」
フェリの視線の先に、三人とも顔を向けた。
ルシフがいる。武芸科の制服ではなく、私服を着ている。ルシフを囲むように、三人の女子がいた。ルシフは三人の女子と楽しそうにしている。
三人の女子の内の一人が、さりげなくルシフと腕組みしようとした。ルシフは鬱陶しそうにそれを振り払う。腕組みをしようとした女子は落ち込んだらしく、表情が暗くなった。
喫茶店の向かいの店は、女子向けの小物や服を扱っている店だった。
ルシフと三人の女子は店の前に並んでいる商品を見ながら色々話していたが、すぐに店内に入っていった。
ニーナたちのいるテーブルは気まずい空気になっている。マイがあれを見て不機嫌になるのは分かりきっていたからだ。
「あれが、どうかしたんですか?」
しかし予想に反して、マイの雰囲気は変わらなかった。
ニーナとリーリンは意外そうな表情になった。フェリは無表情のままだったが、微かに目を見開いていた。
「……なんとも思わないのか? ルシフがその、他の女子と仲良くしているのに?」
ニーナの言葉に、マイは合点がいったというような感じで頷いた。
「ああ、そういうことですか。ルシフ様はツェルニにいらしてから、女遊びは全くされていませんからね。まぁ、ツェルニは不純異性交遊禁止だからだと思いますけど。イアハイムにいた頃は当たり前のように目にする光景でしたよ」
「……あの人は本当に……!」
リーリンは女の心を弄ぶルシフに怒りを感じて、拳を握りしめていた。
ニーナもリーリンと同じ気持ちだった。おそらくフェリもだろう。
「……そろそろ、わたしは帰りますね」
マイが立ち上がった。テーブルに自分が注文した分の代金を置く。紅茶はケーキを頼めば無料で付いてくるサービスだったため、実質ケーキの代金だけでよかった。
「今日はとても楽しかったです。本当にありがとうございました。リーリンさん、フェリさん。また近い内によろしくお願いしますね。ニーナさんも興味があったら一緒にお菓子作りを学びましょう」
マイは深く一礼した後、喫茶店から出ていった。
喫茶店から出ると、マイは向かいの店を一瞥した。しかしそれはほんの僅かな時間だけで、すぐに寮がある方向に歩いていった。最後まで、マイの手には錬金鋼の杖があった。
窓越しにマイの姿を見ていた三人は視線を交わし合い、ため息をついた。
慣れているからといって、気のある男が他の女と一緒にいることを快く思える筈がない。マイは、ずっとその感情と闘ってきたのだろう。
ルシフとマイ。
とても近いようで、とてつもなく遠い二人の関係。
どちらも、内に溜め込んでいるものがある。それら全てを吐き出し、本当の意味で二人が付き合っていけるようになるためにはどうすればいいのか。
ニーナは頭が痛くなった。
◆ ◆ ◆
ニーナたちと過ごした日の夜。
マイはルシフに呼び出され、ルシフの部屋に来ていた。テーブルの椅子に座っている。向かいにルシフも座っていた。
「なんのご用です? こんな時間にお呼びになって。私といかがわしい関係だと噂されたら、ルシフ様はお困りになられるんじゃないですか?」
マイはそっぽを向いていた。
ルシフは怪訝な表情になる。
「何を怒ってるんだ、お前は?」
「……別に、怒ってなんかいません」
「まぁいい。お前に渡したいものがあってな」
ルシフがテーブルにピンク色の袋を置いた。
マイは袋をじっと見つめる。
「なんですか、これ?」
「中を開けて見た方が早い」
「分かりました。開けますね」
マイは袋を開けて、中身を取り出す。袋の中身は、赤色のスカーフだった。赤の濃淡で模様が描かれ、所々に黒の線が入っている。
「わぁ……!」
マイは目を輝かせた。
マイの表情を見て、ルシフは表情を和らげた。
「いつまでも、そんなもので火傷の跡を隠しておくわけにもいかんだろう。このスカーフで、火傷の跡を隠せ」
「巻いてみてもいいですか!?」
「ああ」
マイは首に手を持っていき、首に巻いている包帯をとった。
赤色のスカーフを首に巻く。スカーフの長さは短めだった。首の周りだけで収まり、動いたりすることへの悪影響は全くと言っていいほどない。
──そうか。ルシフ様は昼間、あの店にこれを買いにいってたんだ……!
マイの気分は一気に晴れていった。同時に、ルシフを少し困らせようとしていた自分の浅はかさが嫌になった。
「こんな素晴らしいものを私に与えていただき、本当にありがとうございます! 大切に使わせていただきます!」
ルシフの表情が引き締まる。
「マイ、勘違いするなよ。そのスカーフは、ずっと火傷の跡を残したままにしていいという意味で渡したわけじゃないぞ。火傷の跡を消した際に返せとは言わん。だが、そのスカーフを本来の用途で使えるようになってほしいと思う」
「ルシフ様……」
マイは顔を伏せた。
しばらく二人とも無言だった。
マイが意を決したように顔をあげた。
「ルシフ様……私、ルシフ様のためだって言いつつも、いつも自分のためにしか生きられません。いつだって私の中心にあるものは、私の心なんです。私は、そんな私が本当に嫌いです。私も、世界の人々のために生きるルシフ様のように、心から誰かのために生きられるようになりたい。変わりたいんです、どうしようもない私から。私は……たとえあなたが『悪魔』と呼ばれようとも、あなたのように生きたいです。あなたのように生きられるようになったら、この火傷の跡を消そうと思います」
マイの両目から涙が溢れていた。スカーフに涙が吸い込まれていく。それが嬉し涙なのか、それとも悲しみの涙なのかは、ルシフに判別できなかった。
ルシフがマイの涙を指先でぬぐう。
「……そうか。大丈夫だ、お前ならきっとそう生きられる。自分に自信を持て」
「はい……!」
両目から涙を流しながら、マイは満面の笑みを浮かべていた。その笑みからは、いつもの陰のようなものは一切感じなかった。
俺はこの笑顔をいつも見ていたいから、この世界を壊したいのかもしれない。
ルシフはそう思った。