艦隊これくしょん The Bridge 君霞む海 作:Piyodori
そもそも、私がこの不可思議な世界に来て提督業をやるきっかけになったのは、よりにもよってあっちでの海難事故だったんだ。
太平洋航路で北海道へ行くために乗ったフェリーが、道中積み荷の荷崩れをおこして転覆した。避難を促すアナウンスが今一歩遅かったようで、船内に押し寄せる水をかいくぐってなんとか上甲板へ這い出した頃には、床の傾斜は三十度を越えていて、あらゆるものがズルズル滑りだしていた。救命ボートまであと十メートルというところで私は甲板の反対側へ転げ落ち、鋼鉄の欄干に全身を叩き付けられた。体中の骨がバラバラになったろうし、もう助からないことは分かったが、不幸にして意識はまだあった。すると遅れて私の顔面めがけて鋼鉄の滑車みたいなものが落ちてきて、思わず目を閉じたところで頭に猛烈な衝撃……。それがあっちの世界での最後の記憶だ。この時のことを思い出すと、今でも妙な吐き気におそわれる。
だが、顔面の衝撃や苦痛の余波は訪れず、耳には砂浜に波が打ちつける音が聞こえてきた。訳が分からなかったよ。灰色に曇った荒れた太平洋沿岸から、いきなり雲一つない青空の下の砂浜に放り出されていたんだからな……。
そうしたらなんとも勝ち気そうな小さな女の子が不機嫌そうにこっちを睨んでいる。
「いつまでそうやって寝そべってるの? 気づいたならシャンとしなさい」
吊りスカートをはいた、歳は小学生くらいの少女が恐い顔で私を見下ろしていた。自分の顔がグシャグシャになっていないか不安になって、恐る恐るなでてみると、手についたザラザラの砂が脂汗の浮かんだ顔に張り付いた。不思議なことに出血すらしていないらしい。
しばらくそうやって呆けていたら、その娘は忌々しそうに舌打ちすると私の肩をぐいっと引っ張り起こした。
「あんた、いい加減起きなさいよ! なんか酷い目にあってここに来たことくらいはわかってるけど、わたしは甘やかさないわよ」
子供らしからぬ強い力で彼女は私を引っ張り起こすと、こう名乗った。
「朝潮型駆逐艦、十番艦の霞よ。ガンガンいかせてもらうわ。覚悟なさい」
***
「へぇ~、ミヤノモリさんのお初の子はスパルタン系だったんですか。そりゃきつかったですね……。俺なんかは迎えてくれたのが翔鶴だったんですけど、お互い目と目が合ってフォーリンラーブってな感じでしたからね」
ナカツル提督が茶化すと、ミヤノモリ提督も静かに笑った。
「まぁ君と比べれば楽とはいえなかったかもしれない……」
***
とにかく、ここがスタンレー島のマキロンって港だと知らされ、新しい生活がはじまった。テレビもパソコンも携帯電話もない。ああ、そういえば、ここはテレビ映るのか? そうか、それは羨ましいな。
とにかくマキロン泊地は小さな湾内に作られた軍港で、小さな修理ドックと桟橋、それに数棟の弾薬庫と木造の宿舎があるだけで、陸地の後背部はマラリア蚊だらけの人跡未踏のジャングルという立地でね……。幸い水だけは湧くからそれだけは助かってるよ。とにかく前の世界とは全く違う世界だから、この生活に順応するまでは暑いとか、虫が多いとか、文句をつける余裕すらなかったよ。
ただ、提督達のなかでは、私はこの世界にまだまだ慣れない部類になるだろう。そもそも、大昔に沈んでしまった軍艦とその魂が船と艦娘として蘇ってきたという事を理解するのも大変だったが、それ以上にあの海難事故で顔面を潰された自分が今ここで再び船に乗って海に出るということが受け入れられなかった。
とにかく船に乗って海に出ることが恐ろしかった。私からすれば、しかたないことだと思うよ。フェリーでの、あんな最期だったんだからな。でも、霞は容赦なかった……。
「どんな目に遭ったかはわかったけど、もっと悲惨な目にあっても、私の知っている多くの人は乗り越えてきたのよ。弱音はそのくらいにしておきなさい」
与えられた仕事はするが、艦に乗って海に出るのは遠慮したいと霞に頼んだところ、霞は静かに私の話を聞いてからそう言った。この時は正直、失望したよ。ほとほとエライ所に来てしまったと思った……。まぁ出会いは最悪だったと言ってもいい。
「今日からは、なんでも五分前行動よ。五分前に準備に取り掛かって、定時がきたら『かかれ』の号令で取り掛かること。二度は言わないわ。いい?」
この世界に来て翌日の朝、朝の五時五十五分丁度に霞は、私のコテージのような個室へやってきた。前夜、私は自分が死んでしまったというショックもあり一睡もできなかったのだが、時間きっかりに霞はやってきてそう高圧的に言った。
○七○○時に朝食と言われて、顔を洗ってから、かや葺きの東屋みたいな食堂へ行くと、例の霞が腰に手を当てて仁王立ちしている。
「五分前って言ったでしょ! 今○六五六よ! 一分過ぎてるじゃない! まったく、なってないわね、このクズ!」
霞と同じくらいの年恰好の艦娘達がいる真ん前で頭ごなしに怒鳴られて、さすがに私もイラッときたよ。
「君みたいな子供にクズと言われる謂われもなければ、怒鳴られる謂われもない。事情は全くわからないが、お互い最低限の礼儀と敬意くらいは払うべきだと思う」
そう言ってから、私は相手が小学生くらいなので、もう少しわかりやすい言葉を選んで言いなおそうとしたら、すぐに別の艦娘が私の袖をやさしく引っ張って笑ってなだめた。
「そうですね! ミヤノモリ司令官も、いきなりじゃ、そりゃ訳わかんないですよね。霞ちゃんには、わたしからきつーく言っておきますから。司令官も一緒に朝ご飯にしましょー。みんな一緒に食べるために待ってるんですよー」
大潮と名乗る、霞と同じ白いブラウスに吊りスカート、薄緑色の円筒形のツバ付き帽子をかぶった女の子が元気よく言った。みんな慣れている様子で困ったような笑顔を浮かべたまま食卓で私を待っている。仕方なく私は席についた。
「やさしくやってる余裕がないからこうしてるんでしょ……。まったく……」
「あの、司令官……。その……、朝ご飯は、霞ちゃんが用意したんですよ……」
なんとも恥ずかしがり屋なその少女は小声で駆逐艦の潮ですと名乗った。
南海の僻地のわりに、朝食はまずまず豪華だった。焼いたロールパンとマーガリン、トマトの缶詰に目玉焼きという、以外にしっかりしたものだったよ。
他の少女もいるので、私も表情を和らげて手を合わせて食べ始めようとしたんだが、パンを口に運ぼうとしたとき、いきなり拡声器からサイレンの音が鳴り出した。すると艦娘達の顔色がさっと厳しいものになってね。いつも半分寝ているんじゃないかと思うくらい寝ぼけた顔をしている望月すら、一瞬キリっと目が開いたからね。
彼女たちは目の前の食事をできるだけ口に放り込むと、一目散に外へと走り出した。
「敵はどこでしょう?」
「きっと沖合いすぐのところまで、来てるよー」
大潮の問いに、望月は相変わらずダラダラした返事をしていたが、緊急時だけあって望月ももちろん走っていた。後で振り返ってみると面白い瞬間だったよ。
「あ! なんかキラって光った……」
「砲撃来るわよ! 気を付けなさい!」
霞がみんなの背中に怒鳴った瞬間、湾内の海面に白い水柱が上がって爆音が聞こえてきた。いくら戦争を知らない私にだって、なにか砲弾みたいなものが飛んできたことくらいは理解できたよ。
「攻撃されている……。提督はどうするの?」
霞と同じ制服を着た色白の少女が私と霞をじっと見ながら無表情な顔でたずねた。後から、その子は霰っていう、霞や大潮と同じ朝潮型駆逐艦の艦娘だと聞いた。
あからさまに狼狽していた私を見て、霞はチッっと舌打ちして、基地の隅にある、シャベルで土を掘って作ったような半地下室の穴倉を指差した。
「あそこに防空壕があるから、逃げ込むなら今のうちよ。今すぐ指揮をとれなんて言わないけど、どうすんのよ、クズ!」
まだ港への着弾はなかったが、襲撃者の砲弾は陸地へ届き始め、ジャングルの上にもうもうと大きな土煙をあげはじめていた。ここも危険なことは理解できた。一緒に行こうって咄嗟に答えたよ。恥ずかしいことだが、知らない世界で一人になるのが怖かったんだ。
「じ、事情が分からないが、邪魔にならないなら、い、一緒に行こう」
「霰、みんなと一緒に岬の背後から曲射して。それでも逃げないようなら薬煙幕をたいて高速で沖合に回り込んでから撃滅よ。いい?」
「んちゃ……」
霰は妙な返事をして内火艇の方へ走っていく。
先に行った他のみんなは桟橋につないである内火艇へと飛び乗って、港湾内に停泊している自分の艦へと大急ぎで向かって行った。湾内には五隻の長細い船が停泊していたんだが、どれも地味なダークグレイに塗装された砲塔を積んだ船ばかりだったから、それらが軍艦だということはすぐわかったよ。そのうちの一隻は、ブイに踏み板をくくり付けただけの簡単な浮き桟橋に繋がれていた。いうなれば、それが、我らが旗艦の駆逐艦霞の本体だった。
霞は私を浮き桟橋の方へと引っ張って行った。砲撃が港湾内の海面をたたき、水柱が近くなり始めた。先に行った子達が湾内に浮かぶ艦に辿りつくなり、その軍艦の煙突からもくもくと煙が上がって、猛スピードで錨が巻き上げられるのが見えた。
――え? あれだけ大きな船を一人で操作しているのか?
「君たち艦娘っていうのは軍艦のパイロットみたいなものなのかい?」
その様子を見ていた私が驚いて問うと、霞はじれったそうにうなずいた。
「かなり違うけど、今はそう思ってていいわ」
霞はそう言うと桟橋から舷梯を駆け上がって艦に乗り込み、そのまま艦橋のある建物へと駆け込んだ。私は舷梯に片足を置いただけで身のすくむような思いが駆け抜けたが、霞が急ぎなさいと怒鳴る声に押されて仕方なく階段を駆け上った。驚いたのはその時さ。錨の巻き上げられる音と共に、桟橋につながれていたもやいがひとりでにとかれて巻き上げられていくんだ。まるで透明人間が作業しているようで驚いたよ。
とにかく、私がその駆逐艦の甲板に上がった時にはすでに周囲の海面や港の施設に砲弾が降ってきていた。艦の拡声器には大潮の無線電話の声が聞こえてきた。
『敵が見えました。方位○八○、イ級駆逐艦が三隻です。進路は二二○。速力二十ノット。距離およそ一万と三千です』
「深海軍の威力偵察部隊ね……。追っ払うわ!」
揺れている船の上で死んだあの時の恐怖心が蘇って心臓の鼓動が激しくなっていたが、私はなんとか自分を奮い立たせて艦の前方にある構造物へ上がった、霞につづいて薄暗い羅針艦橋へと踏み込むと大きくひらかれたガラス窓越しに、沖合に浮かぶ黒い船のシルエットが三つ私にも見えた。
「あれは一体、何者なんだ?」
「敵よ。軍艦の姿をした化け物。あいつらの攻撃から陸地にいる人や仲間を守るのがわたしやあんたの仕事よ。今日は見ているだけでいいから、その事だけは覚えておきなさい」
そう言うなり、霞は機関をフル回転させて沖合い目指して猛スピードで艦を前進させた。結局、これが私の初陣だったわけだ。
***
「うっわー、着任翌日に実戦ですか? そりゃ、きっついなー。カルチャーショック、はんぱねぇっすね」
ナカツル提督は驚きの声をあげる。ミヤノモリ提督は少し笑ってうなずいた。
「とにかく、私には選択の余地はなかったんだ……」
***
結局、その日現れた深海棲艦はなんとか撃退して無事に済んだ。とにかく妙な戦争の中心に放り込まれたことだけは一日目からよく理解できたよ。
実際、マキロンの軍港にも隣接して小さな集落があって、そこには艦娘でもなければ、私たち提督のように前世からやってきたわけでもないこの世界の住人達がいて、軍艦の修理や港の運営、物資の供給なんかで世話になっている。あの妙な黒い化け物海賊船から自分とその住人達を守るには、この霞の言うことを聞くしかないと思い知らされたよ。
早速この世界と、生前まったく縁のなかった昔の戦争に関することや軍事のことを霞にみっちり叩き込まれる日々がはじまった。
「なにやってるのよ。ラッタルはいつも駆け足よ!」
駆逐艦の艦内のいたる所にある梯子や急な階段は四十過ぎた私みたいなオッサンには結構面倒な相手だった。非常時ならともかく、平時くらい普通でいいじゃないかとも思ったが、霞は目を吊り上げて私の尻を叩いたよ。
「平時にノロノロとしか上り下りできない人が、緊急時、それも大揺れの洋上で急げると思ってるの? 考えが甘いのよ!」
そして二言目には決まって、このクズと罵られる。
ん? よく耐えられたって? もちろん私だって腹も立ったし、いい大人が子供にガミガミやられて情けなくもなったが、そんな時は決まって大潮や潮達が、なんやかんやと後からフォローを入れてくれてね。
「司令官は立派ですよ。霞ちゃんもきついこと言ってますけど、一生懸命な司令官のこと尊敬しているんですよ。裏では、タフな人ねって言ってますから!」
「そ、そうですよ……。司令官は、あの、その、愚痴を言いたくなったら、その……わたし達に言ってください」
小さな女の子達に気を使われている事自体があまりかっこよくないので私自身、この程度で負けてたまるかという気になったよ。霰も望月も、なかなかマイペースだけど素直な子達でね。次第に、自分さえ霞のペースに慣れれば、少しずつうまくやっていけるんじゃないかという気持ちになっていった。
試練にはこんなこともあった。
「はぁ? 泳げないとか、ほんと信じられないだから!」
駆逐艦の役目や、戦闘なんかの基礎教育も一段落したころ、いざという時に備えての体力作りも必要だと言って、霞は私を内火艇で港の沖合へと連れ出した。
「さぁ。下着一丁になったら、こっからあの砂浜まで泳いでみなさい」
ここへ来るまでで、すでに私は揺れによる船酔いと海に出ているという恐怖心で激しい動悸と吐き気に襲われていたが、さらにこれから泳がされると知らされ仰天した。というのも、内火艇は湾の真ん中まで来ていて、砂浜はゆらゆらとかげろうにゆれて白く光って見えるくらい離れている。もともと、泳ぐことは苦手だったが、フェリー事故にあってからは、足のつくビーチでだって海水浴をする気は起きなかった。
私はとんでもないと抗議すると、さっそくさっきの言葉がとんできた。だが、こればかりは命に関わることなんで、私も顔を真っ赤にして怒ったよ。
すると、霞は内火艇の操舵輪に寄りかかったままため息をついた。
「泳げなければ、それはそれで命に関わるわ。怖いのはわかったけど、せめて浮いていることぐらいはできるようにしておきなさい。仮にわたしが撃沈されても、浮いていられれば誰かが助けに来てくれるかも知れないわ。もちろん、すぐ助けに来られない場合だってあるんだから、そのためにも水泳だけは習得しておく必要があるのよ」
撃沈という言葉を聞いて私は今更ながらに驚いた。
「撃沈? 君、あの駆逐艦がやられると、艦娘の君はどうなるんだ?」
「一緒に沈むに決まってんでしょ。艦と艦娘は二つで一つ。別々にはならないわ。もちろん艦橋にいる私自身が直撃弾を受ければ、艦は動かなくなって使い物にならなくなるし。艦が沈んだり、修理不能な壊れ方をすれば、わたしもそれでおしまいよ」
私には衝撃だった。これまで戦いの話を聞いていても、無意識にゲームやゴッコ遊びの延長として現実を見ていた自分に気がついたよ。撃たれれば死ぬし、沈めばそれでその人生も存在もおしまい。戦いとは、殺し殺されることという当たり前の認識がこの時まで私には抜けていたようだった。きっと、とても驚いた顔をしていたんだろうね。
「これはもうはじめから決まってるの。だから、いざ艦が沈み始めた時は、あんたはわたしを置いてさっさと脱出しなさい。間違っても私を助け出そうなんて考えないことね。仮に掟を破って私を救いだしたら、お互いもっと不幸なことになるわ。そんな例は今までいっぱい見てきたから。わかったわね?」
思い返せば、動悸も吐き気もこの時は収まっていたね。私のトラウマなんて案外、トラウマのうちにも入らないものだったのかもしれないね。
結局、泳がざるをえなくなって、私はパンツ一枚になって生温かい海に飛び込むことになった。泳げたのかって? 泳ぐというより、あれはもがくというか……あえぐというか、とにかく夢中で水をかいたよ。
「溺れそうになったらすぐに引っ張り上げるから、溺れ死ぬ心配はしなくていいわ」
そう言われて内火艇から二キロ先のビーチまで必死に水をかいたが、途中で三度溺れ死にそうになった。内火艇から見ていた霞はその度にぐいと海面へ引っ張り上げてくれたが、あれは苦しかったな……。後にも先にも、ほんとに死ぬと思ったのはあの時くらいだな。まぁ、戦闘で死にそうになるよりは運がいいほうなのかもしれないがね。
霞にクズと呼ばれながらも、何度か小さな戦闘もこなし、対潜哨戒や定期航路巡回をこなしているうちに一年が経とうとしていた。僻地にある駆逐艦五隻だけの小さな所帯だから目覚ましい活躍も無いかわりに、幸い誰も撃沈されることもなく済んだよ。そんな折、近海の西部大洋州航路をあの給糧艦の間宮が通るという噂が近隣の泊地から聞こえてきた。知っての通り間宮といえば、あの工作艦明石と並ぶ、深海軍の戦術的ターゲットになっている重要な船だから、そんな噂が流れてくる事自体が問題なんだが、とにかくうちの娘達はおおいに色めきたった。
無理ないな。高根の花でめったに送られてこない羊羹やアイスがたくさん食べられるんだ。もちろんあの霞だって、あきらかにそわそわして落ち着かない様子を見せていたよ。だから私は、日ごろ自分からは滅多に連絡しない本土の軍令部へすぐに電信を打った。これこれの期間、航路とその周辺の対潜哨戒を厳にするから是非給糧艦の来航を求むってね。
なんとか寄港と補給の許可が下りてね、それから一週間ばかりして給糧艦間宮がマキロンの港へやってきた。大きな船と言えば貨物船ばかりで、あとはうちは駆逐艦ばかりだから、大きさに驚いたね。
***
「へー、ミヤノモリさんも間宮さんには会ったことあるんですか。どうでした? ごっつキレイでナイスバディだったでしょ?」
ナカツル提督が茶化すと、ミヤノモリ提督も否定はしなかった。
「そうだな……。いつも駆逐艦の相手ばかりだったから、正直、ちょっと驚いた。あ、このことはうちの阿武隈には内緒にしていてくれよ?」
ミヤノモリ提督はそうふざけて言った。
***
君の言うとおり、艦娘の間宮さんはとても綺麗な女性で、そしてとても優しかったよ。真水の補給ついでに一泊だけマキロン港に錨泊することになったんだが、うちが駆逐艦ばかりの艦隊と知って、一晩好きなものを何でも料理して食べさせてくれることになった。だから、みんな大喜びだったよ。ただ、ローテーションの都合で、その日の夜勤の不寝番は霞だったんだ。幸い夜間哨戒の予定はなかったから、湾内で警戒態勢をとっていればいいんだが、それでもちょっとがっかりしていたようで、私もさすがにかわいそうになったよ。
そのことを間宮さんに伝えると、彼女はわかりました大丈夫ですよと言って、私を厨房へ案内し、鍋の豚丼やピラフを手早く飯盒に詰めて、もう一つの弁当箱には最中とどら焼きを詰めるだけ詰めて風呂敷につつんでくれた。最後に板チョコとキャラメルを一箱、風呂敷の結び目に挟んで私に渡した。
「チョコレートとキャラメルはそれが最後の一つだったので、他の子には内緒で……」
間宮さんは人差し指を唇に当てて小声で言った。私も小声でお礼を言って、内火艇で湾内に錨をおろしている駆逐艦霞へと向かった。
灯火管制下の真っ暗な湾内で、艦の係船桁に内火艇をつないで舷梯を登っていくと、霞は一番魚雷発射管の上に腰をおろして、湾内に停泊している間宮をさびしそうにぼんやりと見つめていた。どうやら私が上がってきたことにも気づいてなさそうだったので、おい霞と声をかけるとびっくりしたような顔でこっちを振り返った。
「驚かせないで、このクズ司令官!」
「お土産だぞ。間宮さんから、がんばり屋さんの霞ちゃんへだって」
「えっ?」
霞は驚いたようできょとんとしていた。そんな霞に私は間宮さんからもらった飯盒と風呂敷包みを手渡す。霞がゆっくりと飯盒のふたを開けると、茶色くタレをかけた豚丼と下段のピラフが湯気を上げる。
「冷めないうちに食べたらいいよ」
霞は無言でうなずき、かみしめるようにゆっくりと飯盒のご馳走を食べ始めた。
「キャラメルと板チョコはこの艦の冷蔵庫に隠しておいたほうがいいぞ。内緒のお土産だってさ」
夜の湾内は静かなもので、艦舷に当たる波の音と蒸気圧を保っている駆逐艦の機関のかすかな振動、それに霞の食べている音以外は何も聞こえない。しばらくそうやって座っていると、霞が口を休めて言った。
「ねぇ、あんたはここから逃げようと思わなかったの? あっちの世界から来ても、何もせずに本土や大きな町へ逃げちゃう奴なんていくらでもいるのよ……」
霞の突然の問いに私は驚いたが、笑って肩をすくめて見せた。
「逃げるって言ったって、どこへ行くんだ? この世界じゃこの大きなスタンレー島のこの一角しか知らない。小うるさい軍令部のある本土に何があるかも分からない。それに深海軍と戦っている大潮や望月達を置いていくのか? 艦娘だけを置いて逃げたら大人としてどうなんだろうな? 私は霞達と違って大人だから」
私はふざけて『オトナ』という部分を強調してそう言った。
「よく言うわね、クズ司令官……」
霞はそう言ってはにかんだように笑った。
「間宮さんへお礼言うの、忘れずにね……」
私はそう言って陸へ戻るべく立ち上がった。煙突を回って反対舷のへまわろうとする私の背中へ、霞が言った。
「あの、司令官……。ありがとう……」
私は肩越しに、軽くうなずいて内火艇へと降りた。
翌朝、間宮さん達が出港するとあって、あの子たちそれは張り切ってね。航路上の海中に潜むものは何でも粉砕してやるとばかりに爆雷の大盤振る舞いだった。まぁその甲斐あって、給糧艦間宮は潜水艦の影に怯えることなく無事に次の寄港地までたどり着けたんだ。
そういえば、この間宮来航の後には笑える後日談があってね。
しばらく経ったある日に艦娘の大潮が、霞がいない時を見計らって執務室にやってきた。司令官、あの相談があるんですがって声を潜めてね。
「最近霞ちゃん、ちょっと様子が変なんですよ。たまに洋上で無線電話すると、ベロを噛んだような変な声だったり、呼び出すとちょっと驚いたような声で応答してきたりするんです。それだけじゃなくて、こそこそと隠れて何やってるんだろうと思ったら……」
「うん、思ったら……」
声を潜めて言う大潮の言葉に内心ドキリとしながら私は聞いていた。もし霞だけ特別なお菓子にありつけた事実が他の艦娘に知れたら、艦隊はそれなりに大変な事態に陥るかもしれない。ストライキとか出撃ボイコットが発生したら目も当てられない。
「あれは、間違いなく虫歯ですね……ふふふん」
自信満々の名探偵よろしく大潮は言った。私は内心ほっとした反面、大人としてちょっと責任を感じたよ。よかれと思って渡したお菓子のせいで虫歯をこさえたとあっては、罪作りな話だろう?
「きっと、歯痛で時々ろれつが回らないんですよ。だけど、歯医者に行きたくないから無駄な抵抗をしてるに違いありません」
私は今更に思ったんだ。艦娘も虫歯になるのか?って。
そう疑問を口にすると、大潮は当たり前ですよーと口を大きくあけて見せた。どれどれとのぞき込むと、奥歯の何本かに黒い治療痕があった。なるほどと合点して、霞には私から注意すると伝えたんだ。
そして執務室で二人きりになったとき、私は霞に言った。
「霞、口をあーんと開けてごらん。ちょっとお医者さんゴッコだ」
霞はぎょっとした顔で飛び上がってね。いや、そんな笑うなよ、ナカツル君。歯医者さんとお医者さんのちょっとした言い間違いだったんだから……。ギャー変態とか、痴漢とか真っ赤になって怒鳴る霞の誤解をなんとか解いて、口をのぞき込むと虫歯一本ない綺麗なもんだった。
大潮から聞いた話をすると、霞は呆れたようにため息をついて当たり前でしょと言った。
「無線電話のことはキャラメルのせいよ、キャ・ラ・メ・ル。大潮ったらいつも人がキャラメルを口に入れたとたん連絡してくるんだから……。わたしだってそれは驚くわ」
霞は声のトーンを落として言った。
「では、いつも隠れて歯を磨いてるというのは?」
「キャラメルってどうしても歯にくっつくでしょ? わたしだって、その……歯医者さんは怖いし……」
照れくさそうにそっぽ向いていう姿は年相応の子供っぽくって可愛かったな。
「まだ全部食べてなかったんだな。チョコレートもまだ残っているのか?」
そう問うと霞は当然とばかりに言った。
「大切なものだから、そんなイッキに食べたりしないわ……。って、別にそんな意味じゃないし! 間宮さんがくれたんだから、た、大切に決まってんでしょ! な、なに笑ってんのよクズ司令官!」
いつもガミガミ言ってるだけじゃなくて、そうやって子供らしい姿をみせることもあったんだ……。
それから間もないある日の事だった。ちょっと荒れ模様の曇っている日で、私は久々に霞の艦橋で船酔いに悩まされていた。また敵の威力偵察艦隊がちょくちょくちょっかいをだしにくるようになったので、哨戒範囲を広げたんだ。
その日、ちょうど波間に敵の黒い艦影を見つけたんで、不意を打って後方からT字を作って砲撃、雷撃と立て続けに攻撃した。敵は軽巡洋艦一隻と駆逐艦二隻の編成で、軽巡と駆逐艦の一隻はこっちの集中砲火を食らってすぐに爆発、沈黙した。残る先頭の駆逐艦一隻だけは砲撃を受けて真っ黒な煙を上げながら高速で遁走していった。
「突入するわ! 続いて!」
霞が号令をかけて、一斉にその一隻を追撃したんだが、波も高いし的速も速くてしばらくするうちに見失ってしまった。
駆逐艦搭載の電探もあまり役に立たなくて、探知ならず。最終的に、追撃をあきらめて陣形を整えようとしたときだった。陣形を組みなおす間に潜水艦にやられてはたまらないので、わたしは双眼鏡越しに周囲の灰色の海面をじっと目をこらして警戒していたんだ。すると波間の彼方に灰色の影が見えた。私はすぐにその目標を霞に知らせると、霞はすぐに仲間へ警戒するよう呼びかけ、一斉にその方角へ舵を切った。距離はおよそ一万くらい。高速で肉薄しつつ目標の正体を見極めようと双眼鏡に食らいつくと、だんだんシルエットがはっきりしてきた。
深海棲艦によくある真っ黒でフジツボがついたようなゴツゴツした外観ではなく、塗装も味方の軍艦と同じダークグレーで塗られている。さらに近づくと細い丸煙突が垂直に三本並んだシルエットがはっきりとわかってきた。あれを見たときは、なんとなく生前に映画で見たタイタニック号を思い出したよ。
「あれは敵じゃない。味方の軽巡よ。発光信号送るわ」
霞も気づいたようで緊張した表情で信号灯によるモールスを送るが、その軽巡は漂流しているだけでまったく反応がなかった。
「反応がないな……。無人艦か?」
霞は窓越しにその軽巡を見ながら首を振った。
「たぶん違うわ。新しい仲間かも。迎えに行きましょ」
僚艦に周囲の警戒を任せ、霞と私は内火艇に乗ってその軽巡に接舷しようと、外洋の荒波に翻弄されながらなんとか軽巡の後部甲板に内火艇を固定した。相手の艦に艦娘がいれば、ボート用のダビッドを下してくれたり、係船桁を出してくれたりしてもらえるのだが、などと考えながら甲板へと這い上がった。
小さい霞は先に上がった私が甲板から手を伸ばしてやってやっと這い上がることができたよ。あの時は照れくさそうに手をつかんで、珍しく素直だったな……。
とにかく静まり返った無人の軽巡に乗り移った私たちは艦橋をめざした。
「五五〇〇トン級軽巡の一隻ね。誰かしら……」
霞はそう呟きながら、船体の上に大きなサイコロを乗せたようなかっこうの艦橋構造物へともぐりこんだ。霞に先導されて私も艦橋へと上がると、羅針儀の前の床にセーラー服姿の少女がうつぶせに倒れていた。
「おい、倒れてるぞ! 大丈夫か?」
心配になって言う私を制して、霞はその少女の頬をやさしく叩く。
「ほら、起きなさい。迎えに来たわ。目を覚ましなさい」
少女はうーんと唸りながら瞼をぼんやりと開ける。
「あ、あれー、あたし……」
「気がついた? 助けに来たわよ」
そう言って霞は目を丸くしている私へ言った。
「艦娘もあんた達と同じよ。ある日突然、この世界へやってきて、こうやって見つけてもらうのよ」
そうしているうちに寝ぼけ眼の艦娘は起き上がって私達を交互に眺めて困った顔してたよ。多分、こっちへ来た時の私と同じで、何がどうなっているのか全く分かってなかったんだろうな……。
「あ、あの、あたし、長良型軽巡の阿武隈っていいます。あの皆さんは……」
「朝潮型の霞よ。久しぶりね……。会えて嬉しいわ」
あの時の霞のほっとしたような嬉しそうな顔は今でも瞼に焼き付いているよ。
***
「まぁ、こうして私の艦隊にめでたく軽巡洋艦の阿武隈が着任したわけだ」
そう言うミヤノモリ提督の顔はひどく沈んだものだった。
「へぇー、ミヤノモリさんもなんだかんだで、こっちの世界を満喫してるじゃないですか」
なんとも楽天的にナカツル提督は言った。
「そうだな……」
――なんだかんだいっても、私は満喫していたんだ。あの日までは……。
***
それから軽巡阿武隈を駆逐艦霞と駆逐艦大潮とでスタンレー島まで無事に曳航してきて、軍令部に軽巡阿武隈のサルベージに成功したと報告を送った。ドックで整備をしてもらって丸三日ほど整備や点検を済ませている間に、軍令部から正式な配属許可が下りて、晴れて阿武隈は私たちの仲間になったんだ。
艦娘の阿武隈は一見あんな弱々しそうな性格に見えるが、かつての戦争では第一水雷戦隊の旗艦を張っていたそうだから、その実、とても頼もしい艦娘だと思ったよ。霞だけじゃなくて潮なんかとも元々縁が深くて、それにあの子供っぽい性格が幸いしてうちの駆逐艦の仲間にすぐに溶け込んでくれてね。泊地は少しにぎやかになったよ。
これまでは駆逐艦五隻での水雷戦隊をやっていたが、そこへ戦隊旗艦にふさわしい軽巡がやってきたわけだ。なんでこんな事を思ったかというと、それは霞に言われて自分なりに過去のことを勉強していたからなんだが。
かつて海軍では水雷戦隊の旗艦は巡洋艦が務めることになっていた。無論、特殊作戦のときには必ずしもそうではなかったようだが、阿武隈が来て二ヶ月ちょっと経ってから私は、霞に相談してみた。
「霞、阿武隈もそろそろこの島の生活にも慣れてきたころだと思う。練度がもう少し上がってきたら、慣例に従って旗艦を交代してみてはどうだろう?」
私は勉強したままを言ってみただけだったのだが、霞は何やら戸惑った様子であーとかうーとか唸ってから、まだ時期尚早だわとつっけんどん言う。
「まだまだ練度が足りてないったら……。それぐらい見極めなさいよ! ほんとクズね!」
その時は、そうかと思ったのでそのままにしていたが、その後も何度か同じことを相談しても霞はつっぱねるだけで、全く相手にしてくれなかった……。確かに霞のかつての戦歴を見返してみれば、あの戦争も終わりが近い頃、重巡を飛び越して旗艦を務め、一応の作戦成功を勝ち取った経歴すらあるくらいだから、彼女独特の譲れないプライドがあるのだろうとも思ったよ。
私は特に気にせずそのままにしていたのだが、しばらく経って軍令部から文書で水雷戦隊編成命令が届いた。私がいつまでたっても駆逐艦霞を旗艦にしていたことを不思議に思ったようで、それは早急に正規の編成にするよう求める文書だった。
私はすぐに霞に相談した。こういう物が来ているんだがどうする?って。
「そんなもの、適当にはいはいと返事だけして、あとはこっちが無視を決め込めばすむのよ。こんな僻地に軍令部の監察や参謀なんて、やたらに来たりなんかしないわ」
いつも相手の目を見て話せと説教する霞が、珍しく私から顔を背けて言った。
今思えば、霞の言うとおり、いい加減に処理しておけば良かったと思う……。だが、バカらしくも私は軍令部の意向にそのまま従おうとしたんだ。戦いに一番慣れているのも他ならぬ霞だったが、それだけで旗艦というのも硬直した発想に思えたしね。そこで、私はなんとか彼女のプライドを傷つけずに旗艦を阿武隈へ交代させられないかと考えた。
阿武隈は普段はあんなふうにポワポワしてるが、戦闘が始まればこちらが思っているよりはるかに勇敢だし、彼女なりに僚艦への気配りもあって、適性も問題ないように思えたんだ。
このことで霞は相談相手になってくれなかったので、ある日、私は今後の基地と艦隊の在り方をみんなで話し合おうと決めた。私が頭ごなしに命令するよりも、みんなで考えを話し合ってから情理を尽くして説明すれば、霞の体面も保たれると思ったんだ。
ある朝、朝食を終えた時に話し合いを持つことになった。
「えー、旗艦なんてあたし以外だったら誰でもいいよ~。ただ、旗艦も秘書艦もずっと霞じゃ大変そうだし、旗艦くらいは阿武隈ちゃんでよくねー?」
望月はあくびしながら相変わらずの通常運転だった。
「大潮はそれでもいいと思います。霞ちゃんもちょっと一息ついたらどうでしょう!」
「霰には、よくわからない……。阿武隈さんがいいなら、いいと思う……」
大潮と霰は好意的な反応だった。
「あ、あのぉ、えっと、阿武隈さん自身はどう思ってるのでしょうか?」
遠慮がちに潮が言った。急に振られて阿武隈は目を丸くしておどおどと下を向いた。
「ひぇ、やだ私? えっと、えっと、わたしまだそんな自信があるわけじゃないし、訓練も足りてないけど……。でも、提督やみんながそうしてほしいなら……阿武隈、ご期待にこたえます」
阿武隈はしどろもどろになりながらも周りを見てそう言った。
「おおー」
望月と潮が拍手をした。途端に、テーブルを強く叩く音が食堂に響いた。
「こんな学級会みたいな真似、いい加減にして頂戴。そもそも、そんなに阿武隈を旗艦にしたいならあんたが責任もって命令すれば済むのよ。こんな茶番、責任逃れもいいとこだわ! それに、まだまだ軟弱なこんな軽巡が水雷戦隊旗艦じゃ、明日にもみんなまとめて水の底だわ!」
この時も霞は私の顔から視線を逸らして怒鳴った。
「あたし、軟弱……」
軟弱な軽巡呼ばわりされた阿武隈は今にも泣きそうな顔だ。霞のあんまりな言い様に私もかなりムっとしたが、ここで感情的に怒ってしまってはぶち壊しだ。そこで私は怒りを抑えて霞との妥協点を探ろうとした。とにかく艦隊のことを合理的に考えようと思ったんだ。
霞の言うように阿武隈の練度は確かに十分じゃないかもしれない。そこで私なりに考えた。
「よしわかった。霞がそこまで言うなら、阿武隈が十分に慣れるまで、旗艦はしばらく駆逐艦霞としよう。ただ、新しい仲間も増えたし、阿武隈にもやってもらいたいことがあるから、秘書艦は今日から阿武隈にやってもらう。それならいいだろう?」
「司令官、それは……」
なぜか旗艦交代には笑顔で賛成していた大潮が困ったような表情になったが、その時は気にとめなかった。むしろ私がそう言った時の霞の青い顔は後になってから良く思い出すようになったよ。こうする前に一度でも大潮に相談していればとその後何度も悔やんだな。
「はぁ? 何考えてるのかしら? こんなのに甘やかされたら、あんた本物のクズになるわよ!」
霞はさっきよりも強い口調で言った。さすがに私も我慢できなくなった。霞のワガママに怒っていたのも事実だが、阿武隈への言いようもあんまりなので私はこの世界へ来て初めて感情をむき出しに怒鳴った。後にも先にも、こっちの世界であんな怒鳴り声を出したのはこれ一度きりだ。
「よさないか! 阿武隈に謝って秘書艦を返上するまではお前の顔なんか見たくもない!」
私はそう言うと、顔を真っ赤にして執務室へと足早に引き上げた。怒鳴り声をあげてしまって気分は最悪だったが、阿武隈やみんなの手前、このこと自体は仕方なかったと思っているよ。
午前中ずっと私は気持が落ち着かなくて書類仕事も手に付かなかった。今回のことは明らかに霞に非があるので、私はちょっと意地比べをしてやろうと思っていた。昼近くになっても霞は姿を見せなかった。普段の気性を考えても、いざケンカとなればかなりな意地っ張りであることは想像していたので、私はまだまだと思いながら、外に出ないで執務室で仕事をするふりを続けていた。
正午になってようやく執務室のドアがゆっくり開いた。顔を上げると霞だったので、思いのほか早かったなと思ったよ。
「これから航路哨戒に出るわ」
そうか今日の当番は霞も入っていたかと私は思い出した。これはいつもどおりの行動だ。誰かが出撃するとき、私は必ず桟橋まで見送りに出ていた。一度も欠かしたことはない。後にも先にもたった一度だけ、この日に限って私は意地を張った。
「そんなことより、阿武隈には謝ったのか? 大切なことを後回しにして、こんな所へ顔を出すんじゃない」
私はろくに顔も上げずにそうぶっきらぼうに言い放った。ちらっと霞を見ると、とても衝撃を受けたような顔してから、怖い顔で私を睨んだ。
「あんたって本当のクズね! 出撃する仲間の見送りをないがしろにするなんて、クズ中のクズね! このクズ! クズー!」
そう怒鳴って霞は廊下へ走って行ってしまった。
霞の言うことにも一理あり、さすがに私も自己嫌悪に陥ったが、毎度おなじみの航路哨戒を兼ねた中継基地への連絡任務で、十三時間後には帰ってくる予定だったので、私は見送りには出なかった。結局、そのやり取りが最後だったよ。
よく晴れて暑い日だったな。あんなことがあって仕事が手に付かず、執務室でぶらぶらしていると、あの後、大泣きしたらしく目を赤く腫らした阿武隈がおずおずと入ってきた。
「あのぉ、提督……」
今回のことでは阿武隈につらい思いをさせてしまったので、私は笑って招き入れた。
「嫌な思いさせて済まなかったな……。あいつにはちゃんと反省させるから」
そう言うと、阿武隈はぶんぶんと首を振った。
「霞ちゃん、出港前に私の所にやってきて、あんなこと言ってごめんなさい、ほんとはあんなこと言うつもりなかったのよって……。訳があってあんなふうになっちゃったんだって……。だからその、提督もそんなに怒らないで」
私はため息をついて笑った。
「しょうがない奴だ。あの意地っ張りめ……」
あやまったのなら、そう言えばいいものをね。私は呆れながらも、霞達の帰港を桟橋で迎えてやろうと決めた。とりあえずケンカはそれで一度手打ちにしようとね……。
それから四時間ほどたった頃だった。突然、潮が泣きながら執務室へ飛び込んできた。
「霞ちゃんが……。霞ちゃんが……」
潮はそれ以上言えずに泣き出し、無線当番の職員が書いてくれた電文の写しを私へ差し出した。私は何が起きたのかを悟り、体中から冷や汗が吹き出してくるのを感じた。くしゃくしゃになった鉛筆書きの電文をとても最後まで読むことはできなかった。
『宛スタンレー島マキロン泊地艦隊司令殿。駆逐艦大潮発。駆逐艦霞、サン・ダルメシアン海峡ノ北北東十五浬ノ地点ニテ、敵潜水艦ノ魚雷攻撃ヲ受ケ沈没セリ……』
それ以上の文言は覚えてない……。泣きじゃくる潮へ気遣いすることもできず、私はただその場へへたり込んだ。これは悪い夢なんじゃないかとすら思った。だが、すべては後の祭にすぎなかったよ……。
それからしばらくは自分が何をしていたのか記憶があやふやなんだ。霞と艦隊を組んでいた姉妹艦の大潮と霰が帰ってくるまで私はずっと桟橋に座り込んでいた。
もう真っ暗になったころ、沖合に二つの航行灯が見えてきた。実はすべて霞のいたずらなんじゃないかと思いたい、そんな馬鹿げた妄想すら浮かんだが、駆逐艦大潮、霰の艦影と二隻の内火艇がその妄想から私を引き戻した。二人は内火艇を係留すると真っ暗な桟橋に座り込んだ私のもとへやってきた。聞きたいことはいろいろあったが、何から聞くべきかすら判らなかった。
「今日は海面も濁ってて、潜水艦の雷跡に気づいたときにはもう手遅れでした。霞ちゃんは機関室に二発受けて、わたしが急いで接舷したときには、霞ちゃん……もうもたないことを悟っていました。一生懸命泣くのをこらえながら、あいつと阿武隈さんのことよろしく頼んだわって……」
大潮は言葉を詰まらせて嗚咽し、私に何かを包んだ茶色い紙切れを差し出した。渡された紙包みを見るとそれは茶色い板チョコの帯紙でね。間宮さんからもらったあのチョコレートの包み紙だってすぐわかったよ。こんなものを後生大事に持ってるなんてな……。
私はこみ上げてくるものを腹に押し込み、震える手でそれを開くと、エメラルドグリーンの細い布の帯が丸められていた。それはいつも霞が髪を一つに結うのに使っていたリボンだった。
帯紙の裏にはうっすらと何かが書いてあった。内火艇についた航行灯のわずかな明かりを頼りに文字を見ると、鉛筆で殴り書きした薄い字でこうあった。
『司令官殿 わたしを反面教師にして最優先で対潜戦術を見なおしなさい。あと、このことで泣いたりやけになったら許さないわ。今日はわがまま言ってごめんなさい。ありがとうクズ司令官。わたしのいちばんたいせつなしれいかん』
きっとみるみる傾いて沈みつつある艦内で大急ぎで書いたんだろう。字は後ろになるほど乱雑な殴り書きになっていた。
「あんなでも霞ちゃんは司令官がお気に入りだったんです……。一番一緒にいられる秘書艦だけはほかの子とかわりたくなかったからあんなこと言って。自分が秘書艦なら本当は旗艦なんかどうでもよかったんです。でも、霞ちゃん意地っ張りだから……」
紙帯を手に呆然としている私に大潮は涙を拭いながら言った。
「霞……。馬鹿ね……」
霰が帽子を目深にかぶりなおしてつぶやいた。
霞と執務室で別れた最後の時の事を思い出して私は堪えられなくなって、その場で二人を抱きしめて泣いたよ。いい歳したオッサンが恥も外聞もなくね……。阿武隈や潮達が見ている前で、三人で抱き合っていつまでも泣いたよ。