廃墟の冷たいコンクリ壁に背をもたれさせながらヴィクトルは破れた防護服の上からわき腹をそっと拭った。
生温い感触とともに手袋にべっとりと付くのは自分の血だ。
傷はそんなに深くも無いが、浅くも無いことは出血の量だけで充分にわかる。
止血しようにも道具が無い。 もっと悪いことに、防護服の破れを繕うための適当な素材も無い。
その道具はヨーシフが全部持っていて、今の彼は地面の大きな裂け目の底だ。
ヴィクトルは神経が訴えてくる、肉を鋭利な刃物で切り裂かれた激痛に顔を顰めたが、出血よりも汚染が傷口から体内に入り込むことの方がよっぽど深刻だ。
汚染された地上では、空気さえも有害なのだ。
防護マスクがなければ5分と持たず、血を吐いて死ぬだろう。 ただし、肌を晒すのは即座に死ぬ訳ではない。
まず汚染物質を浴びた皮膚が、汚染の程度にもよるが……焼けたように腫れ上がって爛れ、本当に火傷でも負ったかのように痛む。
その傷は癒えることはなく、悪いと数日、長ければ何十年も体を蝕み続け、やがては悪性の腫瘍が体中に広がって死ぬ。
とりあえずできる事は、防護服の破れた箇所を手で押さえると一緒に、圧迫して出血を留める原始的な止血しかないのが現状だ。
足音がした。 ヴィクトルが武器を手元に寄せる暇もなく、ペトルーシャが薄暗いこの部屋に入ってきて片手を挙げる。
戻ってきた仲間の姿を見たヴィクトルはほっとして、空気圧銃を床に置いた。
「隣のアパートの廃墟から、補修に使うダクトテープを見つけてきた。 とりあえずこれで穴を塞いで。
今日は雪も雨も降ってないし、風が強くないから塵も飛んでいない。 汚染がそれほど入り込むことはたぶん、無い」
ペトルーシャはそう言ってヴィクトルに灰色の古い粘着テープを投げて寄越した。
床に転がったそれを受け止め、ヴィクトルは自身の防護服の裂け目に貼り付けようとするが、傷を受けた左わき腹の痛みでうまく腕を使うことができない。
苦戦しているとペトルーシャが側に近寄ってきて座っているヴィクトルの側にしゃがみ、手伝ってくれた。
ふと、ヴィクトルはペトルーシャから甘い芳香を嗅いだ様な気がした。 防護マスクのフィルター越しの空気なのに。
ペトルーシャは、地上を彷徨う危険な仕事に携わる探索者という仕事には珍しい、女の探索者だ。
一体何年前から探索者を続けているのか判らないが、ヴィクトルが育った環状線ルヴィンスカヤ駅では名前を知らない者はいないくらいのベテランだ。
歳も相当いっている筈だがペトルーシャのしなやかな鍛えられた体とその動き、積み上がった瓦礫を軽々と登攀していく姿は若さと瑞々しさを感じさせる。
もっとも、ペトルーシャの顔どころか肉体すら実際に見た奴は誰も居ない。
いつも防護マスクと防護服に身を包み、町でもいっさい肌を露出する事がないからだ。
町の酒場では、そんな彼女の事を『実は変異した人間で、ストリゴイと変わらない醜い姿になっちまってるから肌を見せないんだ』と陰口を叩くものもいる。
女だてらに探索者稼業をやって、それもその辺の男よりも腕も評判もいいもんだからそういう嫉妬も買うのだ。
だが、ヴィクトルはそんな噂は全く気にも留めていなかった。
防護マスクの眼鏡ごしに見える彼女の青い目、そして少しだけ覗く金髪の細い髪は、それだけで充分に美しかったからだ。
ペトルーシャがストリゴイどもと同じような姿で、浅黒くてしわくちゃの皮膚で、口には鋭い牙が生えているとして、なんだって言うんだ?
俺にはペトルーシャのこの青い瞳をみただけで、ストリゴイと彼女の見分けはつける事が出来るさ、ヴィクトルは心の中でそう呟いた。
「……私たちらしくもない油断をしたものね」
テープによる防護服の補修が終り、ペトルーシャが短く呟いた。
今日、ヴィクトルと彼女たちの所属しているチームは地上の17番地区、6階建ての総合住宅が立ち並ぶ住宅地跡廃墟でストリゴイの一種である
バラウールは群を作って生活し、自分たちより小さい生き物を襲って餌食にする。
といっても、バラウール自身が遠吠えの時に後ろ足だけで立つと人間の身長より高くなるくらいだから、人間を含め大抵の生き物は襲って餌にすると言う事になる。
その群は4~5匹単位の小集団で、チームがそれを発見した時も仕留めたばかりの小型の別種のストリゴイの死骸を仲良く貪っていた。
ちょうどいい獲物だ、とヴィクトルは判断した。 ヴィクトルの職能は、対ストリゴイ戦闘の技術に専門化した「狩人」だ。
ストリゴイの習性・生態を知り尽くし、有効な武器や罠を選び、対策方法を練る。
人間からすれば恐ろしい凶暴な変異生物であるストリゴイも、その体から取れる骨や腱などの素材は武器や生活に必要な道具を作る貴重な素材となる。
そして、それを主な収入源にする探索者のチームが、ヴィクトルたちだった。
ヴィクトルの装備である空気圧銃も、狩猟に適したものということで選ばれている。
圧搾空気を使って細い金属の矢を放つこの武器は、火薬式の銃よりも静穏で、弦を使う弓よりも強力かつ、命中精度が高い。
もっとも、機械弓…ギアを使って弦を引くクロスボウには負けるが、連射性ではやはり空気圧銃が勝つ。
総合的な性能の良さと、なによりも大きな音がしない武器であることは、鋭敏な感覚を持つ野獣を仕留めるには最適なのだ。
だが、今日ばかりはいつもとは立場が違った。
ヴィクトルたちを待ち伏せし、狩るべき獲物として見ていた奴らが廃墟にいたのだ。
彼らの使った武器は金属スプリングで短い手槍を打ち出す『ジャベリンボウ』と呼ばれているものだ。
空気圧銃と同じくらい静粛で発射音の小さいこの武器は、やはり狩猟には最適との評価が大きいがいかんせん装填にやや時間がかかる。
その代わりに、威力は大きかった。
奇襲者の放った槍はボリスラフの背中から胸を貫いて串刺しにし、絶命させた。
彼は爆薬や薬品の調合に長けた「錬金術師」職で、チームでは支援やバックアップを担当している頼りになる後衛だったが最後尾で配置に付いていたのが災いした。
次に、ボリスラフの悲鳴に気づいたのは「盗賊」職のパーヴェルだったが、物陰に隠れて獲物であるバラウールたちの様子を窺っていたので反応が遅れた。
彼は振り向いた所を、腹に一発食らった。
パーヴェルはチームの全員に警告を発し、自分に刺さった槍を呻きながら引き抜こうとしたが、ニ発目の槍を肩に食らって倒れ、そのまま動かなかった。
ヴィクトル含めた他の全員も、仲間たちの叫び声は聞こえていたが、その時完全に自分たちが獲物と見定めていたバラウールに襲い掛かる直前の体勢だったため、奇襲してきた敵に対して全く反撃する事が出来なかった。
どこか廃墟の屋上から打ち降ろされる槍から身を隠し、その場所から急いで離れ、逃げる事で精一杯だったのだ。
ヨーシフは逃げる途中で音に気づいて襲い掛かってきたバラウールに飛びつかれ、誤って地面の亀裂に転落。
脚を射抜かれたアウグストは、わき腹に槍の掠ったヴィクトルをペトルーシャに助けるように言うと、その場に居残って短機関銃を廃墟の屋上に向けて乱射した。
二人を逃がすための援護射撃のつもりだった。
ペトルーシャに肩を貸してもらいながらヴィクトルは走り、地面に露出した下水管の中に二人が飛び込んだときに短機関銃の音は止んだ。
ヴィクトルはマスクの後頭部を壁に軽く打ち付け、舌打ちした。
全く襲撃者の存在に気づかなかったのだ。 獲物に気づかれず接近し、確実に仕留める事を生業とする狩人が、逆に狩られるとは。
ペトルーシャの言うとおり、らしくもない失態だった。
……それにしても、あの奇襲を仕掛けてきた連中は、何者だったのか。
同じ探索者の同業とは思えない。 人口の少ないルヴィンスカヤ駅の町の探索者は、全員が顔見知りだ。
多少の反目や嫉みあいはあっても、基本的には運命共同体だ。 敵対しあう意味が無い。
探索者は地上から物資を拾って持ち帰るだけでなく、町にストリゴイやドモヴォイや侵入しないように防衛する役目も負っているのだ。
一人、戦う人間がいなくなればその分町の戦力は減る。 それは街に住む本人にとって不利しかもたらさない。
あるいは、ヴィクトルたちのチームが目障りだと思っている人間が、よほど腹に何か溜め込んだ探索者のチームがいたのだろうか?
だが、ヴィクトルの隣に座って膝を抱えたペトルーシャは別の意見を言った。
「…ルヴィンスカヤの町の人間ではないかもしれない。 他の町の探索者、あるいは街に所属しない
ヴィクトルははっとしてペトルーシャの方に顔を向けた。
バンディット。 環状線の町ではなく、放棄された他の駅や、廃墟に拠点を持ち町 を襲撃したり探索者の仕留めた獲物を横取りして生計を立てているならず者。
古くは、崩壊した町の元住人で、まだ機能している町に避難しようとしても移住を拒まれた者や、あるいは素行が悪く秩序を乱すか、何らかの違反による罰で町から追放された人間が始まりとも言われている、町の住人以外の人間。
ルビンスカヤ駅周辺に出没した事は今までなかったが、それらが他の地区から流れてきたのかも知れない。
その考えには、ヴィクトルも頷けないではなかった。
ということは、今頃はバンディットどもは殺されたチームの仲間たちの遺体を漁って装備を剥ぎ取り、奪っているところだろう。
ヴィクトルは腸が煮えくり返る思いがした。
いくら世界がこんな風に滅び、地上は汚染された廃墟と化し人間は怪物や殺人機械に追われて地下で生活するような時代になったとはいえ、人間が人間を殺すのは、許されるべき事ではない。
かつては町同士で物資を巡って奪い合いの戦争が起こった事があるとは言え、現在はそのような悲しむべき時期は過ぎ去っている。
むしろ、今は残された人口が少なすぎて互いに手を取り合い協力し合わなければ、人類は今の生活水準を維持することすら難しくなっているというのに。
バンディットは、そういう点からしても人類の許されざるべき、獅子身中の虫、裏切り者、背信者であった。
「……おそらく、バンディットたちは逃げた私たちを追い詰め、絶対に逃がすまいとするでしょうね。
彼らがごく最近この周辺に進出してきたグループなら、町に自分たちの存在が知られるのは都合が悪い。
狩とは、獲物が『自分を狙っている奴はいない』と思って油断している時こそが一番やり易い。
彼らは私たちを見つけ出そうと死に物狂いになっているはず。
つまり……私たち二人が町に無事にたどり着くには、バンディットを排除しなくてはいけないと言う事よ」
そこまで言って、ペトルーシャは立ち上がった。 そして、ヴィクトルの空気圧銃を手に取る。
何を、とヴィクトルが問いかける前に、ペトルーシャは言った。
彼女のその防毒マスクの眼鏡越しの青い瞳が、笑ったように見えた。
「借りるわね。 彼らを排除してくる。 本当の狩猟という物がどんなか、狩られる側はどちらなのかということを、バンディットに思い知らせてあげましょう?」
そう言い残してペトルーシャは入ってきた時と同じように、さっと薄暗い部屋の中から素早く出て行った。
一瞬あっけに取られたヴィクトルは追いかけようと立ち上がろうとしたが、わき腹に走る激痛に尻餅を付いた。
腰から尻にかけて、生温い自分の血の感触がする。 負傷しているのをこれほど恨めしく思ったことはなかった。