ニーナやレイフォンたちは、野戦グラウンドの観客席にいた。アルシェイラが、グラウンドにいると邪魔だからと観客席に行かせたからだ。
ニーナの目は、ルシフとアルシェイラを捉えている。
「──本当に、あの女性がグレンダンの女王なのか?」
「信じたくないですが、間違いないです」
レイフォンの表情は強張っていた。緊張しているようだ。
レイフォンの都市追放を決定した張本人。もしかしたら、レイフォンはルシフとの戦闘が終わった後に、アルシェイラが自分へ罰を与えてくると不安に思っているのかもしれない。
「女王は、どれくらいの強さなんだ?」
ニーナはルシフと鍛練をしているため、ルシフの強さはよく知っているつもりだ。
底知れない、それがニーナのルシフの強さに対する印象だった。
ルシフが強いと分かっているが、ニーナではその上限が見えない。
今までルシフの闘いを何回も見てきたが、どれも遊びのようなもので、全力の半分すら出していないだろう。
グレンダンの女王とはいえ、ルシフが負ける姿は想像できなかった。
だから、女王の強さが気になった。
「──今からだいたい五年前くらいの話です。天剣授受者三人が陛下に反乱を起こし、三人がかりで陛下に挑みました」
天剣授受者はグレンダンの最強の称号であり、レイフォン並かそれ以上の実力者しかなれないらしい。
つまり、レイフォン以上の実力者が三人同時に女王と闘った。そして、女王の姿は今も健在である。
ニーナの頬を、一筋の汗が流れていった。
「結果はかすり傷一つつけられず、三人とも一瞬で倒されたらしいです」
「かすり傷すらつけられなかっただと!?」
ニーナは立ち上がっていた。気付いたら立っていた。それほどまでに、衝撃は大きかった。
「正直、僕は陛下に勝てる気すらしません。ルシフが闘おうとしている相手は、そういう相手です」
負けるのか。
あのルシフが、ニーナが知っている中で最強かもしれない存在が、負ける。
そう考えると、複雑な気持ちになる。
ルシフが負けるところを、見てみたいと思う。ルシフの性格上、負けるかもしれない相手には全力で闘う筈だ。ルシフの全力がどういうものか見てみたい。
それと同時に、いつものように涼しい顔で勝ってほしいとも思う。
何故かは分からないが、ルシフの限界を見たくなかった。
「ルシフの奴、負けたらどういうふうになんのかな」
話を聞いていたシャーニッドが静かに呟いた。
あの自信満々な態度が、負けても変わらないのか。それとも、不様な姿を晒すのか。
この場にいる誰も、ルシフがどうなるのか予想できなかった。
「──そろそろ、始まるみたいですよ」
その場にいた全員が、野戦グラウンドに視線を向けた。
レイフォンは野戦グラウンドの光景に集中する。
ニーナは、静かに腰を下ろした。
──ルシフ、勝て。
そんな願いを込めて、ニーナはルシフを見た。
ルシフは自分の小隊の隊員なのだ。なら、隊長である自分は、ルシフの勝利を願うのが正しいと思う。
たとえ、限りなく勝てる可能性が低くても──。
◆ ◆ ◆
アルシェイラは構えない。突っ立ってるだけだ。アルシェイラの瞳は、目の前の獲物がどれくらいの大きさか見極めるような感じで、ルシフに定まっている。
そして、暴力的なまでに激しい剄の嵐が、アルシェイラを中心に起こっていた。
逆にルシフは腰を低くし、両手を胸の高さまで上げて構えた。ルシフが最初から構えているのに、ニーナたちは驚いているだろう。
不愉快だった。アルシェイラの構えない姿を見て、そう思う。舐めきっている感じがするのだ。
自分はしてもいいが、相手にされるのは許せない。
成る程、自分と闘ってきた者たちはみなこういう気持ちだったのかと、理解した。
だが、相手を挑発して全力を出させるには、構えない構えもなかなか効果的だと身を以て感じた。これからも構えない構えは続けていこうと心に決める。
しかしそれも、この窮地を乗り越えられたらの話だ。
ルシフはアルシェイラの一挙一動を見逃さないよう集中する。
アルシェイラが大きく一歩を踏み出した。
そう思った時には、アルシェイラの姿は眼前にあった。右腕を引いている。
右ストレートがくる。そう読んだ時にはもう、ルシフの左腕は受け流しの動作に入っていた。
アルシェイラの右腕の横に、ルシフの左の裏拳が勢いよくぶつかる。ルシフの顔面を捉えていた右ストレートの軌道が変わり、ルシフの顔面のすぐ左横を抜ける。
風がきた。ルシフの髪が激しくなびく。ルシフの後方にあった木が根っこごと吹っ飛んだ。アルシェイラの右拳が大気を殴り、空気の塊を飛ばした影響である。
ルシフが一番注意しているのが、アルシェイラの攻撃をまともに受け止めることだ。
アルシェイラの剄量は、ルシフより遥かに多い。
いつものように金剛剄を使用しても、ダメージを完全に殺せないだろう。確実にダメージが残る。
攻撃は受け止めずに避けるか捌く。そのためには、身体を地面から離れさせてはならない。常に身体の一部分は地に付け、身体のコントロールを失わないようにする。
跳んだら最後、上手く身動きが出来ないところをアルシェイラに狙われ潰されるだろう。
ルシフの性格上、攻撃を真っ向から受け止めないのは相手から逃げているようで気に食わないが、相手の方が強者なのは間違いないため、そこは仕方ないと妥協した。
どれだけ立派な闘いをしたところで、勝たなければ何の意味もない。勝つためなら、ルシフは自分の好まない闘い方も許容できる。
アルシェイラは右腕を突き出したまま、目にも止まらぬ左膝蹴りを放つ。その時には既に、ルシフは旋剄で右に真っ直ぐ移動していた。
アルシェイラの左膝が、ルシフの横腹を掠める。ルシフの着ていた制服の横腹の部分が、刃物で切られたように裂けた。
受け流してすぐに旋剄を使って、ぎりぎりかわせる攻撃速度。驚愕に値する。アルシェイラの動きを先読みして行動しなければ、一瞬で負ける。
ルシフの旋剄に、アルシェイラは楽々追い付いた。その顔には笑み。
咄嗟にルシフは地面を蹴り上げ、土の壁を作った。アルシェイラとルシフの間に、土が舞う。
アルシェイラが鬱陶しそうに目を細めて、ルシフの顔面を狙った左フックを打つ。間にあった土の壁は瞬く間に霧散し、消えた。ルシフは左フックがくる前に、屈む動きをしていた。
そもそも、土の壁は上への攻撃を誘うためにした。視界を遮られないようにしたいだろうと、相手の心情を読んだうえでの判断だった。
すぐ頭上を暴風とともに通りすぎた左フックに恐怖し、ルシフの顔に冷や汗が浮かんだ。
その恐怖を抑え込み、ルシフは右手でアルシェイラの腹部に触れた。
触れた瞬間に剄を右手に集中し、その剄を電気に変化させ、アルシェイラにぶつける。
化錬剄の変化、紫電掌。
アルシェイラの全身が紫電に包まれ、アルシェイラの身体を這うように紫電が駆けた。
電撃を浴びせたら、すかさず旋剄でアルシェイラから離れる。
「──今の何? 電気マッサージ?」
アルシェイラは何事もないようだ。それどころか笑みを深くしている。
電撃、効果なし。
ルシフの頭に一つ情報が入れられた。
普通の武芸者なら黒焦げになっている威力の電撃だったのだが、アルシェイラに対してはそれも攻撃に値しないらしい。
アルシェイラの両手に剄が集まり、両腕を物を投げるように動かして、衝剄の塊を次々に放つ。
それらは真っ直ぐ飛んでいくわけではない。不規則に宙を動きながら、ルシフの方へ青白く輝く数多の閃光が襲いかかった。
ルシフは閃光をかわしながら、半円を描くように移動する。標的を外した幾筋もの閃光は、見当違いな場所に当たった。衝撃波が次々に起こり、野戦グラウンドを荒れ狂っている。
ルシフはアルシェイラの右横の位置で方向転換し、そこから瞬く間にアルシェイラに近づく。
だが、アルシェイラの動きの方が速い。横をとったと思ったら、既にアルシェイラはルシフの方に身体を向けていた。
「ちょこまかと!」
アルシェイラが左腕で殴りかかる。ルシフはそれを右手の裏拳で、アルシェイラの左腕の横にぶつけて軌道を逸らした。
もしアルシェイラがフェイントを交えて攻撃すれば、ルシフはアルシェイラの攻撃を受け流すなどできないだろう。フェイントがないと決めつけて、ルシフはアルシェイラの攻撃に対応している。
ルシフには、アルシェイラがフェイントしないと分かっていた。自分がアルシェイラの立場なら、フェイントを使わないからだ。
フェイントは格下相手に使うものではない。強者だからこそ、力だけで敵を潰す。
誰よりも強いアルシェイラだからこそ、強者の余裕というものがある。そこに付け入る隙があった。
受け流した刹那、ルシフは右手を
右手に剄を集中し、化錬剄で剄を氷に変化させた。
アルシェイラの全身が瞬く間に氷で覆われる。しかし一瞬で、アルシェイラを覆った氷は砕けた。
アルシェイラはルシフに左腕を掴まれた状態のまま、右腕でルシフを殴る。ルシフはアルシェイラの左腕を離し、アルシェイラの右腕を左拳で打ち落とす。ルシフは完全にアルシェイラの攻撃のタイミングを掴んでいるうえに、アルシェイラの速さに慣れてきていた。だからこそ出来た芸当だった。
ルシフはすぐさま旋剄でアルシェイラから距離をとる。
氷撃、効果なし。
再びルシフの頭に情報が入れられた。
ルシフはアルシェイラに効果的な攻撃がないか探っている。
アルシェイラが跳んで、頭上から左拳を振り下ろす。それを素早く一歩後ろに下がってやり過ごした。アルシェイラの左拳が地面にめり込み、土が周囲に散らばる。更にアルシェイラは避けたルシフに近付き、右足下段蹴り。ルシフは前に出て、アルシェイラの右太股の部分に当たるようにした。アルシェイラの蹴りの威力を最大限殺した筈なのに、ルシフの左横腹に重い衝撃がきた。歯を食い縛り、踏ん張る。
「さっきから獣みたいに地面を這いつくばって、いいかげん鬱陶しいのよ!」
アルシェイラの言葉を無視し、ルシフは左手をアルシェイラの右太股にもっていく。そして、左手の剄を火炎に変化。左手を中心に、火炎がアルシェイラの右太股にまとわりつく。
「ッつぅ!」
ここでアルシェイラに、今までと違う動きがあった。
アルシェイラが勢いよく右足を引いたのだ。まるで無条件反射したように。
──炎撃、効果あり!
アルシェイラでも、熱までは何も感じないというわけにはいかないらしい。
電気は流れる性質があるため、熱が拡散してしまったが、火なら熱を集中させる。それが、アルシェイラの纏う剄の壁の上からでも熱を感じさせたのだろう。
ルシフは両手に火を纏う。
もともと長期戦にするつもりはなかった。地力が違い過ぎる。長期戦になればなるほど、その差がルシフにのしかかり、不利になる。
アルシェイラに効果的な攻撃が見つかった時点で探る闘い方を止め、攻勢に転ずる。
「──反撃開始だ」
ルシフが両の手の平をアルシェイラに向ける。手の平の炎が勢いを増し、アルシェイラを炎の檻に閉じ込める。アルシェイラは周りで燃え盛っている炎には目もくれず、ルシフがいたところに接近し左足での廻し蹴りを放つ。その時に生じた風圧が、周囲の炎をも掻き消した。だが、廻し蹴りの先に肝心のルシフはいない。
いや、ルシフはアルシェイラの近くにいた。それも一人ではない。何百はいるんじゃないかと思うほど、アルシェイラの周囲も、頭上も、僅かな隙間もなくルシフの姿で埋め尽くされている。
「──千人衝!」
観客席のレイフォンが叫んだ。
活剄衝剄混合変化、ルッケンス秘奥、千人衝。
天剣授受者であるサヴァリス・ルッケンスが使用する技である。
ルシフはルッケンスの秘伝書を読んだことも、実際に千人衝を見たこともない。独力で習得した。
それら全てのルシフの手の平がアルシェイラに向けられ、その手の平に炎が集中していく。
全てのルシフが同時に火炎攻撃するのを悟ったアルシェイラは、全身から膨大な剄を放出させる。
その時に生まれた衝撃波が、アルシェイラを囲んでいたルシフの全ての分身を消し飛ばした。しかし、ルシフの本体はいない。気配もアルシェイラは感じられなかった。
不意に頭上から、膨大な剄の波動を感じた。アルシェイラは頭上を仰ぎ見る。何も見えない。内力系活剄で視力を強化。エアフィルターすれすれの位置に、ルシフがいた。
ルシフは千人衝でアルシェイラの周りを気配で埋め尽くし、自分の気配を分からなくしてからエアフィルター近くまで跳躍していた。そこから下を見る。アルシェイラは黒い点にしか見えない。
その点を切る。
切る自信があった。
真っ二つに切る。
そういう覚悟をして、剄を放出した。
地面から身体を離す時は、勝負に出る時だと決めていた。ずっと地面を這いずり回っていたから、アルシェイラは上から攻撃してくるなど夢にも思わなかった筈だ。
アルシェイラは頭上に右手を
アルシェイラに止められた時点で、ルシフは剄の放出を止め、不可視の剣は消えた。
アルシェイラがルシフ目掛けて一直線に跳んだ。凄まじい速さでルシフに向かっていく。
空中では上手く身体を動かせない。
ルシフは眼前まで迫ったアルシェイラから目を逸らさず、右手を後方の虚空に伸ばし、何かを掴むような動きをした。
アルシェイラが右腕を引いた。超高速の右ストレートがくる。
瞬間、ルシフの身体が何かに引っ張られたように右斜め下の方向に動き、アルシェイラの右ストレートをかわした。そして、アルシェイラの横腹に左膝蹴りを入れる。
ルシフの右手には剄で創った糸が握られていた。跳ぶ前にその糸を野戦グラウンドの壁に張り付けておいたのだ。ルシフの右手がその糸を握るまで、その糸は目視できない細さであり、握った瞬間に糸に剄を流して、自分の体重と力に耐えれる糸にした。
きっとアルシェイラは思っただろう。
頭上からの不可視の剣が切り札だと。後は殴りにいって終わりだと。
──この瞬間。この瞬間を闘い始めた時から待ち望んでいた。
横腹に蹴りを入れて、アルシェイラの動きを完全に制御化に置いた。
全身に剄を巡らせ、その剄全てを鋭い刃物に変化させる。
今まで人に向けてこの技を使ったことはないし、使おうと思ったこともない。
今まで人を殺したことはないし、人を殺そうと思って闘ったこともない。
だが、この相手は違う。殺す気でやらなければならない相手だ。自分の方が弱者なのだ。殺さないで倒すなどという甘い考えは、自分を殺す。
ルシフはアルシェイラの背に手刀を入れる。
アルシェイラの身体が半回転した。アルシェイラの顔が見える。その表情は楽し気な笑み。その顔を張り飛ばす。
ルシフは自分を奮い立たせるように、腹の底から雄叫びをあげた。
その声はツェルニ全体を震わせ、そこに住む人々を強張らせた。
目にも止まらぬ速さで、アルシェイラの全身に次々に攻撃を加えていく。雄生体ならば細切れになっている攻撃だが、アルシェイラの肌に傷一つ付けられない。
──ここで殺す。
しかし、ルシフは攻撃を止めない。傷を与えられなくても、猛攻を途切れさせない。
──ここで殺しきる!
アルシェイラの腹部に、左足での踵落としを垂直に叩き込む。
アルシェイラは真下に勢いよく落下していった。
ルシフは真下に落下していくアルシェイラに向けて、左手を翳した。
ルシフは目を閉じ、頭の中に思い描く。
全身を巡る剄が、左手に集中していくイメージを。
剄脈から生まれ続ける剄が、左手に供給されるイメージを。
自分が扱える全ての剄が、左手に収束するイメージを。
ルシフは力強く目を開き、野戦グラウンドに片膝をついて着地したアルシェイラを見据える。
ルシフの左手から、赤く輝く熱線が放たれた。
アルシェイラの身体が、赤い閃光の中に呑み込まれる。
野戦グラウンド全体が赤い光に包まれ、一瞬後に野戦グラウンド全てが爆発した。野戦グラウンドの観客席は熱風が激しく吹き荒れ、レイフォンたちは顔の前に手を翳して熱風に耐える。
「あいつ、ビーム撃ちやがった!」
シャーニッドが驚愕の表情をしている。
「あの人はどうなった? あれをまともに受けたのでは……」
ニーナは未だ爆煙で包まれている野戦グラウンドを注意深く見た。
レイフォンは無言でルシフを見ている。
熱線の爆発の広がり方を見て、ルシフは舌打ちした。
極限まで収束させた熱線を何もせずに食らったのなら、アルシェイラのいた場所一点だけを貫くように赤い光はなった筈だ。
野戦グラウンド全体に赤い光が広がる。つまり、アルシェイラは何かしらの抵抗をした。
ルシフはそれを悟った。
再び内力系活剄で身体強化をし、同時に剄の糸を野戦グラウンドに張り付け直して、その糸を手繰って素早く野戦グラウンドに下りる。
アルシェイラの立っているところだけ、地面が盛り上がっている。それ以外の場所は全て深く爆発で抉られていた。
アルシェイラは右手を頭上に突きだしている。あの熱線すらもその右手で受け止め、周囲に弾いたらしい。
アルシェイラは頭上に右手を突き出したまま、ゆっくりと右手を握りしめる。
野戦グラウンドに下りてきたルシフをアルシェイラは見る。その顔に、笑みはなかった。刃のように鋭い光を宿した瞳が、ルシフを映している。
四段構えの攻撃だった。
一段目は千人衝を使用した全方向からの集中攻撃。
二段目は超遠距離からの不可視の剣での斬撃。
三段目はわざと隙を作ってそこを攻めさせ、逆にカウンターで刃と化した手足での猛攻撃。
四段目は全力の熱線を使用した追撃。
これら全ては繋がっていて、どれか一つでもまともに食らえば、ほとんどの武芸者や汚染獣は死に至る攻撃だった。
だが、アルシェイラは服すら破れてなく、無傷。
ルシフはこの攻撃に全てを賭けていた。
アルシェイラは一瞬でルシフに肉薄し、右のボディーブローを打つ。
ルシフはその攻撃が見えていた。しかし、受け流せない。
アルシェイラのボディーブローはルシフの腹部に深々と突き刺さった。
ルシフはすっからかんになるまで剄を使った。
剄脈から常に剄が生まれ続けていても、普段と同じ剄量に戻るまではそれなりの時間がかかる。
活剄による肉体強化も、アルシェイラと闘い始めた時の肉体強化には程遠い。
だからこそ、あの攻撃で決められなかったという事実は、自分の負けを意味していた。
ルシフは口から血を吐き出し、拳が突き刺さった腹部から、バキバキと何かが折れる音がした。
ルシフは金剛剄を使用していたが、それでも気休め程度の効果しかないようだ。
ルシフの身体はふわりと宙を浮いた。
剄の糸を地面に伸ばそうとしたが、アルシェイラがその糸を手で切った。
アルシェイラの目が届かないところで密かに糸を出すならともかく、さすがに見てる前では通じないらしい。
そんなことを考えながら、ルシフはアルシェイラが左腕を引いているのが見えた。
顔面にくる、と直感したルシフは、右腕を顔面の前にもってきた。
その右腕に、アルシェイラの左ストレートが当たる。右腕があり得ない方向に曲がり、ルシフの身体は後方に吹っ飛んだ。
更に、アルシェイラは吹っ飛んだルシフに追撃を仕掛ける。
アルシェイラが数度ルシフに拳打を浴びせ、ルシフは口から血を吐きながら、地面にうつ伏せで倒れた。
倒れたルシフの首を左手で掴んで、アルシェイラはルシフを軽々と自分の頭より高く持ち上げる。アルシェイラの右手は未だに握りしめられていた。
「一つ聞いていい? あんたを今ここで殺すべきだと思う?」
ルシフは一度咳き込み血を吐き出してから、アルシェイラを見る。
「──殺しておけ。俺を生かしておけば、いずれ後悔するぞ」
「……そんな強がり言って。命乞いするなら、もう許してあげてもいいわよ」
数秒の静寂。やがて、ルシフは血の付いた顔で口の端を吊り上げた。
「……だれが命乞いなどするか。ばーか」
その言葉を聞き、アルシェイラは凄絶な笑みを浮かべた。
アルシェイラはルシフを軽く宙に放る。
宙を舞うルシフ目掛けて、アルシェイラは左腕を頭上から振り下ろした。
左腕から放たれた剄の塊が、ルシフの身体に勢いよくのしかかる。その瞬間、ルシフは左手の人差し指と中指で左足の太股を突き刺した。
ルシフの身体は見えない何かで地面に叩きつけられ、全身から骨が軋む音がした。
ルシフは気が遠くなりそうなのを、左足の太股に突き刺さっている指を動かして、痛みで無理矢理意識を保つ。
──気を失ってたまるか。
ルシフはたとえ殺されるとしても、気を失った後に殺されるのは嫌だった。その殺され方は、最後の最後まで死にもの狂いで闘っていないように感じるからだ。
死ぬ最期の瞬間まで、意識を保っていたい。
この考えは、ルシフの意地に近いものだろう。
ルシフの今の状態は酷いものだった。
ルシフの口からは血がこぼれ、右腕と右足が完全に折れ、肋骨も何本も折れている。内臓もいくつか損傷。左足の太股は抉れ、そこから溢れる血がルシフが倒れている場所に血だまりを作っていた。
アルシェイラはルシフに背を向けると、野戦グラウンドの出口へと歩き出した。
もう勝負はついた、ということだろう。
「……待てよ」
アルシェイラの後方から、ルシフが声をぶつける。
ルシフはふらふらしながらも、立ち上がっていた。
アルシェイラは立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「何か言った?」
「俺はまだ……動ける。逃げるのか?」
この状況を見かねたレイフォンたちが、野戦グラウンドに下り、ルシフとアルシェイラの間に入った。
「もういいだろう、ルシフ!
あなたも、これ以上やる必要はないでしょう!?」
ニーナが青い顔をして叫んだ。
アルシェイラは左手で軽く頭を掻く。
「勝負の終わりを決めるのは、第三者じゃなくて当人たちなのよねえ」
アルシェイラの姿が消えた。
間にいるニーナやレイフォンたちを掻い潜って、アルシェイラはルシフを殴り飛ばす。
遥か後方の野戦グラウンドの壁に、ルシフの身体はぶつかり、ルシフはそのまま地面に倒れ込んだ。
「──なッ!?」
殴ったアルシェイラを、信じられないといった表情でニーナが凝視した。
もう勝負はついていた。あんなルシフの挑発に乗らずに、無視して外に出ればよかった。
誰が見ても、この勝負は女王の勝ちだ。
アルシェイラはそんな視線を気にもせずに、再び外の方に歩き出した。
「わたしに逆らうとああなるってこと、よく覚えておきなさい」
レイフォンとすれ違う瞬間、アルシェイラが小声で言った。
レイフォンの表情が固まる。
そして、アルシェイラは野戦グラウンドの外へと出ていった。
アルシェイラは野戦グラウンドから出ると、握りしめ続けていた右手をゆっくりと広げる。
右手の平一面に、火傷していた。
ルシフの熱線を受け止めた時に負った火傷だ。
アルシェイラは初めて、闘いで傷を付けられた。
油断していたからかもしれない。しかし、そんなのは関係ない。
油断していても、今まで傷を負わされた経験はない。
リンテンスに喧嘩を吹っ掛けた時も。
天剣授受者三人と闘った時も。
ルシフ・ディ・アシェナ。
ますます天剣に欲しくなった。
きっと退屈しない毎日を過ごせるようになるだろう。
それに、今の天剣授受者全員に足りない勝利への執着心や頭を使った闘い方は、きっと天剣授受者たちに良い影響を与える筈だ。
いずれグレンダンに天剣を奪いにくるとルシフは言っていたから、その時にまたボコボコにして、屈服させればいい。どれだけ成長したところで、わたしに勝てる筈がないのだ。
アルシェイラは再び右手を見る。
「これ治すの、一日くらいかかるわね」
そんなことを呟きながら、アルシェイラは待たせている放浪バスのところに向かった。
◆ ◆ ◆
「ルシフ!」
ニーナやレイフォンがルシフに駆け寄る。
そして、ルシフの傷の酷さに顔をしかめた。
「とにかく、病院に連れていかないと!」
ニーナはルシフの左腕を持ち、肩に腕を回そうとする。
「触るなッ!」
ルシフは怒鳴り声をあげ、ニーナを振り払った。
ニーナは一瞬息を呑んだが、すぐに怒りに染まった顔になる。
「何バカなことを言っている! おまえは重傷なんだぞ! その傷で病院に行けるわけないだろう!」
「俺は──『王』だ」
口の端に血の筋を残し、ルシフは左手を地面につく。
「『王』は誰の手も借りずに、一人で立てなければならない」
誰かの支えがなければ立てない王など、王と認めない。
王は誰よりも先を歩き、導く存在でなければならない。
ルシフはゆっくりと立ち上がる。
右腕を掴んで、正しい方向に無理やり戻した。
「……ッ!」
ルシフの顔が激痛で歪む。
「……人は他人の助けが必要な生き物だぞ」
「俺は他人が力を貸したいと思う『王』で在りたいだけだ。力を貸さなければと思われる『王』は、『王』じゃない」
「どっちも──」
同じだろう。
そう言おうとしたが、ニーナはルシフの燃えるような瞳を見て言葉を止めた。
微妙な違いだが、ルシフにとっては重要なんだろう。
ルシフは右足を引き摺るように、ゆっくりと歯を食い縛りながら歩き、野戦グラウンドから出ていく。
ルシフが歩いたところは、血の道ができていた。
──アルシェイラ・アルモニス! この俺をわざと殺さなかったこと、必ず後悔させてやる!
ルシフは屈辱で顔を歪めながら、心にそう誓った。