オルニエールでのサイト独占計画に失敗したのは、ルイズだけではなかった。
「トリステインの華」もまた、ほぞをかむはめになった。
王宮における王の寝所とオルニエールの地下寝室の間は、瞬時に行き来できるマジックアイテムの鏡でつながれていることは体験済み。しかもこのことは、宰相、侍従長、王母たるマリアンヌ含め政府も王宮も誰もが知らない。だからこそのオルニエールでのサイト隔離だったのだ。
ところが、あれから何度、鏡の前に立ってもオルニエールとの通路は開かれない。
英雄王フィリップ三世が密会に使ったマジックアイテムだが、残念ながら祖父は孫娘にその取扱説明書を遺してはくれていなかった。
サイトと接吻を交わしたあの時のことを思い出すと、同じ時間に想いを持ち合う男女がトリスタニア、オルニエールの双方で鏡の前に立つことが魔法が発動する最低条件らしい。
「どうやって、サイトさんにこのことを連絡したらいいの」
ここしばらく、アンリエッタの悩みはこれに尽きた。
手紙を書くのは憚られた。こんなに早くサイトが当地の文字をマスターしているとは思っていなかったし、代読するのがあの堅物のエレオノールであれば、そのままマリアンヌやボルト侍従長らに「ご注進!」とばかりに報告されるかもしれない。ルイズに知られるかもしれないことも厄介だった。
一番は、アンリエッタがサイトに直接、告げることだが、オルニエールに送り出したシュバリエをすぐに呼び出すというのは外聞が悪かった。また、女王という立場上、軽々に臣下の領地に行幸するわけにはいかない。
(どうして、サイトさんから連絡してくれないの。私の伴侶になってくれると約束したではないですか)
言うまでもないが、サイトはまだそんな約束はしていない。
かくして、アンリエッタの憂鬱は深まり、それがなぜか「理由は知らねど『翳ある華』もまた、美しい」とトリスタニアで評判になるのであった。
もう一人の女王も煩悶を続けていた。
サイトが魔法学院ではなく、オルニエールで勉強させられている、との報告を外務省から受けた。
この時には、思わず「グッジョブ!」と、北にいるアンリエッタに向けてサムズアップしたものだが、魔法学院だろうが、トリスタニアだろうが、オルニエールだろうが、ガリア女王たる自分が理由もなく行ける場所ではない。
先の見舞いも、サイトが危篤と聞いたからこそ、リュティス内からの異論を無理矢理封じ込めたのだ。病人でもない異国の騎士をガリア女王がたびたび訪問することがあれば、誰が見ても逢い引きとしか映らない。
脳内に浮かんだ「逢い引き」との言葉に、うれしそうに頬を染めたシャルロットだが、さすがに今度ばかりは、ガリア政府全体の猛反対を抑え込む自信はない。
こんなことなら、エルバ島の離宮に蟄居している伯父に王冠を返そうか、とも一瞬、考えた。
前王ジョセフは、サイトとの一戦の後、虚無の魔法リコードによって弟シャルルが自分に持っていた思いを目の当たりにした。王位継承を、「おめでとう、兄さん」と祝福したその弟がその腹の中で抱えていた人間的な、余りに人間的な妬みやそねみ、劣等感を知ることで、ジョセフは悲しみや憐れみ、怒り、喜びなどの感情を取り戻したのである。
愚かな人間ぞろいの王宮の中で唯一、話が通じる相手、チェスでも対等に戦える最愛の弟の命を毒矢で奪ったことを悔い、苦しみ、嘆く伯父の姿を見て、シャルロットの復讐は果たされた。青髭まで涙と鼻水でぬらすジョセフを今さら手にかけることはできなかったのだ。
その伯父が涙ながらに「シャルルの娘、我が姪にせめて王冠を」と言った。なんであの時、拒まなかったのだろう。悔やんでも悔やみきれない。
「エレーヌ、将来を見据えて、打てる手は打っておくのが王者のチェスだよ」
玉座で考え込んでいるシャルロットに声をかけたのは副王の座にある従妹のイザベラである。
「あんたはそのサイトという騎士を愛している。そのサイトはトリステインのシュバリエ。だから、ガリア女王のあんたは苦しんでいる。なら、その前提条件を変えちまえばいいじゃないか」
まだ十代だが、イザベラの知力、観察力、洞察力は他を圧している。歴史上、賢王ぞろいと言われてきたガリア王家だが、その血筋を一番色濃く受け継いでいるのは、彼女かもしれなかった。魔法が苦手だが、それはかつてのルイズとよく似ていた。もしジョセフが死んだら、虚無の担い手はイザベラに発現し、シェフィールドに代わる新たなミョズニトニルンを彼女が呼び出す可能性はきわめて高かった。
王位をめぐって肉親が殺しあう事件は、ハルケギニアの歴史ではありふれたことだ。だが、ジョセフの王たる才能を知っていた彼女らの祖父が、彼が虚無の担い手であることも見抜いていてさえくれていたら……。それを公表したうえで王位につけてくれてさえいれば、その後のガリア王家の悲劇は避けられたのかもしれない。
真夏の空の色にも負けない、澄んだ青い髪をしている王家の若者はガリアでこの二人しか残っていなかった。イザベラは、今までのことを謝罪し、シャルロットを全力で支える、と誓った。シャルロットもすべてを水に流すことにした。不倶戴天の敵だった従姉だが、今は昔のように仲の良い姉妹に戻っている。
「幸か不幸か、くそ親父のおかげで、今のガリアには王家が没収した領主不在の地には事欠かない。『これまでの功績をかんがみ、ヒラガサイトには、これこれの領地を下付する』と承諾させちまえば、そいつはガリアの臣下だ。トリステインはシュバリエしか与えていない。ガリアがそれ以上の地位を与えることで、そのサイトをこちらに引っ張れる、ということさ」
青髪の女王の顔は、喜びで輝いた。
「姉さま、やっぱりあなたは賢い」
シャルロットはイザベラの広いおでこに感謝した。
「ただし、それは諸刃の剣でもあるからね」とおでこは続けた。
「トリステインもみすみす神の左手ガンダールフをこっちにくれるほど馬鹿じゃない。貧乏国だから領地は無理でも法衣貴族として公爵までは行かなくても、侯爵、伯爵クラスの爵位を与えるだろうねえ。その場合、サイトは一躍、アンリエッタの婿としての条件を満たすことになっちまう。二カ国に領地を有する高位貴族が出来上がるんだからね。考えようによっては、敵に塩を送ることにもなりかねないが、それでもいいのかい?」
しばし目をつぶって考え込んでいたシャルロットだが、目を見開いて言った。
「いい。それは、サイトが私の夫になる資格をも得たということになる」
ことわざにも「竜の巣穴に入らねば竜の仔は得られない」と言うではないか。
ガリアが投げかけたボールはこの後、トリステイン、ひいてはハルケギニアに大きな波乱を巻き起こす火だねになるのだった。