オルレアン公夫人だったブランシュは娘シャルロットの即位に伴い、夫が王位にはなかったことを考えれば異例ではあるが、太后陛下の敬称で呼ばれていた。しかし、元が控え目な性格であり、病み上がりということもあって公的な場面からは一切、距離を取っていた。娘にすべて表向きのことを任せるという意味では、トリステインの太后マリアンヌとよく似た立ち位置に徹していた。
そのブランシュが異国からの来客を諸手を挙げて大歓迎した。黒髪黒い瞳のサイトが絶望の淵にいたブランシュとシャルロット母子を救ってくれたことは、シャルロットから詳しく聞いていた。しかも、その時のシャルロットの話しぶりから、娘が恩人以上の思いをあの青年に抱いていることは明らかだった。なら、その青年が我が居宅を初めて訪れるのを盛大な歓待で迎え入れるのは、母親としての義務でもあった。
ただし、その熱烈歓迎ぶりがサイトを戸惑わせることにもなるのである。
広大すぎるヴェルサイテルの敷地では、こぢんまりしているように見えるプチ・トロワ。だが、当然オルニエールのサイトの館よりも広い。そのプチトロワで、ガリア王家と共に食卓を囲むのはまだいい。自分がガリアの賓客扱いということをイザベラの演説で聞いており、それはそれで納得する。だが、シャルロットとイザベラが朝食後、公務のためにヴェルサイテル宮殿に赴いた後、ブランシュの着せ替え人形にされるのはいささか承服しがたかった。
「ジュストコール(上衣)はもう少しウエストを絞った方が似合うかしら。刺繍は金の糸でね」
「トリコーン(三角帽)のフェルト生地はもっと厚い方がいいわね」
「やはり、靴のヒール、もう半サントだけ高くして」
サイトがプチトロワに宿泊した翌日から、ブランシュのターン。きっかけは、山火事消火からリュティスに戻り、このプチトロワで取った午餐の際に、サイトがオルニエールから鞄一個に入るだけの服しか持ってこなかったことを話したことだった。
「では、わたくしがサイト殿にプレゼントいたしましょう」と応じたのがブランシュだった。で、翌日からさまざまな業者が入れ替わり立ち替わりサイトの採寸に訪れ、今にいたっている。
いまだ家内制手工業の段階にとどまっているハルケギニアにとって、服飾はすべてがオーダーメイドである。ファッション界すべてをリードする王族にいたっては、服、帽子、靴、小物に至るまで、いずれも御用達のデザイナーにより、特選された素材を使って一流の職人が手間暇かけて作る。ブランシュがサイトの為に注文した支払い分だけで領地のオルニエールからの収入数年分に当たりそうなことを考えると、サイトは気が遠くなる思いだった。
「ありがたいのですが、さすがにもう結構です」と何度も鄭重な断りを入れているのだが、ブランシュは「サイト殿、あなたはそれだけの英雄なのです。男性は自身の価値に見合った服装をしなければなりませぬ。まして、貴族なら」とまるで聞く耳を持たない。(貴族と言ってもシュバリエなんですけど。しかも、それも決して自分で望んだ地位ではないのですが)と思っていても口には出せない。喜びと楽しみを張り付けたような笑顔で、嬉々としてデザイナーに注文をつけるブランシュの姿が口をつむらせるのだ。
ブランシュは、夫シャルルが元気だった頃を思い出す、家族3人で幸せだったあの頃を。シャルルの服を見立て、注文するのはブランシュの唯一といってもよい仕事だった。結婚前から傍流ながらガリア王族の一端を占めていた(青髪がその証拠だ)だけに、彼女の金銭には糸目が付いていない。およそ倹約とか始末とか我慢とかはまったく無縁。大貴族らしい、出費にはまことにおおらかな女性がブランシュだった。
それに、肩幅、胸幅が厚く、上半身が逆三角形になるハルケギニアの武骨な男と違い、人種の違いや年齢の違いだろうが、サイトはいかに鍛え上げようと全体にスリムなまま。中性的にも思えるそのスタイルがブランシュのファッションセンスを刺激していたのである。キリリと引き締まった体をいかに美しく見せるか、清潔感あふれる中にかわいらしさとたくましさをどう共存させるか。この仕事はエルフの飲み薬で正気を失っていた自身の時間を取り戻さんばかりに、ブランシュを夢中にさせていた。まあ、ありていにいえば、やはり、サイトは着せ替え人形なのである。
こんな日々が3日続き、注文した服が1ダースに達しそうになった日、久しぶりに女王、副王がサイトと晩餐を一緒にした。ブランシュが席を外した一瞬を見計らい、サイトが二人に「なんとかして」と泣きついた。
だが、 「「何が問題なの?」」。 青髪コンビはそろって首をかしげた。
なお、すでにイザベラとサイトは関係を修復している。
イザベラが素直に「サイト卿をこの館にお招きすることを家臣に納得させるため、あのような言葉を口にしてしまいました。サイト卿はまったく臭くはありません」と謝罪し、サイトもそれを受け入れたのである。あの朝、サイトはお付きの者に案内された風呂で、体を、髪を洗った。脱衣場に置いたパーカーやジーパン、下着類は侍女らが洗濯しに持ちさった。これら衣類は、「まず、わらわが検分する」と命令したイザベラの元にいったん持ち込まれ、侍女を下げた後、イザベラがこの衣類に顔を埋め、恍惚の表情を浮かべていたのは、女王シャルロットにさえ内緒。副王配下の数人しか知らない超機密事項である。
首をかしげる二人に、サイトはあらためて思い知らされた。良くも悪くもこの青髪コンビはハルケギニアで最も裕福なガリア王家のツートップであることを。しかも、妙齢の女性とあってファッションにお金をかけることに一筋の疑問も挟まない。同じ王族のお姫様でも、国家も王家も困窮に瀕しているトリステインのアンリエッタなら、少しはサイトに共感してもらえたかも知れないが……。
それでも、ブランシュが食卓に戻ってくるまでのわずかな間に、彼女の着せ替え人形になっていること、そして高価すぎる衣服の注文がいかに精神的な苦痛になっているかを簡潔に、断固として、そしてお願い口調でまくしたてた効果か、タバサが「分かった。母様には私から言ってあげる。貸し一つ」と返事をしてくれたのは幸いだった。
「母様、サイトはもう服も靴もいらないんだって」
「そんな! まだ10着ほどしか注文していないわ。招かれた宴や舞踏会、観劇で毎度毎度同じ服装で過ごすなんて、そんな恥ずかしいことサイト殿にはさせられない」
「叔母上、サイト卿の館は、そんなに広くはないみたいですよ。このプチトロワよりも小さいんですって。それにシュバリエはそんなに舞踏会には誘われないし」とイザベラが助け船を出してくれた。
「魔法学院でサイトはいつも青い上着とズボンで過ごしていた。服に興味ないのは事実」
「……そう、なら仕方がないわね。明日呼んでいる仕立屋は残念だけどキャンセルしましょう。でも、本当に、本当にそれでいいの? サイト殿」
やっと回ってきた出番にサイトは「ええ、お気持ちとともにもう十分頂戴しました。本当にありがとうございます」と頭を下げたのだった。
だが、サイトはさらに高価な外套が一枚追加される手はずになっていることを知る由もなかったのである。