逸見、戦車道やめるってよ   作:暦手帳

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西住しほは責任がある

 あの子は、エリカは弱かった

 

 エリカが中学2年生の頃に、彼女は西住流の門を叩いた

 弱小であったエリカの中学の戦車道は、幾度となく負け続けていて、大会に出場しても1回戦すら突破することが出来ていなかった

 中学2年の大会をレギュラーとして出場したにも関わらず何の見せ場も無く敗北したことを、悔い改めようと比較的近場の戦車道流派であった西住流から技術を学ぶため門を叩いたらしい

 

 

 何処かの良家のお嬢様らしいエリカに当初はよくある金持ちの道楽か何かかで、戦車道を修めているのだと思っていた

 戦車道を修めていて西住流の名を録に知らない者だ、多少厳しい訓練や周囲との実力差を味わえば、こちらが特に何もしなくとも自分自身には無理だったのだと、諦めるだろうと、そう思った

 

 

 予想通り、エリカは未熟な己の実力に打ちひしがれる事となった

 自身の体力の無さに、知識の貧困さに、技術の未熟さに幾度と無く挫折を味わっていた

 何度も何度も、流派の先輩方や師範である私に叱咤され落ち込んでいたのを覚えている

 けれど、1度だってあの子は足を停めることは無かった

 

 叱咤されたミスは2度と行わないように

 先輩達や私の動作一つひとつをつぶさに観察して

 機材不良の確認、メンテナンス、修繕作業と言った凡そ誰もがやりたがらないような作業を率先して学ぶ

 そんなエリカの戦車道に対する真摯な姿勢に、私はエリカを良家のお嬢様による道楽でしかないと考えていた自身を恥じることとなった

 

 誰よりも真摯に、誰よりも強さを渇望する

 才能は…きっと無い、私の娘達はおろか他の西住流の生徒達にすら劣っているだろう

 けれど、私はこの子は大成すると、そう思った

 

 

 

 

 

 

 

 

「お母さん、話して。」

 

 何時に無く強い口調で私に詰め寄るのは、いつも周囲の顔色を窺う気の弱い次女のみほで

 

「…。」

 

 無言で私を見詰めるのは、みほ程自分の意見を出さない訳では無いが、自己主張というものが乏しい長女のまほ

 

 

 机を挟んで向かい合う私と娘達

 2年前にも同じ様な構図があったが、あの時とは異なり詰め寄られているのは私だった

 青白い顔をしているまほとは真逆に、鬼気迫るようなみほの様子に、この子達はこんな顔も出来たのだと少しだけ、悲しくなった

 

「お母さんっ!」

「みほ、…落ち着け。」

「っ…。」

 

 何時まで経っても口を開こうとしない私に冷静さを欠いたみほが立ち上がり掛けたが、まほがみほの肩口を掴んだ

 一瞬、みほは今にも泣き出しそうに表情を歪ませたが渋々床に腰を落ち着けて顔を俯かせる

 そんな妹の様子を見届けてからまほは改めて私に向き直る

 

「エリカから話は聞きました。…全てを聞けた訳ではありません。けれど、追い詰められている事、何かを為そうとしている事は聞き出す事が出来ました。これらは私の責任であり、…みほにも一端の責任がある事は否めません。」

「…そうね。」

「私にも、みほにも全てを知る義務が、権利が、ある筈です。」

 

 ゆっくりと両目を閉じる

 エリカとの会話を頭の中で反芻させる

 みほとまほさんには言わないで下さい、最後にそう言ったエリカとの約束と、目の前にいる娘達の懇願を秤に掛けようとして、そんな必要も無いのだと理解する

 

 私は結局、責任を果たせないのだ

 

「…良いでしょう、私とエリカが何を話したか教えます。ですが、その前に2人に聞いて欲しい事があります。」

 

 怪訝な様子を隠そうともしない2人の娘に対して、自分の思い違いを、今まで気付こうともしなかった私の罪を告白する

 

「私は貴方達を、個人として見ていなかった。」

 

 呟くような私の言葉

 それは懺悔か、ただの自己満足か分からなかった

 けれど、娘達と向かい合うべき時はとっくに来ていた筈なのだ

 だからこれは、私が着けなければいけないけじめであり、責任であった

 

「私の娘、西住流の娘、西住流の名を継ぐ者、私自身が気付かぬ内に貴方達をそんな色眼鏡越しにしか見えなくなっていた。」

「でも、それでも良いと思っていた。私もそうやって育てられてきたから、そう言うものだなんて考えていた。」

 

 酷い話だと思わない?

 そう言って自嘲するように笑った私を唖然と見詰める娘達に、さらに笑いが溢れた

 

「だから、西住流に沿わない行動は許容出来なかったし、西住流に泥を塗るような行為は貴方達自身の首を絞めるものだと信じて疑わなかった。」

「私の行為は、貴方達への愛情の裏返しなんだって、今は分からなくても、いつか分かる様になるんだって思い込んでいた。それが貴方達の為になるんだって、思い違いをしていたの。」

「――なんてバカな話。貴方達は貴方達でしかなくて。まほは、まほで。みほは、みほ。西住なんて関係無い、感情を持った人間でしかないって、漸く気が付いた。」

 

 私の独白に娘達は何を思っているだろう

 正直、少し恐い

 色んな面で私の考えだけを押し付けて、これが愛情なのだと自分の中だけで満足していた

 

 西住流も娘も大切だったから、どちらも守りたくて

 西住流さえ守れば、それを継ぐ娘も同時に守れると勘違いして

 私自身で娘達を傷付けていたのに気付きもしなかった

 どうしようもない母親だ、私は

 

「貴方達を知ろうとすらしてなかった事がよく分かった。」

 

 くしゃりと、自分の髪を掴んだ

 黒い髪だ、どちらと言えばまほに似ている

 みほの茶色の髪は常夫さんにそっくりだ

 

「まほは、意外と天然で、自己主張が乏しいと思っていたけどよく見れば直ぐに顔に出る。」

「みほは、気弱なくせに行動力があって、思い込みが激しい所があって、変な所で頑固。」

「私とも、お母様とも違う。違ったんだってやっと分かった。」

 

 意地だ

 絶対に泣いてやらない

 潤み始めた瞳に、唇を強く噛み締めて渇を入れる

 

 初めて娘に向かって頭を下げた

 息を飲む音が聞こえる

 動揺が伝わってくる

 

「まほ、みほ。長い間貴方達を認められなくて、貴方達自身を見てあげられなくて、本当にごめんなさい…。」

 

 

 

 

 

 

 ある時、エリカが突然私を尋ねてきた

 その時のエリカは黒森峰戦車道の隊長で、全国大会直前であったから少しも時間を無駄にする暇は無い筈だったのだが遠目でも分かるような焦燥を帯びたエリカの姿に、ただならぬものを感じた私は直ぐにエリカを客間へ通した

 

 こうしてエリカと会うのは、大洗と黒森峰の決勝戦を見学に行った時以来で、1対1で話すのはエリカが学園艦に乗る前まで遡らなくてはならない

 ふと、様子が気になる時はあったが直接電話するような特別対応は家元としては出来ず、まほに様子を聞くしか出来なかったから、やつれきったエリカに驚きを隠せなかった

 

 焦燥と悲壮感と、それでも固い決意を秘めたエリカの瞳に体調を気遣おうとしていた私の言葉は紡ぐことが出来なかった

 

 エリカは正座したまま、ゆっくりと両手を着いて深々と頭を下げる

 

『本日は2つお願いがあって参りました。』

 

 温度を感じさせない機械的な声は、私の背筋に冷たい何かを感じさせて、頭を上げようとしないエリカに焦りすら覚えてしまう

 

『――私を、西住流から破門として頂きたいのです。』

 

 平静さは、保てたと思う

 何故、どうして、そんな降って沸いたような疑問は頭を過ったが、恐らくこれだろうと言う理由が既に思い当たっていて

 

『西住流では…みほに勝てないとでも言うのですか。』

『…、申し訳ありません、私の未熟な西住流ではあの子の対西住流とも言える戦術には太刀打ち出来ません。』

 

 折れたのか、そう思った

 不屈で、不抜で、直情的で、何度でも立ち上がったエリカが初めて吐いた弱気な言葉に少なくない失望を隠し切れなかった

 

 確かに言っている事は酷く合理的だ

 昨年、西住流の体現とも言える娘のまほが、エリカの言う対西住流のみほに敗北した

 私から見れば未だ荒削りな所はあるが、西住流として長年研鑽を積み、次期家元として充分な実力を持っていたまほで力及ばなかったのだ、西住流としても未熟なエリカでは到底みほに敵わないだろうと思っていた

 だが、それでも、届かぬだろうと思っていたものに愚直に手を伸ばし、時に手を届かせていたエリカならばと、結果届かなかったとしても挑戦していくだろうと確信して期待していたから、どうしても失望してしまう

 

 しかし、そんな私の思い違いは即座に打ち払われる事となった

 

『勝たなければ…ならないんですっ…。』

『エリカ…?』

『勝つしかないんです!』

 

 勢い良く顔を上げたエリカの表情は、私が勝手に想像していた悲痛なものとは異なり、覚悟を決めた決死の将のような表情をしていた

 

『プライドを、主義主張を、夢を捨ててでも私はあの子達を勝たせなければならないんです!』

 

 これまで歩んできた全てを捨てるとエリカは言った

 

『酷い中傷の中で、辞めてしまいたくなるような環境の中で、あの子達は私を信じて着いてきてくれた!私にはそれに報いる義務があるんです!』

 

 プライドも、主義主張も、夢も、エリカを信じて着いてきた隊員達の前では等しく無価値なものだと断言した

 

『私の非才さで、傲慢さで、身勝手さで誰かが傷付く事になるのはもう嫌なんですっ…。だから、だから、どうかお願いです…。』

 

 私を西住流から破門として下さい

 そう言って、エリカは再び頭を下げた

 

 思えばこれはエリカの誠実さの表れだったのかもしれない

 大会で自己判断をして、西住流を使わないという方法もエリカには取れた筈である

 

 合理的判断に基づいて

 状況を勘案した結果

 そんな言い分は作ろうと思えば幾らでも作れる筈で、自分を守るだけならば他にもやりようはあっただろう

 

 あまりに欲深い

 あろうことかエリカは、西住流すらも守ろうとしているように思えた

 

『…本当に良いのですか?それはつまり、もう戻れないと言う事なのですよ。』

『覚悟の上です。』

 

 返答は淀みない

 

『私は高校を以て戦車道を辞めます。』

 

 分かっていた

 エリカの様子を見て、根拠も無いのにこうなるだろうと言う事は頭の何処かで確信していたから、その言葉をすんなりと受け入れられてしまった

 

 だから、聞きたいのは何故ではなく――

 

『――何時からですか?』

『…。』

 

 何時から、それを決めていたのかをだ

 

 ここへ来て初めてエリカが揺らいだ

 聞かれたくなかった事を聞かれたように長い沈黙を作り、観念したように深い息を吐いた

 

『…大洗に負けた後からです…。』

『つまり、みほに負けた時からですね?』

『…みほに負けたから、初心者の集まりの大洗に負けたから、それらの理由が一切無いとは言い切れません。けれど、根本は私の我儘です。辞めたくなったから辞める、それだけです。』

『あの子と貴方の関係は、どうするのです。』

『これまで通りです。元チームメイトで、倒すべき強豪校の隊長でしかありません。』

『…そうですか。』

 

 一抹の罪悪感を感じる

 みほが黒森峰を去る要因となったものの1つには、私からの叱責も含まれていて、間接的にみほとエリカの関係を壊したのも、エリカをここまで追い詰めたのも私の筈だからだ

 

 けれど、私のした行為は決して間違ったものではなかったと今でも確信している

 私がしたのは、代々受け継いできた西住流を守る行為で、結果的にはあの子を守る行為であったから、家元としても母親としても正しい判断だった筈で

 だから、謝罪は絶対に口にしない

 

『…貴方の言い分は分かりました。…願いが2つあると言いましたね。もう1つの内容は何ですか。』

 

 ゆっくりと顔を上げたエリカは、さっきまでの覚悟を決めた表情とはうって代わり、何処か申し訳なさそうに視線をさ迷わせ、言葉を選ぶように、何度か口を開閉させる

 

『…私の最大の敵は黒森峰の環境、…いえ、風潮です。』

 

 突然話始めたそんな突拍子のない話に、肩透かしを食らってしまう

 けれど、それを語るエリカの瞳は真剣そのもので、私は何も言わずに先を促した

 

『勝利至上主義であり、厳格さと徹底した上下関係を併せ持つ今の黒森峰に文句はありません。けれど、敗北の結果を誰かに押し付ける風潮、そして、仲間であるはずの黒森峰の隊員同士と競い合うだけでなく、蹴落とすような結束力の無さを打倒していきたいのです。』

 

 それが、エリカの戦車道に陰が差した原点で、エリカが最も憎悪するものであった

 だが、エリカが語るそれは夢物語にも等しい話で、どうやったって、果たす事の出来ない空想に思えた

 

『貴方の言っている事は分かります。けれど、貴方個人でも、西住流でも、出来ない事と言うものはあります。貴方が私に何を願おうとも、その様な夢物語は――。』

『もう準備は、出来ているんです…。』

『――え?』

 

 銃に煙を消せないように

 戦車に霧が払えないように

 見えもしない、触れられもしない、そんなものを打倒することは月に手を伸ばすような行為だと思ったから、エリカのそんな言葉が理解出来なかった

 

『私達黒森峰の結束は、今までに無い程強く固く、お互いがお互いを信頼し許し合えるまでになりました。』

『練習試合をすれば、全力で相手を打ち倒そうとします。訓練をすれば、誰よりも強く巧くなろうと技術を盗み合います。』

『負けた原因は何なのか、どうすれば原因を無くせるのか、話し合いはしますが決して責任を追及しようとはしません。それは強くなる事に必要ない事だからです。』

『彼女達は、誰もが思い合い、競い合い、救い合うことが出来る――。』

 

『――私の誇りです。』

 

 穏やかな顔で笑顔を浮かべたエリカは、心底誇らしげにそんな事を言って

 私は、そんなエリカを見て、胸が締め付けられるような苦しさと共に脳裏に娘達の笑顔が過った

 

 エリカはそんな笑顔を1度強く目を瞑って打ち消すと重々しく口を開く

 

『けれど、そんな黒森峰の環境を壊そうとするものがあります。』

『それは、過去の栄光にすがるOGの方々であったり、面白可笑しく記事を作る編集者の方々だったり、自分は録に関わっていないのに黒森峰戦車道の強さに依存する教師であったり。』

 

 だから、それらを変えるためには

 そう繋げて、胸にあった重いものを吐き出すようにもう1度だけ深く息を吐いた

 

 

『…もう1つの願いは、黒森峰の敗北を…。この3年間の敗北を、全て、私に被せて欲しいのです。』

 

 この子は何を言っているのだろうか

 息を止めて凝視する私を気にもせず、エリカは話を続ける

 

『雨降って地固まると言います。水瀬達は、あの子達は強いです。私が抜けた所であの子達の結束は増すことはあれど、減る事は無い。』

『あのみほを責めた雑誌の編集部は既に私を叩こうと狙っています。そういう風に仕向けました。…だから、噂程度でもきっと私の悪評なら飛び付いて雑誌に掲載するでしょう。』

『そうして、雑誌に掲載されて、叩かれれば、後は私が戦車道を辞めるだけ。』

『雑誌が叩いた学生がそれに耐えきれなくなって戦車道を辞めた。仮にも全国大会を圧勝で終わらせた黒森峰の隊長がです。そうすれば、その雑誌はきっと叩かれる側に回る筈です、信用も地に落ちる筈です。そして、黒森峰の過去の敗北を取り上げる事はタブーとなります。』

『詳しい過程は関係ありません。結果として被害者と加害者を作り出せれば、黒森峰戦車道への対応は繊細なものとなります。』

 

 それは冷徹な策略だった

 1を切り捨て99を救うようなそんな話

 

 その策がもし本当に成るのであれば、エリカの言う黒森峰の悪しき風潮は改善へ向かうだろうし、なにより、まほとみほの黒森峰時代の風評被害が、限り無く減少することも想像に難しくない

 エリカ1人の犠牲でその他の事は上手く回る

 

 道徳的にも、人道的にも止めるべき事柄なのは明白で

 普段の私であればエリカの頬を張って、ふざけたことを言うなと激昂したかもしれない

 

 でもそれは、西住流の利にさえならなければの話で

 今までも、そしてこれからも家元であろうとする私はそんな犠牲を許容する

 これは正しい事なんだと自分に言い聞かせながら

 

『――分かりました。信憑性もない噂程度で良いならその人達の耳に入るよう図りましょう。』

『…ありがとうございます。』

 

 気持ちの悪い違和感が胸に残る

 嫌な感覚だ、妙なズレを感じてしまう

 整合性が取れていないような、左右対称でないような、そんな気持ちの悪さ

 儚げに笑うエリカを見て、間違いなのではないかと掠めた考えを見ないようにしながら

 

『すいません、突然お邪魔して色々お手数をお掛けします。その上、身勝手な私の願いを聞き届けてくれてありがとうございました。』

『…いえ、あくまでも西住流にとって利になると判断したからに過ぎません。』

『…そうですね、そうなんですよね。』

 

 一瞬の逡巡

 

 エリカは懐から見覚えのある小さなぬいぐるみを取り出す

 それは人気の無い熊のキャラクターが描かれた子供用のぬいぐるみで、私が初めてみほにプレゼントとして渡したものだった

 

 丁寧に使われていたのだろう、糸の解れ等が目につくけれど、私がみほに渡してから10年以上経つとは思えない程に綺麗な状態だ

 

 娘へのプレゼントなんて中々しなかったから、今時の子供が喜びそうなものが分からなくて、散々悩んだ挙げ句選んだのが包帯だらけの熊のぬいぐるみ

 まるで人気のなかったキャラクターだったらしい

 …そう言えば、これを渡した時のみほの喜び様には驚いたんだった

 

『みほのものです。しほさんに初めて貰ったプレゼントだと何時も大切そうに持っていました。』

『――。』

『今は家族の間に距離が出来てしまっているけど、何時か歩み寄れる時が来るんだと、微笑んでいました。』

 

 これは独り言です、と思ってもいないだろう事を口にする

 

『しほさんはきっと正しい事をしてきました。』

『家元として、西住流後継者を育てる者として、正しい事をしてきました。』

『でも、その正しいだけの行為は、しほさんを幸せにしましたか?』

 

 独り言と言ったから返答を求めたものでは無いのだろう、返す言葉が見つからない私を気にした様子もない

 けれど、エリカのそんな質問は私の中にあった気持ちの悪い違和感を大きくして、より色濃く、より深く、胸中に染み付いていく

 

 西住流を、娘達の将来を、守ろうとする内に何かが見えなくなっていった

 長らく娘の笑顔を見ていなかった気がする

 娘達と話をすることも少なくなっていた気がする

 

 まほとの関係が家元とその後継者でしかなくなって

 みほとの関係が疎遠になっていて

 こうして、エリカは私の下を去ろうとしている

 

 これが、こんなものが…

 

『しほさん、これが貴方の望んだ結末なんですか?』

 

 そこまで言われて、漸く違和感の正体に気が付いた

 

 願っていた未来への行為だった筈が、行為自体に正しさを求めていた

 西住流を守るという正しい行為をすれば、同時に娘達は守られる筈だなんて考えて、正しい行為をする事だけに必死になっていた

 そんな盲信の結末が今の現状で

 私がしてきた西住流を守るという行為はこんな結末しか産み出さなかったのだ

 

『私は…しほさんが好きです。中学生の頃から才能の無かった私を見捨てる事なく、なんとか一人前の戦車乗りにしようと教え続けてくれたしほさんには本当に感謝しているんです。』

 

 でも、そう言葉を繋げるとエリカは私を憎々しげに見詰める

 続けられる言葉は、なんとなく分かった

 

『私は、西住流の為なら自分自身さえも平気で傷付けるしほさんが嫌いなんです。』

 

 長い間、覚悟していた筈のその言葉は、想像していたよりもずっと重くて、ずっと痛かった

 

『――貴方、自分が何を言っているか分かっているの?』

 

 違う

 こんなことを言いたい訳じゃない

 謝らなければいけない筈なのに、私が悪かったんだって分かってる筈なのに

 私の培ってきたプライドが、立場が、私の態度を頑ななものとする

 

 勢い良く立ち上がり、怒気を露にして睥睨する

 声色は嘗て無い程低く威圧的で、娘達にさえ出したことの無い冷たいものだった

 

 西住流の家元として、様々な人達と接してきた

 一般的な善良な人達も、1つの組織を束ねる傑物も、凡そ真っ当では無いような仕事をした人達も

 話し合い、意見を対立させ、時にはぶつかり合った

 

 そんな私の怒気を浴びて、平然としていられる人間はそう居ない筈なのに

 

『言った筈です――』

 

 エリカは、真正面から私を睨み返す

 

『――覚悟は出来ていると。』

 

 暗鬱と、爛々と、青色の瞳を輝かせるエリカから発せられる威圧は今まで相対してきた誰よりも重く鋭い

 

『しほさんは、多くの人が正しいと思う道を選択して来たんでしょう。西住流を守るだけならそれは確かに最良の方法であったのでしょう。』

 

 最初に西住流を守るためだからと考えたのは何時だろう

 確かあれは西住流の門下生同士で練習試合をした時だ

 娘達も交えたその試合途中に、みほが戦車の前に迷い混んできた子猫を助けるために自身が乗る戦車を停止させた事に対して、叱咤した

 

 あのままだと子猫を轢いていたからと、子猫を抱えて項垂れるみほに、西住流がどんなものであるかを厳しく言い聞かせた

 

 生き物の命と練習試合、どちらが道徳的に重いか何て考えるまでもない事の筈なのに

 これも、西住流をひいてはみほを守る為なのだと、胸が痛むのを無視して自分に言い聞かせた

 

 それから、ズルズルと同じように

 西住流を守るためだ、娘達を守るためだ、その為なら私は娘達に嫌われても良い、なんて独り善がりを拗らせていった

 

 徐々に激しさを増していく、娘達に対する私の叱責に誰も何も言おうとしなかった

 

 それは、…そうだろう

 私のしている事は筋が通っていない事は無かったから

 間違ってはいなかった事だったから

 

 

 だからこそ

 

 

『だから、私は何度でも言いましょう。しほさん、貴方は間違っていた。』

 

――お前は間違っている

 

 正面切ってそう言われたのは何時以来なのだろう

 すとん、とずっとつっかえていた何かが落ちた気がした

 

『今のこの結果が最良であったなんて、私は認めません。あの経験全てが必要であったなんて、絶対に認めません。』

 

 みほが去った

 まほが苦悩した

 隊員達が絶望した

 それらを絶対に必要無かったものだとエリカは言う

 

『だから、しほさん。貴方は間違えていたんです。』

 

 エリカの言っている事はただの結果論だ

 こんな結果になったから、それを引き起こした行動は間違えだった

 内情をまるで知りもしない癖に批判ばかりするようなそんな手法

 

 それなのに、どうしてこんなにも胸に響くのだろう

 

 

 

 ああ、そうなのか

 そう納得してしまう

 

 私はずっとそれを言って欲しかったんだ

 間違ってるんだよって

 それらはいけない事なんだって

 

 私自身が分からなくなってしまったそんな事を

 きっと誰かに肯定して欲しかったんだ

 

 

 

『もし、しほさんの今が幸せでないなら、このまま同じ事を続けていても報われる事は絶対にありません。』

『エリカ…私は…。』

『しほさん。貴方はまだ取り返しがつく筈です。取り戻す事が出来る筈です。』

 

 幸せを目指して良いのだろうか

 今更私が家族の温もりを求めて、良いのだろうか

 

 だって、私は娘達に酷い仕打ちをして来たではないか

 常夫さんに西住流については口を出すなと突っぱねて来たではないか

 

 散々自分勝手に、思うままに、振る舞ってきた私が

 今更、そんなことを――

 

『本当にっ…!欲しい未来が在るのならっ!』

 

 私の迷いを全て理解しているかのように

 これまでの積み重ねに流されそうになった私に、エリカは悲痛な叫びをぶつける

 

『外面も、体裁も、整合性だって、気にしちゃいけないんです!』

 

 それは、忠告で、告白で、懺悔で、後悔で

 様々な色を孕んだその言葉は、苦しくなるくらいの実感が含まれていて

 

『身勝手でも、我儘でも、本当に大切なものは離しちゃだめなんです…。』

 

 ぎゅっ、とぬいぐるみに力を込める

 エリカの手元にあったぬいぐるみは、今も変わらずそこにあった

 

 きっと、それだけが今のエリカに残された思い出で

 もう取り戻すことが出来ない、有り得たかもしれない未来の残骸だった

 

『だから、もう…良いじゃないですか。しほさんが思っているより、まほさんも、みほも、ずっと強いから。その強さを認めて…良いじゃないですか。』

 

 エリカの言葉は優しくなんて無い

 だからこそ、深く深く凝り固まった思考の芯まで届かせて

 まるで心でも見透かされたような言葉の数々は、私の心の柔らかい所に突き刺さり、硬い所を解きほぐしていく

 

 

 エリカが立ち上がる

 みほとあまり変わらない筈のその身長は、やけに大きく感じられて、肉薄してきたエリカに思わず一歩、後退ってしまう

 

 そんな私の情けない姿を目の当たりにしても、エリカはまるで意に介さない

 私の右手を逃がさないように掴むと、その手を軽く引っ張って、エリカのもう片方の手に持たれていたぬいぐるみを押し付けるように握らさせられた

 

『それは、みほの物です。しほさんから渡してあげて下さい。』

 

 …難しい事を言う

 

 未だ迷いを抱える私を見抜いたのか、娘に会う口実を残そうとするエリカは抜け目無い

 悪戯っぽい笑顔を浮かべたエリカの手の温かさに涙が出そうになる

 ぬいぐるみを残して離れていくエリカの体温に、寂しさを感じて、ついエリカの手を目が追ってしまう

 

『じゃあ、私はもう行きます。』

 

 笑顔を最後に後ろ姿を向けたエリカは、もうこの家に訪れる事はないだろう

 それでも、そんな事を微塵も感じさせないエリカの振る舞いは、まるでまた明日もここへ訪れるのではないかなんて思わせる

 それが錯覚だなんて、火を見るより明らかな癖に

 

 

 このままエリカを行かせるのは正しい事なのだろうか

 エリカが去っていくのを許容するのは、私が望む未来なのだろうか

 

 そんなこと、ある筈がなくて

 本当に欲しい未来が在るのなら、外面も、体裁も、整合性も、気にしてはいけないなら先程の口約束など守るべきでは無いのだと、分かっていたから

 

 エリカを引き止めようと体を動かそうとして

 

 

『今日の事は、まほさんとみほには言わないで下さい。』

 

 それに、被せるように発せられたエリカの言葉に動きを止めることとなった

 

『これから、私にとって彼女達は越えるべき壁でしかありません。』

 

 敵でしかないと切り捨てる

 

『無慈悲に、私はみほを、大洗を叩き潰します。』

 

 もう戻れないとでも言うように

 

『それで漸く、私は前に進めるんです。』

 

 止まってしまった何かが、きっとまた動けるように

 

 もう振り向くことの無いエリカの後ろ姿を、結局私は引き止める事が出来なかった

 

 

 それから

 …それから―――

 

 

 

 

 

「貴方達とこうして向かい合う事を決断できないまま、ズルズルと時間ばかり過ぎて、結局は貴方達が今日ここに来るまで何も出来なかった。」

 

 どうすれば良いのか、分からなかった

 今まで信じていたものが間違っていたなら、どうすれば正しいのかが分からなくなって

 

 迷って

 立ち止まって

 無為に時間ばかりを浪費して

 

 そうやって、結局自分から動く事が出来ずにここまで来てしまった

 

 自分がここまで弱かったなんて知らなかった

 なんて、不甲斐ない

 

「これが、私とエリカの話した全てで、私が貴方達に言わなくてはならない事。」

「……。」

「エリカ…さん…。」

 

 まほは瞼を閉ざして天を仰ぎ、身動ぎ1つせず

 みほは唇を噛み締め、震える体を隠そうともせず顔を俯かせる

 

「私…、エリカさんに言ったことがあった…。黒森峰の雰囲気が恐いって、お母さんとお姉ちゃんと、昔みたいな関係に戻りたいって…。」

「…みほ。」

「全部…私のせいなんだね…。」

「――。」

 

 ぎゅうっ、とエリカから預かって漸く返すことのできたぬいぐるみを、みほは強く両腕で抱き締める

 肩を震わせるみほは何時に無く小さくて、壊れてしまいそうだった

 

「これが…お前の言う終わりか、エリカ。」

 

 天を仰いだままのまほがそう呟いた

 まほがエリカから何を聞いたのかは知らない

 だが、思わず溢れたそんな言葉には、どうしようもない激情が籠められている

 

 

 そんな2人の焦燥とした姿を見ても、私は慰めの言葉など掛けることは出来ない

 エリカとの約束を全て果たした、エリカを引き止める事が出来なかった私が、娘達に言える慰めなどきっと存在しない

 …ああ、娘達にあの日の事を話したのは約束を破ったようなものか

 

 そう、私は何処までも、惨めで、自分勝手で、責任を果たすことが出来ない女だ

 

 

 

―――けれど、それは今日までの話だ

 

 

「まほ、貴方に今のエリカを引き戻す事は出来る?」

「…恐らく、いえ…私には、出来ません。」

「…それは、何故?」

「私は…、エリカを見ていませんでした。エリカ個人に目を向けず、きっと自分の都合の良いようにしかエリカを認識していなかった。…いえ、エリカだけじゃない、黒森峰の隊員達にも目を向けようとしなかった。…そうして、私は彼女達を裏切った。」

 

 くしゃりと顔を歪ませたまほの表情を、私は初めて見ることとなった

 

 ずっと気付けなかった事

 気付けなかったが故に、何も出来ず

 何も出来なかったが故に、取り返しが付かなくなった

 

 悲痛で、凄惨で、もの悲しい

 もうどうしようもない事

 

 だから、私はやらなくてはならない

 彼女達の母親として、やらなくてはならない

 

「まほ、確かに貴方はある意味で黒森峰の子達を裏切ったのでしょう。…けれど、裏切りだけを残した訳ではない、確かに残せたものがあった筈です。」

「…私は何も…、残すことが…。」

「それは、違います。」

 

 私は、知っている

 まほが、どうすれば隊長として効率的に隊員達の能力を向上させる事が出来るか考えていたのを

 それに着いてきていた隊員達が、全てが終わった後にまほに向けたのは負の感情ばかりでは無かった事を

 

「それが分からないのであれば、貴方が黒森峰の隊員達に掛けるべき言葉はありません。」

「っ…。」

 

 瞠目して私を見詰めるまほに軽く微笑み掛ける

 あとは自分で見付けるべき事柄だ

 

 

 私はまほに向けていた視線を切って、もう1人の娘へと向き直る

 

 もう1人の娘は、みほは、もうどうしようもない現実に打ちのめされてしまったように、ぬいぐるみを抱き締めたまま動こうとしない

 床を見詰める瞳には鬱屈とした感情が渦巻いて、蒼白となった顔色は血の気をまるで感じさせない

 

「みほ。」

「……。」

 

 返答は無い

 

 みほの脳内を駆け巡るのは、過去の光景か、あり得ぬ未来か

 もはや目の前の私達の事など、みほには見えていないだろう

 

「みほ。」

「……。」

 

 反応も無い

 

 悲しいだけの現実など見ない方が幸せなのだと言うように

 

 みほは、エリカを傷付けるエリカの願いを聞き入れた私を責めようともしない

 自身の間違いだけと向かい合って、自責の念でただひたすらに自分自身を傷付けていた

 あの時のように、また1人で悩んで苦しんで抱え込もうとしていた

 

 だが、それはもう許さない

 

「みほ!」

「…っ!」

 

 力一杯抱き締めた

 

 触れ合った肌はいつかの頃を思い出させて

 想像していたよりも大きかったみほの体は、私に娘の成長を実感させて

 エリカよりも温かい体温は私の胸の中心を温める

 

 怯えるように抵抗するみほを絶対に離さないように掻き抱いた

 

「…いい?よく聞きなさい。」

「お母…さん?」

「私はこの件でもう手出ししない。今更私が何をやってもエリカはもう揺らがない。」

「…私は…。」

「貴方だけなの、みほ。ここからエリカの気持ちを変えられるとしたら、貴方だけ…。」

 

 酷い親だ

 あろうことか私は、全てをみほに委ねようとしている

 

 みほが傷付くと分かっているのに、苦しむと分かっているのに私はみほにそれを選ばせる

 けれど、それ以外は、きっと悲しい結末しか産み出さないと分かっているから

 

「私はみほが何を選んでも全力でそれの後押しをする。」

 

 だから、そう言って口をつぐむ

 

 力一杯抱き締めていた腕を緩めてみほの顔を見る

 血の気が無かった頬は僅かに赤みが射し、淀んでいた瞳には、何時もの光が差し込んでいた

 もう、みほは前を向こうとしていた

 

 

 ああ、ほら、やっぱりこの子は私が思っているよりずっと強かった

 

「やりたいように、やりなさい。」

「お母さん…、お母さんっ…ありがとうっ。」

 

 

 

 

 

 

 エリカ、貴方はきっと怒るかもしれない

 こんなことは望んでいないと叫ぶかもしれない

 

 それは正当な怒りだ

 私はその怒りを幾らでも受け入れよう

 

 だけど、分かって欲しい

 

 貴方が歩んできたこの道程は、貴方にとって辛く苦しいものであったのかもしれないけれど

 その歩みに救われた人達は沢山居て

 色んなものを救い上げてきた、貴方の幸せを願う人が居るのだと、知って欲しい

 

 それだけが、今私に出来る事で

 みほの母親であり、貴方の師であった私が果たすべき責任だから

 


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