逸見、戦車道やめるってよ   作:暦手帳

9 / 9
だから、西住みほは届かない

 

 

――それは友達になれなかったあの人の話

 

 

 

 

 

 

『私が隊長で、貴方が副隊長ね。』

 

 

 したり顔でそんな事を言い始めたあの人に、憧れた

 

 私がお姉ちゃんに任された副隊長の任に、どうすれば良いか分からなくて、きっと酷く情けない顔をしていたのだろう

 あの人の、羨ましいくらい綺麗な髪を適当に纏めて、言い放ったその内容に、私は内心安心してしまったのを覚えている

 

 

『…なによ、妙な顔して。いや、やっぱり言わなくて良いわ。どうせ大した実力も無い奴が何を言っているんだとでも思っているんでしょう?』

 

 

 昨日の放課後の事だった

 突然皆の前でお姉ちゃんが私に副隊長を任せたいだなんて言い出した

 他の隊員の人達から向けられた視線が怖くて、私の不甲斐ない姿勢を馬鹿にしていた人達が恐ろしくて、いつも私を助けてくれるあの人を見ることが出来なかった

 

 

 人目を忍んで寮へ帰ると、部屋を暗くして布団を被った

 腕に抱いたボコのぬいぐるみは自分の弱さだけを感じさせ、勇気なんてちっともくれなくて

 不安に押し潰されそうになる自分自身を抑えることが出来ない

 

 少しして静かに扉が開く音に、私は慌てて歯を食い縛って息を潜める

 みほ? だなんて小さな声で問い掛けてきたあの人の声色は恐る恐るといった感情を、そのまま形にしたかのような弱さがあって

 何の反応も見せない私の様子に、また静かに扉を閉めて部屋から出ていったのを覚えている

 

 

 

 いつも弱い私

 誰の期待にも応えられない私

 誰かの邪魔をする私

 

 いっそのこと、路傍の石ころにでもなれたらだなんて考えていた最中のその人の言葉は、不器用な優しさに溢れていた

 

 

『今に見てなさい。師範も驚くほど優秀な戦車乗りになって、この黒森峰を立派に支えるようになって見せるんだから。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る

 走って走って、走った

 

 この場所の何処かに彼女がいると分かっている

 私が探している事なんて、きっと気付きもせずに街中を散策しているだろう彼女を見付けようと、走りながら視線を周囲に向ける

 

 

――伝えなければならない事があった

 

 

 息が切れる

 足が痺れる

 心が軋む

 日課にしているジョギングでここまで疲れるなんて事、無かった

 

 周りに居た通行人は、驚いた様子で走り去る私を見る

 その事に、申し訳無いと言う感情が湧いたが、だからと言って走るのを止めるわけには行かなかった

 

 見付からなかったらどうしよう

 見付けてからどうすれば良い

 そんな私の心配は、何度も何度も頭を掠めた

 そんなもの、正確な答えなんて何れだけ考えても出てこなかったけれど、きっと私はこれから間違いを犯すのだろうと分かっていても、どうしても彼女に会わなければならなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

『…私が強い?まるでボコみたい?…ちょっと、笑えないわよその冗談。』

 

 

 冗談なんかじゃないよっ、と慌てて両手を振って否定する私に、あの人は半目で私を見詰めてきた

 

 いかに私が凄いと思っているのか、この機会に目一杯伝えてやろうと思って

 鼻息荒く身振り手振りで説明していると、茹で蛸のように顔を紅くしたあの人が必死の形相で私を押さえ込んでくる

 

 

『あっ、貴方っ、中々やるじゃない…。』

 

 

 激闘を繰り広げた後のような、そんな台詞を呟いて、あの人は肩で息をする

 この人はいつもそうだ、自分の事をあまりに過小評価している

 そろそろ自分が何れだけ周りに影響を与えているのか、知って欲しいと切実に思う

 

 

『…それより、ボコってまさか部屋に置いてるアイツの事じゃないでしょうね?』

 

 

 私が肯定すると、あの人は疲れたように肩を落とした

 

 何か不味いことを言ってしまったのかと不安になって、オロオロとし始めた私だったが、あの人の口元は少しだけ、嬉しそうに笑っているのが分かった

 

 

『…まあ、誉め言葉として受け取っておくわ。ありがとう。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、みほさん?」

 

 

 小さな、それも遊具なんて無い寂しげな公園を通り掛かった時に、ふと名前を呼ばれた

 

 慌ててそちらを見れば、そこにはボロボロと涙を流す梓ちゃんと、それを支えるウサギさんチームの面々

 

 

「梓ちゃん!?」

 

 

 思わぬ光景に頭が真っ白になる

 梓ちゃんが悩んでいたのは知っていた、けれど、どうしてこんな事になっているのだろうと訳も分からないまま、梓ちゃん達に駆け寄った

 

 

「み、みほさん…、私は…良いんです。」

 

 

 何かを言おうとする周りを制して、梓ちゃんは目元を拭い、じっと私を見詰めてくる

 

 今もなお涙を流しているとは思えない程、これまでに無い強さを持った視線を私に向ける梓ちゃんの姿はあの人の事を連想させる

 

 

「逸見さんを、探しているんですよね?」

「なっ、なんでその事を梓ちゃんが?」

 

 

 私のその言葉を聞くと、何故だか嬉しそうに梓ちゃんは笑う

 困惑した私の様子に気が付いたのか、梓ちゃんは泣き腫らした顔をろくに隠そうともせず、自分の後ろを指差した

 

 

「逸見さんはこの先に行きました。走って行けば直ぐ追い付くと思います。」

「梓ちゃんはっ。」

「私は、本当に大丈夫ですから。」

「っ…!ごめんね、ありがとう!」

 

 

 何が起きているかなんて分からない

 私達の事情なんて、知らないはずの梓ちゃんが私を急かす理由なんて思い付かない

 

 けれど、梓ちゃんの指差した方向へあの人が居るならば、私は行かなければならない

 

 

「…みほさん。」

 

 

 横を走り抜けようとした時に、梓ちゃんは静かに私の名前を呼ぶ

 

 

「私は、みほさんの元で戦車道をやれて楽しかったです。」

 

 

 思わず足を止める程の衝撃が、その言葉にはあった

 

 こちらを見ようとしないから、梓ちゃんの表情は分からない

 色んなものが込められたであろうその言葉で、私に何を伝えようとしているのか分からない

 

 でももう、梓ちゃんは歩き出してしまった

 足を止めたまま、掛ける言葉が見付からないままの私を置いて、梓ちゃんは皆と支え合いながら進んでいく

 

 その後ろ姿を見ているだけで、何故だか息が詰まるような苦しさと締め付けるような痛さに襲われた

 

 

 

 

 

 

 

 

『…ねえ、その逸見さんって言うの止めてくれない?』

 

 

 何の脈絡も無くあの人はそんなことを言い出した

 手元にあるアイスをつついていた私はあまりに唐突なその話に追い付けず、慌ててあの人へ目を向けたが、当の本人は適当な雑談の一部をするかのような態度で、こちらに見向きもしていなかった

 

 

『私は貴方の事、みほって呼んでるんだから、貴方もエリカって呼べば良いじゃない。』

 

 

 それは…、そうなのだけれども

 

 奥歯にものが挟まったような私の物言いに、あの人は短く嘆息して、別にどうでも良いけど、何て事をぼやく

 

 

『強制するようなものでもないし、貴方が…嫌って言うなら、このままでも良いわ。』

 

 

 嫌な訳じゃない

 嫌なんて事、ある訳がない

 

 私だって、名前で呼び合えるように成れればだなんて考える

 仲の良い友達のように、信頼し合える仲間のように、対等な関係のように、振る舞えたらとそう思う

 

 けれど…、私は、私に――

 

 

『――なんて顔してるのよ、馬鹿ね。』

 

 

 パチンッ、と小気味良い音を鳴らして、いつの間にか俯き気味になっていた私の額をあの人が叩いた

 痛っ、なんて、反射的に痛くもないのに口に出した私を悪戯っぽい笑顔を浮かべて眺めるあの人は、いつもと同じ

 

 ああ、まただ

 あの人のそんな行動で自分の心が安らいでいくのを感じながら、後悔に襲われる

 

 私はまた、この人に支えられる

 

 

『なんて事はない、私のただの気紛れよ。そんなことでくよくよ悩まれると、こっちが悪いことをした気分になるわ。』

 

 

 何時か、私はなれるだろうか

 

 …いいや必ず、なって見せる

 どれだけ大変でも、どれだけ険しい道程でも、必ず私はなって見せる

 

 だから――

 

 

『…でも、何時か呼んでくれれば…。』

 

 

 少しだけ、待っていて下さい

 いつの日か私は胸を張って、貴方の隣に立ちますから

 

 貴方を友達と自信を持って言えるように

 貴方をしっかりと支えられるように

 貴方と対等になれるように

 

 だから、だから、その時は――

 

 

 

 貴方の名前を呼ばせてください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「逸見さんっっ!!!」

 

 

 閑散とした通りの片隅で、私の声が木霊した

 梓ちゃんから指し示された方角に、ひたすら走り続け、漸く見付けたあの人の背中

 必死に、それこそ手を伸ばすかのような想いで吐き出した言葉は、望み通りあの人の元に届いて

 想像していたよりも、ずっとゆっくりとした歩調で歩いていたあの人は、私の声に動きを止めた

 

 

「――副隊長…、ああ、元、でしたね。」

 

 

 冷たい声で拒絶するように、彼女は何時かの日の言葉を、そのまま口にする

 

 振り返ることをしようともせず、顔だけを動かして横目で私を見る彼女の姿は、お姉ちゃんが言っていたようにやつれ切っていた

 

 

「…それで?これでも私は忙しい身の上だから、何もなければ――」

「逸見さん、私っ!」

 

 

 淡々と他人行儀な言葉を紡いでいた彼女の言葉を、それ以上聞きたくなくて、思わず遮るように声を発した

 

 けれど、そんな何も考えず口を開いても続く言葉なんて出てこなくて

 必死に思考を働かせて、何を伝えなければならないのか考えていたのに、いざ彼女を前したら何も考えられなくなってしまった

 

 

「――わ、私、逸見さんに言わなきゃいけない事があって、それで…。」

「……。」

「えっと、あの…、ごめんなさいって言いたくて…。」

 

 

 言葉がうまく纏まらない

 本当に伝えたい事を口に出せているのか分からない

 

 あまりの不甲斐なさに視界が滲んでくる

 何時もこうだ、どうしてもっと上手く出来ないのだろう

 もっと器用にこなせたら、きっとこんなに間違いばかりを犯さずに済んだのに、とそう思う

 

 私の様子をじっと見ていた彼女は深く溜め息を吐いた

 

 

「ああもう、とりあえず落ち着きなさい。息を整えて、頭を整理して、順番に言葉にしなさいよ。ちゃんと待ってるから。」

 

 

――ああ、この人は変わらないんだな

 

 彼女の優しさを肌で受けて、そう思った

 思ってしまった

 

 頑固で、不器用で、何時も不機嫌そう

 嫌なものは嫌だと言えて、人とぶつかり合うことも恐れない

 真面目で、ひたむきで、努力家で、それでいて、酷く優しくて

 そういう人なんだと、私は分かっていたじゃないか

 

 

「――逸見さん。」

 

 

 けれど、だから私は踏み出すと決めた

 

 

「私は、臆病者なんです。」

 

 

 そうだ、どうしようもない臆病者

 逃げて逃げて、逃げ続けた

 

 

「逸見さんとずっと友達になりたかった癖に、逸見さんは何度も私に手を差し伸べてくれたのに、その手を掴むことが出来なかった。」

「―――。」

 

 

 友達って、何なのだろう

 それは小さい頃から解決しなかった大きな疑問だった

 

 何処からが他人との境界で、何処からが友人と言える関係なのだろう

 そんなことばかりを考えていたら、自分の中で友達というものが酷く尊いものであると思うようになっていた

 

 もっと清くて

 もっと正しくて

 もっと気高くて

 もっと対等で

 

 きっとそんな素敵なものだと思っていた

 

 

「私は、逸見さんに助けられてばかりだったから。」

 

 

 友達になりたい人

 本気でこの人と、友達になりたいと思った

 

 不甲斐なくて、落ち着きもなくて、何も決断できない私の癖に、漫画の中から飛び出してきたような、どこまでも強い彼女の近くに居たいと思っていた

 不相応だと分かっていても、何時か隣に立てたらと願っていた

 

 

「ふと思っちゃったの。どうして私が逸見さんの近くにいるんだろうって。」

 

 

 同じクラスで近くの席、同じ部屋に住んでいる優しい彼女

 彼女に助けられるのは酷く心地好くて

 ふとしたことで彼女を頼って、事あるごとに彼女に甘えていた

 いつしか私が彼女に寄り掛かってしか居なかったのだと理解するのは、そう遅いことではなかった

 

 

「私は重荷なんじゃないかって、迷惑なんじゃないかって、勝手に不安になって卑屈になって、一人で悲しくなってた。」

 

 

 揺らぐことの無い彼女の背中

 私の手を引く彼女の温もりは暖かくて

 笑う彼女の姿は輝かしくて

 

 いつの間にか、彼女の姿が酷く遠いものに思えてしまった

 

 

「だから私は、戦車道だけは逸見さんの手を引いていたかったの。」

 

 

 あの雨の日の試合で失ってしまったのは、何だったのだろう

 きっとそれは、形の無い、触れる事のできない大切なもの

 今だって、あの試合に後悔なんて無いけれど、私は確かにそれを失った

 

 だからこそ、私は逃げ出したんだ

 

 

「私ね。本当は、あの試合が終わったあと逸見さんが私の元に来て、泣いていた私を抱き締めてくれた時、思ったんだ。」

 

 

 

 

「――ああ、ここには居られないって。」

 

 

 それは、唐突に生まれた残酷な考え

 

 私が居たら、きっとこの人は私を守ろうとし続けるんだと言う確信があった

 どれだけ自分が傷付こうとも、きっと構うことなく盾になろうとすると、理解していたから

 

 ここには居られないと思った

 彼女の傍に居てはいけないと思った

 

 きっと彼女は傷付くから

 きっと彼女は立ち上がるから

 きっと彼女は笑うから

 

 

「ふざけないでよっ…。」

 

 

 呻くように呟いた彼女は顔を伏せる

 

 小刻みに震える彼女の体は、内側で暴れまわる何かを必死に抑えているかのようで

 音が聞こえてきそうな程に噛み締めている歯は、今にも砕けてしまいそう

 

 でも、唐突に彼女はその震えを抑え込んで、俯いたまま口角を持ち上げた

 

 

「今更…、今更なのよ。そんなこと言ったって、私にそれがどう影響するって言うのよ…。」

「…うん。」

「嫌に慌ててると思ったら、どれだけ前の話をし始めるのよ。大方、まほさんやしほさんに何か吹き込まれたんだろうと思ってたけど。…その話下手さはそうじゃないみたいね。」

 

 

 私の考えていた事、悩んでいた事を、全て話しても、彼女はそんなことと言って一蹴する

 

 その通りだ

 私がしているのはただの過去の話で、これから先の事には何ら関わりの無いものでしかない

 そして、それは彼女に言われるまでもなく分かっていた事

 

 

「逸見さん…。」

 

 

 お母さんやお姉ちゃんと話してから、必死に言うべき事を考えた

 何を伝えなければならないか、伝えた上でどういうこれからを求めるのか、精一杯考えた

 

 何を言えば最良なのかなんて、どれだけ考えても出てこなかったけれど、どうしても伝えたいことはあった

 

 それは、考えるまでもないような事だった

 何年も前から言いたかったこと

 何時か言いたいと思っていて、私の弱さで、ずっとずっと言えなかったこと

 

 

 

 

 

「…私と友達になってください。」

 

 

 漸く口に出来たその言葉は想像していたよりもずっと簡単に、口から溢れた

 

 私の言葉を聞いて、くしゃりと、彼女は表情を歪める

 それは、怒っているようで、苦しんでいるようで

 

 

――今にも泣き出してしまいそうに見えた

 

 

 

「何を、言っているの。」

 

 

 溢れた言葉は解れて溶けた

 

 

「止めてよ…。ねえ、お願いだから…。」

 

 

 彼女は苦しそうに胸元を握り締める

 

 

「今更でしょう…?全部終わらせて、これでいいんだと納得して、綺麗に纏まったじゃない。」

 

 

 暗い

 ドロリとした底無し沼のような何かが溢れ出す

 

 

「私が、進んできた道程は、絶対に間違ってなんか無いっ…。」

 

 

 それはまるで悲鳴のよう

 吹き出し始めた彼女の感情は酷く攻撃的で、どこまでも悲しかった

 

 

「私達はもう終わりなのよっ…、これで終わり、それで良いでしょう!?貴方は新しい御友達と幸せに過ごせば良いじゃない!」

「私もこれからは過去に縛られないっ、あの時から動かなかった私の時間は今、漸く動き出したのよ!」

「縛らないでよ…、邪魔しないでよっ、夢なんて見させないでよっ!!」

 

 

 煌々と輝く双眸

 叩き付けられるような怒気

 血の気が引くほどに堆積された澱のような憎悪

 

 それらは紛れもない、私に向けた彼女の感情が形作ったものであり、私が取るべき責任の全てだった

 

 

 恐ろしい

 体が震えが抑えられない

 

 逃げ出したい

 何時かのように無責任に

 

 泣いて許しを乞いてしまいたい

 優しい彼女は、きっと許してくれるから

 

 でも――

 それらは絶対やりたくなかった

 

 

 

 

 

 

『ねえ、みほ、私ね。』

 

 

 それは、初めて聞いた彼女の弱音

 

 消灯時間が過ぎて少しして、彼女はポツポツと呟き始めた

 その時、彼女は私が起きているなんて、きっと思っていなかったのだろう

 普段からは想像も出来ない程、弱々しい声色は嫌に耳に残った

 

 

『本当は辛かったの。戦車道に憧れて、がむしゃらに努力してきたのに、まるで結果なんて出てくれなくて。理解してくれる友人も出来なくて。環境のせいにして、立場のせいにして、才能のせいにして。』

 

 

 不屈とばかり思っていた彼女のそんな話に、声も出ないほど衝撃を受けた

 だって私は彼女が諦めたところなんて、努力を止めたところなんて、少しだって見たことが無かったから

 

 

『本当は辞めようって思ってたの、本当よ?戦車道は自分に合わなかったんだって、昔に見た、戦車に乗る誰かも分からない姉妹の後ろ姿を追うのはもう止めようと思っていたの。』

 

 

 でも、と言って彼女は少しだけ間を置く

 

 

『そんな時に、貴方が現れた。』

 

 

 柔らかく呟かれた言葉は、じんわりと胸に染み込んで熱を持つ

 

 心底嬉しそうに話をする彼女に、無性に泣きたくなって

 けれど、返事をする勇気なんて湧いてこないまま、ただ耳を傾けた

 

 

『貴方という理解者が出来た。我儘な私に付き合ってくれる人が出来た。…それで私がどれだけ救われたか、きっと貴方は知らないと思うけど、確かに、貴方のおかげで私の今があるの。』

 

 

 

『――ありがとう、みほ。』

 

 

 

 

 

 

 

 

――気が付けば、一歩踏み込んでいた

 

 

 私の行動に、彼女は目を見開いた

 初めて向けられる彼女の怒りに、きっと怯えてろくに動けなくなるとでも思っていたのだろう

 

 本当は、今だって恐い

 一歩踏み込んだだけでも、桁外れに強まる圧力に尻込みしそうになる

 

 でも、私の感情に体は耳を傾けてくれなくて、もう一歩踏み込んだ私の姿は、きっと端から見たら滑稽なのかもしれない

 

 

「っ…、勝手に居なくなったのは貴方でしょう、それを私は納得した!それの何が気に入らないのよ!」

 

 

 そう、私が勝手に彼女の前から居なくなった

 私が選んだ事で、彼女と私の終わりだった

 

 言い訳のしようもない、後で何度でも謝ろう

 彼女が許してくれるまで、いいや、許してもらえなくても、謝り続けよう

 

 だから、その事は今気にする必要はない

 ここで引くのはあの時の繰り返しでしかないから

 

 

「私はもう戦車道なんかやらないっ、もう嫌なのよあんなものっ!私の事なんて無かったことにしなさいよ、大洗に居た2年間のようにっ!」

 

 

 2年間、私は彼女を忘れることなんて出来やしなかった

 

 大洗で出来た優しい友人達に囲まれて、皆と一緒に戦車道を頑張ってきて、そんな中でも頭の隅には彼女の姿があって

 いいや、そんな中にあったからこそ、彼女との関係がどうしてこうならなかったのだろうと、明瞭に映し出された

 

 

 寂しかった

 悲しかったし、彼女との関係を終わらせた自分自身を恨みもした

 けれど私が居ない方が、きっと黒森峰は良い方向へ進むと信じていたし、彼女がより良い生活を送れるだろうことに疑いなんて無かった

 

 きっと何でも出来る彼女なら

 きっと優しい彼女なら

 きっと諦めない彼女なら

 きっと強い彼女なら

 

 そうして私の期待通りに

 私の前に立ち塞がった彼女は

 私の目の前に居る彼女は

 

 

――傷だらけで、独り震えていた

 

 

 

「私を見ないでっ、そんな目で私を見ないでよっ…。貴方には、貴方だけには―――。」

 

 

 目と鼻の先

 手を伸ばせば届く距離

 長い長い、時間を掛けて、漸くここまで辿り着いた

 

 彼女が振り撒いていた感情の嵐は、いつの間にか霧散していて

 その代わり、何時かの夜に聞いた弱々しい声色が私の耳に届く

 

 近付いて、触れ合える距離まで詰めて、そうして見た彼女の姿は酷く痛々しい

 お気に入りだった銀色の髪は、もう見る影もない

 健康的で決め細やかな肌は、青白く痩せ細り枯れ木のよう

 

 そして――

 

 

 俯く彼女の両手を、私の両手で包み込む

 前に触れた時の、あの安心してしまうような暖かい体温は今は無く

 

 

――酷く冷たく凍えていた

 

 

 

「私ね、エリカさん。」

 

 

 声が震えてない自信はない

 それでも、目を見開いて凍り付いた彼女を、私はしっかりと見詰める

 

 

「大洗の皆と戦車道をやって来て、私だけの、私の戦車道を見付けられたよ。」

 

 

 誰かと一緒に歩む戦車道

 それは、私の中で変わることはない、強固で動くことの無い大きな芯

 大洗に行くことがなければ、永遠に得られなかったかも知れないような、偶然に偶然が重なって漸く見付けられた私だけの柱

 

 でもそれは、きっと大洗に行っただけじゃ得られなかったもの

 強い彼女の背中に憧れていなければ届かなかった奇跡のような宝物

 

 なにより――

 

 

『みほ。』

 

 

 近くに居なくても、彼女はそうやって私の背中を押してくれていたから

 

 

「それは、エリカさんが見せてくれたから、見付けられたんだよ?」

 

 

 気が付けば私は笑顔になっていた

 

 彼女との日々があったから、今がある

 何時か彼女に言われたあの言葉を、本当に言うべきなのは私なのだ

 

 両手に力を込める

 酷く冷たい彼女の体温を、少しでも暖められるように

 私が少しでも、彼女を安心させられるように

 

 

「私ね、エリカさんに救われたんだ。ずっとずっと救われてきた。」

 

 

 目の前の彼女が息を飲む

 

 何時かの焼き増しで、何より大切なあの時に、言えなかったこの言葉

 

 

「――ありがとう、エリカさん。」

 

 

 大粒の滴が彼女の頬を伝い落ちる

 

 彼女の泣き顔を見るのは、思えば初めてだった

 

 

「っ…。なんでよっ…、なんで…。」

 

 

 弱々しい力で、彼女は私を押し返してくる

 

 

「なんで、もっと早く言ってくれないのよっ…。なんでもっと早く私の名前を呼んでくれないのよっ。なんで…。」

 

 

 それはまるで、独り迷ってしまった子供のような小さな姿

 地団駄を踏むように、投げ付けられる言葉の数々は今まで1度だって、彼女に向けられたことはなかった

 

 

「貴方なんて…嫌いなのよ…。」

「…うん。」

 

 

 頬を伝って落ちる滴は、止まることなど知らないように、ポツポツと地面を濡らす

 

 

「貴方の勝手な優しさも弱さも、強さも頑固さも、嫌い…。」

 

 

 きっと彼女から見て、私はあまりに足りないものが多かった

 

 落ち着きが無くて、他人の顔を伺って、意気地もなくて、泣き虫で、優柔不断で、それでいて妙なところで頑固

 勝手に自分だけで完結して、彼女を置いていった私は何れだけ彼女の迷惑になったのだろう

 

 

「私は…、貴方が…。」

 

 

 だから、私は彼女に色んな部分で嫌われていて当然で

 彼女と別れたあの屋上で、決定的になった筈の私達の関係

 

 

「…それでも、私は貴方のことが、どうしても嫌いになれなかった。」

 

 

 けれど、続けられた彼女のその告白は、私が想像だにしていなかった言葉だった

 

 泣き顔を少しも隠さないまま、彼女は

自嘲するようにくしゃくしゃな顔で笑った

 

 

「…嘘よ、嘘、馬鹿みたい。貴方の事なんて嫌いになれるわけ無いじゃない。」

 

 

 なんで、なんて言葉は喉の奥から出てこない

 だって、そんな言葉は用意していなかった

 

 もっと私は彼女に責められるべきで、もっと彼女は怒りに身を任せるべきで、

だから、徹底的に感情をぶつけられる事を私は覚悟していたのに

 

 

「…私にとって貴方は、ずっと前から友達だったのよ。貴方がそんな風に考えているなんて、想像したこともなかった…。」

 

 

 それは――なんて、思い違いだろう

 

 

 勝手に壁を作っていたのは私だけで、私だけが悲観的に彼女を見ていた

 

 

「…白状する、私にとって貴方との日々は何よりも楽しい日常だった。」

 

 

 泣き腫らした目元を軽く拭って、彼女は瞼を閉ざした

 思い出すように、掬い出すように、大切なものを取り出すように、彼女は微笑みを浮かべる

 

 

「貴方との黒森峰での1年間は、閃光のように眩しくて、当然のように幸せで、まるでうたかたの夢のようで…。」

 

 

 過分なまでのそんな話

 

 それでも、私との日々が私が思っていたようなものではないと言われて

 不安に思っていたものを、そんなこと無いよって言ってもらえて

 私は盲目的に嬉しさを感じてしまっていた

 

 だから私は、それが残酷なまでに私の責任を示していることに、欠片も気が付かない

 

 

「…だからこそ私はっ、貴方と友達に、なりたくないっ…。」

 

 

 その言葉は、高揚していた私の体温を一気に冷やした

 全身の血を抜かれたと錯覚するほどの寒気に襲われる

 いつの間にか、彼女は微笑みを消していて、苦悶するかのように表情を歪ませ歯を食い縛っている

 

 重ねていた手が振り払われた

 あまりの強い力に体がよろめく

 辛うじて尻もちを着くことを逃れたが、それに安心する余裕なんて今の私には無くて

 掻き抱くように震える自分の体を抱き締めた彼女は、まるで凍えているようにも見えた

 

 

「私にとって、次なんて無いっ…。」

 

 

 それは、なんてことはない普通のこと、当然のことだった

 

 

「もう一度、作って行こうと思えるほど…私は強くなんて無いっ…。」

 

 

 どれだけ彼女が優しくても

 どれだけ彼女が完璧でも

 まるで空想から出てきたヒーローの様でも

 彼女は私が思っていたような、不屈のヒーローでもなければ、全てを許す聖人なんかでもない

 

 

「――痛いのよっ…、苦しいのっ…、後悔ばかりが私を押し潰すのよっ!」

「自分勝手な怒りばかり膨れ上がってっ!先行きの見えない不安ばかりが私を食い潰してっ!頭に浮かぶのは強烈な自己嫌悪ばかりっ!」

「もう…嫌よ。あんなに苦しいのは、…もう嫌…。」

 

 

 目の前で、私と変わらない背丈の少女が泣いていた

 その人は私にとって見知った人の筈なのに、その人のその姿は、まるで見覚えがなかった

 

 だから、私は届かない

 

 

「私は…、傷付くのが怖い…。何も恐れないで立ち上がり続ける事なんて…出来ない。」

 

 

「私は貴方のヒーローにはなれない。

 私は貴方の憧れにはなれない。

 もう私は、貴方の友達に…なれない。」

 

 

 

 

 

 ああ、本当は分かっていた筈じゃないか

 

 普通に苦しんで

 普通に泣いて

 普通に傷付いて

 普通に笑う

 私と同じ、感情を持った人間でしかないのだと、本当は私は分かっていた筈じゃないか

 

 

 勝手に期待したのは私だ

 勝手に壁を作ったのも私だ

 勝手に全てを終わらせたのも、私だった

 

 全部、私のせいだった

 

 

「…さようなら、みほ。」

 

 

 もう、何も届かない

 

 

「安心して…これは私が決めたこと、私だけの道だから。」

 

 

 伝えるべき言葉は、全て伝えた

 私の全てと、私達の全部

 

 分り合えた事もあった、届いたものもあっただろう

 それでも彼女が進むのは、私達が積み重ねたものの集大成

 

 止めるだけの言葉も、力も、権利も、勇気も、私には無かった

 

 

「…最後に名前を呼んでくれて、ありがとう。私、嬉しかったわ、…本当に嬉しかった。」

 

 

 体に力が入らない

 彼女の言葉に、反応することが出来ない

 俯いた視界では、彼女の表情なんて伺うことも出来なくて、コンクリートと彼女の爪先がほんの少し見えるだけ

 

 そして、辛うじて見えていた彼女の足も、向きを変えて私から離れていく

 

 

「…貴方のこれから紡いでいく戦車道、応援してるから、…貴方達が活躍することを、祈ってる。」

 

 

 それだけ言って、徐々に消えていく彼女の足音

 視界では、もう彼女の影を捉えることすら出来ない

 

 走馬灯のように頭の中を流れる景色は、いつも思い出していた美しい記憶とは掛け離れた、モノクロの景色

 

 

「エ、エリカさん…。」

『どうしたのよ、みほ。』

 

 

 モノクロの景色の中で、彼女は何時ものように、私のうわ言のような呼び掛けに応えた

 

 長い間言えなかった、彼女の名前

 一歩踏み出してしまえばなんてことはない、とても簡単な事だった

 けれど、そんな簡単な事で、景色の中の彼女は酷く嬉しそうに笑っていた

 

 

「私ね、エリカさん。わた…し、ひどいこと…した。」

『みほ?ちょっと、大丈夫?』

「わたし、エリカさんが、大好きだもん…。」

『―――。』

 

 

 モノクロの景色が動きを止める

 私のこの言葉を彼女にぶつけたことは、思えば無かった

 いいや、もしかすると自分でも分かっていなかった事かもしれない

 

 だから、その言葉を受け取った彼女の反応が想像出来ない

 

 

「…だいすき、なの。おいしいものを、食べに行って、お互いの、好きなものを語り合って…、笑いあって、いたいよ…。」

 

 

 友達って、なんだろう

 それは、小さな頃から解決していなかった筈の、そんなこと

 

 けれど、本当は答えなんて、とっくの昔に出ていた

 

 

 

 一緒に美味しいものを食べよう

 一緒に好きな事について語り明かそう

 一緒に色んな経験をして、最後に笑い合えたら最高だろう

 

 きっと、友達なんてそんなものなんだろう

 

 

「えりか…さん…、いかないでっ…。」

 

 

 ふらふらと、ようやく前に伸ばせた腕を目で追うように、酷くゆっくり顔を上げて

 

 

 そこには、いつもと同じように待っててくれる、不機嫌そうな彼女の姿が―――

 

 

 

 

―――もう、何処にも居なかった

 

 

 

 

 

 

 

「ぁ…、ぁぁ…ぁぁあっ。」

 

 

 ひどく静かな空間は、彼女の残火も感じさせない

 ここにはもう、私しか居なかった

 

 

「えりかさんっ、いやだっ…、やだよぉ!ごめんなさい…、ごめんなさいっ、いかないでっ!」

 

 

 悲鳴のような私の叫びに、応えるものは何処にもない

 彼女はもう、私の手を引くこともない

 

 

「ひとりでいかないでっ、わたしをひとりにしないでっ、いなくならないでっ!」

 

 

 やけに強い風が私に吹き付ける

 風で乱れた髪が、濡れた頬に張り付き視界を遮る

 

 ふらふらと、居なくなってしまった彼女を探す為に足を動かしたが、数歩進まぬ内に、足をとられて転倒した

 

 

「ぅぅ…、ぅぁあっ。」

 

 

 両手を使い、起き上がろうとしてもろくに力が入らず、何度も何度も転んでしまう

 

 

 どうして、起き上がるのがこんなに難しいのだろう

 どうして、前に進むのがこんなに難しいのだろう

 どうして、一緒に歩くのがこんなに難しいのだろう

 

 今までは、考えることも無かったそんな疑問が次々、浮かんでは消えていく

 

 

「めいわくかけないように頑張るから…、私がえりかさんの手をひくから…、私が…。」

 

 

 どうすれば良いのだろう

 

 だって、それらは彼女と一緒に居たときも、そうしようと努力していたものだったじゃないか

 だから、それらを努力しても以前と何も変わらなくて

 

 

 ほら、また振り出しに戻ってしまった

 

 

 

 

「――うあぁ、うああぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 

 

 見て見ぬふりをしてきた代償は、想像も出来ない程、あまりに大きく

 

 

 

 

 私は今度こそ、大切なものを失った

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。