大火接近でリュティスを離れるとしても、機密書類や有価物を置き去りにするわけにも行かず、トリステイン大使館は、総出で避難のための作業に大わらわだった。その最中に上空から聞こえてきたのが、「山火事消火、危機は去った」との連呼である。配下の者に確認させると、グリフォンに乗ったガリアの騎士によるものという。とするならば、ガリア政府の公式見解に違いない。狂王ジョセフならともかく、新女王を戴く今のガリア政府が、いくらなんでも多数の市民が焼死するかもしれない状況で嘘をつくとは考えられず、ひとまず危機は去ったと考えるべきだろう。しかし、軍、騎士団挙げての消火活動は機能していなかったはずである。豪雨が襲ったとも聞いていない。とすると、なぜあれほどの大火が収まったのか、少々不思議である。
トリステイン駐ガリア大使の伯爵ジャック・ド・メーテルリンクがそう考えながら、陽が落ちた後の大使館執務室で息抜きの蒸留酒を傾けていたとき、新たな情報が飛び込んできた。
山火事を消し止めたのは、この日リュティスに到着したばかりのシュバリエサイトその人という。
「メイジでもないはずの彼がどうやって?」
「どうして、ガリアに協力する?」
「そもそもなぜリュティスに現れた?」
疑問が次々に沸いてくるが、何はともあれ、彼の者の所在と状況を確認する必要があった。トリステイン国民保護と言うか、監視の役割も大使館には課せられている。まして、あの者は領地を持つシュバリエであり、アンリエッタ女王が創設した近衛隊・水精霊騎士隊の副隊長である。
もう夜は更けていたが、すぐにガリア政府に使いを出し、噂の真偽を確認させる。火を消し止めたのはシュバリエサイトその人であることは渋々認めた。他国の力を借りたとあってはガリアの面子にかかわるため、その対応は理解できなくもない。だが、そのサイトのその後の消息が分からない。賄賂をつかませて吐かせたところによると、サイトは消火後、森の中で行方不明となり、現場にいるシャルロット女王以下ガリアが全力で捜索しているという。
この報はメーテルリンクを慌てさせるのに十分であった。
サイトは単なるシュバリエでありながら、アンリエッタ女王陛下が衆目の中で伴侶にすると高らかに宣言したとも噂されている人物であり、その動向は、母国の将来を左右することにもなりかねない。
数カ月前に、そのサイトがトリスタニア王宮で伏せった際には、この地のガリアの女王がわざわざ見舞いに訪れた。その時のガリア外務省の右往左往に、当大使館もひとかたならず巻き込まれたのだが、今回は主客を逆にして当方が周章狼狽せねばならぬことは十分に起こりうる。とりあえず、本国外務省に至急便を出すのが賢明と言えた。
至急のフクロウ便は翌朝、もう一度出す必要に迫られた。サイトが無事に山中で見つかったのである。それ自体は慶事ではあるが、消火の際にけがをしており、リュティスで治療するという。問題は場所である。病院ではなく、ヴェルサイテル宮殿。しかも、宮殿内で最もヴェールに包まれたプチトロワということが判明したのである。外国人はもとより、ガリアの臣民が立ち入ることさえ難しい、王家の私的空間である。
「なぜにそこに?」
だが、今は疑問の解明より、トリスタニアに現状を報告することが何より優先された。彼の者をガリアが治療名目にプチトロワに囲い込んだとしたら、その決定はそこに住まうシャルロット女王か従姉妹で宰相兼務のイザベラ副王しか出せないはずだ。駐ガリア大使の自分ごときが引き渡しを求めたところで無視されれば良い方で、悪くすれば「ガリア王家に対し非礼である」として、更迭を祖国に求めてくる可能性さえある。はっきり言って手に余る。後は、両国のトップ同士でやりとりしてもらうしかない。
替って、トリスタニア王宮。
「行方不明とはどういうことです!」
第一報に接したアンリエッタは取り乱していた。すぐに軍のフネを出して自ら山火事現場で捜索に当たろうとする女王を宰相マザリーニ以下が必死に押しとどめた。
「いくら人命救助とは言え、事前折衝もなく、他国の災害現場に軍艦を派遣すれば外交問題、悪くすれば戦争状態になってもおかしくありませんぞ」
「友好親善を名目にしたレコンキスタどもの軍船がいきなり我が艦隊に砲撃を加え、タルブを焼き尽くしたのをよもやお忘れとはおっしゃりますまい。ガリアがわれらのフネを警戒するのは当然。もし戦闘になれば、非常識として非難されるのはトリステインですぞ」
あの時の窮状を例に出されれば、女王としては自らの発言を撤回するしかない。
「では、どうすればいいのです!」
「続報を待ちましょう。なんと言っても彼の者はアルビオンで7万の敵を一人で足止めしたつわもの。これまでも数々の難関を切り抜けてきた男です。必ずや無事に見つかります」
待ちに待った第2報が届いたのは半日後。だが、内容はアンリエッタをさらに憤らせるものだった。
「あのちっちゃいのは何を考えてるの!」
隣国の王を「ちっちゃいの」呼ばわりはどうかと思うが、トリステインの騎士隊副隊長を王宮に軟禁するとは、ガリアの振る舞いは正気の沙汰とは思えない、と言うのがアンリエッタの叫びだった。もちろん、周囲のマザリーニや侍従長のボルト、女官長のフォントネ侯爵夫人は額面通りには受け取らない。『一つ屋根の下で既成事実をつくって、私のサイトさんをたらし込もうとしたってそうはいかないわ、絶対に許さない!』としか聞こえなかった。
だが、主人の意思の実現を図るのは、臣下の務めでもある。
「自分が迎えに行く」という女王をなんとか説き伏せ、「では、サイト殿のけがの具合を含め、私が確認しに行くのはいかがでしょうか」と仲裁案を出したのはマザリーニ。
確かにあの者をガリアにこのまま取られたのでは、自分が描くトリステインの将来構想にも影響が出るのは確実であった。なんとか、ガリアとの紛争を起こすことなく彼の者を連れ戻すことが優先された。なんと言ってもシュバリエサイトはトリステイン女王の使い魔(ここではルイズ嬢とティファニア嬢の使い魔でもあることには目をつぶる)にして、近衛隊・水精霊騎士隊副隊長。大義はこちらにあった。
かくして、鳥の骨はリュティスへ走る車中の人となった。
良くも悪くも大使メーテルリンクの予想は的中したのである。