Fate/stay night プリズマ☆イリヤ   作:やかんEX

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ACT4 「夜、再び」

 

 

「────ぅ、ん」

 

 

 唐突な声を零して、イリヤはふと目を覚ました。泥のように深く沈みこんでいた意識が、急速に鮮明になっていく。麻痺したように活動を鈍らせていた体が、意識の覚醒に引かれて、ゆるゆると目覚め始めた。

 

 

「……そっか、ちょっと眠ることにしたんだっけ」

 

 

 深い眠りに痺れてしまった腕を解しながら、イリヤはそう呟いた。

 軽く頭を振ると、乱れた髪が頬に掛かった。ぐちゃぐちゃになってしまったその毛先を手櫛で整えつつ、昨日から風呂に入っていない事を今更ながらに思い出して、思わず顔を小さく顰めてしまう。

 

 

「……もう、暗いや。いま何時なんだろう」 

 

 

 部屋に一つある窓の障子越しに、夜の月明かりが差し込んでいた。

 畳に浮き上がる青白い光。蒼の色彩に染まった和室。そんな部屋の中をぼんやりと眺めながら、お兄ちゃんもう帰ってるかな、なんて考えがふと浮かび上がって、イリヤは欠伸をかみ殺しつつ、身を横たえていた布団からゆっくり立ち上がることにした。

 

 

 音もなく襖を開けて隙間から覗き見る。

 しかし、そこに兄は居なかった。

 

 

 眠る前に空にした弁当箱と、残念ながら着ることのなかった数着の着替えが、自分が昼に動かしたそのままに机の上に置かれている。きっと、まだ兄はこの部屋に一度も戻ってきていないのだろう。

 ちらりと見えた時計の針は十一時を指していた。

 指折数えて八時間も眠ってしまった自分に鄂然としてしまうが、それよりも今は兄の事だと気を取り直す。時間も時間だし、違う部屋に居るのかもしれない。昨日の事はあまり覚えていないのが本音だったが、相当無茶苦茶な態度を取った気がするし、それで気を遣われてしまった可能性もある……。

 昨夜からの自身の行動を少し悔やみつつ、イリヤは見当たらない兄の姿を探しに行くことに決めた。

 

 

 廊下と部屋を区切る障子を開け、室外に出る。

 

 

 そこは静まり返っていた。少し先の、硝子張りの廊下に月光が落ちているのが目に入る。誰もいない静寂。外から差し込む月光と、穏やかな蒼い闇に染まった木張りの床。零れた吐息の残滓は白く、冷たい夜にゆっくりと溶けていった。

 

 

「こっちも……暗い」

 

 

 呟くことで意識的にその静寂を破り、イリヤは暗闇の中を恐る恐る壁伝いに歩いた。

 きし、きし、きし……。

 床板を軋ませながら一歩一歩廊下を渡り、しばらく行った角際の壁で押した物がスイッチだったのか、オレンジ色の明かりが視界に灯る。

 

 

 ほぅ、と、感嘆の吐息が再び零れた。

 

 

 視線の先に伸びた、よく磨かれた長い廊下。背の高い天井に吊るしてある、純和風の照明によって帯びた淡い橙の色味が、冷たい夜を暖めるように邸内を彩っている。側面の雨戸から見えるのはちょっと吃驚してしまうくらい広々とした庭で、そこにある蔵や外堀、道場らしき物から察するに、所謂典型的な武家屋敷と言う奴ではないだろうか。

 

 

「どうしよう、ちょっと探検したくなっちゃった。……ま、まぁ、お兄ちゃんも探さなくちゃいけないもんねっ!」

 

 

 誰に言うでなく一人言い訳を零して、イリヤは少し息を弾ませた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 物音のしない邸内を、静かに歩く。

 夜の空気は冷やかで服越しに肌を噛んだ。

 窓ガラスを閉め切っている家内は、しかし、どこからか風が吹き通っていて、肌を叩くそれに少し身を縮こまらせながらも、廊下をひた進む。

 

 

 兄を呼びつつ回廊沿いの部屋を覗いていったが、目当ての姿は何処にも見当たらなかった。そのまま少し戻って渡り廊下を進み、別棟の離れらしき所まで歩いて行ったけれど、そこにも人の気配は一つとして感じられない。どうやらこの家に居るのは自分だけらしく、肝心の兄はこんなに遅い時間にも関わらず、まだ外から帰ってきていないようだった。

 

 

 ────そういえば

 

 

 その場で立ち止まって、イリヤはふと思った。

 はっきりと正確な時間までは分からないけれど、兄は昨日も夜に外出していて、だからこそ自分は彼に助けてもらえたのだった。

 自分の世界の兄は弓道部に入っているが、もしかして、こちらの兄も部活動か何かをしていて、帰りが遅くなっているのかもしれない。

 自分だって最近は夜に出歩くことが多かったし、さすがに魔法ステッキとまでは言わずとも、兄にも何か用事があったとしてもおかしくはないだろう────イリヤはそんなことを考えた。

 

 

 だとしたら、別に急いで兄の姿を探して回る必要はない。

 そう結論を下しかけて────それはそれとして、家の中は見ておこうと、そう思い直した。

 だって、まだ兄が別の部屋で寝ているという可能性もあったし、正直なところ、知らない家という物はそれだけで魅力的に思えたのだ。幼い頃の冒険心が燻られたこともある。取り立てて他にする事がないというのも理由にできるだろう。だからこれは、人間として仕方ないことなのだ、うん。

 そんなことをつらつらと考えたイリヤは、足取り軽やかにまた歩き出すのだった。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、ひとしきり邸内を探索した後。

 結局、家の中を一周しても兄の姿を何処にも見つけられず、所在無くなってしまったイリヤは、その合間に見つけた居間らしき場所に戻り、そこで暫く時間を潰すことにした。

 とりあえず室内の照明を点け、部屋の隅に重ねられていた座布団を一枚引っ張り出し、それにちょこんと座る。そうして、部屋の真ん中に置かれた日本風の低い食卓に腕をついて、何とはなしに頬杖をつく。

 

 

 しんとした静寂が場に降りた。

 

 

 自分以外は誰も居ない空間。家の中でこの部屋の明かりだけが灯っている中。かち、かち、と、時計が時間を刻む音だけがやけに明瞭に聞こえるその中で、イリヤはただぼんやりと、机越しに向こう側を眺めていた。

 腰模様に薄い桜の柄が入った、白い襖。

 

 

「……立派な家」

 

 

 言ってから、つくづくそう思った。

 探検して分かったが、本当に大きくて立派な家だ。自分の家が普通の一軒家で、純和風の日本家屋に憧れがあったこともあるけど、そうじゃなくてもしみじみと感心してしまう位の武家屋敷だと、そう思う。

 目に優しい木造の色味。吹き通る風。純和風の家屋でありながら、行き届いた現代風の設備。雰囲気のある和室や回廊に、おまけに見た目にも風流な縁側なんかも兼ね備えてある。部屋の数も膨大で、ちょっとした旅館と言われても信じてしまいそうになる、そんな風格がこの家にはあった。

 

 

 そして何よりも、とイリヤは付け加えた。

 それは、この広くて大きな家が、本当によく手入れされていること。

 

 

 埃一つ落ちていない廊下に、染み一つないまっさらな襖や障子、壁。どこを見ても、この家の住人が大切にしていることが伝わってくる、清潔で暖かなその空気。清廉な風が吹き通るこの家の雰囲気は、ここで丸一日も過ごしていない自分をも受け入れるような、そんな自由さを感じさせた。

 家もまた家主に似ると言うが、それは本当だとも思う。自分の世界の兄も真面目で几帳面で、何事も細やかな部分まで気を遣う人だった。家にはセラという立派なメイドが居るのに、それでも家事全般を極めんとしている兄の姿は、生来の性分なんだろうなぁ、と、日頃からその様子を見て思ったもので、そしてこの手入れを行き届いた家はそんな彼を彷彿とさせるのだから、やっぱりどこの世界でも兄は兄だと、思わず頰が緩んでしまう。

 

 

 イリヤはふと部屋の中を見渡した。

 

 

 この居間。いま思い立って数えてみれば、ここも十六畳もの広さがあった。それでもって、この広々とした部屋が当たり前のように隅々まできちんと綺麗にされているのだから、たいしたものだ。

 ……本当に、自分の兄のことながら、つくづくと感心してしまう。よくも、ともすれば大きすぎるぐらいのこの家を────。

 

 

 

 そこまで考えて、イリヤはもう一度部屋の中を見渡した。しんとした静寂に沈む、誰もいない居間。

 

 

 

「……お兄ちゃん、一人でここに暮らしてるのかな」

 

 

 

 知らず、ぽつりと呟いていた。

 同時に脳裏に蘇った、昨日の光景。

 昨夜、自分が取り乱して兄に詰め寄った時。あの時の自分は現実を信じたくなくて、兄に対して懇願するように色々な事を尋ねて、結果、その問いかけに対する兄の返答は全てが全て衝撃的な物だったのを覚えている。

 

 

 そしてその中でも、

 あの時の問答を思い起こしてみて今一番気になってしまっているのは、兄が────『自分には家族が居ない』────と、そう言っていたこと。

 

 

 はっきりとそう聞いた訳ではない。

 自分が彼に訊いたのは、向こうの世界の自分の家族の、こちらでの存在の有無だけだった。もしかしたら、こっちの兄には自分やクロみたいな姉妹の様な存在はいないかもしれないけど、ひょっとすると、自分の全く知らない兄や弟なんかが居るのかもしれない。

 そんな事を考えると少し複雑な感情が胸に湧いたが────そうであって欲しいと、イリヤは心から思い願った。

 

 

 だって、昨日のことを思い出すと、胸が痛くなる。

 

 

 兄は言っていた。彼にはもう母親はいないと。そして、その後に尋ねてからはっきりと知った。きっと、向こうと同様にこちらの世界でも兄の父親であった、自分の父でもある衛宮切嗣に至っては────。

 

 

 そこでイリヤは、胸に迫り上がった感情を、間一髪、歯を噛んで飲み込んだ。

 そうして気持ちを落ち着かせられるように、顔を俯けて、深く深く息を吐いた。

 

 

 もう、自分の事は良かった。

 勿論、それはイリヤにしてもとても悲しい事。俄かには信じられない事だし、その事実を前に、未だにどう反応していいのかすら分かっていない。

 ……だけど、それ以上に、一人残されたであろう兄の事を思うと、胸が引き裂かれそうになるくらいに、自分の事のように心がズキズキと痛んだのだ。

 

 

「…………ダメ、だよね」

 

 

 自分に言い聞かせる。

 悲しんでいいのは自分ではない。

 自分はこちらの兄の事を何も知らないし、もし本当に彼が一人で居るのだとしても、向こうの世界で沢山の家族に囲まれた自分が、想像で彼の事を思って憂う事などあってはならないのだと。

 だから、顔を下に向けたまま、ただ膝の上でぎゅっと拳を握った。

 きつくきつく、自分の身勝手な感情を無理やりにでも呑み込めるように。

 

 

 

 

 

 そして

 

 

 

 

 

「────うん?」

 

 ふと、そんな彼女の目が、食卓の下で転がる何かを発見した。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 うんしょと腕を伸ばしてそれを手に取ってみる。

 どうやら、何かしらのポスターのようだ。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 人の物を勝手に覗き見ていいのかどうか、心の中で興味と罪悪感が瞬時に対峙しあって迷って────結局、それがどんな物かどうしても気になってしまったイリヤは、くるくるっとその用紙を卓上に広げて、そこに描かれた一枚絵の内容を確認する事にした。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 さて

 

 

 

 そこに描かれていたのは、

 深い色味の付いた青空を背景に

 男クサい笑顔で親指を突き出す軍服姿の青年達。

 そして、深紅の

 おどろおどろしい文字で書かれた見出しは、

 ズバリ────

 

 

 

「『恋のラブリーレジャーランド。いいから来てくれ自衛会』…………?」

 

 

 

 全く予想もしていなかった内容のそれに、イリヤは、がぼーんと音を立てて目を見開いた。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

「……え、えっ!? そんな感じ!? こっちのお兄ちゃんってそんな感じなの!!??」

 

 

 イリヤは目を皿のように見開いて叫び、つくづくともう一度そのポスターを眺めるが、それは決して彼女の見間違いなどではなかった。

 そこに描かれていたのは、服越しでもよく鍛えられていると分かる身体の青年が三人、精悍な(男クサい)顔をして立つ一枚絵。フォントと内容がひどくアンバランスなその見出しは、彼らの表情や身体つきと合わさって、変な新興宗教の勧誘文句のように胡散臭い。

 

 

「え、えぇ……た、確かにお兄ちゃんは優しくて我慢強いし、向いてるのかもしれないけど」

 

 

 思えば、向こうの兄も日頃から体を鍛えていた。イリヤはそれを弓道部に入っているからだと思っていたし、時折逞しい身体を見て赤面してしまうぐらいで特別気にしていなかったが────もしかすると、向こうでもこういう道を目指していたからなのかもしれない。

 イリヤはそんな考えに至ってしまって、兄の将来について心配になってしまう。

 これは妹として応援するべきなのか、それとも妹だからこそ兄の事を考えて相談に乗るべきなのか、むむむ、と小さく眉根を寄せてしばらく悩んで。

 

 

 

「────ふふっ」

 

 結局、込み上げた笑いを抑える事ができなかった。

 だって、そのヘンテコな絵柄のポスターに、なんだかイリヤは、とても安心してしまったのだ。

 

 

 

 それには理由があった。

 それは、一見文句の付けようの無いくらい立派な、この武家屋敷のこと。

 広くて大きくて、けれど隅々までよく人の手の入ったこの家は────どこか、奇妙にがらんとしている様な、そんな印象をイリヤは感じ取っていたのだ。

 

 

 例を挙げれば、最たるは兄の部屋だろうか。

 毎日兄が就寝して一番使っているだろうあの部屋には、しかし、置かれている物といえば布団とテーブル、座布団と置き時計ぐらいで、なんというか、無駄な物が一つとして置かれていなかった。普通、人が生活していればどんどん物が蓄積されて行くのが普通というもので、実際、イリヤも自分の部屋には漫画やアニメのDVD、アクセサリーやぬいぐるみなんかが自然と溜まって、少しでも乱雑にするとすぐにセラに怒られてしまうのが日常だったし、それは普通の事だとイリヤは思っていた。

 

 

 ────そして、だからこそこの家には、兄の部屋にも言えるように、とても大切に使われていることが見て取れるのに、そんな当たり前の物の感覚がどこか欠け落ちているような、何とも奇妙な違和感を抱くイリヤだったのだ。

 

 

「…………まぁ、こんなポスターが置いてあるんだから、気のせいだったんだろうけど」

 

 

 言って、卓上に広げたそれを頬杖ついてもう一度眺めた。

 相も変わらず、どこから見てもヘンテコな絵柄だ。こんな変な趣味のポスターを家に置いているこちらの兄は、もしかして向こうの兄以上に感情豊かな人柄をしているのだろうか。ひょっとすると、一人暮らしにかこつけて、案外自由気ままに暮らしているのかもしれない。

 イリヤはそんなことを考えて、お兄ちゃんに聞いてみたいことが増えたな、なんて自然と柔らかく笑って、そのまま兄の帰りを待つことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 夜はその特有の静けさを保ったまま、いっそう深まっていった。日付はとうに変わっているにも関わらず、未だこの屋敷の家主は帰宅せず、銀髪の少女だけが一人その部屋に座って彼を待っている。

 ひやりとした空気に沈む、肌寒い居間。

 そんな冷たい空気の中で長時間人を待ち、そろそろ痺れを切らしてしまっても可笑しくはない、そんな状況の中に居る件の少女はと言うと、

 

「ど、どどど、どうしようっ、もうお兄ちゃん帰ってきちゃうかな!?」

 

 焦っていた。

 狼狽していた。

 慌てふためいていた。

 むしろ、待ち人がまだ帰らない事を祈っているのが、今のイリヤの心境だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 あれから暫くは、イリヤは楽しげにしていた。

 なんせ大好きな兄を待っていたのだ。

 考えてみれば、平行世界の兄なんてレアキャラ中のレアキャラだ。会おうとして会えるものではないし、逆にこの機会を生かして根掘り葉掘り聞きたい事を聞けるし良い事ずくめだと、むしろ待ち遠しく思っているぐらいだったのが、少し前のイリヤだった。

 

 

 

 だが、時間が経つに連れ、夜の空気は彼女の思考をマイナスの方へと誘って行く。

 

 

 

 思えば、イリヤはまだ一度も兄とまともな会話を成り立たせていない。

 その事に彼女は唐突に気がついた。

 そうして、そこから悪い方へと考えが一直線。

 何故自分はあんな事をしたのか、兄は自分の事をどう思ったのか、この後兄に何を説明し、何を語るべきではないのか。そんな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡り、後悔、緊張、不安。様々な感情が綯い交ぜになった胸に湧き上がった今の彼女は、ひどく不安定な精神状態に陥ってしまっていたのだ。

 

「……うぅ、お兄ちゃん怒ってないかな……? でも仕方ないよね……わたしは知ってても、お兄ちゃんはわたしを知ってるわけじゃないのに……。

 そ、そういえば、お兄ちゃんのことなんて呼べばいいんだろ────って、もうわたし『お兄ちゃん』って呼んじゃってたっ!? 初対面の子からのお兄ちゃん呼びなんてありえない! 怖いよ!! 無茶苦茶だよ!!! そんな子いる訳ないよ!?」

 

『どこのメンヘラって感じだよ!?』と続けて吐き出したイリヤは、それを最後に頭を抱えてその場で呻いてしまった。

 口に出していっそう羞恥心を煽られたのだろう。

 顔を真っ赤にしながらも眉間に皺を寄せた銀髪の少女は、誰の目も周りにないのをいい事に、うんうん唸りながらブツブツと独りごちていた。

 

 

  

 

 

 ────と、そんな時だった

 

 

 

 

 

 ガタン、と、遠くで、何かが軋めく音がした。

 

 

 

 

 

「……何? これって、玄関の方から……?」

 

 

 突然のそれに思わず顔を上げてしまって、気のせいでないかと耳を澄ますイリヤだったが、確かに、がたがたと乱雑に響く、引戸を無理やりに開こうとしている音が、先ほど見てきたばかりの玄関から聞こえてきている。

 

 

「……お兄ちゃんかな」

 

 

 まず思いついた人物のことを口にしてみる。

 けれど、首を振って甘い考えは切って捨てた。

 もしも兄だとするのなら、自分の家に入る時にあんな風に手間取ることはないだろう。そうイリヤは推察する。そして考える。むしろ、これはどちらかと言えば、まるで空き家を狙ってこじ開けようとする、典型的な────。

 

 

 そんな事をつらつらと考えていた彼女の耳に、続けて、がちゃり、と、扉の鍵が開くような音が聞こえた。

 

 

「────え」

 

 

 思わず声を出して呆気に取られてしまう。

 だが、ぎしぎし、と鈍く鳴る、足取り遅げに床を踏む音。そんな不気味な音を連れて、誰かがじりじりと闇を這う様にこちらに近づいてくる感覚を、イリヤは全身を通して感じ取ってしまった。

 

 

「────嫌、怖い……っ」

 

 

 一瞬間を挟んで、えも言えない恐怖が頭に染み込んでくる。無意識に周囲を見渡したけれど、身を守るに役立つ物は碌に見当たらない。

 ────それでも、最近の体験が身を結んでいるのか。

 できるだけ距離を取るべきだという咄嗟の判断から、急ぎ机の反対側にまで回り込み、中腰になってすぐに動ける様な態勢を取った。

 

 

「…………っ!」

 

 

 気づけば足音が止み、正面の障子越しに人影が浮かんでいた。 

 いつからそこに居たのだろう。

 身を半ば屈め気味にした黒い影は、ゆらゆらと、まるで幽鬼のように頼りなくそこに佇んでいる。

 

 

「……誰……?」

 

 

 緊張に、掠れた声で問いかける。

 影は応えない。

 こちらの声は届いているのかいないのか。

 イリヤはどちらとも判断がつかないままに、無言を持って揺らめき続ける影をじっと眺めていると、次の瞬間、がさり、と、障子の引き手まで伸びた黒い腕が、居間の仕切りを徐々に開けて────

 

 

 

「…………お兄、ちゃん………?」

 

 

 

 隙間から覗いた見覚えのある赤銅色の髪に、彼女はふっと息を緩めて────

 

 

 

「────ぁっ」

 

 

 

 ──── 一方その人物は、頭から転げるようにしてその場に倒れ込んだ。

 

 

 

「……え? ぉ、お兄ちゃん!!???」

 

 

 一瞬、呆然と思考が真っ白になったイリヤだったが、すぐに気を取り直して兄に駆け寄った。

 彼は廊下と居間の境い目に倒れて動かない。はぁはぁと、途切れ途切れに荒い息を吐いている。

 彼女はその苦しげな兄の様子に焦りながらも、なんとかかんとか彼を居間に引っ張り込んで、その身体を仰向けに横たえる。

 

 

「────っ!??」 

 

 そこで気づいた事実に、イリヤは絶句して息を飲んだ。

 

 

 だがそれも一瞬。

 依然として苦しげな兄の様子に、とにかく意識を確認しなくてはと声を大きく呼びかける。

 

 

「おにい────っ、し、シロウさん!!」 

「────? ……ああ、えっと……イリヤスフィール、ちゃん……だっけ」

 荒い呼吸に虚ろな瞳。幸い意識があった彼は、しかし、ひどく体力を消耗しているようだった。

「イリヤでいいから! ってそんな事より、それ!!」  

「……気分が良くなったみたいだな……よかった」

 なのに、そんな状態の彼から漏れるのは自分を案じる言葉。ずっと自分のことを気に掛けてくれていたのだろう、掛け値なしの真摯な気遣い。

 兄のその優しさは本当に嬉しく思うイリヤだったが、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。

 

 

 

「そんなことより、その胸の怪我……!!」

 

 彼の左胸が、赤く、血の色に染まって塗りつぶされていた。

 

 

 

「……ああ、これは」

「っ、横になったままでいいから! 無理しないでシロウさんっ」

「……あ、ああ」

 イリヤは億劫そうに身を起こそうとする彼を押し止め、先ほど使っていた座布団を引っ張り出して二つ折りにする。そしてそれを枕代わりに彼の首元になるように差し込むと、半ば無理やりに彼をそこに横たえさせた。

「ええと、下着のシャツまで破れてる……っ、すごい血…………!!」

「…………」

「……? シロウさん……?」

 アタフタと看病する自分を、胡乱な瞳で見つめる兄に気づく。

「────あ、いや……なんでもない」

 その問いに彼は首を振って瞼を閉じる。呼吸を落ち着かせようと、ただ浅い息を繰り返しているようだった。

 

 

 そんな彼の反応を怪訝に思うイリヤだったが、呼吸に合わせて上下する彼の胸元に、はっと我に気づいてまた食ってかかった。

「そんなことより、どうしてこんなに帰りが遅かったの!? それにその胸の怪我は何!!?」

「……ああ……えっと、そうだな。一人家に残されても困る、よな……。わるい、今日はできるだけ早く帰ろうと思ってたんだけど……少し友人と揉めて……」

「そういうことじゃないよ!! それに友達って、それどんな友達なの!!? こんなことする友達なんて絶対おかしいよ!!!?」

 朦朧とする彼の様子は、胸にこびり付いた血と合わさって尋常ではない。そんな兄が心から心配だった。だから曖昧な解答は許さないと、つんのめるように必死に問いかけていた。

「……あ、いや、これはそいつとは関係なくて、その後の────」

 しかし、そこまで訥々と説明していた兄が、突然、何かに気付いたようにハッとして言葉を止めた。

 

 

「……シロウ、さん?」

「────ヤバい」

 

 心配げなイリヤを他所に、彼は一言そう漏らすと、次いで先までからは考えられない位に俊敏に身を起こし、何かに追われるかのように急いで彼女の方を向き、言った。

 

 

「────ここは危ない。先に逃げてくれ」

「…………え? な、何が危ないの??」

「いいからっ────くそッ、何か武器になるようなのは…………っ!」

 

 

 よほど焦っているのか、彼女に対する発言の理由もおざなりに済ました士郎は、素早く室内に目を走らせ────机の上に在る物を見つけ、動きを止めた。

 

 

「……はは、よりによってこれかよ……?」

 

 苦い、乾いた笑みを彼が零す。

 その視線の先にあったのは、先ほどイリヤが眺めていた────あのポスターだった。

 

 

 そうして状況が飲み込めず目を瞬かせる彼女を置いて、暫し逡巡するようにそのポスターを見下ろしていた彼は、不意に、くっと顔を上げて瞳を鋭くすると、卓上に広げられたそれを拾い丸めて棒状にし、まるで剣を持つかの様に中段に構えて立った。

 

 

 

「し、シロウさん? な、何を……?」

「────同調、開始(トレース・オン)

「…………え?」

 

 

 

 

 それは突然だった。

 

 

 

 

「────構成材質、解明」

 棒状にされたポスター沿いに、青白い光が舞う。

 それは、最近慣れ親しんだ力の奔流。

 

「────構成材質、補強」

 イリヤは呆然とその光景を眺めた。

 耳には信じられない言葉が入り込んで来る。

 

「────全工程、完了(トレース・オフ)

 彼女にとって日常の象徴である筈の兄が、非日常の象徴である────魔術を使っていた。

 

 

 

 

「…………成功、した…………?」 

 あまりにも理解不能な状況に呆然とするイリヤの横で、彼も同様に惚けた声を上げた。その様子は、自分が成した事を自分で信じられていないような、奇妙なチグハグさを感じさせた。

 一方、そんな彼を見て少し落ち着いた彼女は、まだ半ば気を飛ばしながらも、兄に向かっての心からの疑問を呟いていた。 

「……お兄ちゃん……それ」

「……あ、これは」

 彼女の存在を失念していたのだろう。

 士郎はその声に弾かれる様に振り返った。

 視線の先には唖然と口を開く紅い瞳の少女。

『魔術は秘匿しなくてはならない』

 彼の脳裏に、唐突に亡き養父の言葉が蘇った。

 そうして、未だ自分の事を凝視する少女と手に持ったポスターを慌てて見比べながら、自分自身得意ではない言い訳を、彼がなんとか絞り出そうとした────その時だった。

 

 

 

 

 

 しゃらん、と、甲高い鐘の音が、家の中に響き渡った。

 

 

 

 

「────っ! あいつだ────!」

 言って、彼が飛び跳ねる様にくっと天井を見上げた。

 

 

「な、何が!? さっきから何なの!!?」

「────くっ、とにかく逃げるしかっ! こっちに来てくれ!!」

 イリヤの声に気づいた彼が、急にその腕を引っ張ろうとするが、てんで状況が読めない彼女は無意識にその場で抵抗してしまう。

「ねえ!! だから、何から逃げるの!!?」

「それは────ッッ、わるい────っ!」

「え、ええええええ!!?」

 痺れを切らしたのか、彼はぐずぐずするイリヤを自身の胸に抱え込み、駆け出した。

「お、おにぃ、おにおにッ、おににににッッッ、お兄ちゃぁあん〜〜〜〜〜〜!!!?!??!?」

 所謂お姫様抱っこ。

 意図せずして憧れのシチュエーションを体験したイリヤは、もはや先程までの意味不明な状況全てを頭から抛りだして、ただ顔を真っ赤に兄の胸にしがみ付くしかなかった。

「……っ!! 目を瞑って口を塞いでくれっ!!」

 しかし、今の彼に困惑する少女を気にする余裕などない。彼はただ必要事項だけを言って廊下を走っていた身をくるりと回転させると────そのままの勢いで、背中から正面の窓に突っ込んだ。

 

 

「きゃぁああああッ!!?!!?!?」

 窓に嵌めてあった硝子が、悲鳴を上げるような音を立てて飛散する。

 欠片が飛礫となって伏せた瞼にかち当たった。

 その不快な感触と音に、反射的に大声を張り上げてしまったイリヤの身体を、風が、ごう、と、叩きつけるように吹き抜けていった。

 

 

「〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!」

 ごっ、という音と共に地に着地する。

 士郎が洩れそうになる声を噛み殺した。

 こたえたのは少女一人を抱えて落ちた彼の方だったのだろう。加重した二人分の重力は相当なもので、身体の芯にまで奔った痛みを必死で堪えているようだった。

 

 

 一方、着地した後に地面に投げ出されたイリヤ。

 彼が引き受けてくれた分痛みは大したものではなかったが、先程からまったく状況が掴めていなかった。兄の怪我も慌てた様子も、自分が急に抱きかかえられたことも。

「〜〜〜〜! もう、何なの〜〜〜〜っ!!?」

 だからもうとりあえず、イリヤはこの意味不明な状況からくる鬱憤を叫んで捨てた後、赤らんだ顔とどくどくと早鐘を鳴らす心臓を何とか押さえつけようと、深く深く息を吸い、深夜特有の澄み切った、だからこそ凍るように冷たい夜気を肺に浸して────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今度は女子供もかよ……ったく嫌になるぜ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────不意に

 

 

 ぞっと背筋を凍らせる声が、朗々と闇に響き渡った。

 

 

 

 

「────え?」

 

 

 

 

 その声に弾かれるように身を起こし振り返ったイリヤは────そこに在るはずのない、自身と兄以外の、第三者の存在を視認していた。

 

 

 

 夜に溶け込む深い群青。

 つり上がった口元は粗暴で、獣臭じみたものが風に乗って伝わってくる。

 青い戦装に限界まで鍛えられた身を包む、獣の如きその男。

 ……現実味のない光景だ。

 その男を視界に入れたイリヤは、彼の手が持つものに思わず目を疑った。

 だってそれは見覚えがあった。

 かつて友達が使っていたのを覚えている。

 今はある魔術師が有している筈と理性が言った。

 目前の男によって、ぶん、と、虚空に無造作に振り回された、不吉な光沢を放つ────どこまでも紅い、深紅の槍。

 

 

 

「ランサー……の、カード……?」

 

 

 ────呆然と零れたその言葉に

 

 

 男が、その瞳を獰猛に眇め、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




(あとがき)
アニメにて変更があったポスター絵は
原作の方が好きです笑

さて、次話からは兄貴パート。
ちなみに、裏話でイリヤが居ることにより
学校でのフローチャートにも変化有なのですが、
そこには直接的に触れず、
このまま兄貴との場面に注目して進めていきます。
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