鋼殻のレギオスに魔王降臨   作:ガジャピン

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第91話 決戦前夜(ルシフサイド)

 カリアンは執務机を前にした椅子に座り、窓の外を眺めていた。

 今カリアンがいる部屋は都市長室。ルシフに支配される前のツェルニは生徒会長室がその役目を果たしていたが、今は部屋の一つを都市長室にしたのだ。これは生徒会長が都市長も兼任しなくなったためである。ルシフの政策により、どの学園都市も教員が常在することになった。

 これは学生が教員も兼任すると学生によって提供する講義の質がバラけてしまうからであり、安定した講義の質を提供するためである。

 以前は学生だけで学園都市を運営していて、そこに何も疑問は無かったが、いざ教員を入れて学園都市を運営すると、運営が円滑に進んだ。講義のスケジュールも立てやすいし、純粋に学力の向上に集中できる。

 ルシフのやっていることは、間違っていない。時が経てば経つほど、余計なものは排除され、不足なものは追加され、無駄なものは削ぎ落とされていくだろう。現に学園都市連盟といった独立勢力は全て解体されている。

 都市長室の扉がノックされた。

 

「どうぞ」

 

 扉が開かれ、ヴァンゼが入ってくる。

 

「お前に言われた通り、指示は出しておいた。放浪バスの移動禁止。明日一日はツェルニから移動しないよう呼びかけもやった」

 

「ありがとう」

 

 明日グレンダンと戦闘があるため、他都市への移動は禁止するという指示が剣狼隊の念威操者からきた。ヨルテムだけは主戦場になる可能性があるので、非戦闘員のシェルターへの避難の指示が追加されている。ヨルテム以外の都市は別に避難指示は受けていない。

 

「いよいよ明日、か」

 

「ああ」

 

「ルシフが勝つか、グレンダンが勝つか、お前はどっちだと思う?」

 

「さぁ、私は戦闘は専門外だから分からないよ」

 

「俺は戦闘が専門だが、俺にも分からん。十中八九ルシフが勝つと思うが、グレンダンも最強の都市。ルシフに勝つ可能性はある」

 

「一つ、確かなことがあるよ」

 

「なんだ?」

 

「明日勝った方が世界の主導権を握るってことさ」

 

「違いない。ルシフは入学してきた時から他の連中とは決定的に違う異端の存在だったが、世界の在り方そのものさえ変貌させてしまうとは思いもしなかった。そして明日グレンダンを屈服させれば、世界の全てを手に入れる。ルシフの能力を考えればそれは喜ばしいことのはずなのに、俺は恐ろしいという感情が勝ってしまう」

 

「私もだよ」

 

 ヴァンゼは意外そうな表情になる。

 

「お前も? こう言ってはなんだが、お前はルシフと気が合っていると思っていたが」

 

「ルシフくんの政策に好感は覚えているよ。でも、本能的な恐怖というか、それはいつまでもぬぐえない」

 

 ヴァンゼが同意するように頷いた。

 ツェルニの学生はルシフに対し、あまり反感を感じていないようだった。ルシフの暴政は学園都市では鳴りを潜めていたからだ。せいぜい外縁部を潰して工業区、農業区を広げる都市開発くらいだろう。未だにルシフのファンクラブも残っている。もっともファンクラブ名は『ルシフ陛下をお慕いする会』に改名されているが。

 

「明日の戦闘で世界の行く末が決まるか」

 

「……ああ、そうだね」

 

 カリアンは再び窓の外を見た。星明かり一つない、真っ暗な夜空。まるで自分の心のようだ、とカリアンは思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 

 ベランダに座り、真っ暗な夜空を眺めていた。

 本当は立って夜空を眺めていたかったが、誰かに姿を見られるのはルシフの温情を無駄にする結果に繋がりかねない。表向きはルシフの毒殺を企んだとして、重い罰を侍女だった九人全員が受けていることになっているからだ。

 

「シェーン、ここにおったか」

 

「旦那さま」

 

 ベデがベランダに入ってきて、シェーンの隣に腰かけた。

 

「ルシフさまのことを考えておったのか?」

 

「はい」

 

「明日、世界が完全に生まれ変わる。そんな気がしておる」

 

「わたしもです」

 

「ルシフさまは千年に一人の天才だと思っているが、早く生まれすぎたな。誰も付いていけぬ」

 

「……そうでしょうか? わたしは短い間でしたが、ずっと陛下の近くにいました。あの方は傲慢で他の方の意見は聞かず、他人を無視して強引に政策を進めます。そういった部分を見て、『ルシフは他人の気持ちが分からない自己中心的な人間で、上に立つ人間として失格だ』と言う民も大勢おります。ですが、あの方は他の方が思うより無神経でもなければ、鈍感でもありません。むしろ敏感すぎるくらいだと思います。あの方は誰よりも強いように見えて、時おり弱さと脆さが顔を出すのです。もちろん民衆の前に出る時は欠片もそのような部分は見せませぬが、自室におられる時は他の方と同じ精神を持つ人間なんだと感じる時がありました」

 

「だから愛せたか」

 

「はい」

 

 そういった人間味のような部分があったからこそ、どんどんルシフという人間に惹き込まれていき、この方の子どもが欲しいと思うところまで愛することができた。

 

「ルシフさまやグレンダンの女王には境界線がある。ルシフさまはグレンダンの女王の境界の中で生きたくないと思われておるだろうし、逆もまた然り。しかし、商人である我らに境界線は存在せん。世界がどちらの境界になろうが、商品を売って生き延びられる。じゃが……」

 

 ベデは隣に座るシェーンの頭を撫でる。

 

「ルシフさまの境界になってほしいのう。お前のためでもあるが、ルシフさまの引き起こす予想できぬ流れを必死に読み、商品を売るあの感じは商人魂を刺激されて楽しいものがある。ルシフさまの世なら、わしは十年若返りそうじゃ」

 

「……妊娠検査薬を使いました。その結果によると、わたしは妊娠しているようです」

 

 シェーンは真っ暗な夜空を眺めたままだった。

 

「もし子どもが産まれたら、一目でも陛下にお見せしたいと思います。陛下のお子ではありませぬが」

 

 実際はルシフとの間にできた子だが、父親をルシフだと公言しないという条件で子を宿した。その条件はずっと守ろうと思っている。

 ベデは夜空を眺め続けるシェーンを見た。はっとするような美しさを滲ませていた。以前は無かった色気が全身から醸し出されている。

 ルシフと過ごし、人間として、女として深くなった。

 

「お前をルシフさまのところにやって、心から良かったと思っておる」

 

 シェーンはベデの方を向き、目を潤ませつつ微笑んだ。言葉では再会を願いつつも、ルシフにはもう会えないときっと確信しているのだろう。何故なら、ルシフ自身がシェーンを手放したのだから。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 王宮の大広間は今、お祭り騒ぎになっていた。決戦の前夜祭と王宮の引っ越し祝いをしているのだ。

 大広間にいるのはルシフ、マイ、ゼクレティア、リーリン、剣狼隊全員である。今夜に限り、剣狼隊は巡回任務や訓練を部下の武芸者に任せ、この大広間に集まっていた。総勢二百四十三名。都市を要領よく奪うために内通者をやらせていた元剣狼隊全員を剣狼隊に戻したら、それだけの人数になっていた。

 大広間は豪華に飾り立てられている。絵画、彫刻などといった高額な美術品。無論家具やテーブル、椅子、テーブルクロス、カーテン……そういった調度品も最高級の贅を尽くした限りの品になっている。もちろん大広間だけでなく、全ての部屋、廊下、中庭、広場、正面玄関、裏門から城壁のブロックまで、安い物は何一つ置かれていない。全てグレンダン以外の全都市から集まった税収でやったことだ。ルシフ個人の金は一切使われていない。

 これだけ聞くととんでもない暴君だろう。さらにルシフは、政務は剣狼隊に任せっきりで一日中美女と遊んでいるという噂も絶えなかったし、ルシフ自身基本書斎に一日中こもっていたため、その噂の信憑性は高かった。

 ルシフにも言い分はある。まず税収で贅の限りを尽くしたことだが、そうすることで巻き上げた税金を民衆に返したのだ。高級品を扱う商人たちに金がいき渡り、その商人たちがその金で物を買う。その連鎖が次々に起こり、結果として税収は民衆に分配される。これは王宮の建築費や都市開発の費用にも同じことが言える。そもそも税金は民のために集めるものであるから、民のために使用するのが当たり前。だからと言って、税金は集めただけ使い続けるというのも間違っている。公共施設の補修、道路の舗装や制度のために必要な資金等、貯めなければならない税金もある。しかしそれも最終的には民衆に還元される金。一番やってはいけないのは、税金を懐に入れて私腹を肥やし、あまつさえそれを後生大事に貯金することである。それでは市場に金が回らない。その影響で巻き上げた税金が民衆に還元されず、民衆が金を出し惜しみするようになれば、更に経済は悪化する。

 そういった事情があるが、表面上を見れば、ルシフは最低最悪の暴君であり、自分だけが美味い汁をすすっているように感じるのは普通の感覚。そして、ルシフも高級品を周りに置いて気分良く生活しているのは事実なのだ。非難されても当然だろう。

 次に一日中書斎にこもっていたことだが、各都市の様々な法制度や慣習の破壊、新たな法制度の整備、各都市の技術水準、施設、住民情報の調査、それに基づく人の配置、新たな税制の構築、各都市の都市開発における設計等……やるべきことがありすぎて、ルシフの能力をもってしても一日中政務に忙殺されざるをえなかったのだ。だが表向きは自堕落に過ごしているという噂を流させているから、民衆はその噂をそのまま信じた。民衆には支配者の苦労など理解できないし、どうでもいい。支配者はただのクズだと思っている方が楽だし、そっちの方が話の種にもなる。

 大広間にいくつもの大きな円形のテーブルが設置され、テーブルの上には豪華な料理が所狭しと並べられていた。それを囲むように置かれている椅子に面々は腰かけている。

 このお祝いパーティーはルシフに近しい者しか参加を許されなかったため、料理を作ったのも剣狼隊の女たちだった。

 ルシフが大広間の一番奥の場所に立つ。他は全員椅子に座り、ルシフの方に顔を向けた。

 

「この場にいるほぼ全員が知っているだろうが、六、七年前には世界がこういう形となり、グレンダンと最終決戦をすると予期していた。実際俺はそう言って、諸君らに任務を与えた。諸君らは半信半疑だったがな」

 

 大広間が笑い声に包まれた。そういう時もあったな、という過去を懐かしむような笑い声である。

 

「実は六歳の頃から、俺はこの日が来ることが分かっていた。今から約十年前にはこの日を夢見て、どう闘おうか考えたものだ。明日、今までの世界は終わりを告げる。今までの世界とは何か。汚染獣という脅威からは逃げ回り、限られた人類の生存環境であるレギオスを都市間戦争などというもので滅ぼし合い、自都市以外の都市には無関心な世界である。武芸者は都市の守護者とどの都市も教えてきた。自都市を守るためならば、他都市を滅ぼしてもいいと。そんな時代からはそろそろ決別しなければならない。汚染獣の脅威からは逃げずに立ち向かい、セルニウム鉱山をどのレギオスも確保できるよう協力し合い、他都市にも関心を持つ時代へと人類は行かなければならない。

明日、グレンダンが一騎打ちを申し込んでこなかった場合、総力戦となるだろう。諸君らにも力を尽くしてもらうことになる。ならば明日の決戦のため、今夜は思う存分楽しもうではないか!」

 

 ルシフがコップを掲げた。他の者も椅子に座りながら、テーブルのコップを手に取り掲げる。

 

「乾杯!」

 

「かんぱーい!」

 

 周囲の者とコップを打ち鳴らし、コップに入った飲み物を飲み干した。成年は酒だが、未成年はジュースだったりお茶だったりする。

 サナックとオリバが飲み干したコップに酒を注ぎ合った。彼らの隊員たちも同じようにしていた。

 

「ここまで長かったような、短かったような、不思議な気分だ。老い先短い命で、まさかこんな日を迎えられるとは思わなかった」

 

 サナックがスケッチブックにペンを走らせ、オリバに見せる。『俺もです』と書かれていた。

 

「僕もっすよ、オリバさん」

「辛く苦しい日々でしたけど、報われたって感じがしますね。まだ最後の仕上げが残ってるのに気が早いかもしれませんけど」

 

 一緒に飲んでいる隊員たちもそう言い、その通りだと言わんばかりに他の隊員も頷いていた。

 

「可能性を潰す闘いから、可能性を育てる闘いになった。ここにいる者、みなわしより年下じゃ。いや、剣狼隊全体を見てもわしが最年長者。だから、お前たちを命懸けて必ず守る。それが年長者であるわしの務めじゃ」

 

 サナックと隊員たちは目を丸くしたが、すぐに笑みに変わった。

 サナックがスケッチブックにペンを走らせた。『年長者を労るのは年下の務めです。俺があなたを守りますよ』と書かれている。

 隊員たちは書かれた文字を読み、嬉しそうに頷いた。

 

「まったく。わしを年寄り扱いするでないわ。まだまだ現役じゃぞ」

 

 オリバの言葉を聞き、周囲の者たちは笑い声をあげた。

 

 

 プエルはコップを両手で持ち、ジュースをちびちびと飲んでいた。

 さっきから一緒に飲もうと誘ってくる男隊員が何人もいたが、プエルはすべて断り最初のテーブルに座ったまま動かなかった。プエルの周囲にも隊員たちはいるが、プエルの両隣の席は空いている。

 何故か今のプエルには近寄り難い雰囲気が滲み出ていた。

 プエルの眼前に横からコップが突き出される。プエルはびっくりして頭を少し引いた。

 

「隣、いいですか?」

 

 プエルはコップを突き出してきた相手を見る。肩で切り揃えた黒髪と黒の瞳の女性。ヴィーネだった。

 

「……ヴィーちゃ、いや、ええと、ヴィーネさん」

 

「ヴィーちゃんでいいですよ」

 

「えっ、いいの?」

 

 ヴィーネは無表情で頷いた。ヴィーネは念威操者のため、表情の変化が乏しい。

 ヴィーネがプエルの隣にコップを持って座る。

 

「……何か嫌なことでも?」

 

「え?」

 

「さっきから心ここにあらず、って感じでしたよ」

 

「……ねえ、ヴィーちゃん。明日の夜も、誰一人欠けずにみんなでこうやって騒いで、笑って、楽しく過ごすことができるのかな? 明日の相手は最強の都市、グレンダン。ルっちゃんも手強いって分かってるから、最後の相手に回しただろうし。あたしもルっちゃんがグレンダンの相手を容赦なく倒してる映像観たけど、映像の印象ほど戦力差があるわけじゃないと思う」

 

「プエルさん……」

 

「不安なんだ。ヴォルちゃんが病気で死んじゃって、フェイちゃんはグレンダンの人に殺されちゃった。剣狼隊の人間が立て続けに二人も死んじゃったんだよ。今までこんなことなかった。なんていうか、今まで順調だった流れが悪い流れになってきてるって感じるんだ。明日の決戦、誰も死なないって信じてるんだけど、ヴォルちゃんとフェイちゃんの死に顔が頭をよぎって……」

 

 プエルが辛そうに顔を俯けている。

 プエルの肩をヴィーネがぽんぽんと叩いた。

 

「大丈夫ですよ、プエルさん。剣狼隊に所属している武芸者はみんな超一流です。わたしたち念威操者も全力で皆さんのサポートをします。勝てます、今まで通り。ルシフさんを信じて、明日頑張りましょう」

 

「うん……! ありがと、ヴィーちゃん!」

 

 プエルはヴィーネの方を向き、弾けるような笑みを浮かべた。

 

 

 アストリット、バーティン、フォル、ゼクレティアが同じテーブルを囲んでいた。

 

「明日、ルシフさまの理想が実現するんですわよね。くぅ~、今から気合い入りますわー!」

 

「落ち着け。RE作戦……世界をリセットする作業が終わるだけだ。明日の決戦が終われば、プラスにしていく作業をやらねばならん」

 

「それでも一区切りつくのは確かでしょう? 嫌ですわね、こういう水差し女は」

 

「ルシフちゃんにとってはな、明日は通過点に過ぎないんだ。ルシフちゃんの理想が実現するのはまだまだずっと先の話だと何故分からない?」

 

「そんなこと分かってますわよ! もう、ホントに空気読めない方ですわね! 明日でルシフさまの重荷が下ろせる、ルシフさまが楽になると思った方がモチベーションが上がるでしょう?」

 

「む、それは……そう、だが」

 

 アストリットが勝ち誇った表情になる。

 

「そうでしょう? 次からはそういうところもしっかりお考えになってから発言してくださいませ」

 

「めっちゃ殴りたくなる顔してるな」

 

 アストリットの顔がさっと青ざめた。

 

「な、ぼ……暴力反対!」

 

 二人のやり取りを見ていたフォルがため息をつく。

 

「アストリットは相変わらずよね。殴られるのが嫌なら煽らなければいいだけの話なのに」

 

「煽ってなんかいません! 私はただ思ったことを口にしてるだけですわ! ていうか、あなたのようなドMを小隊長と私は認めてませんから!」

 

「ドMじゃない」

 

「命令されて悦ぶ変態じゃありませんか」

 

「命令されて悦ぶ変態だけど、ドMではない。それは虎をネコと言ってるようなもの」

 

「虎もネコ科なんですけど……」

 

 ゼクレティアが口を挟んだ。

 フォルはゼクレティアを睨む。

 ゼクレティアは慌てて顔を伏せた。

 

「冷静に考えたら、あなたにドMと思われようがどうでもよかったわ」

 

「フォルさん、ここで犬の真似してみてください。三回回ってワン! ってやつですわ」

 

「殺すぞ」

 

 フォルから尋常ではない殺気が放たれた。

 アストリットの顔が青ざめる。

 

「ぼ、暴力反対! ていうか、命令されたら悦ぶんじゃなかったんですの!?」

 

「ルシフの命令ならやったけど、あなたの命令じゃ従う価値もない。そこに愛がないもの。それにわたし、あなたのこと嫌いだし」

 

「というか、アストリットを好きな奴なんて極少数だがな」

 

「私はルシフさまのお力にさえなれれば、それで満足です。嫌われ者でも構いませんわ」

 

「……まあ、誰からも助けられないのも哀れだから、私くらいはお前を助けてやろう。大切な同志の一人には変わりないしな。泣いて喜べ」

 

「わたしも助けてあげる、大嫌いだけど」

 

「わー、二人にそう言ってもらえてとても嬉しいですわー。いつか地獄までの駄賃を渡してやるから覚悟しとけよ。明日だけはお前らを援護してやる」

 

「わたしは一生懸命応援しますね!」

 

 ゼクレティアが胸の前でぐっと拳を握ってみせた。

 三人は互いに目を見合わせ、呆れたように同時にため息をついた。

 

「……実は私、ルシフさまの理想を実現する、ルシフさまと結婚する、以外にもう一つ、夢がありますの」

 

「お前の夢など、どうせ誰からも共感されんしょうもなくてくだらん夢だろうが、話のタネくらいにはなるだろう。言ってみろ」

 

「ルシフさまに可愛い女物の服を着せてみたいですわ」

 

「分かる」

「分かる」

「分かります」

 

 バーティン、フォル、ゼクレティアが頷く。

 この流れならもっと踏み込んだことも言えるのでは? とアストリットは思った。

 

「正確に言いますと、可愛い女物の服を着て屈辱と羞恥にまみれているルシフさまのお姿が見たいのです」

 

「分かる」

「分かる」

「分かります」

 

 バーティン、フォル、ゼクレティアが頷く。

 

「私も就寝前と起床後に一回ずつ、可愛いワンピースを着て真っ赤な顔で『お姉ちゃん』と言ってくるルシフちゃんを妄想することが、最近のルーティンになっているぞ」

 

「妄想のマンネリ化を防ぐために、妄想の中でたまにルシフにボンテージ服着せてる」

 

「わ、わたしはえーと……特に具体的な妄想はしたことないですね」

 

 これはいわゆるギャップ萌えである。女装させるというのはあくまで普段と全く違うルシフを引き出すためのツールの一つにすぎない。

 

「アストリット、お前の夢は極めて建設的で魅力に溢れている。溢れている、が! その夢を叶えるためには命を懸ける覚悟が必要になる!」

 

「命を懸ける覚悟……?」

 

 アストリットがごくりと唾を飲み込んだ。

 

「もし可愛い女物の服を持って、ルシフちゃんに『これを着てください!』などと言ってみろ。どうなると思う?」

 

「ど、どうなるんですの?」

 

「きっとこうなる。ルシフちゃんが薄ら笑いになり、『ほう、そうか。お前らの眼にはこの俺が女に見えるか。その腐りきった両眼を抉り取ってやろう。ありがたく思え』というような意味合いの言葉を言うだろう」

 

 バーティンの言葉を聞いた三人は顔を青ざめた。バーティンも身体を震わしている。

 

「いいか? 世の中には触れてはいけないものがあるんだ。あのお顔立ちならとてつもない美少女が生まれるだろう。しかし、極めて残念なことではあるが、涙を呑んでその夢は妄想で終わらせておくべきだ」

 

「はい、分かりましたわ!」

 

 アストリットがバーティンに向かって敬礼した。バーティンはうんうんと頷く。

 ちなみに彼女ら四人は小声で話していたわけでなく通常の声量だったため、周囲の隊員たちにも話の内容は聞こえていた。聞こえていた隊員たちは四人から身体ごと逸らしながら、聞こえていない振りをして酒や料理を楽しんでいた。彼女ら四人にとって幸運だったのは、ルシフの耳には届かなかったことだろう。もし届いていたら、大惨事になっていた。

 

「それにしても、咄嗟にあれだけのことを考えるなんてやるわね」

 

 アストリットが席を立ってルシフの方に近づいていったのを見計らい、フォルはバーティンに耳打ちした。

 

「どういう意味だ?」

 

「アストリットのアホみたいな話を盛り上げるために合わせてあげたんでしょ? 作り話までして」

 

 バーティンの頬を汗の玉が一筋流れていく。

 

「も、もちろんだぞ! 私があんなことを毎日考えてるわけないからな!」

 

「バーティン。あんたまさか……」

 

 フォルも薄々嫌な予感はしていた。ルシフにボンテージ服を着せていると言ってツッコミが入らなかった時から。

 

「ちょっと飲み物を取ってくる。別に今の話との関連性はなく、ただなんとなく喉が渇いたから取りにいくだけだからな!」

 

「う、うん。行ってらっしゃい」

 

 バーティンが慌てて席から立ち、飲み物が置いてある方に行った。

 フォルはチラリとゼクレティアを見る。

 

「わ、わたしも話を合わせていただけで……」

 

 真っ赤な顔でモジモジしているゼクレティア。

 

「ルシフに近付く女は変態しかいないみたいね」

 

 フォルは深くため息をついた。

 

 

 

 宴も終盤に差し掛かった頃、大広間の中央に隊員の何人かが巨大な水差しを置いた。

 水差しを用意した隊員はそのままルシフのところに近付いてくる。

 

「話は聞いたぞ、ルシフ。イアハイムの王になった時、その時いた剣狼隊全員の血を混ぜた水を飲んだらしいじゃないか」

 

「ああ」

 

 ルシフが口の中のものを飲みこみ、そう言った。ルシフは椅子に座り、のんびりと食事を続けていた。

 

「なら、気持ち悪い話かもしれないが、俺たちの血も飲んでくれないか? 出張組は仲間外れじゃ、なんか嫌だぜ」

 

 ルシフは近くにいる隊員たちを見渡した。確かにどの顔も、他都市への潜入任務でイアハイムにいなかった者ばかりだ。

 

「別に構わんぞ。俺も剣狼隊内で差別などしたくないからな」

 

 隊員たちの顔がぱっと明るくなり、水差しの周りに次々に集まってくる。潜入任務でいなかった元剣狼隊の隊員数は百四十五名。その内の一人が錬金鋼を復元し、両刃の剣が水差しの真上で握られる。剣先は下。別の隊員が水差しの上蓋を外した。隊員たちは剣身を次々に握る。両刃の剣なので、握れば手が切れる。流れた血は上から剣身と手を順番に伝って垂れ、最終的には剣身を握った全ての者の血が混ざり合って水差しに入った。それを人を入れ替えて何度も繰り返していく。それは出張組だけでなく、イアハイムに残っていた隊員全員も加わり、結局マイ以外の全隊員の血が水差しに入った。最後にルシフが真っ赤になっている剣身を握り、剄を抑えて手を切った。ルシフの血が剣身を流れ、赤い水玉となって水差しに落ちる。

 その後蓋を閉め、巨大な水差しごと回して血と水をよく混ぜた。

 混ぜ終わると、下部についている蛇口をひねって一人一人コップに血水を入れていった。二百四十三人分の血が混じった血水である。

 ルシフはそれをなんともないような感じで普通に飲んだ。その姿を見た隊員たちも覚悟を決め、一気に飲み干した。

 飲んだ後はお互いの手を取ったり、肩を組んで笑い合った。

 

 

 血水を飲んだ後、レオナルト、ハルス、エリゴは再び椅子に座り、飲み直していた。

 

「明日勝てば、この世界から都市間戦争が無くなって、俺たち武芸者は胸を張って都市の守護者だと言えるようになるんだな」

 

「そうだぜ。やっぱ兄貴はすげえ! そんな夢物語の実現がもうすぐそこなんだからよ!」

 

「そうだよな。大将はすげえよ。俺みたいなバカには逆立ちしたって思いつかねえことを、小さい子どもの頃に思いついて、実現できる計画を立てたんだもんな」

 

「ああ! 兄貴に付いていけば最強の都市だろうが問題ねえ! なんたってあの天才の兄貴が六年は下準備をして実行した計画だからな!」

 

「なあ、お前ら。お前らの信念ってなんだ?」

 

 酒瓶に口をつけてらっぱ飲みしていたエリゴが口を挟んだ。

 

「んなもん決まってんぜ! 兄貴と共に都市間戦争も汚染獣の脅威もない世界を実現するんだ!」

 

「俺も同じさ。大将や剣狼隊の仲間と共に都市の守護者だって武芸者が胸張れる世界を創る。人間同士で争わない世界にする」

 

 レオナルトとハルスは目を見合せ、目を丸くしながらも答えた。

 二人の顔が眩しいものであるかのように、エリゴは目を細めて見た。

 エリゴは顔を僅かに俯ける。両目から涙が溢れてきていた。

 

「……ああ、そうだよな。俺も、そうだったよ」

 

「おいおい、いきなり何泣いてんだよ」

 

「泣いてねえ!」

 

「いやいや、泣いてるって。俺でも分かるぜ」

 

「これは酒が目に入っただけに決まってんだろ!」

 

「いやいやいや、だってエリゴさんらっぱ飲みして──」

 

「酒が目に入ったって言ったら入ってんだよ! いいな!?」

 

 エリゴは涙を流しながら、酒瓶に直接口をつけて一気飲みしている。

 レオナルトとハルスは苦笑して、そんなエリゴに付き合うようにコップに入った酒を飲み始めた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 前夜祭が終わり、ルシフは書斎で残っている書類を片付けていた。

 扉をノックする音が響く。

 

「リーリンだけど、今大丈夫?」

 

 扉を少しだけ開いて、リーリンがそう言った。完全防音のため、そうしないと書斎に声が届かないのだ。

 

「ああ、入れ」

 

 リーリンは扉を半分まで開き、書斎に入った。書斎の扉を閉める。実はこの時、リーリンのポーチの隙間に六角形の念威端子が音も無く滑り込んだのだが、リーリンはもちろんルシフも気付かなかった。閉められた書斎の扉を廊下の陰から無表情で見ているマイの存在も、当然リーリンは分からなかった。

 リーリンは数分間、何も言わずに突っ立っていた。

 ルシフはリーリンを気にせず、書類を片付ける作業を続けていたが、やはり数分間も何も言わずに立っていられるのは気が散る。そのうえ、チラチラと物言いたげに視線を送ってくるから、鬱陶しくて仕方がない。

 

「何か言いたいことがあるならさっさと言え」

 

「……明日、グレンダンとの決戦に負けたら死ぬつもりでしょ?」

 

「何を当たり前のことを……。俺は下げる頭は持っているが、跪く膝は持ってないんだよ」

 

「……」

 

 リーリンが黙りこんだ。ルシフから目は逸らさない。

 

「そんなことを言うためにここに来たのか? 別に俺が死んだら死んだで、お前にとって都合が良いだろう? グレンダンが世界の主導権を握ることになるのだから」

 

「この……バカッ!」

 

 リーリンが拳を握りしめて、眉を吊り上げた。

 いきなりの剣幕に、さすがのルシフも一瞬驚いた。

 

「なんであなたはいつもそうなの!? 自分の命に無頓着で! あなたを嫌っている人は大勢いるけど、あなたを大切に想っている人もたくさんいるんだから!」

 

「……何をいきなり怒ってるんだ? 意味が分からん」

 

「分かってるんだよ、わたしは。明日のグレンダンの決戦、どちらが勝っても結果はある程度同じなんだって」

 

 書類を片付けていたルシフの手が止まった。

 

「何を言ってるか、俺にはさっぱりだ」

 

「明日の決戦はあなたにとっては消化試合だって言ってんのよ」

 

「…………」

 

「あなたがどれほどの天才だったとしても、確実にグレンダンに勝てるとは言い切れない。だから、負けても結果的に勝てるように手を打った。あなたが暴政をして民衆から意図的に恨まれるようにしたのも、グレンダンが力を付ける前に攻めず、グレンダン以外の全都市を破壊して安定させてから攻めたのも、全部負けた場合も考慮しての行動だったんでしょ?」

 

「……いつから気付いていた?」

 

「あなたの下で働きたいって言った時からかな」

 

 グレンダンの決戦前までに、ルシフは二つのシナリオを準備していた。グレンダンとの決戦に勝った場合と負けた場合のシナリオである。

 グレンダンの決戦に勝った場合、暴政から徐々に善政に切り換えていくことで、暴君から史上最高の名君へと成長していくように見せかけるシナリオ。

 逆にグレンダンに負けた場合、史上最低の暴王はグレンダンによって倒され、グレンダンを中心に人類が一つにまとまっていくシナリオ。

 どちらも結果としては全都市が一つにまとまる。ルシフを中心にするか、グレンダンを中心にするかの違いだけである。

 もしこれがルシフを主人公にした物語だったとしたら、とんでもない駄作だろう。世界の行く末を決める最終決戦で勝てるかどうかも分からない、物語としては一番盛り上がる場面である。それを「勝てるかどうか分からないから、負けても結果的に目的を達成できるようにした」というのは、物語としてはやってはいけないタブー。上等な料理にハチミツをブチまけるがごとき所業。もしこの物語に作者がいたら「空気読めや! 主人公のクズがこの野郎!」と叫んだだろう。というか、実際叫んだ。

 しかし、ルシフにとってこれは現実であり、物語として面白いかどうかなどどうでもいい。この計画は確実に完遂しなければならないのだ。そのためならば、打てる手はすべて打っておく。世界を創り直していく作業において、一番難しくて反感を買う旧世界をぶっ壊して安定させるという部分は暴政と絡めて終わらせておいた。グレンダンはただルシフの地位を乗っ取るだけである程度の統治はできるはずだ。

 

「明日の決戦はつまるところ、二つある玉座を一つにする作業。俺が勝てば、今の集権制のまま、全都市を統治していくことになる。グレンダンがもし勝ったなら、おそらく分権制での統治になるだろう」

 

 グレンダンが勝った場合、今までルシフが支配してきた都市は自治権を叫ぶだろう。だが、今の世界の形は崩したくないと考える筈だ。となれば、彼らにとって都合の良い部分は残し、都合の悪い部分をきっと戻そうとする。今の利便性と安全性を捨ててまで以前の世界に戻りたいと考えるほど、人類は愚かではないはずだ。

 

「よく気付いた、褒めてやる。俺の目的が全都市を統治して汚染獣の脅威や都市間戦争を無くすことだと思っていたら、絶対に辿り着けん答えだ」

 

 ルシフにとって、全都市を支配することはあくまで目的を達成するための手段の一つにすぎない。だが、誰もが全都市を支配することこそルシフの目的だと考えている。だからルシフの思考を読み切れないのだ。

 

「あなたはとてつもない天才だって、わたしは思う。でも、だったら! 負けた場合、死んだように見せかけて陰から政治を助けるという方法もきっと見つけられたはずでしょう!?」

 

「俺が賽を投げた。俺がやったことで一体どれだけの人間が死に、苦痛を味わったと思っている。誰かがこの戦いの責任を取らなければならない。俺が敗北した場合、俺が死なずして民衆が納得するとでも思ってるのか?」

 

「だから! 例えば、あなたに忠誠を誓っている剣狼隊の一人に身代わりになってもらったりすればいいじゃない? あなたの命を助けられるなら、剣狼隊の人たちだって──」

 

「黙れ」

 

 殺気の混じったルシフの言葉に、リーリンは思わず口を閉じた。

 ルシフはイラついた。リーリンの言葉にではなく、明日身代わりを立てて裏から世界を統治していくということを面白そうだと思った自分にイラついた。

 

「……なによ。今まで騙しに騙してきといて、自身の死だってやろうと思えばあなたなら欺けるでしょう! それをやらないのは、あなたがただきれいに死にたいだけじゃない! きれいに死ぬことなんか考えないで、泥臭くても最期まで生きてたくさんの人を助けることを考えなさいよ! それがあなたが壊してきたものへの本当の意味での償いになるはずよ!」

 

「……別にお前に言われることじゃない。だいたい、何をそんなに必死になってるんだ? 俺が死んでもお前にとっては大して変わらんだろう? グレンダンじゃ今の状態でも統治するのも四苦八苦するだろうから、その負担がお前にいくくらいか?」

 

「あなたが王とかそんなのは関係ない。ただあなたに生きていてほしいだけ」

 

「…………はぁ?」

 

 ルシフは本当に理解できなかった。何故リーリンがこんな言葉を言ってくるのか。だから、単純にからかっているだけだと思った。

 

「まあ、口先だけならなんとでも言えるからな」

 

「このッ……!」

 

 リーリンが乱暴にルシフに近付き、ルシフの右頬にキスをした。

 ルシフは驚き、頭を引いてリーリンから逃げた。

 

「……なんなんだ、お前」

 

「……」

 

 リーリンは顔を真っ赤にして、三歩後ずさった。

 マイアスでルシフをビンタした時もそうだが、リーリンは普段わりと合理的に物事を考えて行動するが、感情が昂ると頭より先に身体が動くタイプだった。このあたりはルシフと似た者同士かもしれない。

 リーリンは孤児院のために闇試合に出ていたレイフォンと今のルシフが重なって見えていた。全然性格は違うが、根っこの部分だけは同じだと感じていた。リーリンは闇試合をしていた頃のレイフォンを救えなかった。だからこそ、世界のために死を選ぶかもしれないルシフを救いたいと思った。

 

「……これでどう? これなら、冗談じゃなくて本気で死んでほしくないって思ってること、信じてくれるよね?」

 

「ああ」

 

 ルシフからすれば、頬へのキスなど誰だってできると思っているが、言えばまた面倒なことになりそうなのでやめておいた。

 リーリン自身も、正直自身の行動に驚いていた。あんなにも嫌いだったはずなのに、電子精霊ツェルニから涙を流しているルシフを見せられた時から好意のようなものを感じている。だがこの感情が、純粋に人としての好意なのか、それとも異性としての好意なのかは分からない。

 

「それじゃあ、わたしはもう行くね」

 

「リーリン。俺の思考を読んだのは褒めてやるが、明日の決戦が消化試合などと誰にも言うなよ。誰もが明日は勝つつもりで闘う。当然俺も。そんな中、消化試合などと言われたら士気が乱れる。負けた場合の策はあくまで万が一の保険にすぎん。理想の臣は主の考えを読んでも口にしないものだ」

 

「あなたにとって、わたしは臣?」

 

「何か問題が?」

 

「別に何もございません、陛下」

 

 リーリンは深く一礼し、ふんと鼻を鳴らして書斎から出ていった。

 ルシフ一人になった書斎。

 リーリンはレイフォンに好意を抱いているはずだ。異性としてではないが。それが何故、勢いでもあんなことをしたのか。

 

「……本当に何を考えてるか分からん」

 

 女の思考はいつも完璧には読めない。しかし、だからこそルシフは女が好きだった。一緒にいて退屈しない。

 中断していた書類の整理をしようと、ルシフは書類に視線を落とした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフは書類を片付け、寝室に行った。

 これから寝る。そのことを考えるだけで、今まで何十回と見てきたマイを殺す夢が頭をよぎり、身体が震えてきた。初めてマイを殺す夢を見た日から今日まで、毎日その夢を見ているのだ。

 しかし、明日はグレンダンをぶっ潰さなければならない。睡眠不足では不覚をとる可能性もある。

 寝室の扉をノックする音が聞こえた。

 以前の部屋のように大きな部屋の中にいくつか部屋があるという構造ではなく、寝室は寝室で独立した一部屋だった。

 

「……マイです。入ってもいいですか?」

 

「ああ」

 

 マイが寝室に入ってきた。ツインテールではなく、髪を下ろしている。腰まであるまっすぐな青髪が歩く度に揺れた。おそらく入浴後だから、ツインテールではないのだろう。髪型が違うだけで、随分と印象が変わる。

 

「あの、ルシフさまに訊きたいことがあるんです」

 

「なんだ?」

 

「ルシフさまの好きなこととか、好きな食べ物とか、そういうルシフさまご自身について、たくさん私に教えてください」

 

「マイ……」

 

「私、ルシフさまのことはなんでも分かってるって、ずっと思ってました。でも、本当は何も分かってなかったんだって、最近気付いたんです。だから、教えてください。いっぱいルシフさまのこと、知りたいんです」

 

「ああ、いいとも」

 

 ルシフは好きな食べ物とか、好きなこととか、そういうことを色々話した。その話一つ一つにマイは頷いて嬉しそうに聞いていた。

 

「あ、ルシフさま。口に何か付いてます」

 

 マイはハンカチを取り出し、ルシフの口を拭いた。実際は何も付いていなかった。もしかしたらリーリンがルシフにキスをしたのでは? と考えたからこその行動だった。

 

「はい、きれいになりましたよ」

 

「ありがとう、マイ──」

 

 ルシフが言い終える直前、いきなりマイがルシフの唇に自身の唇を重ねた。唇を通して、電流にも似た感情がルシフの全身に駆け抜ける。

 

「えへへ、隙あり、です。ルシフさまとキスしちゃいました」

 

 マイはすぐにルシフから顔を離し、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 そんなマイの姿を見た瞬間、ルシフの中の理性と心の鎧が吹っ飛び、衝動的にマイを抱きしめた。

 

「……え? ルシフ、さま?」

 

 マイは一瞬困惑したが、すぐに眼を閉じてルシフの背に腕を回して抱き合った。

 そこでマイはルシフに違和感を感じ、眼を開く。ルシフの身体が震えているのだ。

 

「ルシフさま……お身体が震えて……」

 

「怖いんだ」

 

 抱きしめたまま、ルシフが呟いた。声も少し震えている。

 

「明日、グレンダンに負けて死んでしまうかもしれないからですか?」

 

「違う。死など、怖れていない」

 

「なら、何が怖いんです?」

 

「朝起きたら、俺が俺で無くなっているかもしれない。それが怖いんだ。いつかこの手でお前を殺してしまうんじゃないか。そう考えてしまうんだ」

 

「ルシフさま……」

 

「マイ、お前がいれば、俺はずっと俺のままでいられる。俺の傍にいてくれ。俺を独りにしないでくれ」

 

 ルシフの身体の震えは止まらない。

 マイはルシフの背中を優しくさすった。

 

「たとえルシフさまに殺されても、私はルシフさまを恨みません。ルシフさまに殺される原因があった私が悪いんですから」

 

 ルシフとマイは抱き合うのをやめ、身体を離した。

 

「私はルシフさまに殺されても構いません。でも、ルシフさまは万が一明日敗北したとしても、生きてください。私の心の中では、全都市民の命を全部足しても、あなたの血の一滴分の価値もないのですから」

 

 ルシフは親指に剄を集中し、人さし指を少し切った。人さし指の先端から血が溢れる。

 ルシフは溢れる血をじっと見つめた。

 

「こんなものが、お前にとって全都市民の命より価値があるか」

 

「はい」

 

 マイはルシフの人さし指をくわえ、溢れてくる血を吸った。

 ルシフはマイが指を口から離すのを待つと、剄で人さし指の切り傷を塞ぐ。

 マイは透き通るような笑みを浮かべている。今度はルシフの方からマイの唇に自身の唇を重ねた。頭痛も高熱も、何もかもが溶けて消えていく。

 ゆっくりと、マイの唇から自身の唇を離した。

 マイは名残惜しそうに唇を指でなぞる。

 

「……あ、あの、ルシフさま。今晩、ルシフさまと一緒に寝てもいいですか?」

 

 ルシフは静かに頷く。

 お互いに身体を横にして向かい合うようにしながら、ベッドに入った。マイの顔が目の前にある。

 

「ルシフさま。幼い頃からずっと一緒にいましたけど、こうして一緒のベッドで寝るのは初めてですね」

 

「ああ、そうだな」

 

 マイに出会った日から今日まで、ずっと自分勝手な都合にマイを付き合わせてきた。マイと出会った日から今日までの時間を俺はずっと奪い続けてきた。そんな俺に、お前を愛する資格なんてきっとないのだろう。だが、それでも俺はマイを愛している。

 

「……このままずっと時間が止まればいいのに」

 

 マイが涙目で呟いた。

 それは停滞であり、ルシフにとっては許してはならないことである。だが、それも悪くないと思う自分がいる。

 毎日毎日、大した変化もない退屈な日常を、マイと一緒に過ごし、いつかマイとの子どもが生まれて、温かな時間を……。

 

 ──何を考えてるんだ、ルシフ。お前が今までやってきたことを思い出せ。その未来はお前自身の手で潰した未来だろ。

 

 大勢の人間から恨まれているのにマイを近くに置けば、マイにとばっちりで危害が及ぶ可能性がある。そうなる前に、マイは遠ざけなければならない。

 

 ──誰かに壊される前に、俺自身の手でこの関係を壊してしまえ。今までだってそうやって壊してきただろう。

 

 父も、母も、産まれた時から一緒にいた使用人も、家も、大切なものは何もかも、自分から壊してきた。

 それに、マイと平凡な日常を生きることは凡人の生き方である。天才とは結果を出し続ける者を言うのであり、天才には天才の生き方がある。史上最高の才能を持っている自分は、誰よりも険しく厳しい道を行くべきなのだ。それでこそ、史上最高の人間だと胸を張って言える。

 

「ルシフさま、ずっと私がルシフさまの傍におります」

 

 それに対する言葉は出てこなかった。だから、口にしたのは別の言葉だった。

 

「……寒いな」

 

 別に、寒くはなかった。むしろ暑いくらいだ。だが、心が凍てついている。こう言えば、もっとマイが傍に来てくれるのではないか。そういう期待を込めた言葉だった。

 

「こうすれば、寒くないですよ」

 

 マイがルシフの方に身体を寄せ、ルシフの胸に顔を埋めた。

 

「ああ、そうだな」

 

 ルシフはマイの頭を優しく撫でた。髪からシャンプーの匂いがする。

 マイの温もりで凍てついた心の緊張がほどけ、癒されていく。

 この関係は終わりにしなくては、俺もマイも先には進めない。でも、一方的にマイに別れを告げるのはやめよう。しっかりマイと話し合って、マイに理解してもらえるよう努力しよう。

 

 ──マイ……お前が笑って幸せに暮らしてさえくれれば、俺は何も手に入らなくていい。何も残らなくていい。

 

 でも今日だけは、今晩だけは、この温もりを抱きしめることを許してもらえますように。

 それは誰に対する許しなのか。きっと『王』としての自分に対する許しなのだろう。

 少年は少女の一生懸命生きる姿に憧れ、少女は他人のために手を差しのべる少年の優しさに憧れた。お互いがお互いの足りない部分を求め合った。

 第三者から見れば、そんなものは愛と呼べないかもしれない。

 しかし少年と少女からすれば、どれだけ歪でおかしくても、それが愛の形だった。

 ルシフとマイはそのまま眠りに落ちた。

 その日だけはマイを殺す夢を見ず、ルシフは久し振りの快眠だった。


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