Fate/Meltout -Epic:Last Twilight- 作:けっぺん
――表層着水。
その感覚は、底のない水に浸され、ゆっくりと沈んでいくそれに似ている。
肌の全てが、冷たいものに触れていく。
あまりこの感覚は好かない。
というより、嫌いだった。
肉体という衣を脱ぎ、精神に触れる。
相手の全てに触れ、相手に全てを曝け出す。
言うなればこれは、相手との交わりにも等しい。
だが、嫌いだなんだと言ってもいられない。
事は一刻を争う。羞恥を気にしてはいられない。
――潜水開始。回路調整。
私という存在の熱を水温に合わせていく。
そうでなければ私は異物だ。
対象の中とまったく同じ温度になることで、ようやく私という存在が拒絶されなくなる。
――同調完了。
患者と一体となる。
肉体という障壁がなくなり、精神に直接流れ込んでくる実感。
それは、抗いがたい快楽という形で私に沁み込む。
沈む側にとって、それは肉体を介したあらゆる快楽の上をいく。
自らを慰める行為など児戯にも等しい。
経験はないが、他者との交わりはその延長線上に過ぎないものだと判断するに――やはり比較にならないだろう。
これを使用する側にとって、それこそが支払う代価であり、報酬と錯覚する悪魔の誘惑であり、決して心を任せてはならない試練だった。
脳髄を溶かすような甘美な陶酔を否定する。
全身で患者を感じ取る。
精神を通して、体の綻びを感じ取る。
――沈殿痛覚、確認。表面損傷、確認。
そうして実行するのは、私が母から引き継いだ呪い。
否――これを呪いなどにするものか、と私は心に決め続けていた。
これは真実、人を治療するための術式として使うのだ。
――万色悠滞、開眼。五停心観、浸透。
私は肉体に直接作用する治癒魔術など修めていない。
ゆえに、こうした遠回りによって、傷を癒す。
――修復開始。肉体反映、開始。
精神を納める、肉体という容器。
それを内から修復していく。
患者の深奥を。本来を。もともと持つあらゆるものを感じ取る。
純白だ、と感じた。
月の世界で、ずっと過ごしてきたからなのだろう。
その意思は。その心は。あまりに白い。
善のその裏を疑うすべを知らず、悪の中の善性を疑わない、人としての矛盾の塊。
たった十四年の生なれど、私はそれなりの時代に生まれ、それなりの“人”というものを学んできた。
善には、大概の場合その裏があるものである。
――“あの女の子供であれば、見返りはきっと素晴らしいものだ”
――“我々の管理の下であれば、間違いなく安全だろう”
――“私の養子になるといい。紛れもない、貴女自身のために”
そんな、真っ黒いエゴに満ちた善性を、いくらでも見てきた。
勿論、そうした裏のない善だってある。だが、決してこの世はそれだけで構成されている訳ではない。
寧ろそんな物好きな善性など、ほんの――ほんの一握りだ。
対して悪は単純明快。沈殿した泥のような色を自覚した上で、そのエゴに従い己の欲望を叶える。
何のために。何があるから。何であれ。そんな理由なんて関係ない。
どんな理由を付けようと、悪であることに変わりはない。その裏の善性などあったところでないも同然であり、そもそもそれは悪の被害に遭う者にはなんの関係もない。
しかし、そんな人の群れで生きていなかったからか。この人はそうした穢れを知らなかった。
とんでもない欠陥品だ。この人は、人の悪性なんてものを客観的にしか見ていなかったのだ。
呆れて、溜息を吐く。空気はなく、肉体もないのに、イメージとして現れた気泡が上へと昇っていった。
そんなものがよくもまあ、ここまで複数の世界を歩んでこれたものだ。
人間らしいところなんて、まっとうに恋、愛を知っていることくらいか。
どうやら――いや、ここ数日のサーヴァントの様子からわかりきっていたが、あのサーヴァントこそこの人の楔にして、存在意義にも等しいものらしい。
そして、彼の存在の、もう一つ大きなもの――それは周りを取り巻く家族の存在。
血が繋がっている訳ではない。あまりに特殊な繋がり。
“月の住民”は、真実彼を構成する大半だった。
外へと繋がる絆もある。
自身の存在確立に大きく関わった出来事で結ばれたもの。
そして、その先。今の月世界の体制の根幹とも言える、奥底の記憶――
「――開かない方が賢明ですよ」
「っ」
静寂に支配された水の中で、あり得ない声が聞こえた。
私を制止する声。それは、いつの間にか傍に立っていた少女のものだった。
黒い少女。私より少し年上に見える。
暗さ、冷たさ、そして儚さ。
例えるならば、夜桜という抽象がぴったりな少女がいた。
「まったく……あの人も本当に困ったものです。こうも人が入ってきては、眠る暇もありませんわ」
「……、貴女、何……?」
此方と目も合わせず、肩を竦める少女に、私は驚愕を隠せずも、問いを投げていた。
「この人の記憶に縋る夜の残り香。或いは、そうですね……導くための灯、でしょうか。そしてこうした時には、あの人の守り人でもあります」
冷たい殺気が、向けられる。
恐らくは、経緯はどうあれ、この少女は現在この精神内の抗体にも等しくなっている何か。
であれば、異物を排除しようとするのは当然のことか。
「……怪しい者じゃないわよ。彼が傷を負ったから、治しているだけ。文句があるなら怪我した彼に言いなさい」
「……ふむ。それでは、この記憶を覗き見しようとしたのは?」
「それも必要なことよ。患者の全てに触れ、患者の全てを感じる。それがこの術式。私はこんなまどろっこしい方法でしか治療できないの」
「……」
説明をすると、少女は訝し気な視線を向けてきた。
疑いの色はやや濃くなる――というより、何か、疑問の方向が変わったらしい。
「……失礼。貴女、名前は?」
涼やかだった声色に、硬さが乗った。
これまでとは違う警戒。
冗談だという雰囲気もあった脅迫に、この時決定的な敵意が生まれた。
何がその引き金だったかは知らない。だが、そもそも人の中にまったくの別人が介在しているなど初めての事例だ。
理解など不可能なのだろう。ともかく、問いには答える。このままでは、帰ることすらままならない――そんな気がした。
「――殺生院 ミコ。未来の消滅を防ぐために招集されたマスターの一人よ」
「――――」
――その時の、どうにも例えようのない表情は、決して忘れることがないと思う。
驚愕。恐怖。悲愴。憤怒。困惑。
同様の方向性を持つ感情とはいえ、人は一つの顔にこれほどの色を持たせることが出来るのか――と、私の方が驚いた。
少女はその表情を数秒、此方に向けた後、苦々し気に呟いた。
「……因果、ですわね」
「え……?」
「あの人は寛容です。何かを謀っているならば、早々に心を改めなさい」
踵を返し、ゆらりと舞うように少女は水底へ沈んでいく。
そんな中掛けられた言葉は、警告だった。
「あの夜を再演し、月を脅かそうものならば、私はどんな手段を講じ、月に何をさせてでもそれを粉砕します。それを努、忘れぬよう」
一体、何を――私のそんな疑問などまるで知らないとばかりに、夜は消え去った。
その残滓は、何処にもない。
残ったのは、私の中に刻まれた、意味の分からない警告だけだった。
「……何なのよ」
無意識に零れた言葉に返ってくる声はない。
私が触れようとした記憶を守っていた様子だが、結局今は立ち塞がる者もいない。
ともかく治療を完遂すべく、根底にまで手を伸ばし――
――そして、その夜を見て、私は壊れた。
+
とさり、と、軽いものが胸に落ちる衝撃で意識は引き戻された。
状況を思い出す。
狂宴地獄――茨木童子を遂に討伐したものの、死の際の彼女によって僕は重傷を受けた。
反撃は叶ったが、その痛みで意識を失い――
「ハク!」
「っ……メルト……?」
――もう、その痛みはなかった。
そんな傷ははじめからなかったように、受ける以前と同じ状態。
いや、それ以上の多幸感をもって、意識は覚醒した。
何故、という疑問の解答は、体に触れていた。
「――ミコ」
「…………」
そうだ。意識が消える直前、彼女の手が頬に触れた。
恐らく彼女による特殊な治療術式の効果によるものだろう。
礼を言おうとしたが――口が止まった。
「…………」
「ミコ!?」
ミコはぐったりと突っ伏したまま動かない。
息はあるが――その顔色はどんどん蒼くなっていき、弱っていくのが一目でわかる。
「……脈はあるネ。急に気絶したような感じだけれど……」
「くっ……カズラッ!」
『極度のショックによる精神への負担が掛かってます……! これでは作戦続行は困難かと……』
何があったのか……恐らくは、僕の治療に関したものだが……。
……いや、考えていても仕方がない。
この状態で特異点に残るのは危険だ。
地獄は残り一騎となった。
聖杯もメルトが回収したが……。
「……カズラ。特異点の修復自体は終わってないよね?」
『……はい。恐らく地獄を七騎全て討伐するまでは、この時代の修復とはならないでしょう』
「……わかった。ミコはここで特異点から離脱。僕とピエールの二人で作戦を続行する」
『了解しました。アーチャーさん、貴方も帰還することになりますが、よろしいですか?』
「構わない。マスターが動けないのではな。それでは、失礼させてもらう」
罅や歪みはそのままなれど、数値としてやや安定した世界ならば、帰還が叶う。
カズラは素早くミコとアーチャーを回収した。
「メルトちゃんの持っているその聖杯は回収しなくて良いのかネ?」
『聖杯を回収しても、地獄が残っていることで特異点として継続しているようです。今の状態で楔である聖杯をその時代からなくせば、かえって崩壊に繋がる可能性があります』
先だって聖杯を回収しておくことは出来ないか。
迂闊に使う訳にもいかない以上、持っていてアドバンテージとなることはない。
だが、手放すことは出来ない。持ったまま、最後の地獄を倒すしかないか。
「……それでは。信長様と合流を。然る後、この世の異質を払いましょう」
ミコとアーチャーの二人は離脱したが、それでも戦力はかなり多い。
地獄と決着をつけるならば、かなり良い状況と言っても良いだろう。
「よし。カズラ、本能寺への道を」
『はい。空間の歪みを利用した最短ルートを計測します』
程なくして、カズラから道筋が指示される。
それは正しく、道なき道。
闇を抜け、罅を潜り、その奥へと。
隣と隣が繋がっていない壊れかけの世界の中、その寺は、唐突に現れた。
「っ――ここが、本能寺?」
「はい。――信長様」
その寺の前に、覇王は立っていた。
敷地内にも火の手は回っている。
その炎を背にした姿が不思議なほどに様になっている信長は、隣に一人の男性を侍らせていた。
「――――」
――その時、きっと初対面のメルトたちは、信長の性別や姿に何かしらの感想を持っていただろう。
だが、僕はそれどころではなかった。
――何故、彼が今、ここにいるのか。
「おお、戻ったか。杯は持っておるな。いや、何よりじゃ」
「ええ、本当に。地獄に屈する者たちではなかったと。素晴らしい。人間の可能性を見せつけられたようです」
「……貴方、なんで」
その人物に驚愕を覚えたのは、僕と沖田だけだった。
出会ったのは、茨木に連れていかれた山だった。
あの時彼は、確かに沖田が倒した筈だ。
しかし、そんな事は無かったかのように、男――キャスター・ナルは柔らかな笑みで手打ちしていた。
「お久しぶりです、お二方。ここまでの戦い、お見事でした。私の称賛に意味はないでしょうが、いやはや、人格を持ってみると不思議なもので。評価せずにはいられませんね」
饒舌に喋るキャスター・ナル。
彼が鬼たちと共にいた以上、味方になる存在ではないことは明白だ。
恐らく、仕損じたか――そう判断したのか、一瞬で詰め寄った沖田が即座に切り伏せる。
「手が早いのう、沖田」
「貴女――」
信長はその行動を、呆れたように眺めていた。
不気味に感じた沖田が戻ってきた時には――
「……いやはや、問答無用とは。ですが残念。剣では如何様に斬ろうとも、私は殺せません」
ナルの体は、何事も無かったかのように修復されていた。
「……カズラ、あのサーヴァントは……」
あのサーヴァントに関しては、情報が少なすぎる。
ともかく何か掴めないかと、カズラに問いかけたが――返事は返ってこない。
「カズラ……?」
「ああ、通信は断たせていただきました。私もまあ、無意味に死ぬのはいただけませんからね」
不敵に笑うナル。
通信が切れた状態こそが、彼にとって好ましい状態だとでもいうのか。
「……貴方がなんなのかは知らないけれど。敵ってことで良いのかしら?」
「ええ、構いません。ですが残念。貴女でも私を殺すことは出来ません。見ていただいたように武力に関しては私、無敵なので」
ナルの飄々とした態度に、メルトは苛立ちを隠さない。
しかし、確かに彼は既に二度、致命傷を負っている筈だ。
だが倒せないということは、本当にサーヴァントとして無敵なのか?
「まあ落ち着け。こやつには戦う力もない。放っておいても構わん。さて――」
彼に目もくれず、信長は此方に一歩歩み寄った。
そういえば。そもそも何故、彼と信長が一緒に――
行き着く答えなどたった一つしかない。しかし、それは認めたくない真実でもある。
しかし、無情にも、此方に手を伸ばした信長自身によって、その真実は肯定された。
「――杯を渡せ。それでお主らの仕事は全て終いじゃ」
ミコとアーチャーが戦線離脱。
彼女らの以降の掘り下げはまた先になります。
ミコが触れた記憶は、つまるところアレについて。
ハクにとっては大事な記憶でもあり、憎き記憶でもあり。
そして舞台は本能寺へ。死んでなかったのか謎のサーヴァント。
ようやく四章も終わりへと向かいます。
一応、九月中に四章完結に至れればなと思います。