エリゴ、フェイルス、レオナルトの三人はツェルニとグレンダンの接触点の反対側の外縁部までたどり着いた。都市の地盤の裏側に張り付くようにしている。
外縁部には人影を遮る障害物はない。元々外縁部は汚染獣が都市に侵入した場合の戦場である。そんな場所に建造物を造るわけもなく、また岩や木といったものもない。だから三人は外縁部に立つようなことをせず、地盤の裏で待機している。外縁部に立てば目立ってすぐに見つかる恐れがあるからだ。
都市に潜入する場合の一番の難所がこの外縁部から障害物があるところまでの移動であり、逆に言えばこの難所さえ乗り越えてしまえば後は楽になる。
障害物まで気付かれずに移動する際、旋剄や内力活剄で脚力を強化して一気に外縁部から移動するのがセオリーである。しかし、それをすると殺剄で抑えられていた剄が大なり小なり体外に溢れ出てしまう。実力のある武芸者ならば、漏れた剄を感知し、念威端子の目が無くとも潜入されたことに気付く。ましてや、潜入している都市はグレンダン。誰一人として気付かないのはあり得ない。
更に、グレンダンは他の都市に比べ外縁部が広い。汚染獣から逃げず、むしろ汚染獣を狩るように移動するグレンダンにとって、戦場は広い方が都合が良い。そういう意味でいくと、グレンダンは汚染獣を狩る都市として世界から生み出されたのかもしれない。
外縁部が広いとはつまり、剄を抑えられない時間も通常より長くなるということ。それは他都市と比べ数秒程度の違いしかないが、その数秒が潜入の難度を桁違いに上げる。
こうして外縁部から気付かれずに移動する際の問題点をあげると、潜入が不可能なように思える。
しかし、フルフェイスヘルメット越しに見える三人の顔から、見つかることの恐れや迷いは感じられない。彼らはやるべきことをしっかり頭に入れているからだ。ルシフへの信頼が絶大なのも理由の一つ。
ルシフの指示通り動けば、どんな状況も打開できる。三人ともその思考回路を疑ったことはない。当然ルシフからこの後どう動くかの指示を受けており、三人はただその通りに動けばよかった。
エリゴは地盤の裏に両手でしがみついていたが、しがみつくのを片手にする。そして、戦闘衣の胸ポケットの辺りを二回空いた手で叩く。その位置には念威端子があった。
ルシフは眼前を埋め尽くす巨人の群れを薙ぎ払いながら、念威端子からゴッゴッという音を聞いた。エリゴからの合図。位置についたことを報せる打撃音。
ルシフは跳ぶ。建物の上に立つ巨人を蹴り飛ばし、その建物の屋上に立った。
意識を外に拡げる。アルシェイラと天剣授受者たちはツェルニの外縁部にすでに踏み入れていた。二人一組で四組作り、外縁部の様々な場所で巨人の群れの相手をしている。動きに焦りや乱れはない。時折彼らから視線や殺気を感じるが、今は巨人に敵を絞っているようだ。
もし潜入がバレたのなら、こうはならない。予想外の事態に戸惑うか、楽しさを感じるか、いずれにせよそれに対応した動きが目に見えて分かる。潜入させた自分を攻撃もしてくる筈だ。
ルシフは予定通り、剄を一気に開放した。その剄にメルニスクの力は含まれていない。純粋な己自身の剄を最大限まで高めた。ルシフの剄の波動がツェルニのみならずグレンダンまで伝播し、両都市をルシフの剄が包み込む。
それを挑発と感じたのか、アルシェイラと天剣授受者たちの剄も高まり、ツェルニとグレンダンの中を荒れ狂った。レイフォンの剄も同様に増大し、両都市を駆け巡る。
様々な武芸者の剄が入り混じり、あるいはぶつかり合い、両都市は突風にも似た衝撃が絶えず起こっていた。ほとんどの武芸者はその突風に含まれた剄に当てられ、身動きすらできなくなっている。それは仕方がない。天剣授受者以上の剄が十人分両都市を包んでいるのだ。それらの剄を感じ、平常心を保てという方が無理がある。
ルシフは退屈そうな表情になっていた。
──予想通りすぎてつまらん。
剄密度を限界まで高め、開放する。そうすればルシフの動きに対応するため、レイフォンやアルシェイラ、天剣授受者たちも同様の行動をすると考えていた。しかし、自分の予想を超えるような行動をしてほしいと密かに願ってもいた。
──武芸の本場グレンダン。この程度か?
深く考えることもせず、相手の意図を考えようともせず、ただただ相手に合わせる。真っ向から叩き潰してやるというアルシェイラたちの意思すら荒れ狂う剄から感じられた。
そんなだから、お前らは今日、負けるんだよ。
「かぁっ!」
ルシフは高めた剄を体内に凝縮させ、呼気とともに吐き出す。
外力系衝剄の変化。ルッケンス秘奥、咆剄殺。
分子結合を破壊する震動破が放たれる。
震動破はルシフを起点に膨らむように突き進み、ルシフの眼前を埋め尽くす巨人の大群を一瞬で崩壊させた。ルシフの正面だけ巨人の姿が消え、まるでそこだけぽっかりと穴があいたように、何も無い空間が生まれた。グレンダンに震動破が到達した時にはすでに破壊力が失われていたが、呼気に乗った剄の残滓がグレンダンに充満した。
アルシェイラたちはルシフの剄技を見て、驚いた表情をしている。咆剄殺はサヴァリスしか使えないと思っていたから、その驚きは当然といえた。
咆剄殺を使用した後、ルシフの剄は通常に戻った。威圧的な剄の奔流は霧散し、アルシェイラたちはルシフの剄のプレッシャーから開放された。
それに少し遅れて、アルシェイラたちやレイフォンも剄技を使用して巨人の大群を蹴散らした。剄のプレッシャーが弱くなっていく。ルシフが剄を高めたのは咆剄殺の威力を最大限まで上げるためだったと判断したのだろう。事実、そういう目的もあった。だが、ルシフが剄を高めた目的はそれだけではない。その分かりやすい目的に隠れた、本命の目的があった。
──動かしやすい連中だ。
ルシフは退屈そうな表情のままだった。
バーティン、アストリット、ダルシェナ、ディンは外部ゲートの制御室で、ルシフの威圧的な剄を感じた。
弾けたように制御室からバーティンとアストリットが飛び出し、ダルシェナとディンが続いた。
これが第二段階開始の合図だった。
ルシフの剄に対抗するように、全く別の武芸者の剄が膨れ上がり、四人の全身を打った。その剄の波動は一人ではない。ルシフに匹敵するどころかそれを超える剄量の武芸者を含め数人以上の剄がグレンダンを覆っている。
四人の肌が粟立ち、汗が吹き出した。敵が強大なのは頭で理解していた。だが、この剄の圧力により実感を得た。どれだけ自分たちが無謀な闘いを挑んでいるか分からせるように、否応なく現実の刃を喉元に突き付けてきた。
ディンとダルシェナは金縛りにあったように、外縁部に続く扉の前で動けなくなっている。
アストリットとバーティンはそんな二人を責めなかった。心に信じられるものを持っていない者は、死の恐怖に屈する。この闘いは都市を守る闘いでも大事な人を守る闘いでもなく、ただ相手を倒すだけの闘い。二人にはそういう考えしかないから、死を怖れてしまう。自身の死より大事なものがないからだ。
アストリットとバーティンは違う。相手の強大さを怖れながらも、身体はいつも通り動く。死を隣に置いて一緒に駆けるような気楽ささえあった。
──ルシフ様のために死ねればそれだけで満足。
と、アストリットは思い、バーティンに至っては、
──ルシフちゃんが死ぬ時は、お姉ちゃんの私が代わりに死ぬ。
と思っていた。
彼女ら二人は自身の死より大事なものが確かにあった。
「ディン、ダルシェナ。私の手にそれぞれ掴まれ」
バーティンがディンとダルシェナに背を向けて、両手を後ろに伸ばした。
ディンとダルシェナが戸惑った表情になる。二人分の体重を加算されたら、バーティンも遅くなって三人とも見つかるのではないか。そう思ったからだ。
「大丈夫ですわ。この人、こう見えて筋肉ダルマですから」
アストリットが二人の表情から思考を読み、そう言った。
バーティンは隣のアストリットを睨む。
「言葉は正確に言え。私は内力系活剄が誰よりも優れているだけだ。決して、女を捨てているわけではない」
「ですが、あなたにはそれしか能がないじゃありませんか。それならば、筋肉ダルマと同じなのでは?」
バーティンは舌打ちし、正面に顔を向けた。
アストリットが本当に嫌いだった。いつも癪に障るような言い方をしてくるし、何よりルシフに気がある。後半だけでも嫌いになるのに、更に口が悪いという部分はバーティンの中で上位にくる嫌悪感だった。
眼前の扉を開け放つ。地平線が盛り上がり、街並みが一つの山のように見えた。
グレンダンは中央部に行くほど高くなっていく。王宮はその頂点に位置し、四人はその王宮を見上げた。とてつもなく高くて厚い壁が立ち塞がっているような気がした。
ルシフが咆剄殺を使用した余波で、グレンダンはルシフの剄の波動で満ちている。その剄に移動する際に生じる剄を隠す段取りだった。
予定ではルシフの剄のみが目眩ましとなる筈だったが、天剣授受者たちやレイフォンの剄も目眩ましになる状況になったのは良い意味で誤算だった。剄が入り混じっている方が、潜入はやりやすい。
アストリットは内力系活剄の変化、旋剄で数瞬で外縁部から建造物がある場所まで移動。
バーティンもアストリットに一瞬遅れて、移動。しかし、建造物に到着したのは同時だった。バーティンの手に掴まっているディンとダルシェナは信じられないといった表情をバーティンに向けている。アストリットは舌打ちした。
バーティンは今の移動で旋剄を使わなかった。旋剄は高速移動を可能にするが、ほぼ直線の移動しかできない。いわば、旋剄とはロケットのようなものである。剄を燃料として、移動速度と移動距離を決める。途中で方向転換もできなければ、止まることもできない。
バーティンはそれが不満だった。行きたいと思う場所に、どんな時も行ける。そういう移動剄技が欲しくて、色々考えた。
そして、今の移動でバーティンなりの答えを凝縮した移動剄技を使用した。
内力系活剄の変化、瞬迅。どんな場所にも、迅さをもって瞬きの間に行く。そんな意志を、瞬迅という名前に込めた。
旋剄をロケットに例えるなら、瞬迅は舟である。剄を移動エネルギーに変換するのではなく、剄を瞬発力に重きを置いた脚力強化に利用し、舟を
「ほんと、それしか能がないですわ」
「これさえあればいい」
この辺りにグレンダンの武芸者はいない。汚染獣とツェルニからの武芸者に備え、ツェルニの方に向けて武芸者は配置されているようだ。これもルシフの読み通り。
しかし、それはこの場所が外縁部の近くであり、かつ接触点から遠いせいである。中央部に近付けば近付くほど、グレンダンの武芸者は増えてくるだろう。
「ここからはあなたと別行動だ。私たち潜入組の中で、おそらくあなたが一番死ぬ確率が高い役割を与えられている」
「それだけルシフ様から頼りにされてる証明でもありますわ。あなたには私に与えられたような重要な役割は与えられないでしょうね」
「ほざくな。ヘマをして、ルシフ様に迷惑だけは絶対にかけるなよ。あなたが死んだら骨くらいは拾ってやる」
「それはどうもありがとうございます」
バーティンは中央部の方に向かわず、外縁部付近のこの辺りを円を描くように移動しだした。
ディンとダルシェナはバーティンに付いていこうとする。
「お二人とも」
アストリットが二人に小声で声をかけた。
ディンとダルシェナは振り返る。
「心配なさらなくてもよろしいですよ。バーティンさんは私たち五人の中で、多分一番強いですから」
アストリットは優しげな笑みを浮かべていた。
ディンとダルシェナの懸念を取り除こうと考えたのだろう。事実、ディンとダルシェナは少し気が楽になった。
アストリットは殺剄を使用し、王宮目指して駆けていった。
ディンとダルシェナはその後ろ姿が見えなくなるまで視線を送った。
アストリットが見えなくなると、二人は急いでバーティンの後を追った。
「どうした? アストリットが死ぬかもしれないと心配なのか?」
バーティンが振り向き、ディンとダルシェナを見た。バーティンの顔が笑みに変化する。
「大丈夫だ。あいつの殺剄と銃の腕は剣狼隊一だからな。そう簡単に死ぬ女じゃないよ」
バーティンの言葉を聞いて、ディンとダルシェナは吹き出した。面と向かうと相手の悪口しか言わないのに、離れたらお互い相手を称賛する言葉を口にしている。
バーティンは困惑した表情になった。
「どうした? 何がおかしいんだ?」
「いえ、二人とも仲が良いと思っただけです」
ダルシェナの言葉を聞き、バーティンは不愉快そうに顔を歪める。
「仲が良い? 私とアストリットがか? あり得ないな」
おそらくアストリットに言っても、バーティンと似たような反応をするだろう。
そう考えるとまたおかしくなり、ディンとダルシェナは笑った。
三人は予定通り移動を開始。
ディンとダルシェナは囮役となり、まばらにいるグレンダンの武芸者の気を一瞬引く。二人はグレンダンの戦闘衣を着ているため、相手もすぐ敵とは気付かない。
相手が二人を敵だと判断した時には、バーティンが相手の背後をすでにとっていて、瞬く間に武芸者の意識を次々に素手で奪った。錬金鋼は潜入任務が終わるまで使わない。錬金鋼は復元すると剄を常に纏い続けるという特徴があり、錬金鋼の剄で敵に気付かれてしまう可能性があるからだ。
ディンとダルシェナはバーティンの動きに目を奪われていた。
気付けば建物の屋上付近から壁を蹴って急降下していたり、相手がバーティンの姿を捉えようとした時にはもうそこにはいなかったりする。
相手からしてみれば、姿の見えない暗殺者に狙われているような気分になるだろう。
周囲のグレンダンの武芸者を全員倒すと、バーティンは近くの建物の扉の取っ手を壊して扉を開け、建物の中に倒した武芸者を全員放り込んだ。念威端子から少しでも見つかりにくくするためだ。
そうやってグレンダンの武芸者を処理しながら、移動を続ける。
バーティンは次々に建物の扉の取っ手を壊し、武芸者を放り込んでいく。そんなバーティンの姿を、ディンとダルシェナは納得できないといった表情で見ていた。
やがて目標のポイントの内の一つに、三人は到着した。
近くの民家の扉の取っ手を壊し、鍵がかかっていた扉を開ける。
ようやくバーティンの動きが止まったため、ディンが口を開いた。
「あの……」
「なんだ?」
「建物を壊すことに何も感じないんですか? 人が住んでいるんですよ」
「武芸者同士の戦闘でも建物は壊れる。戦闘の不可抗力で壊れるのも、武芸者を隠すために建物を壊すのも同じだろう」
バーティンは何が悪いのか分からないといった表情で、首を傾げた。演技とかではなく、本当に何が悪いか分からないという表情をしている。
「ですが、そこに住んでる人が地下シェルターから帰ってきたら、自分の家の有り様を見て悲しむと思います。だから、なるべく建物を壊さないように配慮するべきだと俺は思うのですが」
「ディン、忘れるな。ここは敵対都市だ。敵対都市の住民が悲しもうが、知ったことではない」
バーティンは無表情でそう言った。
ディンとダルシェナは絶句している。
バーティンはため息をついた。
「住む人間がどうのとか考えていたら、都市間戦争の時、全力で闘えないだろう。そういうことを考える奴が、戦闘の時にそのことを意識しない筈がないしな。甘い考えをしていると、逆に自都市の建物が壊される。それが都市間戦争だ。それに、見ろ」
バーティンは壊した扉の取っ手部分を指差した。
ディンとダルシェナは自然とその部分に視線がいく。
「私はこの部分しか壊してない。たいして修理代もかからんよ」
バーティンは得意気に笑った。
そういう問題なのだろうか、とディンは思ったが、口には出さなかった。
「いいか、二人とも。私たちは無駄に建物を壊しているわけではない。私たちが勝つ確率を少しでも上げるために、建物を壊している。それを肝に銘じて、迷うな」
ディンとダルシェナは無言で頷き、ダルシェナだけが民家の中に入っていった。
民家の中に入ると、ダルシェナは一度振り返る。視線の先にはディン。
「シェーナ、俺も役割をしっかり果たす。だからお前も、頑張れ」
「ああ、分かっている」
ディンがダルシェナに背を向け、民家から立ち去ろうと足を動かす。
「ディン!」
その背に、ダルシェナは声をぶつけた。
ディンは顔だけ振り返り、肩越しにダルシェナを見る。
「絶対死ぬなよ。いいか、絶対だぞ」
「俺はこんなところで死なん。心配するな」
目に涙を溜めているダルシェナに向けて、ディンは微かに笑った。
止めていた足を動かし、二人は再び移動した。
ダルシェナは民家のリビングで壁に背をもたれさせて座り込む。
ダルシェナの視界に写真立てが入った。家族写真のようで、両親と幼い娘が写っている。両親の間に娘は立ち、三人とも満面の笑み。
ダルシェナはこれから自分がすることを考え、身体が震えた。
両腕で自分を抱くようにして、震えを抑えようとする。それでも、震えは止まらなかった。
バーティンとディンは次の目標ポイントに到達した。
途中に武芸者が多少いたが、自分たちの情報を伝える前に全員倒し、建物の中に隠した。
これ程までに存在を気付かれずグレンダンの武芸者を各個撃破できるのは、二つの理由がある。
一つ目の理由として、グレンダンは敵に対して一丸となって戦うことがない。というより、グレンダンの女王と天剣授受者が強すぎるため、その必要がないのだ。
だから、グレンダンの武芸者は必然的に勝利のために戦うのではなく、それぞれ戦闘での手柄を競って戦うようになっている。
二つ目の理由として、グレンダンは武芸の本場といわれる程に、武芸が盛んな都市であること。それだけ多数の武門があり、グレンダンの武芸者はいずれかの武門に所属している場合がほとんどである。その影響で派閥のようなものができ、同じ派閥の武芸者以外を敵視したり、出し抜こうと考える武芸者が多かった。そのため、自分の派閥以外の武芸者の配置や動きを把握しておらず、また念威操者に伝える情報を偽ったりした。武芸者の位置や数を偽れば、それだけ他の派閥を出し抜いて手柄を立てる機会を得やすくなるからだ。
つまり、派閥を越えて連携をとることがほとんどなく、初めから各個分断されているような状態だった。こうなった原因は武芸者の指揮や部隊編成を面倒だと言って周りに丸投げし、周りもグレンダンが最強なのを疑っていないため、手っ取り早い武門での武芸者選別をおこなったからだろう。
さっきと同じように民家の扉の取っ手を壊し、扉を開けた。
民家の中にディンが入る。
「しっかりな」
「はい」
「私も私に与えられた役割を果たしにいく。また生きて会おう」
ディンは無言で頷いた。
バーティンはそれを見ると一瞬微笑み、ディンの前から消えた。
民家の中で、ディンは犬と猫のぬいぐるみを見つけた。こども部屋らしかった。ベッドの上には可愛らしい女の子の人形が置かれている。
ディンはこども部屋の扉を閉めた。
これから自分がすることを考えると、この情報は邪魔だった。
ディンは玄関に腰を下ろした。ここが一番人の空気を感じない。
役割を果たす時が来るまで、ディンはそこから動けなかった。
レオナルト、エリゴ、フェイルスの三人も外縁部から旋剄を使用し、建物がある場所まで気付かれずに移動できた。
建物の付近にグレンダンの武芸者が数人集まり、雑談をしている様子が見える。
三人は瞬く間に近付き、素手で全員倒した。倒したら、武芸者たちの身体を引きずり、建物の扉前まで移動させる。
扉の取っ手を壊し、建物の中に武芸者の身体を掴んだまま入った。建物の中で倒した武芸者の内の三人の服を脱がし、着ていた戦闘衣を脱いでグレンダンの戦闘衣に着替える。
三人はグレンダンの戦闘衣を着たら、再び王宮目指して移動を再開した。
なるべく武芸者に気付かれないように移動し、どうしても気付かれてしまう場合は素手で倒して進んだ。倒した武芸者はそのまま置き去りにして、王宮にいち早く到着することを第一に行動した。
潜入組は着実にルシフから与えられた役割をこなしていた。
◆ ◆ ◆
グレンダンをルシフの別動隊が食い散らしているなどとは夢にも思っていないレイフォンにとって、今一番の問題はリーリンのことであった。
カリアンがグレンダンと交渉した。その結果、ツェルニに突如として現れた巨人の大群の殲滅を、グレンダンの武芸者が手伝ってくれることになった。
そこに異論はない。ツェルニの戦力だけでこの万を超えるかもしれない巨人を殲滅し尽くすのは、ルシフがいても困難だとレイフォンは考えていたからだ。巨人を倒して終わりならツェルニの戦力だけで殲滅できるが、倒しても倒した分だけ巨人が再び出現する。要はいたちごっこになっていて、ただツェルニの武芸者が疲労していく不利な状況に追い込まれていた。
──そういえば、教員の五人は何してる。
いつもなら、前線に立ちツェルニの武芸者を指揮しながら戦っているのに、今に限って教員五人が巨人と戦っているというフェリからの情報はない。教員五人の剄もレイフォンは感じなかった。
平常心を持ちながら戦っていたならば、レイフォンは教員五人のこれまでと違った動きに違和感を感じ、その違和感がルシフの思考と結びつき、教員五人を天剣の奪取に向かわせたということくらいは察せたかもしれない。
しかし、レイフォンは冷静ではなかった。
カリアンとグレンダンの交渉で決まった二つ目は、ルシフをグレンダンに引き渡すこと。
これについても異論はない。ルシフが人外の力である廃貴族とやらを手に入れているのは今までのルシフの戦闘から確信しており、グレンダンに行くことでルシフからその力を奪い取れるなら、その方がレイフォンも安心できるからだ。廃貴族とやらがルシフから離れれば、ルシフの暴走でグレンダンが消滅するといった危険も無くなる。
問題はルシフが間違いなく大人しく連行されないことだが、グレンダンは女王と天剣授受者七人をツェルニに投入している。ルシフにとって、これは絶望的な状況だろう。それでももしルシフの確保に手こずるようなら、自分がグレンダンに助太刀すればいい。
レイフォンから平常心を奪ったのは、フェリの念威端子から伝えられた最後の交渉内容である。
リーリン・マーフェスもグレンダンに連行する。
レイフォンは耳を疑った。そんなバカな話があるか、と念威端子に怒鳴りそうにもなった。
客観的に見て、リーリンはきっちりしていて真面目なただの一般人。そんな普通の少女を、グレンダンがルシフ同様連行しようとしている。
にわかに信じられる話ではなかった。グレンダンにとってリーリンは重要な存在なのか。だとすれば、どういう意味で重要なのか。
レイフォンの思考はそちらにばかりいってしまい、ツェルニの武芸者だけが気付けた違和感を意識の奥に押し込んでしまった。もしその違和感をグレンダンの誰かに伝えていれば、結果は違うものになっていたかもしれない。
レイフォンは念威端子から、リーリンと天剣授受者三人が接触したとの情報を聞いた。
レイフォンは天剣授受者が三人もツェルニに潜伏していたことに驚いた。てっきり残りの三人はグレンダンの守備に回したのだろうと考えていたから、天剣授受者全員がツェルニにいるとは思わなかった。ふと、リーリンがどうやってマイアスからツェルニに来たのか、その疑問の答えを掴みかけたが、そんなもの今のレイフォンにとってどうでもよかった。
情報の衝撃は一瞬でしかなく、その後のレイフォンの動きは早かった。
巨人の大群を鋼糸で薙ぎ払いつつ、内力系活剄の変化、水鏡渡りでリーリンと天剣授受者三人の場所まで高速移動。
リーリン、サヴァリス、カナリス、カルヴァーン。四人の眼前に立ち塞がるように立つ。
リーリンの表情が驚きに変わり、次いでレイフォンから視線を逸らした。
天剣授受者三人はそれぞれ天剣を手に持ち、いつでも復元して戦闘できる体勢になっている。
「リーリンさんはグレンダンに連れていく。それはグレンダンとツェルニの交渉で決まったことでもあるんだよ。その意を無視するとはつまり、グレンダンにもツェルニにも背くということ。ちゃんと自分の行動を理解しているのかな?」
サヴァリスが楽しげな笑みを浮かべ、挑発するように剄の波動をぶつけてくる。
「知ったことか、そんなもの」
レイフォンは鋼糸から刀にし、構える。
グレンダンとツェルニの交渉など知ったことではない。重要なのはリーリンの意思だ。リーリンが拒否しているのに無理やり連れていくなら、たとえグレンダンの天剣授受者でも斬る。
「レイフォン、やめて。いつかはこうなっていたことなの。わたしはわたしの意思でグレンダンに帰るわ」
リーリンが視線を逸らしたまま、そう言った。
それは本当にリーリンの意思か。自分の身を案じてそう言ったのではないのか。
レイフォンはリーリンの本心が聞きたかった。そして、リーリンの本心を聞くためには、レイフォンの身を危険にさらすもの、つまりは女王と天剣授受者全員を戦闘不能にする必要があった。それができて初めて、リーリンは何にも縛られず、意思を伝えられる。
ここで仮定の話として、天地がひっくり返るような奇跡が起きて、女王と天剣授受者全員をレイフォンが排除できたとする。そうなった時、リーリンの口から紡がれるのは本当に純粋で何にも影響されていないリーリンの意思なのだろうか。おそらく、違う。自分のためにそこまで頑張ったレイフォンを悲しませないように、傷つけないように、リーリンはレイフォンが求める言葉を口にするだろう。
もう一つ仮定の話として、天剣授受者に囲まれながらもリーリンが「ツェルニにいたい」と口にしていたら、レイフォンはその言葉をリーリンの本心じゃないと否定しただろうか。絶対にしていない。断言できる。
レイフォンはリーリンの本心なんて本当はどうでもよかった。
ただグレンダンより自分と一緒にいることを選んでほしいと、レイフォンですら気付いていない心の奥深くに埋もれている何かが、必死に叫んでいるのだ。
レイフォンはその何かをリーリンの本心じゃないとか、リーリンが自分をかばって意思を曲げているなどと都合の良いものに無意識の内に変化させ、自分は自分のために戦おうとしているのではなく、リーリンのために戦おうとしているんだと自分のエゴを正当化させた。
単純な言葉で今のレイフォンの心を表すなら、ただの男の意地である。好きな女に自分を選んでほしいという、男として誰もが抱く願望を無意識の内に叶えようとしているのだ。
「カナリスさん、カルヴァーンさん。リーリンさんを陛下のところに連れていってください。レイフォンは僕が止めますよ」
サヴァリスの言葉に二人は頷き、リーリンを左右から挟むようにして、レイフォンの眼前から去っていく。
「リーリン!」
レイフォンはリーリンを追いかけようとする。レイフォンの前をサヴァリスが遮った。
「どけよ。お前じゃ僕に勝てない。殺したくないんだ」
レイフォンは今まで仮想敵をルシフにして、鍛練してきた。ルシフに比べれば、サヴァリスなど小物にしか見えなかった。
「なかなか言うようになったじゃないか。でかいだけのヤツよりは楽しめそうだ」
レイフォンから殺気を浴びせられ、サヴァリスは笑みを深くした。
この作品だと、レイフォンのパートナーはリーリンになりそうですね。
フェリ「…………」
すまぬ……すまぬ……。