ツェルニと別れてから三週間という時間が流れた。
壊れた王宮は元通りになったが、王宮付近の建物の修繕は今も行われている。ほぼ全壊のため、建て直しという言葉の方が正しいだろうが。
建て直しをしているのはグレンダンにいる建築士たちで、武芸者は一切手を出していない。
グレンダンにとって救いだったのは、ツェルニが安値で建築に必要な材料を売ったことだろう。このおかげで予定よりもずっと早く作業に取り掛かれた。
レイフォン、シャーニッド、ハーレイ、フェリはレイフォンが育った孤児院の世話になっている。孤児院の責任者であるロミナは快く彼らを受け入れてくれた。レイフォンの養父のデルクもちょくちょく孤児院に顔を出した。決して愛想の良い人物とは言えなかったが、血も涙もない冷血漢でもなかった。
レイフォンにとって、孤児院は居づらい場所だ。軽蔑と怒りが混じった視線が針となって心を突き刺す。家族だった者たちからの敵意が身体を萎縮させる。
しかし、それはレイフォンのネガティブ思考のせいでそう感じるだけであり、実際にレイフォンに敵意や軽蔑、怒りをぶつけていたのはごく少数だった。
ほとんどの孤児院の家族たちは何をレイフォンと話していいか分からず、話すきっかけも掴めずにただレイフォンに視線を向けることしかできなかった。三週間経ち、ぽつぽつと話すようになったが、それでもよそよそしさというか、気まずい空気がいつも充満する。
孤児院の家族たちはレイフォンに謝ろうと考えていた。闇試合が発覚し天剣授受者を剥奪された時、ひどい態度をレイフォンにしてしまった。裏切られたと感じたからしたことだが、時が経ち、レイフォンが闇試合に手を染めた事情というものを考えられるようになった。レイフォンは言い訳をしなかった。ただお金が欲しかったからやったのだと言っただけだ。孤児院の家族たちは理解していた。お金が欲しかったのは、私腹を肥やしたいからではない。闇試合で稼いだお金はグレンダン中の孤児院に寄付されていた。その事実は誰もが知っている。
稼ぐ方法は許されるものではないが、稼いだお金の使い方は賞賛されていいものだ。レイフォンは単純に武芸でお金を一番稼げるやり方を選んだ。そこに後ろめたさがあったのは、天剣の武器が剣だったことからも読み取れる。サイハーデン刀争術は刀を使う流派であり、剣を使う流派ではないからだ。もし闇試合が発覚しても、養父のデルクを巻き込まないようにするための苦肉の策として、天剣の武器を剣にした。
当然のことだが、デルクはレイフォンに対して問い詰めた。レイフォンはただ剣が良かったと言っただけだった。闇試合が発覚した時、デルクは何故レイフォンが頑なに剣を武器として使ったのか悟った。そして、己を責めた。何故発覚する前に気付けなかったのかと。デルクは責任を取り、孤児院をロミナという女に譲った。ロミナは孤児院で育った女だった。
もうレイフォンは罰を受けた。ならば、許してあげるのが家族ではないのか。レイフォンの気持ちを考えられなかったことを謝るのが家族ではないのか。
しかし、きっかけはなかなか掴めない。
孤児院の敷地にある遊具などが置かれている一角。塀に沿うように植えられた常緑樹の陰。そこでアンリという名の十歳くらいの少女が黙々とスコップで土を掘っている。
「何やってるんだよ?」
アンリのところに十二歳の少年トビエと、同じく十二歳のラニエッタがやってきた。
「探してるの。おもちゃを入れた缶を。確かこの辺だった──」
「なんでそんなモン掘り出してるのかって訊いてんだよ!」
「トビー、何をそんなに怒ってるの?」
トビエの激怒した様子に、ラニエッタは戸惑った。
ここにきたのは晩ご飯の準備ができてみんなを呼んだ際、アンリだけがいなかったから探しにきたのだ。勝手な行動を叱るのにしても、少し度が過ぎている。
「お姉ちゃん。トビー兄はおもちゃの缶を見たくないんだよ」
「アンリ!」
トビエがアンリを睨んだ。それ以上話すなと眼が言っている。アンリはトビエに負けじと睨み返した。
「あたしは、レイフォン兄に謝りたいんだ! 今も大好きだって言いたいんだ! あたしだけじゃない! お姉ちゃんも、トビー兄も、みんなそうでしょ!?」
トビエとラニエッタは言葉を無くして立ち尽くした。
アンリは止めていたスコップを持つ手を動かし、また土を掘り始める。
スコップが何か固いものに当たった。スコップを持つ手が速くなる。銀色の缶がどんどん浮き彫りになっていく。缶の周囲をひたすら掘った。
アンリはスコップを横に置いて、缶を両手で掴んで抱えた。
トビエは缶から目を逸らしている。
「トビー、ラニエッタ、アンリ」
後方から聞こえた声に、三人は振り返る。
三人の後ろにレイフォンが立っていた。レイフォンは視線を三人から逸らしている。
「二人が遅いから呼んでこいって言われて。それで、その……」
レイフォンの瞳がせわしなく動いている。
アンリは胸がきゅ~っと締め付けられるような感覚に襲われた。そうだ。この感じだ。さっきは言葉にできたのに、レイフォンを前にするとその言葉が喉の奥で塞き止められる。
これが嫌で、アンリはおもちゃの缶を掘り出した。そもそもレイフォンを一番憎んでいるのはトビエだった。レイフォンに怒りの視線を向けているトビエ以外の者も、トビエがレイフォンを憎んでいるからという者ばかりだった。だから、レイフォンとトビエが仲直りできれば、この締め付けられる感じが消えるんじゃないかと思った。この缶に、トビエが大切にしていたおもちゃを入れていたのをアンリは見たのだ。
「レイフォン兄、これ──」
「やめろ!」
アンリがおずおずとおもちゃの缶をレイフォンに渡そうとして、トビエがアンリを突き飛ばした。アンリはおもちゃの缶を持ったまま、尻餅をつく。
「トビー!」
レイフォンが怒鳴った。瞳は定まっている。
トビエはビクリと身体を硬直させた。しかし、それも僅かの間だけだった。
「……なに家族みたいなツラして、おれたちの前にいるんだよ」
今度はレイフォンが身体を硬直させた。定まっていた瞳が揺れ動く。
「おれたちを捨てたくせに、今更家族
「……捨てたつもりはないよ」
「闇試合に出て、グレンダンにいられなくなったじゃないか!」
「お金が欲しかったんだ。トビーは覚えてないかもしれないけど、昔食糧危機があって。みんなは食べられないのに、武芸者だった僕だけ食べ物を貰って。お金さえあれば、そんなことにはならないと思ったんだ。ここの孤児院だけなら天剣でいることで貰えるお金でなんとかなったけど、全ての孤児院をお金に困らなくするのには全然足らなかった」
「でもおれは! おれたちは! 金なんて欲しくなかったんだ! レイフォン兄さえいてくれれば、それで良かったんだ! それなのに、闇試合なんかに出やがって……」
二人とも言葉が無くなった。俯き、突っ立っている。
「わたしも兄さんがいてくれた方が良いよ。アンリが兄さんのために一生懸命掘り出したものがあるんだ」
ラニエッタがアンリの両肩を掴み、アンリを自分より前に出した。
そこでアンリは自分が抱えていた缶のことを思い出し、缶を開けた。
缶の中には剣と盾を持った木製の人形が入っていた。あまり良い作りとはいえない、不恰好な感じがある。
アンリはこの人形がなんの人形なのか知らないが、トビエがいつも大事にしていたことは知っていたし、レイフォンから貰ったものだということも知っていた。
レイフォンはその人形を見て目を丸くしている。
「まだ持ってたんだ」
「持ってねえよ。土に埋めて捨てたんだ」
「ごめん。ちゃんとしたものを買えれば良かったんだけど売ってなかったから……」
「けど、レイフォン兄はこいつを作ってくれた。おれはこういうので良かったんだよ!」
この人形はレイフォンが手作りしたものらしい。そう知ってから人形を見ると、確かに色々雑な部分がある。しかし、温かさのようなものも感じた。
トビエが動き、いきなりレイフォンの頬を殴った。レイフォンならよけられた筈なのに、レイフォンはよけなかった。
「これでもうなんもなしだからな」
「うん」
「次また謝ったら許さないからな」
「うん」
トビエは少し涙目になっていた。肩が震えている。涙を見せまいと、必死に我慢しているのが分かった。
レイフォンは無言でトビエの肩に手を置いた。
ラニエッタとアンリは男特有の殴って和解が理解できないためぽかんとした表情だったが、これで昔のような関係に戻れると確信し笑顔になった。
「……リーリン姉もここにいたら良かったのにね」
アンリがぽつりと呟いた。
レイフォンの表情が変化していく。和らいだ表情が消えていく。
「大丈夫。必ず連れ戻すから」
レイフォンがアンリを見た。
とてもこわい顔をしている、とアンリは思った。
◆ ◆ ◆
これはもう駄目だな。
両腕を左右の男たちに抑えられ、無理やり跪かされている二人の武芸者を見ながら、リンテンスはそう思った。
グレンダン王宮の謁見の間。玉座があり、玉座の前に赤い絨毯が敷かれている。
アルシェイラが玉座に座り、天剣授受者や三王家の人間が赤い絨毯に沿ってずらりと並んでいた。まるで赤い絨毯が道のように見える。跪かされた二人の武芸者はその道の中にいた。
ルシフと闘ってから三週間が経過した。王宮の外観はほとんど元通りになったが、調度品や内観までは手が回っていない。アルシェイラの座っている玉座も、前と比べればはるかに安っぽいものになっていた。玉座だけでなく、全てが質素なものになっている。
「間違いないのね?」
玉座からアルシェイラが言った。
「はい」
取り押さえられた二人の背後にいるカナリスが頷いた。
そもそも、何故この二人が罪人のように取り押さえられているのか。理由はルシフと闘った日まで遡る。あの日、グレンダンの建物に何者かが火をつけた。ルシフの手の者であるのは間違いないが、それがツェルニにいた者なのか、それともグレンダンにいた者なのかは分からない。この二人はここ数年の間にグレンダンに来た者たちであり、火の手が上がった場所の近くにそれぞれいた。彼らにはルシフと内通し、建物に火をつけた容疑がかけられているのだ。
「陛下! おれはルシフなんて男は知らないし、建物に火もつけていません!」
「おれだってそうだ! なんでおれが放火なんかしなくちゃならないんだ! おれは無実だ!」
そうだろう。どっちにしろ、認めるわけがないのだ。
アルシェイラの目がすっと細くなった。全身から圧倒的な剄が放たれる。アルシェイラの切り落とされた両腕と右足はくっつけられていた。切り落とされた痕もない。
「誰が口を開くのを許可した」
跪かされた二人はアルシェイラの放つ剄に呑まれ、口を閉じた。
「最初から素直に認めないのは分かってる。だから、あなたたちをこれから拷問する」
二人の顔が青くなった。リンテンスは舌打ちする。謁見の間がざわついた。アルシェイラは不快そうに顔を歪める。
「何? 文句あんの?」
アルシェイラから放たれる剄が更に威圧感を増した。謁見の間が凍りつく。言葉はおろか、指一本動かすことすら困難な緊張感がある。
「ツェルニの戦闘衣が外部ゲートに四着。外縁部付近の建物の中に三着捨てられていた。普通に考えたらツェルニの人間七人がグレンダンの武芸者から戦闘衣を奪ったことになる。でも、あのルシフがわざわざこんなにも分かりやすい手がかりを残させると思う? 脱いだ後の戦闘衣なんて持っていこうと思ったら簡単に持っていける。
わたしはこれで確信したのよ。これはグレンダンにいる内通者から目を逸らさせるための策だって。実際は剣狼隊の五人しかグレンダンにきてなかったのよ」
確かにこの情報をなんの疑いもなく信じれば、グレンダンに内通者はいないことになる。そうすることで内通者の可能性を潰し、次の決戦の時に内通者を動きやすくしておくというのは、ルシフらしいとも言えるのかもしれない。
だが、たとえアルシェイラの考えが正しかったとしても、内通者の疑いがある者を捕らえる必要はない。だってそうだろう? あのルシフが、グレンダンという最強の都市に送り込んだ内通者だ。どれだけ拷問されようとも、たとえ殺される寸前までいったとしても白状しない人間を送り込むに違いない。そこをアルシェイラは分かっていない。
アルシェイラは余裕が無くなっていた。ルシフが何をしてくるのか。あるいはすでに何かを仕込んだのか。どれだけ考えても答えが分からず、頭の中が霧で包まれたようにモヤモヤする。そして、アルシェイラは考えるのを止めた。考えても正しい選択肢が分からないなら、思いついた選択肢を一つ一つ確実に潰していく。
アルシェイラにとって、取り押さえた二人が内通者でなくても別に構わない。内通者はグレンダンにいない。ルシフは内通者をグレンダンに送っていない。その是非が分かるだけでいいのだ。
ルシフの厄介なところは、ありとあらゆる計算をしているように見えるところだ。今回の戦闘衣のことでもそうだが、これが罠なのか、それとも単に回収するのを忘れていただけなのかの判断ができない。何か狙いがあるんじゃないか。ルシフの全ての行動が作為に満ちていて、常にその疑惑が頭の片隅に生まれる。
実際のところ、グレンダンに内通者などルシフは送っていない。簡単にデルボネに見破られると考えていたし、見破られて他の都市にも内通者を送り込んだと考えるようになるのは都合が悪かった。ルシフがわざとツェルニの戦闘衣をグレンダンに残した理由は、これでグレンダンが混乱すれば儲けもの程度の理由しかない。まあ、予想以上だったわけだが。ある意味、ルシフは誰よりも他人に自分がどう思われているか理解している人間なのかもしれない。
アルシェイラが右手を前後に振った。下がれという意味だ。
カナリスは頷き、取り押さえている男たちに指示を出す。
「陛下! おれはグレンダンを裏切ってなどおりません! 陛下! 陛下!」
「拷問は嫌だああああ! なんでおれがこんな目にあわねえといけねえんだ! ふざけんじゃねえよ! お前ら全員あのガキに痛めつけられちまえ!」
二人は引きずられるようにして謁見の間から連れていかれた。悲痛の叫びが謁見の間に響いている。謁見の間からいなくなっても、二人の叫び声は聞こえた。
謁見の間に重苦しい沈黙が訪れた。
「もしあの二人がルシフの内通者じゃなかったらどうします?」
カナリスが言った。
「ここをどこだと思ってるの? グレンダンよ? 拷問の後遺症なんて残らないし、別にあの二人が失うものなんて何もないわよ。違ってたら違ってたでいいの」
グレンダンは汚染獣と頻繁に戦うため、医療技術は全レギオス一である。たった三週間で負傷した者全員が完治したのもこの高い医療技術のおかげであり、後遺症や痕が残ってないのも医療技術が高いためである。
「しかし、拷問で感じた痛みは──」
「武芸者たる者が痛みを嫌がるのか?」
リンテンスはため息をついた。列から外れ、無言で謁見の間から出ていこうとする。
「リンテンス。どこに行くつもり?」
「もうここにいる意味がない。だから帰るだけだ。問題あるか?」
確かに天剣授受者や三王家の人間が呼ばれた理由は、さっきの内通者の疑いがある者たちを見るのと、意見があれば発言することだけであった。肝心の捕らえられた二人が謁見の間からいなくなったら、天剣授受者や三王家の人間がいる意味は無くなる。
「わたしが出ていけと言ったら出ていきなさい。それまで勝手な行動するな」
「ふん。最強の都市の長が、随分と小さくなったものだ」
「……なんですって?」
「内通者がどうした。策がどうした。向かってくるなら、小細工ごと圧倒的な力でねじ伏せればいい。俺が知っているアルシェイラという女は、こういう考えをする女だった。それが今じゃ見る影もないな」
「出ていきなさい」
「ああ、出ていく。二度とこんなつまらんことに俺を呼ぶな」
リンテンスは煙草をくわえ、煙草に鋼糸で火をつける。天剣に慣れすぎたせいか、火をつけたら鋼糸が赤くなって砕けた。
アルシェイラはルシフを怖れている。いや、また負けるのを怖れている。アルシェイラ自身、それは戸惑う感情に違いない。今まで生きてきて、恐怖など一度も感じたことはない筈なのだ。
だからこそ、アルシェイラは未知の感情から逃れようとルシフに関するものを近くから排除して、安心を求めている。
リンテンスは違った。むしろルシフに感謝していた。極めたと思っていた鋼糸の技術をもっと向上できる可能性を教えてくれたからだ。次ルシフと闘う時に、あの澄ました顔を歪ませたい。それを考えるだけで充実した気分になる。
武芸者とはこうあるべきだ。恐怖は逃げるものではなく、立ち向かうものなのだ。
──これはもう駄目だな。
だからこそ、今のアルシェイラを見てリンテンスはそう思ったのだ。
それから三日後、リンテンスが自室のソファに寝転がりながら煙草を吸っていると、蝶型の念威端子が開いている窓から入ってきた。
『二人ともルシフの協力者であることを認めました。建物に火をつけたことも認めています』
「そうか」
煙草を吸い、口から紫煙を吐き出す。
これであの二人が内通者でないことを、リンテンスはますます確信した。拷問に耐えられなくなり、認めてしまったのだろう。
『リンテンスさんはどうお考えで? ルシフって子の協力者だと思う?』
「あんたはどう思ってるんだ」
『わたしですか? わたしは限りなくシロだと思いますがねえ。でも陛下が荒れてらっしゃるから、下手なこと言えませんよ』
「俺もあの二人は内通者ではないと考えている。それで、アレはその報告を聞いてどうした?」
念威端子越しに、デルボネがため息をつく音が聞こえた。
『今度はルシフって子の情報を洗いざらい吐いてもらう、ですって。拷問も続けるとおっしゃったわ』
リンテンスは舌打ちする。
ルシフの高笑いが聴こえた気がした。
◆ ◆ ◆
ルシフとマイはアシェナ家に帰ってきた。
剣狼隊、ニーナ、リーリンは剣狼隊の宿舎の方にいかせた。
「マイ。お前は今日から別の場所で暮らせ」
マイは目を大きく見開いた。ルシフの言葉が信じられないようだ。
「何故ですか?」
「お前もそろそろ一人で生活ができるようになっていい頃だ。安心しろ。お前の希望通りの屋敷をやる」
「私は立派なお屋敷も庭もいりません。広いお部屋もいりません。ルシフさまと一緒に暮らせるなら、たとえ路上暮らしでも文句ありません」
「これはもう決めたことだ。屋敷は手配しておく。それまでに私物をまとめておけ」
「ルシフさま!」
マイは今にも泣きそうな顔になっていた。
「いいな?」
「……はい」
マイはしょんぼりとうなだれた。
悪いことをしたと思ったが、これは必要なことである。
アシェナ家の玄関の扉をルシフが開ける。
使用人が小走りで駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、若さま」
「その若さまという呼び方はやめろ。今は俺が家主だ」
「私にとってはいつまでも若さまです」
この使用人はルシフが産まれた時からアシェナ家の使用人をしていた。年齢も今年で四十になる。母ととても仲が良く、母と楽しそうに家事をしていた。
この使用人だけは辞めなかった。それ以外の使用人は父が死に、母が出ていってからどんどん辞めていった。最終的にこの使用人一人になった。もっとも、都市民から慕われるようになってから再び使用人として働きたいと言ってきた者も多くいたが、全て断った。一人いれば不自由しなかったからだ。マイも家事を手伝ってくれていた。
「お前に言っておくことがある。今日で解雇だ。一年は働かなくても暮らしていける金をやる」
「何を言われているのか分かりません」
「解雇すると言っている」
「嫌です」
「何故そうも俺の使用人をやりたがる? 俺より待遇の良いところは探せばいくらでもあるぞ」
「あなたがジュリアさまのお子だからです」
ルシフは訝しげに使用人を見た。ジュリアの子だからなんだというのか。
「私がいなくなれば、誰があなたの成長を見届けますか。誰がジュリアさまにあなたの成長を伝えられますか」
「母は俺と親子の縁を切った。毎年会いに行っても、会話もない。何かに取り憑かれたように父の肖像画を描いているだけで、俺の顔を見もしない。俺のことなどどうでもいいのだ」
「それでも、あなたはジュリアさまが辛い思いをしてお産みになった子どもです。ジュリアさまもいつかアゼルさまの死を受け入れ、あなたと向き合える時がくると私は信じております」
「母と俺の橋渡しのために俺の使用人を続けるというのか」
「ジュリアさまは私の親友でもあられます。親友の笑顔を取り戻したい。そのためには、息子であるあなたが必要だと思います。私はジュリアさまとあなたが笑い合っているところを眺めているのが好きでした」
こんな決意をして、この使用人は自分に仕えていたのか。
ルシフは自室に戻った。あっという間に使用人を解雇する書類を書き上げる。
自室から出て、使用人にその書類を渡した。
使用人は書類を信じられないといった表情で見つめている。
「お前は解雇だ。今日でもうここには来なくていいぞ」
使用人は何も言わなかった。
ふらふらとした足取りで廊下の奥に消えていく。
「今までありがとう」
ルシフはぽつりと小さく呟いた。
使用人が声に反応し、振り返る。
「……今何か言いました?」
「何も」
「そうですか」
使用人の姿は見えなくなった。
ツェルニに持っていった荷物を片付けたら、念威端子でフェイルスを呼び出す。
フェイルスはすぐに来た。自室のソファに座っているルシフの前に立っている。マイは部屋の隅の方にいた。
「この都市の王になる。そのための段取りを全て整えておけ」
「いつまでにやれば? それと何を合図に?」
「今日中に終わらせておけ。合図は黒のマントを羽織った時だ」
ルシフが剣狼隊の指揮官として動くときの服装にマントはない。ちなみに、ルシフの場合は赤装束ではなく黒装束である。マイも黒装束だった。黒装束は剣狼隊を統率する者の証であり、剣狼隊は黒装束の人間に従う。マイは剣狼隊念威操者の統率者のため、黒装束を着ていた。
「了解しました」
フェイルスが出て行った。
マイを自室に戻らせ、ルシフは夕食までソファで読書を始める。
夕食を食べ終わってしばらくすると、玄関の呼び鈴が鳴った。
ルシフが玄関を開けると、赤ン坊の名前を付けてほしいと言った女性が立っていた。