Fate/stay night プリズマ☆イリヤ   作:やかんEX

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2月2日
ACT3 「面影」


 

 

 とんとん、ことん。

 小気味よく響いた包丁の音を休ませ、士郎は最後の具材の準備を終えた。今切り分けたばかりの果物を、水分が他のおかずに染みないようワックスペーパーの隣に詰め、弁当箱の蓋を閉める。

 そんな彼の様子を朝食後の皿洗いをしながら見ていた桜が、ふと疑問に思って尋ねてきた。

 

 

「あれ? 先輩、そのお弁当どうしたんですか?」

「ん、ああ、ちょっとな」

「……でもそれ、いつもは使ってないお弁当箱ですよね? それに、さっき先輩の分は別に詰めてた気がしますし……」

「あ」

 重ねての質問に、思わず惚けた声をあげる。

 彼女の目敏さには感心する士郎だったが、正直今は困ったもの。なので、彼は苦しい言い訳をすることにした。

「え、ええっと、これは一成の分。ほら、あいつってお寺の子だろ? そんでもって親父さんの趣味で肉料理が禁止なんだ。それでよくおかずを盗られちまうもんだから、今日くらいは作ってやろうと思って」

「……そういえば、今日は生徒会に寄るって言ってましたね。なるほど、納得です」

 彼の言葉に妙に安心して頷く桜に、士郎も同じくらい安堵してほっと息をついた。

 ただ、そこで突っかかってくる人も居る訳で。

「あ〜〜〜っ!!!! 士郎、ずるい!! さっき私がお願いした時は作ってくれなかったくせに、柳洞くんには作っちゃうんだ!!!」

「……藤ねえのは桜が用意してくれただろ? それに桜の作った蓮根とこんにゃくのいり鶏、『おいしい、おいしい』ってさっきも食べてたじゃないか」

「むむ、それはそれ、これはこれよ! 私も士郎のおかず食べたいんだから! 食後の果物食べたいんだから!」

「はいはい」

「コラ〜ッ!! お姉ちゃんはね、士郎をそんな子に育てた覚えはないわよ〜〜っ!!」

 

 

 はいはい、と、先程と同じように繰り返しながら、士郎は鞄にその弁当箱を入れる振りをしつつ、居間を後にする。おざなりなその態度にがみがみ怒る声を背中に聞いたが、それを無視して自室へと向かった。居間からのそう長くない廊下を、しかし、いつもより少し足取り遅くして渡り切った士郎は、静かに障子を開いて室内へと戻り、ふぅ、と体の力を抜くように息を吐いてその場に佇立する。

 

 

 そうして、暫く。

 

 

 意気込みを決めたのだろう。やおら、彼はくっと顔を上げて吐いた以上に息を深く吸い込むと、自室と隣室を遮る襖の前に向かって立ち、ひどく神妙な表情を持って、静かな声でそこに語りかけた。

 

 

「…………起きてるか?」

 

 

 返事はなかった。

 予想していたのだろう。彼は構わず言葉を続けた。

 

 

「一応、弁当を作ってみたんだ。

 ほら、昨日から何も食べてないだろう? 気づかないうちに腹は絶対空いてると思う。

 ……嫌いな食べ物とか、あったか?」

 

 

 返事はない。

 

 

「あ、その前に着替えがしたいんだったら、俺の古着を用意したのを好きに使ってくれ。サイズがよくわからなかったから、こっちの机の上に幾つか余分に準備しておいた。

 ……デザインには期待しないで欲しいけど、動きやすいのを選んだつもりだ。それで、いいか?」

 

 

 やはり、返事はなかった。

 

 

「…………」

 

 変わらない沈黙に、彼は軽いため息を吐いた。同時に、昨夜の少女の様子を思い出す。

 

 

 昨日、士郎にとって全く意味がわからない質問に答えた後、呆然自失といった風に全く言葉を発さなくなってしまった少女。心配になった彼が声を掛けても、彼女はただ唖然として動きを見せなかった。そしてその姿に戸惑った士郎が、仕方なしに彼女の肩を揺らして気づけをしようとした────その時、ようやく士郎の姿を再度しっかりと認識した少女が、何故か心底怯えたような目で彼を見たのだ。

 そうして、少女がそのままの表情で後退り、下を向いて呟いた、『一人にして』という懇願の言葉。そんな姿の彼女にどう対処していいか分からなかった士郎は、ただその言葉に頷くしかなかった。────今はそのことを、酷く悔やむ。

    

 

 やがて、士郎は少し言葉を溜めるように息を潜めたと思うと、できるだけゆっくり、なるべく相手を安心させられるように、落ち着いた声色で、別の問いかけを発するのだった。

 

 

「…………『イリヤスフィール』っていうのが、君の名前なんだよな?」

 

 

 ────その言葉に

 

 襖の向こうで、微かな物音が立つ。

 次いで聞こえる、深く潜められた呼吸音。

 それに少し手応えを感じた士郎は、もう一度同じような調子で問い掛けた。

 

 

「…………何か、知ってることを話してみてくれないか?」

 一歩二歩、相手に踏み込んだ質問。昨日、彼が少女についぞ出来なかった問いかけだ。

 その大胆な彼の問いに、襖の向こうからいっそう大きな物音が聞こえてきて────

 

 

 それでも、返事はなかった。

 

 

 ただ聞こえるのは彼と彼女の息遣い。

 その後に続く言葉はどこにもなく。

 間にある襖一枚が実際よりも大きく二人を隔てているような、そんな風に士郎には感じられた。

 

 

 ゆっくりと時間だけが過ぎていく。

 朝特有の清涼さとは逆の、どこか重苦しい静寂。

 その中で無意識のうちに手を握りしめ、士郎は少女の返事を根気よく待った。

 

 

 

 ────そして

 

 

 

「士郎〜! 何やってるの〜〜?

 桜ちゃんが玄関で待ってるんだから、早く支度しなさいよねー!」

 

 聞こえてきたのは士郎が望んだ物でなく、違う方向からの騒がしい声。その内容の呑気さに思わず溜息ひとつ零して、彼は呼びかけの主に返事を返す。

 

「もう行くさ! 藤ねえもさっさと行けよな!!」

「へっへーん、士郎に言われるまでもなくもうスクーターも出しちゃってるもんねー! とにかく、二人も遅刻はしないこと!」

『また後でねー!』なんて言う大声が、ブブンと鳴るエンジン音とともに遠ざかって行く。

 朝っぱらからのその元気さに脱力を抑えきれない中、彼は改めて襖の前に向かい立ち、努めて朗らかな声で話しかけた。

「俺も学校に行ってくる。家にあるものは何でも使ってくれていいから……それじゃあ」

 言いつつ、念のためさらさらと書置きもしたためた士郎は、最後まで帰ってこない返事を背に、軽く首を振って部屋を後にした。

  

 

 広い家の長い廊下。片側を大きなガラス窓にしたその廊下を、一人歩く。今日も変わらず、暖かい陽光がガラス越しに木造の床に落ちていた。

 

 

 歩きながら士郎は思う。

 なぜ、どうして、自分はこう何もできないのだろうかと。たった一人の少女すら痛めつけられる前に助けることができず、震える彼女が何故震えているのか知らず、そんな彼女をどのようにして元気付けてやればいいのか、それさえも自分には分からない。

 こと、こういった事柄に関しては、本来なら自身の姉貴分とも言える人に相談すべきなのだろう。底抜けの明るさが持ち味なあの人だ、きっと見知らぬあの少女相手にも親身になって話し合い、そうして緩やかに彼女の心を開かせていくだろう。自分も少なからず影響を受けたように、暗かった頃の桜のあの笑顔を引き出していったように。急に女の子を家に連れ込んだなんて知られればきっと大騒ぎになるだろうが、今のあの少女の様子が明るくなるのなら、それは士郎にとって些細な話だ。迷う筈のない事だった。

 

 

 ……ただ、その選択肢を取れない理由が士郎にはあった。それは、昨晩あの女の子を襲っていた者達の存在。少女と巨人、明らかに此方側(魔術)に関わる、あの二人組。彼等は危険な存在だ。特に、いま士郎の家にいる少女と同じ姿をした、あの紅い瞳の少女。

 勿論、単純な脅威や存在感から言えば、巨人の方が上だろう。あれは死そのものだ。敵対した者にとって暴虐的な残酷さの象徴であり、あの存在に抗う術なんてない。────だが、それよりも怖いのがあの少女だった。ただ茫洋と意思が感じられなかった巨人と違い、どこまでも無邪気に人を殺すと宣言した銀の少女。彼女はあのイリヤという子だけでなく自分も殺すと言っていたが、きっとあの言葉に嘘はなく、彼女は躊躇などしない。路傍の石を蹴るよりも軽く、あっさりと、自身の邪魔となる存在を排除するのだと、あの巨人へ残酷な命令を下すだろう。士郎には奇妙な確信が湧いていた。

 

 

 そして、そうであるのなら、身の周りの人間を不用意に巻き込む事は出来ない。士郎にとって、あの二人の女性は日常の象徴なのだ。父から習った魔術を鍛える傍ら、そのことを知らずに、ただ彼のことを想って自身の家にやってきてくれるあの二人。そんな彼女達の身が、魔術に関わる事によって危ぶまれるなど、あってはならない。

 ────だから、自分がなんとかする必要がある。例え力が足らず無謀だとしても、例え自身の命がいくら脅かされることになろうとも、何より、『正義の味方』を目指す衛宮士郎として、あの様な存在を見過ごす事は許されないのだから────。

 

 

「…………先輩?」

 

 

 聞きなれた後輩の声が掛かる。

 そこで自分が玄関にたどり着いていた事を知った士郎は、その前で既に準備を終えて土間に立つ桜が、心配そうにこちらを窺っていることに気づく。

 彼は詮のない思考を巡らせていた自分に苦笑し、靴を脱いで駆け寄ろうとする桜を手で押し止めて言った。

 

 

「悪い、桜。ちょっとぼんやりしてた」

「……先輩、本当に大丈夫なんですか?」

「ああ、もちろん。

 それじゃあちゃっちゃっと出るか。このまま遅刻でもすれば藤ねえが調子に乗っちまう」

「…………」

 

 

 依然気遣い気な表情の桜を外に促す。靴を履いて、自分も同じように家を出た。

 今日は学校に行かなくてはならないが、明日は幸い日曜日だ。もともと取り立てて用事もなかったし、明日一日を費やして少女と向き合い、そうして少しでも彼女の助けになれるように自身の力を尽くす事にしよう。

 そう結論を出した士郎は、『桜と藤ねえに念のため明日は断りを入れとこう』なんて考えつつ、玄関の引き戸と鍵をしっかりと締め、学校に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 イリヤは夢の中にいた。

 そしてそれを、彼女は自覚していた。

 

 

 夢を見るのは眠りが浅い時だと言うが、それは間違っている。イリヤはそう思う。

 いや、そうじゃないとおかしい。だって、今、自分はあんまりにも長い夢を見ているのだ。浅い眠りだとしたらとっくに覚めているだろう、ずっとずっと長い夢。ともすれば、奇妙に鮮明な自意識と相まって、その夢が実は現実だと言われても、信じてしまうくらい。

 

 

 いずれにせよ、イリヤは自分がいる此処が夢だと認識していた。

 理由は簡単で、夢の中で繰り広げられる出来事が単純に現実でありえないコトばかりだから。

 それは本当に荒唐無稽な話で、自分自身変だと、ありえないと、すぐに理解することができた。

 

 

 その夢の中では、まずイリヤは見知らぬ場所に投げ出されている。寒い、冬の日の夜、たった一人で路上にぽつんと。現実世界では夏だったから、これが第一におかしな点だ。もしもこんなにおかしなコトが現実だとしたのなら、あの魔法ステッキが飛んでこない筈がない。

 

 

 次に見知らぬ少女が現れる。いや、見知らぬ少女と言ってもその姿は見慣れたもので、彼女の姿は自分と全く同じ物。……自分自身、安直なものだと心から思う。きっと、クロの姿が自分と少しだけ異なるものだから、完全に同じ存在を夢の中で作り出してみたのだろう。そして、これが次のおかしなコトとして、その少女は以前自分たちが倒した筈のカードを従えていた。こちらの方も、これが夢だから知っている存在を再利用したのだと、そう推測する。

 

 

 そして、その少女とカードはイリヤを追いかけてくる。自分を捕まえて殺すのだと、ひどく残酷な事を言って追いかけてくるのだ。それは本当にリアルに感じられて、実際に痛みや恐怖などを本当に受けているように思えるくらい、現実感を伴っている出来事。もう自分自身、そんな怖い夢をわざわざ見る必要もないと叫びたかったのだけど、その後に、なぜ自分がこんな夢を見る事になったのか、イリヤは理解することになった。

 

 

 なんと、兄が現れたのだ。ピンチの場面、怪物に追われ、蹴飛ばされ、イリヤが夢の中で死にそうになっている、その時に。そこでイリヤは悟る。自分がわざわざ怖い夢を見ていたのは、よく見ているアニメや漫画みたいに『主人公がヒロインのピンチに颯爽とやってくる』────そんな場面を再現したかったのだろうと。主人公が兄で、もちろんヒロインがイリヤ。そうして、その予想通りに兄に助けられて、彼の家に連れて行ってもらう自分。夢の中の自分と兄は他人設定だったが、これはきっと、自分が日々妹という立場に満足しつつもどこかそれ以上を望んでいた、そんな気持ちの顕れなのだろう。……まったく、これでは乙女思考だと馬鹿にしてくるルビーに反論ができない。イリヤはそう自嘲して苦笑したくなった。

 

 

 

 

 

 

 何はともあれ、彼女はこれを夢だと結論付けた。

 だって、今ざっと振り返っただけでも分かる。

 この夢はおかしな所だらけだ。

 現実にはありえない、そんなコトばかり。

 だから、自分が今居るのは、深い深い夢の中。

 絶対にその筈で、そうでなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 そうである、ハズなのに

 

 

 

 

 

 

『イリヤスフィールっていうのが、君の名前なんだよな?』

 

 

 

 

 

 

 何故、そんな言葉が、聞こえてしまうのだろうか。

 

 

 

 

 

 

「────ぁ」

 

 

 思わず、イリヤは声を漏らす。

 それと同時に、その小さい声がくぐもったように近くで響き、嫌でも自身の耳に入ってきた。

 そして耳で音の振動を拾ってしまえば、次にそれは脳に上がって認識という段階に至り────そこでイリヤは、自分の意識が確かに現実にあるのだと、自覚した。

 

 

「────っ!!」

 

 

 零れ出そうになる悲鳴を必死で押し殺す。

 恐怖で噛み合わない歯が擦れて鳴る音がした。

 障子と襖。できる限りの光を遮断したその薄暗い部屋の中、壁際に凭れた毛布が一つ、ぐちゃぐちゃになって置かれている。そして、その毛布の内側で視界を真暗闇にして、かたかたかたかた、ただ震えている少女が一人。

 

 

 どれだけの間、震えていたのだろう。

 どれだけの間、涙していたのだろう。

 現実逃避していた頭は判然とせず、大まかな感覚さえ覚束無いでいる。

 

 

 だけど、今になって確かなことが一つ。

 彼女は夢を見ていなかった。

 いや、そもそも、眠ってさえいなかった。

 

 

 昨夜のあの彼との問答。

 その結果、ここが平行世界だと知ったイリヤは、その事実を到底受け入れられなかった。なにせ、ここには父も母も、リズもセラも、誰も居ない。そして、たとえ彼らが居たのだとしても、自分が知らない世界だということは、ここでは誰もイリヤのことを知らないということで────。

 

 

 ────それは当然、彼女の目の前に居た、兄にも当て嵌まることだったのだ。

 

 

「……なんで……どうして……」

 

 抑えきれなかった疑問が零れ落ちるが、それに答える声も此処にはない。

 

 

 理由もわからず殺されそうになったこと。それはもう良かった。だって思えば、イリヤは既にそういった事に慣れてしまっている。魔術という存在を知って魔法少女となったイリヤは、これまで数々の理不尽と対峙してきた。手強いカード達や自身の半身であるクロ、そんな相手との戦いでは、ともすればその命を落としそうになる事も多々あっただろう。だから、どれほど残虐な目にあったとしても、時間が経てばきっと自分はそれを呑み込んで歩いていける。

 知らない場所に一人で取り残されそうになったこと。確かに一人は心細い。加えて意味不明な事ばかりが起こる状況では、ただ震えて身を潜めるしかなかった。……けれど、それも既に解決した筈の事だった。だって、一人だと思い込んでいたイリヤの前に、自分が一番大好きな人が現れてくれたのだ。だからイリヤは安心した。その姿に安堵し、情けなく涙して縋り付きつつも、その人のお陰で立ち上がることができる筈だった。

 

 

 なのに、どうして、よりにもよって────

 

 

「…………おにぃ、ちゃんっ」

 

 

 自分で呟いたその言葉に、イリヤは流しきった筈の涙をまた流し始めた。

 

 

 必死に目を閉じても一睡もできなかった。それでも、懸命に耳を塞いで毛布の中にくるまっていたイリヤ。何も聞こえず、何も考えず、そうしている筈だったのに────けれど、そんな彼女にどうしても聞こえてしまう声、そして目蓋の裏に浮かんでしまうその姿。それは、彼女が最も好きで、いつまでも自分の味方だと、そう最も信頼していた人物だった。

 

 

 ────それなのに、よりにもよってその人物に、『お前など知らない』と、そんな言葉を突きつけられてしまったのだ。

 

 

 だから、イリヤは堪えきれなかった。

 未だに部屋の隅で、ただ震えていた。

 長い長い時間だけが、ずっと過ぎていった。 

 

 

 

 

 

 

 

 そして

 

 

 

 

 

 

 

 ぐぅ、と、彼女のお腹から、小さな音が鳴った。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 

 

「……うぅ」

 イリヤは思わず涙を浮かべた。気の所為だと思って腹部を抑えて背中を丸めるが、それでもマヌケな音は留められずにぐぅぐぅと鳴り続ける。

「…………お腹、すいたよぉ」

 口に出すと、また音が大きくなった気がする。 

 本当に情けない。今はそんなことは気になんかならないと思っていたのに。……だけど、それも仕方がない事だと思う。だってこれは生理的反応という物。昨夜から何も食べていなかった胃は空っぽになっていたのだ。結論、お腹も減るし鳴る。イリヤはそんな風に心の中で独りごちた。

 

 

 そして、ふと俯かせていた顔を上げて訳もなくきょろきょろと部屋を見渡したイリヤは、やがてもぞもぞと毛布から抜け出し、そうして起きてから初めて、この部屋を出ることにしたのだった。

 

 

 障子と襖。

 二つある出口を見比べたイリヤは、少ししておそるおそる隣室に繋がる方に近づき、扉を開く。

 すると、明るい光が視界に飛び込んだ。暗闇の中にいた彼女の目はしょぼしょぼしていて、顔の前に腕を翳して瞳を眇めながら歩き出そうとして────コツン、と、何かを軽く蹴飛ばした感覚を得た。

 

 

「……お弁当箱?」

 

 

 下を向いたそこにあったのは、シンプルな灰色の四角形。そしてその横にある、五百ミリリットルサイズの水筒が一つ。頭に疑問符を浮かべつつ屈み込んでそれらを手に取ったイリヤは、その下に敷かれてあったメモ用紙も加えて発見した。

 

『しっかり食べること』

 そう一言書かれた素朴な筆跡の伝言。

 

 それがまた、どうしようもなく誰かの書いた物と同じように見えて、イリヤはひとりでに潤みだす瞳を腕で拭いつつ、少しの逡巡の後、その場にしゃがみ込んで弁当箱の蓋を外した。

「……わぁ」

 思わず声に出して感嘆した。

 蓋を開けたそこにあったのは、丁寧に調理された具材の数々。もうとっくの昔に冷めてしまっているだろうに、おかずの一つ一つから美味しそうな香りがせり上がってきて、イリヤの鼻腔を擽った。

 一瞬、彼は自分の事を知らないのにここまで世話になってもいいのだろうか、そんな考えが頭によぎった彼女だったが、追打ちとばかりに鳴った腹の音には勝てなかった。備え付けの箸を持ち、弁当の端っこに入った卵焼きを一つ、片手で受け皿を作りながら口に運んだ。

 

「────美味しい」

 

 そう漏らしたイリヤは、瞠目して動きを止めた。

 静かな和室の畳に、傾きを変えた陽光が強く差し込んで、がらんとした部屋に暖かな色を灯す。

 しばらく黙ったまま居住まいを保っていたイリヤは、やがて、自身のごくりと言う喉の音に誘われるように、ゆっくりと次のおかずに手をつける。

 そうして、一口、二口、食べる度に口にするスピードをどんどん早くしていく。

 もうイリヤは、ただ無心で手を動かしていた。

 お腹がすいていたと言うこともあるのだろう。特別食いしん坊というわけではないが、家で出される料理は美味しく、そこで育った彼女もまた、食事をしっかり取るということを覚えていた。

 ……だが、それだけが理由ではない。

 今イリヤが食べているこの料理は────兄が作った物に、とてもよく似ていたのだ。

 

 

 勿論、イリヤは既に、兄とあの彼が同一人物ではないことを理解している。そもそも、味付けや盛り付け方、様々な部分がイリヤの世界の兄の物とは異なっていた。

 たとえば、イリヤの兄は弁当に和洋中様々なおかずを入れるが、この弁当は和の色で統一されている。それは幼かったイリヤが要求していた事の名残で、その分、この弁当のおかずはどれもとても美味しいのだけど、兄と比べると、弁当全体の色合いに関してはあまり気を遣えていない様に思う。

 他にも色々な違いがあった。

 兄は最近、少し凝って土鍋でお米を炊く。こちらはたぶん、炊飯器で炊いたお米だろう。

 こちらの弁当には白菜の深漬けが入っているが、兄は作らない。それは家に嫌いな人がいるからだ。

 ……こんな風に違いなんて幾らでも言える。自分は小さい頃からずっと、兄の料理を食べてきたのだから。

 

 

 それでも、イリヤはこの料理の品々の中に兄の姿を見る。それは、ほんの些細な『気遣い』の現れ。

 

 

 この弁当には揚げ物が一つもなく、代わりに胃に優しい豆腐や大根などが多く使われている。これはきっと、昨日からずっと食事を取らずに震えていた自分の体調を気遣ってのものだろう。

 この弁当には色んなおかずが少しずつ入っている。もしかしたら、好き嫌いがわからないイリヤのために、わざわざそうしてくれたのかもしれない。

 他にもそういった配慮の意識が節々に感じられた。紛れもなくこの弁当はイリヤの為に心を尽くして作られた物で、それは、自分が幼い頃から食べてきた、大好きな料理にとてもよく似ていた。

 

 

 そうして、米粒の一欠けらもなく綺麗に平らげたイリヤは、不意に、言葉に出来ない何かが胸内からせり上がって、思わずこみ上げた感情を飲み込むように、彼女は静かにその瞳を閉じて────

 

 

 

 

 

 

 ────ふと

 

 

 

 兄の言葉が、姿が、脳裏に蘇った。

 

 

 

 

 

 自分とクロの料理対決。その結果を判定してくれる兄に、お世辞にも美味しいとは言えない自分の作ったパウンドケーキ。それを食べた彼の率直な感想に意気消沈した自分へと、兄は、自分がもう覚えていなかった頃のコトを話してくれた。遠い昔、兄が初めて料理をした時の話。彼が作った肉じゃがの失敗作を幼い自分がひたすらに食べていた、なんていう些細な話。その時に兄が大切だと感じた物を、料理対決で自分の作ったパウンドケーキにも感じたのだという。

 そして、自分は、その時に嬉しそうに兄が話した事を、今食べたばかりのお弁当にも確かに感じ取っていた。それは────

 

 

 

 

「『料理は愛情』……そうだよね、お兄ちゃん」

 

 

 

 

 呟き、その言葉をイリヤは噛み締めた。

 そして一つの結論に至る。

 自身の兄は、どこの世界でも兄なのだと。同一人物ではないのかもしれない。イリヤのコトを知らないのかもしれない。……それでも、不器用で朴念仁で────誰よりも暖かくて優しい、自分が一番大好きな、そんな兄のままなのだと。

 

 

 

 

「────よしっ!」

 パチンッ、と、両の手で頬を叩いた。

 じんじんと痺れる痛みに気合を入れた彼女は、考えを纏めるように取るべき行動を口にしていく。

「まずはお兄ちゃんに謝ろう。そして『ありがとう』って言わなきゃ。……でも、平行世界の事なんかは話しちゃってもいいのかな。って、そうだ、お兄ちゃんにも昨日の事を聞かなきゃいけないよね。……というか、ここって一体何処なんだろう?」

 言って室内を見渡したイリヤは、この部屋の唯一の調度品の上に置かれたある物を見つける。

「洋服……あれ、こっちにも書き置きがある。なになに、『好きなのを着てくれて大丈夫』……え、これってわたしが着ていいの!? お兄ちゃんの(物と思われる)服を……!!?」

 言って戦慄したイリヤは、口では戸惑いの言葉を発しつつも卓上に置かれた衣服を次々に物色しだす。他人の部屋の中、一人顔を真っ赤にして匂いを嗅いでもいいかどうかなんて躊躇う彼女のその姿は、どう考えても不審者のそれである。

 

 

 ただ、そんな少女の小さい背中は、もう決して、震えてなどいなかった。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 そうして、自身の心の内で一悶着あったイリヤは、結局シンプルな白黒のジャージに着替えた後、今になって漸く呼吸を整えたところだった。

 

「……ふぁ」

 ふと零れそうになる欠伸を噛み殺す。

 思えばイリヤは自身の置かれた状況に一杯一杯で、昨夜から一睡もしていなかった。

 けれど、今は抱いていたその不安も振り切り、残るは極限まで蓄えられた疲労のみ。お腹も膨れて着替えも済ましたことだし、となれば収まっていた眠気が襲ってくるのも当然と言うものだろう。彼女はそう考える。

「……少しだけ、寝ようかな」

 兄の部屋にある置き時計は三時を指していた。こんな時間から眠る事には違和感があったが、それでも睡眠欲には逆らえない。自身に充てがわれた隣室に戻り、壁際にくしゃくしゃにしていた毛布に今度はちゃんと布団の上で包まって横になると、そう時間を置かずして目蓋が自然と閉じられていく。

 

 

「……お兄、ちゃん……ありがとう」

 

 

 そして、大好き。

 

 

 もう口を開くのも億劫になりつつも、イリヤは心の中でそう付け足した。

 今度は怖い夢なんかきっと見ない。そんな温かい確信とともに、意識は緩やかな微睡みに落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 




(あとがき)
初期にイリヤは士郎の事を
『朴念仁じゃないよ』と言っていましたが、
もう流石に考えを改めてるだろうなぁと笑
これからはくよくよしない、
プリヤのイリヤらしさの別の面も出せれば。

また、私のこの作品を書くスタンスは
『(自分が)できるだけ設定遵守、
 けれど展開的に微妙な所は都合よく過大解釈』
というぐらいの、緩い感じです。
タグの通り半ばギャグとして書くつもりですので、
生暖かい目で読んでいただければと思います。
(今の所、ギャグ成分ほぼなしですが……)
 
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