夜といっても、まだ都市全体が寝静まるには早い時間だった。特に商店が多く立ち並ぶ中央部は街灯がこれでもかというほどつけられ、昼間と遜色なく大通りを浮かび上がらせている。人通りも多く、大通りは人でごった返していた。以前は命に関わる危険な旅を何日もして都市間を移動していたが、今は都市間の移動は一日もかからなくなっており、ちょっとした旅行気分で他都市に行けるようになったため、外の世界に興味を持っていた人が多く旅をするようになっていた。特にヨルテムは交易の中心であるために豊富な物資があり、商業も盛ん。旅の人を楽しませる歓楽街も充実していて、人が集まるのも至極当然だった。
その人だかりに何度もぶつかりながら、走っている少女がいた。目の前を邪魔する人を突き飛ばし、あるいは身体をひねってかわし、ぶつかった相手には謝りもせず、一心不乱に走り続けている。
やがて少女は、一際大きな屋敷の前で足を止めた。休まずここまで走ってきたらしく、息を荒くついていた。両膝の上に両手を置いて、何度も深呼吸する。息を整えたら、屋敷の上部をひと睨みし、屋敷の中に入っていった。
少女が案内されたのは、応接室のようだった。ソファが対面で置かれており、間に透明なテーブルがある。元都市長が座っている奥には床まで届いている黒いカーテンが閉められていて、部屋の周囲には本棚や陶芸品、動物の剥製などがあり、動物の突き出した角は雄々しく、目は少女を責めるように真っすぐ少女の方を向いていた。
応接室の扉から使用人らしき女性がお盆を持って入ってきた。お茶の入った湯のみと茶菓子を、少女と対面に座っている元都市長の前に置いた。お盆に何も無くなると、お盆を抱えるようにして一礼し、応接室を出ていった。出ていく時は扉を閉めるのを忘れず、しっかり扉を閉めた。
少女は茶と茶菓子を睨んでいた。別に嫌いではないが、ついさっき見た光景をどうしても思い出してしまって、手をつけられずにいるのだ。
そんな心情を察したのか、元都市長は茶を美味そうに飲んだ後、すぐに本題に入った。
「シェーンを連れずここに来たということは、奴の毒殺に関して何か進展があったのか?」
「毒殺は成功しました。陛下が血を吐いたのをはっきり見ました」
「ほう。ならば何故シェーンを連れてこなかった? シェーンが我々のことについて話したらどうする?」
「あ……」
毒殺が成功したのを確信したら、自分が逃げることしか頭になかった。逃げ切る自信はある。シェーンに似せた容姿をずっと続けていたから、髪の色や髪型、カラーコンタクトなどの部分を元に戻してしまえば、まったくの別人になる。
それに、一刻も早く報告して自由になりたい、という気持ちもあった。
「でも、陛下の書斎は上層部にありますし、それも奥の方ですから、もしシェーンと逃げていたら二人とも捕まっています!」
「……まあ、よい。赤装束の連中は嫌々奴に従っている。奴が死ねば喜びこそすれ、シェーンを捕らえて殺すなどやるはずがない。あの毒で死なん人間などおるはずないからな」
元都市長は小さなフォークに刺さった一口サイズの黒い羊羹を口に放り込んだ。
少女はじれったくなり、透明なテーブルを両手で叩く。
「とにかく! 約束通り陛下を毒殺できたのです! 早く契約書をください!」
「ふむ……」
元都市長は少女の言葉に耳を傾けつつも、別の言葉も意識を集中して聞いていた。
元都市長の右耳には、マイクが内蔵されたワイアレスの黒いイアホンがつけられており、通信機の役割を果たしている。少女との会話はすべてマイクで拾って、通信先に聞こえているのだ。
少女との会話を聞いた通信先の相手の声がイアホンから聞こえる。ルシフがいる都市長室がある建物をさりげなく見張らせている者からの通信。
『都市長。建物の出入口を赤装束の者たちが慌ただしく出入りしています。いつもの雰囲気とはまるで違い、異様な雰囲気もあります。何かあったのは間違いないかと』
「分かった」
元都市長は小声で呟いた。何を言ったかは分からないが声だけは聞こえた少女が、訝しげな視線を元都市長に向ける。
元都市長は少女の視線に気付き、軽く咳払いをした。
「オホン! よかろう。お前の契約書を渡す」
元都市長がソファから立ち上がり、少女の横に移動する。懐から一枚の折り畳まれた紙を取り出し、少女に差し出した。
少女はひったくるように紙を取り、広げていく。その紙は紛れもなく自分の人身売買に対しての契約書だった。
両手で契約書を持ち、目を輝かせて読むのに夢中になる少女。
「お前に自由を与えてやろう」
元都市長がそう言うが、少女は耳に入っていないようで、まるで反応しない。
少女にとってこの契約書は自由への切符なのだ。この契約書がこれからの自分の未来を自分だけのものにする。
異変は突然だった。
契約書を何かが貫いたと思ったら、自分の身体が持ち上げられ、自分の胸を斜め上に貫かれた。
少女は視線だけを彷徨わせる。ゆれるはずのない黒いカーテンが揺れていて、契約書の向こうに見知らぬ男。契約書からは白銀に煌めく剣が突き出ており、自分の右腕の腋を見知らぬ男の手が持ち上げ、契約書から突き出た剣は斜め上に自分の胸を貫いている。
「これでお前は自由だ。良かったな」
少女は元都市長が何を言っているのか理解できなかった。自由……? これが、親友を売ってまで手に入れた自由……?
少女の目から光が失われた。
すでに事切れている少女を、元都市長は感情のない目で見る。死んでも契約書を両手で持ったままだった。自由の切符も今となっては紙屑同然であり、少女の姿はどこか滑稽な気分にさせる。
少女の胸から赤い染みが広がっていくが、血は飛んでいないため部屋はどこも汚れていない。それも元都市長の機嫌を良くした。
少女はもう用済みであり、生きていても自分にとって不利益しかもたらさない。だからこその口封じだった。
「死体を処理しておけ。細かく刻んで池の魚の餌にでもすればいい」
「はっ」
剣を持つ男は剣が少女に突き刺さった状態のまま、身体を起こした。少女から突き出ている白銀の刀身には血が伝っている。
剣を抜けば血が噴き出し部屋が汚れ、元都市長の機嫌を損ねる。男はよくそれを理解していた。
「あと私の関与に気付く者はベデがおる。急ぎ部下を引き連れ、ベデの屋敷に行け」
「標的はベデだけで?」
「いや、身内の誰かに私のことについて口を滑らせておるかもしれん。屋敷にいる者は全員始末しろ。始末したら、屋敷に火をつけて焼き払え」
「分かりました」
「それから、ルシフが侍女に毒殺されたという噂もそれとなく流しておけ。信憑性はどうでもいい」
「部下にやらせておきましょう」
元都市長が扉を開く。男は一礼して、少女を持ち上げながら外に出ていった。
「くはははははは!」
ソファに元都市長は腰掛け、笑い声をあげた。
ルシフは明日の正午、全都市長を謁見の間に集め、重大な発表をするという。しかし、ルシフは死んだ。正義の鉄鎚により、魔王を滅ぼしたのだ。
各都市長が集まっている謁見の間に、悠然と踏み入れる。各都市長からルシフを殺したことによる感謝と自分への臣従の言葉を浴び、赤装束の者たちと武芸者が自分に跪く。念威端子の映像でその光景を観ていた都市民は、暴政からの解放と人徳ある新王の戴冠に沸きに沸く。
元都市長の頭の中には、明日の正午での謁見の間の甘美なイメージができあがっていた。客観的に見れば、そのイメージにはいくつもの矛盾点や都合の良い解釈が多分に含まれているが、元都市長にとっては明日の正午に実現される未来であった。彼は気付きすらしていない。彼の行動は明確なルシフへの敵対行動だということに。
『都市長。ベデの屋敷はすでに赤装束の者らに押さえられており、任務達成は極めて困難です』
イアホンから、さっき出ていった男の声がした。
もしかしたら、赤装束の者たちの中にもルシフを慕う者と敵対する者の二種類がいるのかもしれない。ルシフを慕う勢力からの復讐を防ぐため、ルシフに敵対している勢力がベデの屋敷を押さえ警護しているのではないか。むしろ無理に殺そうとすれば、こちらの身が危うくなる。
そう考えた元都市長は、ベデ殺害を諦めた。
「分かった。とりあえず戻ってこい」
『了解』
それっきり声がしなくなると、元都市長は少女が食べる予定だった羊羹に刺さっている小さなフォークを手に取り、そのまま口に入れた。
羊羹を食べ終わると、元都市長は声をあげて笑った。叶わぬ幻想に酔いしれながら、ずっと笑い続けた。
◆ ◆ ◆
謁見の間にある玉座は金属製で、宝石が装飾された正に支配者が座る椅子という印象だった。
この部屋には段差が無く、玉座に座れば誰よりも目線が低くなるのだが、支配者は段差を作らせなかった。いや、あえて作らなかったのだ。もうすぐ王宮が完成しそうだという噂を聞いた。あくまでこの建物は仮で使っているに過ぎず、王宮が完成すればそちらに支配者と主だった者たちが移動するだろう。
カリアンは視線だけで謁見の間を見渡す。念威端子が数枚室内を舞っていて、謁見の間を囲むように赤装束の者が配置されていた。彼らは普段と違い、落ち着きが無いように見える。
謁見の間はざわめきに支配されていた。時刻は正午を五分も過ぎている。時間にうるさい支配者が遅刻など、考えられない事態。
ざわめきの内容は噂に関することだった。
「時刻を過ぎても陛下がお越しにならぬが、まさか噂は本当なのか?」
「陛下が侍女に毒を盛られ殺されたという噂か? 私もここに来る途中、ヨルテムの都市民が小声で話しているのを聞いたが、さすがにあり得ん話だろう。陛下がこれほどあっさりお亡くなりになるなど、信じられん」
「分からんぞ。陛下はとても好色らしいからな。侍女とお楽しみされていて警戒が緩くなったところを狙われれば、成功──」
会話している男の一人が、赤装束の者の睨むような鋭い視線に気付き、戸惑いつつも口を閉ざした。会話していた他の者も黙り込む。
「ヴァンゼ、どう思う?」
カリアンは顔を僅かに後ろに向け、
「ルシフがあっさり死ぬとも思えんが、来ないところを見ると、何かあったのは確からしいな」
「私も同じ見解だよ」
各都市長は最も信頼できる武芸者を護衛として一人連れてきていた。カリアンはもうツェルニを卒業したのだが、ツェルニの都市長としてツェルニに留まっている。ツェルニの生徒会長の座はサラミヤ・ミルケという名の少女に譲った。ヴァンゼもツェルニを卒業したが、ツェルニの武芸教官としてツェルニに滞在している。
その会話を最後に、謁見の間に沈黙の帳が下りた。
それから五分ほど経ち、沈黙の帳は意外な形で上げられた。謁見の間に見知らぬ中年の男がふんぞり返って入って来たのだ。ざわめきが再び謁見の間の支配者になる。
中年の男は派手で高そうな服装をし、自信に満ちた顔がその上に乗っていた。
ひと目見て中年の男の意図に察しがついたカリアンは、あまりの滑稽さと浅はかさに思わず吹き出しそうになったが、なんとか我慢して口元の変化だけに留めた。
「お集まりの諸君! 私は以前ヨルテムの都市長だった者である! 暴王ルシフは正義の鉄鎚が滅した! よって、新たなヨルテムの都市長は経験のある私が適任であるとの判断から──」
「誰が滅したって?」
元都市長の背後から浴びせられた声に、元都市長は身体を強張らせた。
謁見の間にいる者全員の視線が元都市長の背後に集中し、元都市長は慌てて振り返る。
そこには死んだはずのルシフが立っていて、その後ろには金髪でメガネの女性が控えていた。ルシフは黒装束を着ていて、見たこともない凶悪な武器──確か方天画戟と言ったか──を左手に持っている。余談だが、その凶悪な武器ゆえに、『ルシフは罪人を毎晩手に持つ武器でいたぶり、愉しんでいる』というような根も葉もない噂が後を絶たない。こういう適当な話を作る輩は常日頃から一定数存在するが、都市民のルシフへの恐怖がその噂に信憑性を与えていた。
ルシフを見た元都市長は信じられないという表情になる。
「……いや、その、だから、噂で陛下が毒を飲まされたと聞き、お亡くなりになられたのかと……」
「確かに毒は飲んだ。なかなかの苦痛で意識が飛びそうになり、左足のももをこれで突き刺したりして大変だったぞ」
ルシフは右手の人差し指で左足のももを指差した。おそらく服を着替えたため、左足のももの部分は破れていない。
謁見の間は支配者の登場で凍りついた。誰もが支配者の機嫌を損ねて罰を受けないよう、細心の注意を払っている。身じろぎすら、緊張感を持ってやらなければならなかった。
ルシフが不愉快そうに目を細め、元都市長を睨む。
「で、貴様はなんだ?」
「わ、私は……」
「関係者以外は出ていけ。それとも、俺が直々に放り出してやろうか?」
元都市長の顔が青ざめた。
「けっ、結構です! 自分の足で出ていきます!」
なりふり構わずというのを体現したような走り方で、元都市長は謁見の間から出ていった。
ルシフは一度だけ振り返り、元都市長の無様な姿を見たが、すぐに正面に顔を戻し、悠然と歩き出した。
もしかしたらルシフは、あの元都市長が謁見の間にのこのこやってくるのを待っていたのかもしれない。タイミングが良すぎる。
ルシフは玉座に座った。その場にいる全員が跪く。
「世界は汚染物質に蹂躙され、錬金術師たちは
跪いている各都市長は、頭を下げながら身体を震わせている。ルシフの演説を聞いた彼らの動揺は計り知れなかった。
演説ではなるほど、良いことを言っている。確かに都市間戦争、汚染獣といった外敵からの脅威は無くなったと言っていい。だが、中央集権化を遂げたルシフの政治に各都市の自治権は存在せず、各都市が何百年と築きあげてきた伝統や倫理観、法律制度は徹底的に破壊、淘汰された。ルシフの政治はアップデートではなくシステムの再構築、リフォームではなく建て替え、なのである。更に増税や王宮の建造、都市民の声を聞かずに独断での都市開発等、自分にとって得になることしかやっていない。武芸者選別や役人の選別も徹底され、無能の烙印を押された者は一片の慈悲すら無く排除された。物資の価格統一も実施され、今までの感覚で売買してきた都市民は大きな混乱に陥り、抗議の声は武力による徹底的な弾圧によって潰された。
ルシフの演説を念威端子で観ていた都市民の大多数は、『新たな社会体制? 要は外からではなく内からの恐怖政治になっただけだろ』と冷めた目で思った。極少数の者はルシフの演説を聞き歓喜の声をあげたが、周囲の冷たい視線にあげた拳を下ろした。
ルシフは自分に酔い、自分にとって都合の良い部分しか見ない独裁者を上手く演じている、という印象をカリアンは跪きながら覚えた。
「国名はフォルトとする! これからは都市名の前にフォルト国と入れることを通例化し、首都はヨルテムに置く!」
「おめでとうございます! フォルト国万歳!」
歓声が謁見の間を包んだ。各都市長が拍手しながら、口々に祝福の言葉を口にしている。心の奥底で唾を吐きかけながら。
「以上をもち、建国宣言を終了する!」
ルシフが玉座から立ち上がった。各都市長は拍手をやめ、口を閉ざし、再び頭を下げる。
ルシフは謁見の間から出ていった。その後ろを金髪でメガネの女性が付いていく。
ルシフが謁見の間からいなくなっても各都市長はしばらく謁見の間にいて、小声でひそひそと話し合っていた。
謁見の間から出て、広い廊下をルシフが方天画戟を手に歩いている。ゼクレティアはルシフの後ろを付いてきていた。
「陛下! わたしは感動いたしました! 新たな歴史の一歩が今日ここから始まる実感に、心が今も躍っています!」
興奮気味に話すゼクレティア。
「こんなもの、通過点に過ぎん」
ルシフは振り返りもせず、口を開いた。
「確かに今までの問題のほとんどはこれで解決する。しかし、これにより新たな問題も生まれる。脅威が無くなれば、人類は加速度的に増加し、居住地区の拡大をせねばならなくなる。セルニウムも有限な資源であるため、セルニウムの消費量削減とセルニウムに代わる新たな資源の確保、開発をせねばならん」
「あ、もしかして外縁部を潰して農業区、工業区を拡大したのは、人口増加を見越したうえでの対策ですか?」
「それでも一時しのぎにしかならんがな。限られた居住空間ではどうしても限界がくる。その限界が何百年後、何十年後かは分からんが、いずれ人類は汚染された大地の開拓に乗り出さねばならなくなるだろう」
「陛下……」
普段通りに歩いているように見えるルシフの後ろ姿を、ゼクレティアは心配そうに見た。
ルシフの身体の毒の爪痕は完治していないどころか、応急処置が済ませてあるだけなのである。本来ならば寝て休んでいなければならない重症なのだ。それを普段通りに見せる精神力と忍耐力は、ゼクレティアにもっと深い尊敬と忠誠心を感じさせた。
話しながらも、足は止めていない。ルシフが来ると、廊下にいる者たちは左右にきれいに分かれ、頭を下げて道を創った。
「問題は山積みで、やることはまだまだたくさんある。浮かれるな」
「はっ」
ルシフが見ていないにも関わらず、ゼクレティアは足を止めて一礼した。一礼している間にルシフと距離が開いてしまったので、小走りでルシフを追いかけた。
ルシフは階段を何階か下り、目的の部屋にたどり着いた。部屋の前には赤装束の二人が立っている。ルシフに気づくと二人は一礼し、扉の前からどいた。
ルシフは扉の前に立ち、扉を開いた。
◆ ◆ ◆
ルシフの建国宣言から少しだけ時間を戻した一室。室内には黒色の長椅子以外、何も無い。その長椅子も別の部屋から持ってきた物のため、この部屋にある物は実質何も無いと言ってよかった。壁は白く塗られており、埃っぽくも無く、電灯も点いた。使用されてはいないが、毎日掃除はされているのだ。
その黒色の長椅子に、赤のヘアピンをつけた少女が座っていた。涙目で顔を俯けている。
少女の他には、赤装束十人、黒装束一人が同じ室内にいた。剣狼隊小隊長全員とマイである。
少女の周囲にはマイ、バーティン、アストリット、ハルス、フェイルスが立ち、殺気と冷気がふんだんに盛り込まれた視線を少女に向けている。
レオナルト、プエルも離れた場所から少女に視線を向けていた。レオナルトは険しい表情をしていて、普段全く怒らないプエルも眉をひそめている。
エリゴ、オリバ、サナック、ヴォルゼーはそんな彼らを見て、やれやれという表情をしていた。
エリゴがプエルに近付き、プエルの額にデコピンした。プエルの頭がのけ反り、額を押さえる。
「……つぅッ! な、何?」
「お前にそんな顔は似合わねえよ。『守護天使』らしくいつもみたいな穏やかな顔をしてるべきだぜ」
「しゅ、守護天使!? そんな、天使なんて、あたしにはもったいない言葉ですぅ!」
プエルは顔を赤くしながら、両手で顔を覆った。プエルの鉄壁な防御と聖母のような優しさから、プエルをそう呼ぶ隊員がけっこういるのだ。プエルの反応が面白いからからかっているだけだが。
マイ、バーティン、アストリットは同時に舌打ちした。
「エリゴさん。この子はルシフさまを殺そうと毒を盛ったのですよ! 険しい表情になるのは当たり前ですの! むしろ表情が変わらないあなた方の方がおかしいのではなくて!?」
アストリットがエリゴを睨んだ。エリゴは肩をすくめるだけで、反論しなかった。
「早く殺しましょう。ルシフさまに死を感じさせた罪と苦痛を与えた罪は万死にあたります。楽に殺してはあげませんから、覚悟してくださいね」
マイが無表情で杖を振った。六角形の念威端子が少女を囲む。少女の両眼から涙がこぼれた。
「わたしが許されない罪を犯したのは自覚しています。助けてほしいと命乞いするつもりもありません。ですが、一年だけ待ってもらえませんか?」
「……なんでです?」
「それは……」
少女の右手が無意識の内にお腹にいき、軽くさすった。周囲にいた女性三人はその動きに気付く。三人の額に青筋が浮かび上がったのに気付いたのは少女だけだった。少女がビクリと身体を硬直させた。
「子どもがお腹にいるのか?」
バーティンが不機嫌そうに言った。
「まだ……分かりません。でも、もしかしたらいるかもしれないのです。お願いします。子どもがいるかどうか分かるまで、子どもがいたら産むまで待ってほしいのです」
少女は必死に頭を下げた。
マイは天使のような微笑をたたえ、少女の肩に手を置く。
「誰の子どもです? ルシフさまの子どもですか?」
「ち、違います。別の方との子どもです」
「……ヘアピン、付けてますね。私も付けてるんですよ、ほら」
マイが自身の前髪を指差した。黒のヘアピンが付けられている。少女はおそるおそる顔を上げ、ヘアピンを見た。
「分かります? 色違いなだけでお揃いなんですよ、このヘアピン。なんでルシフさまからいただいたヘアピンと同種類のヘアピンをあなたが付けてるんです? 教えてもらえませんかねえ?」
マイの口元は笑みの形をしているが、目は人を殺せるほど冷たく研ぎ澄ました刃のような輝きを放っている。
「……うぅ、それは……」
「ほらほら、もういじめるのはその辺にしときなさいよ」
部屋の隅の方にいるヴォルゼーが言った。全員の視線がヴォルゼーに集まる。
「考えてもみなさい。ルシフは死ななかった。その子の持ち物の毒を調べた結果、使用された毒はかなり強力だと分かったの。なのに、ルシフは死ななかったのよ。意味分かる? これはルシフに強い抵抗力があったとかそれ以前の理由なの。つまり、その子にルシフを殺すつもりは全く無かったのよ」
「うっ……」
少女の両眼から再び涙がこぼれた。
「ねえ、あなた。よければ毒を盛った時の状況と理由を教えてもらえないかしら?」
「……はい」
少女は意を決し、話し始めた。
監視されていても、誰かに話すことばかりに監視者の意識がいっていたため隙があり、買った予備の調味料の塩のビンを密かに盗んだ。そして夜寝ている時、布団の中に隠しながら塩を半分ほどスカートのポケットの中に捨て、毒を四分の一塩のビンに入れた。
あとは蓋を手で隠しながら蓋を開いてお茶に毒が混じった塩を入れ、ルシフの元に運んだ。つまり、ルシフが飲んだのはほとんど塩で、毒は少量しかお茶に入っていなかったのだ。
話を聞き終えて真相を知ると、その場にいる者のほとんどが怪訝そうな顔になった。そこには矛盾が存在した。
ルシフを殺したくないなら、何故塩にすり替えるだけにしなかったのか。塩に毒を混ぜる理由は全くないし、余計な手間にしかならない。
「いくつか質問、いい?」
ヴォルゼーが代表して口を開いた。少女が涙目で頷く。
「どうしてルシフを殺したくないなら、毒を盛る役目を放棄しなかったの?」
「……わたしがやらなくては、別の方がやることになってしまうから」
「どうして塩に毒を混ぜるなんて面倒なことしたの?」
「……わたし、思ったのです。これからもありとあらゆる手段で陛下に毒を飲ませようとする人が出てくるんじゃないかと。ですが、陛下に毒を飲ませても殺せない、無駄だと分からせれば、そんなことを考える人はいなくなります! 陛下にはそんなことを気にせず政務に集中なさってほしいのです!」
「なるほどね。毒を飲む前に毒に気づけば、警戒心が強くて返り討ちに遭うと考え、万が一毒を飲んでしまっても毒ではルシフを殺せないと考えるようになる。どちらにせよあなたは捕まるけど、ルシフを毒殺しようと考える者はこれでいなくなるってわけね」
「……ううっ、ごめんなさい」
涙を両手で拭いながら、少女は頭を下げた。
そんな少女の態度に毒気を抜かれてしまい、殺気立っていた者たちはいつもの態度に戻った。マイだけは変わらず、少女を睨んでいる。
ヴォルゼーが少女に近付き、頭を優しく撫でた。
「あなたはよく闘ったわ。あなたにできることの全部を使って、ルシフの毒殺を企んだ者と闘った。ありがとう。あなたじゃなかったらルシフは命を落としていたかもしれない」
「……わたし、わたしは……うわあああああ!!」
ヴォルゼーに抱きつき、少女は号泣した。ヴォルゼーは優しく少女の頭を撫で続ける。ヴォルゼーは戦闘は苛烈だが、戦闘以外は面倒見も良く何かと力になってくれるため、剣狼隊都市民問わず人気があった。
そこで部屋の扉が開いた。
ルシフとゼクレティアが部屋に入ってくる。
「シェーン」
「へ、陛下!?」
シェーンはヴォルゼーから離れ、ルシフに向かって深く頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。どんな罰もお受けいたします。ですが、願わくばあと一年ほど時をいただけないでしょうか?」
「俺はお前に罰を与えるつもりはない。そのかわり、俺の周りにはもう侍女は一人も置かん。お前ら十人全員ベデに送り返す」
「旦那、それが……」
「なんだエリゴ。何か不都合でもあるのか?」
「残りの侍女は別の部屋に集めてあるんだが、八人しかいないんだよ。多分この子を監視してた子が逃げたんだと思うけどなあ」
「なら九人でいい。それから、シェーンの前だぞ。親しく話しかけてくるな。バレるだろうが」
「わ、わりぃ、旦那」
エリゴが頭をかきながら、頭を軽く下げた。
「陛下、剣狼隊の方々と本当は仲がよろしいことは、初めから分かっておりました。わたしの育て親であるベデは各都市から情報を集めておりまして、陛下が重要な取引相手になるかもしれないと目をつけていたらしいのです。それでイアハイムでの陛下と剣狼隊との関係を知り、今は芝居をしているとはっきり言われました」
「ふむ、さすが商人だな。それだけの情報網があるなら、お前らも上手く匿ってくれるだろう。すでに屋敷は剣狼隊に確保させてある。お前ら侍女九人はそれぞれ時間をずらし、それぞれ別のルートでベデの屋敷に向かえ。護衛は二人付ける。時間がくるまでは軟禁しておけ」
「はい、分かりました」
シェーンはバーティンとアストリットにがっちりと挟まれ、部屋から連れ出された。部屋の扉が閉められる。
「で、どうするの? あの子に毒を盛るよう命令した奴。目星はここにいる全員ついてるけど」
「捕らえてこい。証拠なら念威端子の映像からいくらでも出てくる。ヤツに地獄を味わわせてやる」
ルシフの言葉に、全員が頷いた。全員が頭にきていた。元都市長の運命は決定したのだ。
ルシフさまのやっていることは『ポケモン』が『ドラクエ』になってるみたいな、そういうレベルです。いやドラクエもいいけど、ポケモンがやりたかったんだよと思う人は多分大勢います。