4月19日(火)
火曜日の午前10時、籏本島への定期船に乗るため、私は電車を乗りついで港へとやってきました。
あわただしくて何も知らずにここまで来ちゃったんだけど、私がもらったチケットは定期船“はたもと丸”の2等船室のもので、夜は広いフロアに雑魚寝らしくて。
両隣オッサンとかだったらいやだな、とか思ってたら、レディスルームがまだ空いてるそうなのでそっちにしてもらっちゃいました。
(まだGWにかかってなかったからよかったけど、シーズンだったらもっと早く満室になってたらしい)
そんなこんなで一晩を船に揺られながら過ごして、翌日の水曜日、はたもと丸は無事に籏本島へと到着した。
4月20日(水)
船着き場にはホテルや旅館からの迎えの車がたくさんいて、その前を通りながらタクシー乗り場へ行くと長蛇の列で。
でも、船がつくこの時間にはタクシーの数も多いらしく、最後尾に並んでもさほど待たされることはなかった。
運転手さんに場所を告げて走ること15分、到着したのは大きな敷地に母屋と離れと蔵が鎮座する典型的な日本家屋。
すぐに見かけたお手伝いさんらしい女性に声をかけると、さっそく離れに案内して、その場でスケジュール表のようなものを手渡してくれた。
「ここが高久喜さんに寝泊まりしてもらう部屋になります。今日はこれから庭の草取りの手伝いをして、明日は他のみなさんと一緒に車で神社へ行ってそちらの掃除をお願いします」
「神社、ですか?」
「そう。管理を籏本家がしている神社で、結婚式もそこでやることになってるの。ちょっと遠くて全員車で向かうから集合時間に遅れないようにお願いね。当日は式のあと、近くのホテルに移動して祥二様が昼食を作ってくださるのだけど……高久喜さんには金曜日から下ごしらえの準備を手伝ってほしいそうだから、祥二様が船で到着されたらあとは指示に従ってください」
スケジュール表には金曜日以降はご家族の方のお世話と書いてあったのだけど、私にはどうやらレストランで会った祥二さんの手伝いが割り振られているらしい。
(ていうか、私も祥二様って呼ぶべきなんだろうな、家政婦らしく)
そういえばマンガでも言ってたっけ。
披露宴(?)で祥二様が作ったフランス料理が旦那様には不評で、激怒して以降ものすごく機嫌が悪いとかなんとか。
それで船の中で犯人に言った一言がそもそもの事件の発端だった気がする。
名探偵コナンていう物語自体、ものすごくよく考えられてて、なかなか付け入る隙がないのは10億円の時でよく判ったけど。
でも、私がいることで変わってる部分もあるのは今までのことでよく判った。
変な風に変えちゃって、被害者が増えたりするのはさすがに自分も嫌だけど。
少しだけよくなるように変えられるんだったら、それは物語に関係のない私がここにいる意味がある、ということでもあるよね。
4月21日(木)
昨日は庭で他の人たちと草取りをして。
今日も庭掃除を続ける人達はいるみたいだったけど、私はほか数人の人たちと車で向かった神社の掃除にかかった。
私、背が高いから、とくに神社みたいな天井が高い建物では思いっきり重宝するらしいんだよね。
ほとんど1日中高いところばかり掃除していたから、1日が終わるころにはすっかり腕が筋肉痛になりました。
そんなこんなで、掃除をしている間もずっと考え続けてたんだけど。
せっかく祥二様の料理の下ごしらえを手伝うのだから、旦那様の機嫌を悪くしないことが一番じゃないかという結論に達した訳だ。
祥二様は父親に自分の料理を食べて気に入ってもらって、あわよくばレストランの借金を帳消しにできるお金を引き出せれば、って考えなんだろうけれど、そもそもフランス料理という時点で旦那様は気に入らない訳だから。
ここは、レストランの借金返済のためにも、祥二様に進言して旦那様用の料理を日本食にしてもらうのが得策だろう。
4月22日(金)
この日、私は神社へは行かずに、屋敷の中で朝から布団を干したり掃除機をかけたり指示に従って掛け軸を掛けたりしていると。
表に車がついたと知らせがあって、玄関先に整列したあと、全員で頭を下げて籏本家の人たちをお迎えした。
「「「おかえりなさいませ」」」
声を合わせたのは元からいる使用人たち。
ふだんはこの人たちが屋敷の管理をしていて、臨時で雇われたのが私たち、あと貸切船に一緒に乗ってきた使用人の計20人くらいが明日の結婚式に向けての人手になる。
私は次々現れる車を見ながら、その1台に祥二様の姿を見つけて車に近づいていった。
「おかえりなさいませ、祥二様。船旅お疲れ様です」
「ああ、愛夏さん。どうやら無事に船に乗れたようですね」
「はい、おかげさまで。お荷物をお持ちします」
「じゃあ半分お願いしてもいいですか?」
他の人たちはほとんどの荷物を使用人に預けてさっさと屋敷に入っていったから、荷物の半分(しかも重い方)を自分で持ってる祥二様はちょっと異質だった。
まあ、私の感覚ではこっちの方が普通なんだけど。
屋敷で過ごす時の各自の部屋というのはいつも決まっているようで、私が案内する必要もなく祥二様は自分にあてがわれた部屋へと歩いていった。
荷物を置き、祥二様の上着を受け取ったあと、用意してあった急須でお茶を淹れる。
「仕事にもすっかり慣れたようですね」
「はい。こちらの方は皆さんいい方たちばかりで、臨時の私たちにもよくしてくださいます」
「食事もおいしいでしょう? 地元でとれた新鮮な食材だけを使って作ってますからね」
「はい。食事はもちろん、景色もいいし、とてもいいところだと思います」
って、出不精の私は、旅行とか別に興味ないんだけどね。
食事も食べられればいいって感じだから、実は毎食カ○リーメ○トでもぜんぜん苦にならないし。
お茶を一杯飲む時間分だけ休憩をして、祥二様はすぐに食材や食器のチェックをしにホテルへと向かった。
手伝いの私ももちろんついていく。
とはいえ、フランス料理の食材なんかほぼ判らない私は、せいぜい当日使う食器の種類と数を確認するくらいしかできないんだけどね。
祥二様は一通りのチェックを終えたのか、調理台に食材の一部を並べ始めて。
「愛夏さん、これから調理場の火力や手順の確認をしますので、よかったら味見をお願いできますか?」
「はい、喜んで。……祥二様、あの、一つだけ提案というか、相談があるんですけど」
話すタイミングを探していた私は、ここで祥二様に相談してみることにしたんだ。
「相談ですか? 私にできることならいいんですが」
「本当だったら私が口を出すようなことではないと思うんですけど。……旦那様のことで、ちょっと気になることを聞いたものですから」
私は言葉を選びながら、旦那様の洋食嫌いのことと、差し出がましいと前置きをしつつ、旦那様の食事だけ和食にできないかという話をして。
祥二様は少し表情を曇らせながらも、私の言葉に怒り出すようなことはなく、むしろ私が思うよりずっと真剣に考えてくれたようだった。
「確かに、愛夏さんがいうことも一理ありますね。親父の洋食嫌いは筋金入りだ。口に入れてもらいさえすれば納得させるだけの自信はあるのですが、そもそも洋食というだけで箸をつけることすらしないでしょうな、あの親父なら」
「はい、私もそんな気がします」
「フランス料理家としては口惜しい部分もないではないですが、料理を提供する者としては客の要望に応えるのも筋として間違ってはいませんね。……いいでしょう。愛夏さん、すみませんが、ホテルに使用できる和食器について確認してきていただけますか?」
「はい! あ、あの、ありがとうございます!」
「お礼を言うのは私の方ですよ、愛夏さん。危うく夏江の結婚式を私自身が台無しにするところだったかもしれないんですから。あなたの気遣いに感謝します」
その後、祥二様は当日のフランス料理と同じ材料を使って、試行錯誤を繰り返しながら見事和食にアレンジしていったんだ!
多少しょうゆを使ったりというのはあったけど、ほとんどの材料は調味料を含めてフランス料理からの転用で、驚く私に祥二様は種明かしのように話してくれる。
「実は若い頃、修行先の厨房でよく作らされましてね。シェフが研究熱心な人で、フランス料理に他国の調理法を合わせた創作料理を研究していたんです。おかげで私も出身国である日本の料理を研究する羽目になりましたよ。まあ、その経験が今に活かされているわけですから、無駄ではなかったということですね」
洋食嫌いの旦那様に育てられた祥二様は、きっと幼い頃は和食以外のものは口にしていなかったんだろう。
そんな生活の中で自然と舌を鍛えられて、やがてある程度大きくなってから食べた和食以外の料理に魅了されて、フランス料理家を目指したんじゃないかと想像する。
その中には父親に反発する気持ちもあったんだろうけれど、でも心の奥底では、幼い頃から口にしてきた和食を完全に否定した訳ではないんだろうな。
そんな私の想像を裏付けるように、祥二様の和食はとてもおいしくて、フランス料理と両方味見させてもらった私はすっかり満足してしまっていた。
祥二様が研究、私が下ごしらえと分担して(あ、念のため一応包丁は使えます。……16歳並みには)、翌日の準備は深夜にも及んで。
日付が変わる頃に気付いた祥二様に見送られて、私だけ先にタクシーで屋敷へと帰らせてもらう。
これで少しでも原作が変わって、事件が起きなければいいんだけどな。
……まあ、もともと事件の種は旗本家にすでに根付いているみたいだから、今回事件が起きなくてもいずれ同様のことは起きるのかもしれないけれど。
明日島の定期船で帰る私には、これ以上のことは無理だと割り切って。
帰り着いた従業員宿舎の一室で、私は静かに眠りについた。
4月23日(土)
結婚式当日の朝、寝不足ながらなんとか起床して身支度したあと、私が荷物の整理をしていると最初にいろいろ説明してくれた屋敷の使用人の女性が部屋にやってきた。
私の仕事は昨日まででほぼ終わっていて、あとはせいぜい部屋の片付けの手伝いくらいだったから、たぶんお給料の支払いの件だろうと軽く対応したのだけれど。
部屋を一通り見まわした使用人さんは、少し言いづらそうに話し始めたんだ。
「高久喜さんは、今日の定期船で帰る予定でよかったのよね。観光はしないで」
「はい。いちおうお土産屋さんくらいは見るつもりですけど」
「そう。……実は、急で申し訳ないんだけど、高久喜さんには追加でお願いしたい仕事ができたんだけど」
使用人さんが話したのは、なんとご家族の方が帰る貸切船での祥二様のお世話だった。
なんでも祥二様が私の仕事を気に入ってくださって、できれば帰りも私を担当にしてほしいとか。
って、それってつまり、私が自分で自分の首を絞めた、ってことですか!?
私が呆然としていると、慌てたように使用人さんが言葉をつづけた。
「もちろん断ってくれてもかまわないわ。最初の契約では高久喜さんは今日までの予定だったのだし、正直言って帰りの船での人手は十分で、わざわざ高久喜さんに入ってもらうほどでもないの。ただ、高久喜さん自身が今日帰る予定なら、船の時間は定期船よりも遅いから、少しは観光する余裕もあると思うのね。それにここで祥二様と伝手を作っておくのも悪くはないし」
いや、正直祥二様との伝手なんて別にどうでもいいし。
観光とかもあまり興味はないから、阿笠さんとあとユキさんとヨーさんと、この仕事を紹介してくれた佐伯さんへのお土産だけ買えればなにも問題はない。
それより豪華客船での殺人事件に巻き込まれるかもしれないことの方が恐怖だよ!
そりゃ、旦那様の機嫌を悪くしないよう画策したりはしたけど、でもあれだけでほんとに事件が起きなくなる保証なんかないんだから。
「あと、お給金、2万円ほど追加させてもらうから」
「……はい、やります」
答えた私はほとんど涙目でした。
でもムリです、断れないです、2万円の前には私の涙なんてクズも同然です、はい。
その場で12万円入りの封筒を受け取ってしまった私にはもう逃げる余地などなく、ご家族が式場になっている神社へ出かける時にお見送りをしたあとは、自分が使った部屋の掃除をしてひとまず解散になった。
臨時の使用人たちは観光組と帰宅組に分かれて、私は帰宅組の方へ混ぜてもらってタクシーでお土産屋さんに回ってもらう。
そこで予定の人たちにお土産を買ったあと、仲間同士で早めの昼食をとって、定期船に乗るみんなを見送って。
それから貸切船が出港する午後4時までは自由時間だったのだけど、私はすでに観光する気分ではなく、港近くの喫茶店で時間をつぶしながらどんよりと原作の流れを思い出していた。
原作の最初は蘭さんたちが船に乗ったいきさつの説明で、確か旦那様の娘婿の北郎様が旦那様に内緒で、定期船に乗り遅れた蘭さんたち3人を船に乗せたという話だった。
例えばここで私が出しゃばって船に乗せないようにするとか……はムリだろうな。
(むしろ私の伝手で無理やり乗り込みそうだよ、あの3人なら)
それでさらに旦那様の機嫌が悪くなって、絵を描いていた孫の一郎様に余計な一言を言ったのが事件の発端だったんだ。
事件そのものを防ぐためには、事件が起こった夜の8時ごろに現場で目撃者になるしかない。
(犯人が包丁を取り出したところで悲鳴を上げる、とか?)
ただ、この時間は使用人ほぼ全員が厨房で食事の支度をしていて、同時に使用人全員のアリバイも証明されることになる。
つまり、下手に介入すると、事件も防げずアリバイもないという状況になりかねない訳だ。
そして、逆上した犯人に私が殺される可能性も十分あったりする。
(そうだ、凶器の包丁、確か祥二様の私物でケースに鍵なんかはついてなかったはず)
凶器を隠す? でも本当に人を殺したいなら、包丁なんてどこからでもいくらでも調達可能だ。
例えば私が祥二様の包丁を隠したとしても、それで事件が防げる確率はあまり高くないだろう。
最初の刺殺事件さえ起こらなければ、第二第三の事件は起こらない。
でもこの事件を防ぐためには、私自身がかなり危険な橋を渡らなくちゃならない。
……旦那様を見捨てる? 本当に? 事件が起こることが判っててそれをする?
だけど、結婚式での旦那様の食事が和食に変わったのだから、事件が起こらない可能性だってゼロじゃない ――
どうすればいいのか判らないまま、気づけば船が出港する30分前になっていた。
慌てて会計をして、荷物を持って客船が寄港しているそばまで来る。
毛利家の面々はいないようでほっとしながら船に乗り込むと、さっそく使用人の一人が私を部屋へと案内してくれて。
もちろん使用人専用の客室で、ご家族の皆様のような豪華な内装じゃなく、普通の個室でひと安心したところだったりする。
「荷物を置いたら一度祥二様のお部屋へご挨拶に行ってくれる? そのあとは厨房に声をかけてくれれば執事の鈴木さんに紹介するから」
「はい、あの、祥二様のお部屋はどちらですか?」
使用人さんはドアの内側に貼ってある船内見取り図(非常口なんかが判るやつだ)を見ながら、ご家族の方たちのお部屋と、あと主要の施設を一通り教えてくれた。
ご家族のお部屋はだいたい一所に集中していて、中でも一番奥まった場所にある部屋が旦那様のお部屋で判りやすかった。
私は荷物を開いてクローゼットに入れたあと、言われたとおりに祥二様の部屋へと向かう。
そのころになると船はすでに出港していて、祥二様も部屋で荷物を開いているところだった。
「やあ、愛夏さん。突然のことなのに引き受けてくれてありがとう」
「いえ。あと1日お世話になります」
「こちらこそ。愛夏さんはこの船は初めてでしょうから、簡単に船内を案内しますよ」
「ありがとうございます。……ところで、旦那様はいかがでしたか?」
船内を歩きながら少し声を潜めて訊いてみた。
まだほかの人たちの部屋が近いからだろう、祥二様も少し声を低くして、私の問いに答えてくれた。
「さすがに満面の笑顔で、という訳にはいかなかったですがね。ひとまず声を荒げるようなことはありませんでしたよ。まあ、及第点というところではないでしょうか。おかげで今後の話もだいぶしやすくなりました」
「それはなによりでした」
「できれば本物のフランス料理を親父にも味わってもらいたかったところでしたけどね。激怒しなかっただけでもありがたい。愛夏さんには本当に感謝しています」
「いえ、むしろ余計なことだったかもしれないと心配していたところです。機会があれば今度ぜひ、祥二様の本物のフランス料理をご馳走してあげてください」
「ええ、ぜひそうしましょう」
心配事の一つを解消できて、私にもほっと笑顔が出た。
祥二様も笑顔で返してくれる。
これでひとまずフラグは折れたかな、と思ってたんだけど ――
案内されるままデッキへ出ると、そこには一族の皆様と、あと毛利家の面々が顔をそろえていて。
「バカモノォ、これはどういう事じゃあ~っ!?」
旦那様が北郎様に怒鳴りつける姿が見えて、私はたぶん顔面蒼白になっていた。
旦那様が歩き去るまで、私は茫然自失のまま立ち尽くしていた。
だって、その間のご家族様たちのやり取りは、私がマンガで見たのとほとんど違わなかったから。
違ってたのは、祥二様と夏江様達との「私の料理を食べてからですね」というくだりが「結婚式が終わったあたりからですね」に変わったくらい。
つまり、去り際に旦那様が一郎様に言った一言も、原作のままで変わらなかったんだ。
毛利家の面々が旦那様を激怒させた原因のすべてだとは私も思ってないけど。
やっぱり私、あの3人が船に乗るのを邪魔するべきだった?
でも私じゃきっと無理だったよ。
私がこの船に乗るのに、彼ら3人を乗せずにいられる方法なんて、あの時も今も思いつかないんだから。
「あれ? 愛夏ちゃん?」
「……あ、はい」
「やだぁ! すっごい偶然! ねえ、お父さん、コナン君、こんなところで愛夏ちゃんだよ!」
「なんだと? ……またあんたか。嫌な予感しかしねえな」
いや、それこっちのセリフです毛利探偵。
「愛夏さんのお知合いですか?」
「はい。私が愛夏ちゃんの中学の頃の同級生なんです。でも驚きました。まさかこんな旅先で会うなんて思ってませんでしたから」
「そうでしたか。彼女は夏江の結婚式の手伝いで来てもらいましてね。実は私が彼女の優秀さに惚れ込んで、帰りの船でも私の専属としてついてきてもらったんですよ」
「そうだったんですか。……コナン君、どうかした?」
「ううん、べつに」
蘭さんはずっと笑顔でこの偶然の再会を喜んでいたのだけれど、毛利探偵はちょっと不機嫌そうで、コナン君にいたってはなぜかうつむいたままこぶしを震わせていて。
どう見ても歓迎ムードじゃない場の雰囲気と、しかも私一人だけ使用人という居心地の悪さもあって、できるだけ早くこの場から立ち去ってしまいたかったんだ。
会話が途切れたのをチャンスと、私は祥二様に告げた。
「祥二様、私はそろそろ鈴木さんの所へ参らないといけませんので」
「そうですか。残念ですが、では、またのちほど」
「はい、ご案内ありがとうございました」
祥二様がそれまで私の肩に置いていた手を外してくれたから、私は一礼して、船の中へと戻っていった。
(いやもう、今更だからなにも言わないけどコレ、日本では立派なセクハラだからねっ!)
その後すぐに厨房へ顔を出すと、使用人数人が夕食の準備の前のミーティングを開いていて。
執事の鈴木さんとそこで顔を合わせたあと、私は食材の下ごしらえ(今回は縁があるな)を指示されて、言われるがままに包丁で野菜を切っていった。
その間に祥二様に内線で呼ばれて飲み物を届けたりもしたけど。
(まあ、会話もしたけどたいした話じゃなかったり)
やがてマンガでの被害者の死亡推定時刻である午後8時が近づいてきた頃には、夕食の支度が最高潮で、私もだんだん気持ちが落ち着かなくなっていったんだ。
時刻を気にしつつ、作業にきりがついたのが7時45分、行動するとしたら最後のチャンスだ。
私は思い切って、近くにいた使用人に声をかけた。
「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます」
「はい、迷わないでね」
「気を付けます」
こうして厨房を飛び出した私は、教えられた見取り図を頭に思い浮かべながら、旦那様の部屋へと早足で歩いていった。
厨房から旦那様の部屋までは5分もかからない。
もしも廊下に犯人がいたら、包丁を持ってるか、あるいは床の血痕を掃除してるかだ。
なにも考えずに叫べばいい。
そう、行動をシミュレーションしながら現場へ行くと、たぶんまだ8時まで10分以上あったはずなのに、すでにそこには誰もいなくて、ただ廊下に一輪の花が落ちていたんだ。
え? ここにこの花があるってことは、すでに犯行が終わって証拠隠滅も済ませた後だってこと?
だって、確かマンガでは亡くなってから1時間もたってないときに死亡推定時刻が割り出せたから、誤差は10分くらいしかなかったはずで……!!
そうだよ! 原作で死んだのが8時だったからといって、この世界で必ずしも同じ時刻に同じことが起こるとは限らないじゃない!
それに死亡推定時刻はあくまで、“亡くなった”あと経過した時間からの逆算で、刺されたあとに自力でドアを閉めた旦那様がその後数十分にわたって生きてた可能性はあるんだ。
だから今回の場合、犯行が行われたのは8時よりももっとずっと前の可能性があって、必ずしも死亡推定時刻=犯行時刻にはならないんだ!
ということは、今この瞬間、旦那様はまだ生きてるかもしれない。
私はドアに近づいて、ノックをして声をかけた。
「旦那様、どうかなさいましたか?」
廊下を歩いていたらうめき声が聞こえたことにしよう。
そう思って私は声をかけたあと、ノブを回してみる。
鍵がかかってることを確認して、私はすぐに執事の鈴木さんを呼びに食堂まで行った。
「鈴木さん、ちょっとすみません」
「どうされました?」
「あの、さっき旦那様のお部屋の前を通ったら、なんだか様子がおかしくて。声をおかけしたんですけど、鍵がかかってて」
私の声はそれほど大きくはなかったのだけれど、ちょうど食堂で夏江様と話をしていたコナン君たちには聞こえていたみたいだった。
「愛夏姉ちゃん、様子がおかしいって、どうしたの?」
「なんか、うめき声のようなものが聞こえた気がしたんです。私、ちょっと気になって。もしかしたら気分でも悪くて倒れてるんじゃないかって」
「それが本当なら一大事です。すぐに鍵を持っていきましょう」
「はい、お願いします」
鈴木さんのあとについて廊下を歩いていく。
うしろからは毛利家3人と夏江様もついてきていた。
それと、食堂に向かおうとしていた籏本家の人たちも、私たちのただならない様子を見て周囲に集まり始めていたんだ。
そんな中、声をかけながら鈴木さんがカギを開けて、ドアを開けた。
そこには、すでに事切れていることがはっきり判る、旦那様の刺殺体があったんだ。
「遺体の状況からみて、死後10分程度、ただ、床の血はすでに固まり始めているところから見て、刺されてからは20分程度経過していると思われます」
「それじゃあ、高久喜さんが聞いたうめき声というのは」
「ええ、おそらく亡くなる直前、最期のうめきだったのでしょう」
私は廊下の、直接遺体が見えないあたりに立っていて、倒れそうになる身体をなぜか祥二様に支えられていた。
人の刺殺体を見るのは初めてじゃないけど(アイドル密室殺人事件参照)、こんなの何回見たからといって慣れるものじゃない。
いつもいつも、マンガでコナンが死体発見の時にひどく驚いた表情で描かれてたのがすごくよく判った気がするよ。
(連載の中盤頃から「そろそろ死体にも慣れたでしょ、驚きすぎだよ」なんて思っててごめんなさい。こんなの慣れんわ)
原作よりも発見が早くて、流れた血の固まり具合と死亡時刻の差が判ったことで、密室の謎もすぐに毛利探偵が説くことができた。
ともあれ、私のうめき声を聞いたという証言と、実際の死亡時刻に差がなくてよかったよ。
ここで状況が食い違ってたら、真っ先に疑われるのは私ってことになってただろう。
原作同様、真っ先に疑われたのは、胸の花を廊下に落としていた武様(夏江様の夫)だった。
動機もあった武様はそれでも無実を主張していたけれど、その場で一族の人たちに取り押さえられて倉庫へと閉じ込められてしまった。
ただ、その後の言い争いで、ほかの家族たちにも動機があったことが判ってきて。
旦那様の遺言で、遺産のすべてが夏江様に行くことが判った家族たちの間に、新たな火種が生まれたことが誰の目にも明らかだった。
このあと原作では、夏江様がデッキに出て蘭さんとコナン君と話しているときに、竜男様(夏江様の義兄)が犯人に殺されるという第二の事件が起きる。
竜男様が犯人に殺されたのは、犯人が凶器を捨てるところを見てしまったからなのだけど。
もしかしたらこの時、竜男様は莫大な遺産の相続人である夏江様のあとをつけていて、独りになったところで海に突き落とそうとでもしていたのかもしれない。
この時の夏江様の精神状態なら、たとえ海に身を投げたとしても、自殺として処理されたかもしれないのだから。
……怖い、怖すぎるよ名探偵コナン。
そういえば今まで私が直接遭遇してきた事件は、社長令嬢誘拐事件とアイドル密室殺人事件の二つしかなかった。
本当の殺人事件に遭遇するのは初めてだったんだ。
「愛夏さん、大丈夫ですか?」
私が考え込んでいる間も、祥二様はずっとそばにいて、私を支え続けてくれたらしい。
当事者の方がずっとショックなはずなのに、私は祥二様に余計な心配をかけてしまっていたんだ。
「すみません、もう大丈夫です」
「その大丈夫はあてになりませんね。今夜はもう部屋に帰った方がいいですよ」
「……はい、そうします」
祥二様は私が部屋に入るまで送ってくれて、戸締りに気を付けるように声をかけたあと、鍵の音を確認してから歩き去ったのが足音で判った。
祥二様には明日もう一度謝ってお礼を言おう。
このお話、連続殺人事件の二人目の被害者は竜男様だ。
事件はもう一つ起こるけれど、これについては犯人の自作自演だからあまり考えなくてもいい。
竜男様は、私の想像が正しければ、夏江様の命を狙っていた時に逆に犯人に殺されてしまう。
たとえ助けてもその後夏江様の命が危なくなるならあえて助ける必要はない気がするけれど、でも竜男様の遺体を抱いて泣き崩れていた妻の秋江様の姿を思い出すと、簡単に見捨てることはできないと思えてくる。
でも、私が竜男様を助けるためには、やっぱり旦那様のときと同じく、目撃者になるしかないんだ。
凶器を捨てた時か、竜男様に殴り掛かった瞬間に、悲鳴を上げるしかない。
だからもしそれで竜男様が助かったとしても、代わりに私が殴り殺されることになるかもしれないし。
タイミングが悪くて犯行後に現場に到着したりしたらやっぱり私が犯人にされるかもしれない。
―― 心が折れていた。
蘭さん、あなたすごいよ。
私と同じ状況にいて、それでも夏江様を気遣って、励ましてあげられる。
ぎすぎすした一族の人たちに明るく話しかけて、ケガをした一郎様をやさしく手当てしてあげて。
あなただって、私より多少は経験豊かかもしれないけれど、そんなに殺人事件に慣れてる訳じゃないのに。
私は蘭さんとは違う。
私には蘭さんのような勇気も、自信もない、45歳になった今でも内気で小心者だ。
私は犯人が一郎様だと知っている。
だからもし、私が犯人を知っていることに一郎様が気づいたら、私は殺されるかもしれない。
これ以上行動したら、私が何かに気付いていることを、犯人に悟られてしまうかもしれない。
例えば、あの時私が旦那様の部屋へ行った『本当の理由』に気付いたら、一郎様は私を殺しに来るかもしれないんだ。
だっておそらくコナン君は気づいているはずだから。
私はあの時「トイレに行く」といって厨房を出た。
船内のトイレはいくつもあるから、もちろん一番厨房に近いトイレは旦那様の部屋とはかけ離れている。
そして、旦那様の部屋は通路の行き止まりで、たとえ私が道に迷ってあのフロアに迷い込んだとしても、部屋のドアの前まで行くのは不自然なんだ。
私のアリバイはほぼ完璧だから、今のところ誰も指摘しないでいてくれるけれど。
疑おうと思えば疑えるほどの不自然な行動をとっていた私のことを疑う人がいるかもしれない。
それはもしかしたら一郎様で、たとえ本当の理由には気づかなかったとしても、「もしかしたら犯行を見られたかもしれない」と思って私を殺しに来るかもしれないんだ。
恐怖の原因は経験と想像だ。
経験については、例えば自分の心や体が傷ついた時、同じ傷をもう二度と受けたくないと思ってしまう。
でもそれはあくまで経験した範囲での恐怖でしかない。
経験からくる恐怖には限りがあるけれど……想像による恐怖には際限がない。
私は、想像からくる恐怖にとらわれて、もう動くことすらできない。
ベッドの上で、小さく膝を抱えながら恐怖と戦っているうちに、いつの間にか日付が変わっていた。
4月24日(日)
急にどたばたと部屋の外が騒がしくなって。
荒々しいノックのあと、外にいる人がけっこう大きな声で叫んだから、私はびくっと身体を震わせた。
「愛夏さん、起きていますか?」
「愛夏姉ちゃん! そこにいる!?」
祥二様とコナン君の声だった。
私はのろのろと立ち上がったあと、ドアの前まで歩いていって、二度ノックをしながら外に向かって声をかけた。
「はい、私はここにいます。起きてます」
「よかった。今、こちらは私、籏本祥二とコナン君だけです。愛夏さん、ドアを開けていただけますか?」
「愛夏姉ちゃん、祥二さんが言ってるのはほんとだよ。安心して」
「はい、判りました」
さっき部屋に帰るとき、祥二様は私に、容易にドアの鍵を開けないように言い聞かせていった。
だから私を信用させるため、利害関係がない二人できたのだろう。
私がドアを開けると、言われたとおり外には祥二様とコナン君の二人だけがいた。
そして、次の瞬間、私は祥二様に抱きしめられていた。
「愛夏さん、無事でよかった」
「……祥二様?」
「今さっき、竜男さんが殺されたんです。まさか愛夏さんもと思ったら気が気ではありませんでした」
「……私は大丈夫です。心配してくださってありがとうございました」
私が祥二様から離れる仕草をすると、祥二様はすぐに腕を放してくれた。
「二人は恋人同士?」
と、下の方から声が聞こえて。
思わず顔を動かすと、無邪気な声とは裏腹に、けっこう真剣な目でコナン君が私を見つめていた。
私はすぐに目をそらしてしまった。
(いやだって、コナン君の真剣な上目遣いとか、ほぼ心臓直撃なんですけど!?)
「違いますよコナン君。私は海外生活が長いものでね、つい動作が大げさになってしまうんです。まあ、愛夏さんを気に入っているのは確かですが」
「愛夏姉ちゃんも?」
「はい、祥二様はすごくよくしてくださいますから。恋人ではないですが、尊敬できるいい方だと思います」
「……そう」
大人同士の社交辞令的サービス発言、果たしてコナン君に判るのだろうか?
この辺りは高校生の工藤新一でも難しいかもしれないな。
こういうノリはきっと、社会人になれば嫌でも判ると思う。
今回は違うけど、恋愛に臆病な大人たちが、相手の反応を探るのに飲み会なんかでよく使う手だったりするから。
「部屋に戻ってだいぶ落ち着いたみたいですね」
「いいえ、実はさっきまでは膝を抱えて震えてました。落ち着いたのは今です。祥二様とコナン君のおかげですね」
「それならよかった。……先ほども言いましたが、竜男さんが殺されまして。独りでいては危険なので今は全員で食堂に集まっているところなんです。使用人の皆さんも、常に二人一組で行動するようにしています」
「判りました。私も行きます」
確かにそうだ、独りで部屋にいたら、たとえ鍵をかけてたって恐怖で固まってしまう。
それだったらみんな一緒にいて、少しでも気を紛らわせていた方がいい。
食堂と厨房の分かれ道で、私が厨房へ行こうとすると、祥二様に引き留められた。
「愛夏さんはこちらで。私の専属ですから」
「え? でも、示しがつかないんじゃ」
「もともと勤務時間でもないですし、かまいませんよ。それに、私が愛夏さんと一緒にいたいんです」
「それでしたら、判りました」
そうして私と祥二様、そしてコナン君が食堂に入ると、蘭さんが立ち上がって笑顔を見せた。
「よかった、愛夏ちゃん、無事で」
「ありがとうございます。私は大丈夫です」
「愛夏さんはこちらへ」
「あ、ありがとうございます」
スマートな仕草で祥二様が引いてくれた椅子に腰かけると、隣に祥二様が、そして反対側の隣にはなぜかコナン君が座っていて!
……緊張するからできれば離れててくれるとありがたいんですけどっ!
それともコナン君は、私の不自然な行動をやっぱり疑ってたりするんだろうか。
「コナン君、こっちにいらっしゃい」
「やだ。ぼく愛夏姉ちゃんの隣がいい」
「ほら、愛夏ちゃんに迷惑だから」
「迷惑じゃないよ。ね、愛夏姉ちゃん?」
いや、けっこう迷惑です。
でも社会人たるもの、そんなことを本人の前で言える訳がない訳で。
って、もしかしてコナン君、いつの間にか私の操縦方法を会得し始めてる……?
沈黙は肯定とばかり、コナン君が胸をそらす。
「ぼく、迷惑なんかかけないよ」
「んもう。ごめんね、愛夏ちゃん」
「……いえ、大丈夫です」
謝りながら蘭さんが自分の席に戻ると、今度は祥二様がコナン君に話しかけていた。
「もしかして君は、私のライバルなのかな? かわいいナイト君」
いやいや、違うから、コナン君はただ私を疑ってるだけだし。
まあ、こういう緊張する場所にいたら、少しでも場を和ませたいっていう祥二様の気持ちは判るから、水を差すようなことは言わないけど。
「ぼくはおじさんが愛夏姉ちゃんに抱き着かないように見張ってるだけだよ」
「ほう、君はあれが気に入らなかったんだね。でも、私も君に愛夏さんを渡すつもりはないよ」
「セクハラはだめだよ。今度やったらぼく、訴えるからね」
「やれやれ、頼もしいナイト様だ。どうやら私は、彼がいる限りうかつな行動はできないらしい」
そういいながら祥二様は、両手を広げて私に笑いかけてくる。
ほんと、祥二様は優しい人だ。
例えば私が肉体年齢16歳じゃなくて、なおかつ祥二様に借金がなかったら(←コレ重要)、本気で交際を考えたかもしれない。
「祥二あんた、この使用人と結婚する気かい?」
会話を聞いていたのだろう、隣のテーブルから声をかけてきたのは、祥二様の姉の麻理子様だった。
「嫌だなあ、姉さん。私と愛夏さんはまだ出会ったばかりで交際もしていませんよ」
「やめときなそんな若い娘。どうせ財産目当てに決まってるよ」
「愛夏さんはそんな人じゃありませんよ。それに、財産は夏江に相続されると決まってるようなものじゃないですか」
「そんなのわかんないだろ。とにかく使用人の娘なんかに手を出すんじゃないよ。あんたも、どうせ籏本家の財産が目当てでこの船に乗ったんだろ?」
……なんだかなあ。
「まあ、お金が目当てなのは間違いないかもしれないです」
「やっぱりね。そういう女だと思ったよあたしゃ」
「愛夏さん?」
「この船に乗ったら、バイト代を上乗せするって言われまして。2万円の誘惑に勝てませんでした。すみません」
「……は?」
そう、麻理子様が絶句した次の瞬間、とつぜん祥二様が大きな声で笑い出したんだ。
「はははは、さすがは愛夏さんだ! 姉さんを絶句させるとは、私が見込んだだけのことはある」
「……恐縮です」
まあ、今の私にとっては、籏本家の財産なんかよりも目の前の2万円なんだよね。
でもさすがに懲りたけど。
2万円の代償が殺人事件じゃ、割に合わないってことがよく判ったわ。
ひとしきり笑って和んだあと、祥二様は私に、それまでのいきさつを話してくれた。
原作の通り、竜男様が撲殺されて、その犯人が倉庫から逃げ出した武様らしいこと。
それを確認してからすぐにコナン君が、全員が一か所に集まって私を呼びに行った方がいいと言ってくれたこと。
その言葉を受けて祥二様とコナン君が迎えに来てくれたこと。
今回の事件、とうぜんのことながら私にはアリバイがない。
私を疑っているコナン君は、人を集めると言いながら、本当は私の様子を確かめたかったのかもしれない。
私がちゃんと部屋にいるかいないか、あるいは、私の様子に不自然な点はないか。
今のところ私に何も言ってこないのは、今回に限っては私の言動を不自然だと思わなかったのだろう。
朝までの時間は長かった。
誰かが時折ポツリポツリと話し出して、それに誰かが言葉を返して。
事件に関することもあるし、犯人に関することも、そしてそれが言い争いになることもあった。
話の矛先が変わったのは、コナン君が「武さんが閉じ込められた部屋は外から誰かが開けない限り開かない」と言った時だ。
私はこの言葉によって、犯人の一郎様がトイレでの自作自演を考えたのだと判る。
この、誰もが疑われた状況の中で、少しでも自分への疑いを晴らそうとしたのだろう。
一郎様がトイレに行って、しばらく経ったその時、ふっと船内の明かりが消えた。
私はその場を動かずに、使用人の誰かが明かりをつけるのを待っていたけれど、やがて一郎様の叫び声が聞こえた時、隣の祥二様が立ち上がって食堂を出ていこうとしたのが判った。
「愛夏さんはここから動かないで」
「はい」
「コナン君も」
「とっくにいませんよ」
「なんと。……ともかく愛夏さんは動かないで」
「はい、大丈夫です」
そうこうしているうちに部屋の明かりがついて。
一郎様の名前を呼ぶ、麻理子様と北郎様の悲痛な声が食堂にも響いてきていた。
長かった夜が明けてすぐに、執事の鈴木さんの案内で、毛利探偵たち3人が船内に潜伏した武様を探しに行った。
ご一家は食堂で待機、私たち使用人はぜったいに一人にならないようにと言い渡されて、厨房で食事の支度。
それ以外の時間はすべて、食堂で全員が集まって、ただひたすら待つだけの時間となる。
この時間、コナン君が手掛かりを集めて、推理がまとまれば解決はもうすぐだ。
正直言って早く終わってほしい。
早くおうちに帰りたい。
「あの、籏本家の皆さん、至急秋江さんの部屋に集まってほしいって、お父さんが」
そう言ったのはずっと食堂にいなかった蘭さんだ。
やっと、やっと名探偵の推理ショーが始まる。
「愛夏さん」
「祥二様、私は部外者ですから」
「……そうですね。では、ここで待っててください」
それからどのくらいの時間が経ったのだろう。
船がようやく港に着いた時、私は食堂のテーブルに突っ伏して眠っていたところを祥二様に起こされていた。
「愛夏さん、もしかしたら少し熱があるかもしれませんね」
あー、私、身体だけは丈夫なつもりだったんだけどな。
さすがに殺人事件と徹夜が重なれば身体もダウンするか。
あと、泊りがけだった仕事の疲れも残ってるのかもしれない。
もういいや、帰ってさっさと寝よう。
今回の仕事だけで一月分の目標以上に稼いだから、今月はもう仕事しなくてもいいし。
心行くまで惰眠をむさぼってやるんだ!
「愛夏さん、よかったらうちの者に家まで送らせましょう」
「いえ、少し眠いだけですから。それにだんだん目も覚めてきました」
「疲れが出たんでしょうね。本当に一人で帰れるんですか?」
「もし毛利さんたちがよければ一緒に帰ります」
「そういえば同じ中学だと言ってましたね。判りました。気をつけて帰ってください」
「祥二様、このたびは本当にお世話になりました」
「いいえ、私の方こそ、面倒なことに巻き込んで申し訳ありませんでした」
そう、挨拶を終えたあと、荷物をとって船から降りたところで祥二様とは別れて。
あたりを見回すと、駆けつけた警察官と毛利探偵が話しているのが視界に入ってきた。
……そっか、殺人事件だったんだっけ。
とうぜん警察に届けなきゃだし、関係者一同事情聴取必須だよな。
ま、私はただの従業員だし、なにかあれば連絡先は蘭さんが知ってるから、呼び止められないうちに帰ろう。
そうして港の駅から電車を乗り継いて、どうにか家に帰ったはいいけれど。
その日の夜、私は38度を超える高熱に苦しめられることになった。