「……な、なんで……どうして苗木君が……?」
舞園は顔を蒼くして、包丁から手を離し後退る。
瞳孔は開き、瞳は揺れ、涙が溢れている。呼吸も不規則で、まともに酸素も取り込めていないだろう。
「……いっ……た」
「……え?」
だが、苗木は短く唸っただけで一向に倒れない。よく見ると、包丁は細い糸に雁字搦めにされた苗木の右手に刺さっているだけだ。
僅かに先端が手の甲から飛び出しているが、それ以外に傷はない。
舞園はその場でペタンと座り込む。
普通の精神の人間は、追い詰められない限り人を殺すという選択肢には走らない。舞園は今回追い詰められたのでこの凶行に移ったが、失敗した心境は?
決まってる、安堵だ。
殺さずに済んだ。取り返しのつかない事にならなくて良かった。
人を殺す覚悟を決めるより、覚悟を崩す方がよっぽど簡単だ。
「…………………」
「……舞園さん、保健室行こっか?」
「………はい」
苗木は血が吹き出ることを恐れて、包丁を抜かずに提案すると、舞園はふらふらと覚束ない足取りで苗木の後についてきた。
冷静に物事を考えられているのかすら怪しいところだ。
保健室についた苗木は止血剤と包帯を使い、舞園にも手伝ってもらい治療する。
手を握ろうとするがうまく動かない。治癒とリハビリには時間がかかりそうだ。
「手伝ってくれてありがとね、舞園さん…」
「………なんで……なんで何も言わないんですか!気づいてたんですよね?私の嘘に……だから、邪魔しに来て……」
「そうだね。それと朝日奈さん達に舞園さんが厨房に入ったのを聞いたから、さっきみたいに手にワイヤーを巻いて鎖帷子の代わりにしたりして……」
まあ、締め付けが甘くて僅かに貫通させてしまったが、ワイヤーを巻かなかった場合に比べればマシだろう。
「なら、罵ってくださいよ、蔑んでくださいよ、詰ってくださいよ……」
「え?そういう趣味?」
「ふざけないでください!」
苗木が場を和ませようと冗談を言うと、舞園は怒声を上げる。
「私は、人を殺そうとした……その罪を、苗木君に被せようとして、なのに殺さなくてすんだって身勝手にも安心してる……許されて良いはずがないんですよ!」
「ボクは許すよ。罪を擦り付けられそうになっても、右手を貫かれても、ボクは許す。だって舞園さんはボクを殺さずに済んで安心したんでしょ?それって、本当は殺したくないって思ってたんでしょ?」
「そんなの…結果論です……私は一度は殺そうとした……」
心の底から人殺しを望むのは、ジェノサイダー翔や絶望達のような異常者だけだ。でも殺意を持つことは誰でも出来る。例えそれが追い詰められた結果出た苦し紛れの結論でも、それは確かな殺意だ。
「私は……許されちゃいけない………」
そして、そういう殺意を抱いた者が一線を越えられなかった後に残るのは、自己嫌悪だ。
このままじゃ自殺しかねない。あるいは一線を越える……殺人を犯した方がまだ安定したかもしれない。
「…………舞園さんは、夢が大切なんだね。人を殺しても良いって思えるほど」
「………はい」
それはある種の依存だ。
幼い頃からの夢で、汚い事も嫌な事もして手に入れた場所だから、舞園は自分の居場所に依存する。
「………舞園さん」
「苗木く………んむ!?」
苗木は唐突に、舞園の唇を奪う。
キスの経験はそれなりにある。うまいとは言えないが、現状苗木の最後のキスの相手である江ノ島の真似をして、相手を貪るように舌を入れる。
「……ぷは………落ち着いた?」
「……ふぇ?」
舞園は落ち着くどころか目をトロンととろけさせ、虚ろな目で苗木を見つめていた。
──やりすぎた。
苗木の後悔も一瞬、舞園は直ぐに正気に戻り、顔を赤くして口元を押さえる。それでも苗木から距離は取らない。
「……な、なな……な、何を……!」
「舞園さんはさ、やっぱり外に出たいの?」
「……それは……でも、そのせいで私は人を殺そうと…」
「……苦しい?辛い?」
「…そう、ですね……外に出れないことも、さっきのことを思い出しても、苦しくて辛いです」
「その苦しみから、一時だけ逃れる方法なら知ってるよ?」
苗木は左手で舞園の手首を握ると引き寄せ、彼女の耳元で囁く。
自己嫌悪に苛まれながら、頭のどこかで別の自分が脱出スイッチを使えと叫ぶ声を無視して、考えつく最低な方法で舞園から殺意を無くそうとする。
「……え?」
「怖いでしょ?さっきの事を思い出すのが。辛いでしょ?その手に残った感覚が……なら、忘れればいい。欲望に身を任せて、今だけは別の夢を見て……」
苗木は、毒を出す。
人の心を犯し、侵し、塗り替える毒を。
甘い、甘い……抗えぬ毒を………
「苗木…君………」
その毒を吸った舞園は、一切の抵抗をしなかった…………。
夜12時。苗木はれっきとした自室に戻り、ため息を吐く。
なぜよりにもよってあの手段を選んだ。血が足りなくて頭がうまく回らなかったとは言え、アレは無いだろう。
「うぷぷ。みーちゃったみーちゃった♪」
「……モノクマ……」
「苗木クンたらやる~!愛の力で殺意を削ぐ、まるで主人公だね!」
「依存対象を自分に変える奴が主人公なんて、随分胸糞悪そうなストーリーだね」
苗木の返しに、モノクマはゲラゲラ笑う。
「確かにね!でもこれで、舞園さんはもう二度と、苗木クンの命令がない限り殺しなんてしないだろうね!むしろ、苗木クンの言葉一つで自分の命すら捨てそうだよ!」
「………うるさいな、少し黙れよ」
「……ま、苗木クンのちょっとした絶望顔が見れたし、良しとしましょう。んじゃ、夜更かしも程々にね~」
モノクマはそう言って、唐突に消えた。
苗木は自分の体のにおいをかぐと、まだ彼女の甘い香りが残っているような気がした。
「……はは……最低だなボクは」
だが現状、脱出スイッチを使うわけにもいかない。
苗木は、今夜は悪夢を見るなと確信しながら眠りについた。