Lynx links to jinx.   作:祖父地図

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 束はただひたすら驚愕を覚えるばかりであった。なんだ、あれは。人型のロボットだ。壊れかけの。そう、壊れかけだ。彼女の感覚からは壊れていると言ってよい。たとえば各部品が軋み、ゆがみ、欠け、どうにかペダルをこぐことができるだけのボロ自転車を壊れていないと言い張り、乗り回したいと思う人間がいるはずがない。いたとして、まっとうなものか。彼はそれを平然とやらかした。彼も、機体も、まっとうでない。

 束が用意した空間は地下数十メートル、ミサイルサイロのように円柱状に掘られ周囲に防護用金属板、機械のアーム、重厚な防熱扉などもあり、ものさえあれば即座に射出準備に移れそうなほどの設備だ。

 彼はハッチを閉じた後に機体を起動させ、寝転がった人間がそうするように腕を使いながら片膝立ちまでもっていった。それから手放していた武器、ライフルを両手に持ち直し、立ち上がり、縦穴まで歩いて進んだ。特にためらう様子も見せずにそこに飛び込み、適度にブースターを噴かしながら降下していく。機体が万全の状態であればその必要もなかったが、今の状態ではそうは言っていられない。普段では滅多にしない操作だが、難しいことはない。

 ほとんど衝撃もなく地面に降り立つ。即座に機能を落として神経接続を切る。たとえネクストが新品であったとしても繋いでいたいものではない。もう使うことはないだろうとヘルメットの端子を首から外して適当な場所にかける。

 上半身を固めている固定具を上げてベルトを外す。ろくに身動きのとれる場所ではないが、座席に膝を乗せるように体を反転させて後ろの収納箱から背嚢とライフルを取り出し、装備する。それから慣れた動作で座席に立ち、背もたれに足をかけてハッチから身を乗り出して固定具に足を乗せたまま腰掛ける。そこで束が来るのを待つ。

 上を見ればこの縦穴への入り口は閉じられていて、いくつもの照明が真昼のようにこの地下空間を照らしている。その明かりの中、高層建築物の外装清掃に使うようなむき出しの昇降機が重力加速度を超えない程度の速度で落ちるように下りてきた。束はネクストが降下したのを確認した後、そのままやってきたらしい。特別それの操作をしている様子はないが、彼と高さを合わせて停止した。

“さすがに驚きを隠せないね。調べるのが楽しみだよ”

 口の両端をつり上げて笑うその様は愉悦、あるいは悦楽とでも表すのだろうか。元が美人ではあるが、その笑みを快く思うものはごく少数であろう。

“それはいいが、おれの今後はどうするつもりだ。金と情報を与えてハイサヨウナラ、でもかまわないと言えばかまわないが”

“まさか、束さんがそんなことするわけないでしょ。お金は払う、情報もあげる、それで住まいはここ。それとも、断る?”

“……見ず知らずの男を自分の研究所におくのか。剛胆と言うべきか、危機感が薄いと言うべきか”

 さすがの彼も、呆れを隠せなかった。

“ふっふー、そうやって呆れてる時点できみは束さんを襲うつもりがないでしょ。仮にきみが性欲の塊で束さんを襲う気満々だとしても、ここは束さんのための城だよ。何も対策してないわけがないでしょ”

 なるほど、それなら納得だ――などと思えるような単純な思考回路をしているのでもない。少しこの女性はずれているようだ、と評価を整える。

「束様」

 銀色の長髪、左右にリボンをつけた少女が二人の位置よりも少し低い場所にある、この縦穴の円周をぐるりと回る通路から声を発する。彼は彼女が居ることに気づいていたため特に何も思うことはなかったが、束はそうでもなかったらしい。

「うえ、くーちゃん? もう来てたの、相変わらず早いね! あと気配を消すの、やめない?」

「別に、普段通りにしているだけなので。それで……そちらの方は?」

 彼は彼女たちの会話を聞いていたし、そちらに視線も向けた。もちろん、その会話を聞き取れたのではないが――銀髪の彼女が目をつむっているにもかかわらず、正確にこちらに意識を向けたことに少なからず異常性を感じた。

“驚いた? あの子はね、見てなくてもなんとなく周りがわかるんだ。名前はクロエ・クロニクル。束さんにとっては娘みたいな存在だよ”

 飄々としてどこかつかみ所がなく、どうも思考が奇妙な方向へねじれている束だが、彼女と話しているとき、彼女のことを話すとき、ほんの少しながら表情や声が柔らかくなる。どうやら完全にねじれているのではなく、完全に振り切っているらしい――ある一方向、特定の部分にだけ。

“そういえば、きみの名前を聞いてなかったね。なんて名前?”

 クロエも英語を話すことができる。普段から日本語を用いているのは束が日本人であり、それを母国語として用いているからだ。そうでなくともISの登場以来世界的に日本語も標準語となり、日本語を話せればたいていの場所で通用する。束が、ISの開発者であり唯一の生産者が、日本語以外を話そうとしなかったからだ。だから世界中で日本語を学ぶものが増えた。

 束はそれ以外を話すことができても日本語以外を話す気がなかった。だと言うのに、目の前の男に英語で話しかけていることがクロエには衝撃的だったし、これ以上ないほどの侮辱だとも感じた。だが束自身がそれでよしとしているのなら、彼の、あるいは彼らの技術に心を躍らせたのだろうと推測する。新しく、楽しげな事に目がない束様のことだ、言語など二の次だったのだろう――彼女はそう考えた。

 だが束は彼の名前を聞いた。束は他人に興味がなく、彼女に認識され名前を呼ばれているのはクロエ以外に彼女の妹、彼女の親友、その親友の弟でもあり且つ妹の思い人と、ごく僅かだ。彼女は両親ですらその他の有象無象として扱っている。

 だと言うのにあの男はなんだ! 黒々とした混沌がクロエの中に生まれる。束の決めたことなのだからそうであればよいとも思うが、それ以上に束に心酔しているクロエはどうにもこの現実を受け入れがたかった。

“――さあ。知らないというか、忘れたというか、元々ないというか。どうしても呼びたければリンクスでいい。ネクスト操縦者の総称だが、ここにはどうせおれだけだ。誰も困らん”

 彼はどうでもよいことを決めるかのようにおざなりな態度でいたが、束にしても、クロエにしても、聞き流せないことであった。

“……ないって、どういうこと?”

 束の急な態度の変化は彼に僅かな落胆を与えた。聞き流すなり、勝手に納得すればまだよかったのだが、彼はこの手の反応に飽きを感じている。あたかも心配しているかのような表情と言葉遣い、態度でもって同情している風を装う連中はいくらでもいたが、それでもって自分に確かなかたちで哀れみを施した人物はいなかった。そうして欲しいとは思わないが、己の充足感のために体よく使われるのは殺意を覚えるほどにいらだつ。

“どこにでもあるお涙ちょうだい物語さ。捨て子なんて珍しくもなんともない。……ここじゃ違うのかも知れないが”

 彼の言葉はどこまでも他人事だ。彼にとって、自分のことだから悲観的に、他人のことだから楽観的に、といった区別は意味のないものだ。自分を可哀想だと思えるほど余裕のある生活を送ってきたのでもないし、そう考えていれば誰かが手をさしのべてくれるなどという甘い幻想をもっているのでもないからだ。

 すべてのことは平坦に考えなければいざというとき正しく判断できなくなる。これが彼の思考を支える唯一の規範だといってもよい。

“さて、それはどうでもいい話のうちの一つだ。ここに住めと言うのなら、なにかしらの規範があるのではないか”

 これ以上話を続けるつもりのない彼は話題を変えた。彼女たちもそれを察したが、変えた理由に関しては考え方に違いがあった。

“――そうだね。束さんはこれの研究をしたいから、きみはくーちゃんに案内してもらって。もしかしたらくーちゃんは喋ってくれないかも知れないけど、間違いなくきみの言葉を理解できるから用事があったら話しかけてね! まあ、やってくれるかはわからないけど。あと、この中は自由に動いてくれてかまわないよ。入られて困るところはきみじゃ入れないから”

 喋りながら、すでに束の視線はネクストに釘付けだ。調べたくて仕方がないのだろう。

“そうか。すでに売りつけたものだから細切れにしようとかまわないが、ジェネレーターだけは慎重に作業しろ。運がよければおれたちが死ぬだけで済むが、悪ければここら一帯がまるごと死んでも不思議はない”

“……やっぱり、相当やばいのを積んでるんだね。うん、さすがに知らないものを理解できるはずがないからね。忠告はしっかり受け取っておくよ。それじゃ、またね!”

 好奇心満点な表情から一転、真面目な表情を作ったかと思えば即座に楽しみが過ぎて待っていられないとでもいうかのように昇降機を下ろした。

 なにかと準備を始めた束を眺めていて楽しいのでもない、と彼は案内を頼むべくクロエのところへ向かう。とは言え別にはしごがかけられているのでもなく、クロエのいる円周通路まではなにもない。

 だがそれが妨げになるのではない。彼はその場に立ち上がり、身をかがめたかと思えば前方へ飛び出す。普通に考えれば自殺行為だ。実際、彼の行動を見たクロエもなにをとち狂ったのかとさえ思った。しかし直後にまた別の驚きにその考えが塗りつぶされる。なんと彼はろくな勢いもつけずに円周通路までの距離を飛び越えたのだ。誰が見たとしても、まともな人間の運動能力ではない。

 彼は当たり前のように円周通路へ飛び移り、それが日常であるかのような気軽さでクロエのすぐ近くまで移動した。

“クロエ、と言ったか。先導してくれるだけでもいい、よろしく頼む”

 彼はなんとなくクロエが自分のことを敵視していると感じた。束の脳天気さとクロエの警戒心、どちらも必要だが過剰になればそれが身を滅ぼす劇薬だ。なぜその中間にならなかったのかと彼は思うが、詮無いことだ。

 クロエはそのまぶたを閉じならも彼を見定めるかのように顔を向けたままじっと黙っていたが、やがて扉に向き直りそこを開けると何も言わずに歩き出した。彼も何も言うことなくその背中について行く。

 実に無機質な通路だ。最低限の機能だけが備わった、よく言えば無駄のない、悪く言えば殺風景で前後感覚を失いそうな通路で、明かりと換気装置が設けられている以外は床、壁、天井の区別なく塗装されたのでもないむき出しの色だ。

 しばらく歩けばまた扉があった。分厚い扉で、その向こうにはこの通路と比べるべくもないほどの差があり、隠し扉でも設置されていない限りはあの縦穴とを繋ぐためだけのものらしい。

 こちらは生活空間と言える。もちろん生活のためだけの空間ではないだろうが、四六時中をここで過ごすのは間違いないだろう――今回のように特殊なことが起きない限りは。

 地下空間での生活は精神衛生上決してよろしいものではない。太陽光は差し込まず、取り入れるためには大規模な工事が必要になるしいわゆる自然的なものを感じることがない。なにをするにしてもそのほとんどは人工物、ないし人工的に作られた環境下でという制約が常について回り、気が滅入るというのは珍しくない。そもそもで密閉された閉塞空間というのが充分にストレスの原因となりうるのだ。それの解決手段こそが地下生活での最高の娯楽であり、最大の開拓技術と言える。

 ここは地下生活以外が許されない完全な地下環境というのではないだろうが、だからといって好き勝手に外で気晴らしのできる環境でもなさそうだ。とすれば生活環境の完全な構築は不要だとしてもいくらかの改良、改善は必要だろう。観葉植物や壁紙など、申し訳程度ではあるもむき出しの壁に比べれば相当ましになるはずだ。

 縦穴までの一本道とは違っていくつかに枝分かれしている。置物や壁紙などもなく、誰かの案内もなければ自分がどこにいるかなどすぐにわからなくなるだろう。どうにか置物で通路を把握できるかも知れないが、高い空間認識能力を要求されるのは間違いない。

 何度か角を曲がり、扉をいくつも通り過ぎた先の扉を通り抜けると、様々なものが散乱したリビングとでも言うべき空間に行き着いた。テレビ、ソファ、テーブル、植物、衣服、機械、などなど。物資の余裕が一切なかった彼の生活環境から考えると、恐ろしく無駄な贅沢でしかなく、腹立たしさまで覚える光景だった。

 クロエはクロエでその場から動かずになにかをしているようで、彼もどうしたものかとそのまま立ち尽くす。少しして、スピーカーから束の声が響いた。

“あーあー、聞こえてるよね。まあ束さんのことだし、聞こえてないはずがないよね! でだ、きみにはそこを使ってもらうよ。ちょーっと散らかってるけど、我慢してね。余分なベッドはないんだ。寝られる環境と言ったらそのソファしかないのが現状でねえ……きみが毛布さえあればコンクリートの上でも平気だとしても、さすがにそれを押しつけるのは憚れるし。そういうわけだから、しばらくはそこにいてね!”

 そこで放送が切れた。クロエは放送の途中で退室しており、今はここに彼しかいない。いわば自由の状態になったわけだが――本質的自由ではなく現象的自由であることは疑いようがない。ひとまずは何もおかれていない無事なソファに横たわる。ライフルを背もたれ側に、自分自身と挟み込み隠すように置き、背嚢は横たわる体の上に置いた。ソファは適度に柔らかさと反発があり、彼はすぐにそれを気に入った。

 彼にとって眠るという行為はあまり意味をもたない。眠る必要がない、というのはいささかの語弊があるが、一般的な行為としての睡眠はほとんど行わない。もちろん相応の行動はとるし、睡眠という行為をそもそもとれないというのでもない。目をつむってひたすらじっとしていればいつしか眠っている、という程度だが、それでもこの寝心地の良さそうなソファで眠ってみたいと感じた。

 寝ようとソファに横たわっていたが、結局眠れぬままにいくらかの時間が過ぎ、扉が開いたことで意識がそちらに向いた。どうやらクロエがなにかを持って来たらしい。彼はそれに合わせて体を起こす。

 クロエは黙したままテーブルの上になにかを並べていく。それらは携帯食料であったり、保存食であったり、ごく普通にパッケージされた食料であったり――だが、彼にはよくわからないものであることもまた事実だ。

“――これは……”

 おそらく食料なのだろうという当たりはつけていたが、だからといってそう判断するのは早計である。何せお互いの認識からして違うような世界だ。幸運にも自分の慣れ親しんだ言語と同様の言語を話せる人物と出会えたが、だからといって自分の認識が正しいものであると思い込むのは愚の骨頂だ。

“食事です。今はこんなものしかありません。これで今日と明日をしのいでください”

 さすがに無言でいてはこれがなんなのかその様子から彼には理解されないと感じたのだろう、そう告げてさっさと出て行ってしまった。

 正直なところを言えば、食料の提供がなくとも自分の持ち出している携帯食料でどうにかなっていた――と言うか、そうする予定でいた。それで携帯食料がつきたら用意されるはずの資金を使って食料の調達をするつもりでいたのだ。

 携帯食料は所詮携帯食料でしかない。即座にエネルギーを獲得できるよう、味は薄く、量は少なく、カロリーは高い。くわえて超高速機動に耐えられるようしっかりと固められた固形物であり、それを薄い金属で包むように封じてある。それひとつで一日分の必要な栄養とかなりの運動を見越した過剰なカロリーを摂取できる。食べやすさという問題を度外視すれば携帯食料としてはかなり優秀な部類に入る。小さく携帯性に優れ、多量に持ち運ぶことも苦にならない。包装を剥いて口の中に含んでおけばそれだけでエネルギー確保が可能であるため、食事という時間をとらなくて済む。好んで食べるものは、彼の知る限り、彼も含めて誰一人としていない。

 そういう意味ではこの施しは喜ばしいものである。得体の知れない人間に渡すものだからといってまずいということもないだろう。元は彼女らの用意していたものだし、保存食らしいものも形状や大きさから見て携帯するようなものでもない。仮に彼女たちにとって好ましくないものを押しつけられたのだとしても、自分のもつ携帯食料よりも酷いものではないだろう。

 彼にとって現時点での問題は時間経過がまったくわからないところだ。ここには時計がない。あったところで、自分のいたところと時間感覚が同じだとは限らない。彼のいるところは地下であり、周囲の明るさからそれを察すると言うことも不可能だ。自分で明かりを消すか、あるいは明るいままでおくしかない。

 今、彼は眠気も空腹も感じていない。これが何を示すか、と言う問いへの答えは、何も示さない、が正解だ。と言うのも、彼が強化された――体の至る所を人工物への置き換えなどによって物理的改造を施した――人間であることに由来する。彼がリンクスである以上、自由な生活というものはあり得ない。いついかなるタイミングであっても彼らには仕事が与えられることがある。それを断ることは事実上不可能である――断れば以降はその類いの仕事に対する忌避感があると判断され、ひいては信頼を失うということにつながる。そうなれば仕事を依頼されることが極端に少なくなったり、別のリンクスに命を狙われる羽目になったり、結局のところ生きにくくなる。もちろん、それらをはねのけて生きていくだけの別の収入の当てがあり、かつ何者をも寄せ付けないだけの戦闘能力があるのなら、その限りでもないが。つまるところリンクスには可能な限り常に万全な状態であることが求められる。連続で任務を課せられることもあるが、それらがすべて万全の状態であるという暗黙の了解が彼らにはある。だからこそリンクスという生き物は重宝され、依頼料も桁違いなのだ。特に彼のような強化人間は生理活動の抑制や各種欲求の低減などの改造もなされる。

 とは言え大本は一般的な人間であるため、完全な感覚の遮断は寿命を縮めるどころかほぼ確実に早死にさせる要因となる。なにせ生命維持に必要なことをしなくても体が異常を訴えなくなるのだから、死にかけの自分に気づかない、ということになってしまう。そのため彼らはあくまで感覚の抑制という手段をとり、体内のナノマシンや思考制御などによってそれを行っている。つまりは空腹感を基本的には忘れさせ、体が本当に危ない状態に陥る数歩手前で警告を発するようにしてあり、不規則にしかとれない睡眠は害悪であるため起床していながらも意識的に体を休息させることを可能としている。よって、彼らは一般的な人間のように空腹を感じて食事をとる、眠気を感じて睡眠をとる、という行動をとらない。時間経過を見てとるべきだと判断して食事をし、暇を見つけては睡眠とほぼ同等の休息を体に与えるという行動をとるのだ。

 こちらで過ごさねばならないのだから、こちらの生活時間に合わせた食事の取り方をすべきだろうし、睡眠時間をとるべきだろう。以前と同じようにまた依頼だらけの生活になるというのなら話は別だが、それは今考えるべき問題ではない。次にクロエか束、どちらかが来たときに話をつけようと彼は決めた。

 しばらくを、またソファに横たわるかたちで過ごす。時間のつぶし方などそれ以外にない。

 次にやってきたのはやはりクロエで、今度は膨大な紙の資料をコンテナに詰めて運んできた。その量から察するに相当な重量になると想像できるが、彼女はそれを楽々と運んでいる。彼女も普通ではないのだろう。

“なにか時間のわかるものをもらえないか”

 クロエはその言葉に意識を向けたが、承諾の返事も拒否の返事もせずにそのまま部屋から出て行く。再びやってきたとき、資料と一緒にデジタル時計をもってきた。どうやら無茶な要求でなければ聞いてくれるらしい。束が口利きでもしたのだろうか。

“ありがとう。それと、可能なら大きめの籠か箱を用意してくれると嬉しい。ここはいささか散らかりすぎている”

 彼はさすがにこの部屋の惨状に耐えかねたらしい。この部屋は片付けられるべきで、それをすべき人間がいないのだから自分で行わなければならないと判断したのだろう。それを聞いたクロエは部屋に顔を向ける。ほんの一瞬だけ目を開けて状態を確認したようにも思えるが、少なくとも彼は彼女が何を意図してそうしたのかを確認できていない。

 ともあれ、クロエは何回か往復した後、板状に折りたたまれ使用時に展開して使うコンテナをいくつかまとめてもってきた。資料が詰められたそれと同様のものらしい。軽量の素材で作られた、しかし頑丈な使い勝手のよい代物だ。

 それからクロエは帰ってこない。つまりはこれで資料のすべてがそろったということだ。いくつもの積み重ねられたコンテナが、それらの中に詰められた紙の束が、圧倒的な情報量を物語っている。手近なコンテナをとり、中身を確認する。紙の束は英語が印刷されている。彼もなじみのある言語だ。また、そのコンテナには紙束と一緒に辞書も入っていた。彼が滅多に使わない、あるいは使ったことのない単語がある可能性を考えた上での同梱だろう。

 クリップによって紙束としてまとめられたそれは、情報の種類ごとに分けられている。日常生活における基本的なこと――一般的な時間感覚、一般人の通勤時間、通学時間、職業における平均的な労働時間、会話となる種、そのほかごく当たり前だと言えるような知識や必要かどうかが一切判断されていないあらゆる事柄――を始めとして、ここ十数年間における世論の推移、軍事的、政治的力関係の変化、地球環境、商業、工業、学校教育で習うであろう基礎知識、各方面への専門知識、……。それこそ普通に生きていて手に入れられるのであろう知識のすべてをそこに集約したかの量の情報がまとめられている。すべてを読破するだけで相当な時間を消費するだろう。彼はそれらを読み進めていくが、彼のもつ知識と比べて差異のないところは読み飛ばし、必要だと感じなければ読み飛ばし、彼にとって必要となるであろう知識を重点的に取り込んでいく。当然のことながら、読み飛ばす部分は圧倒的に少ない。

 彼の強化人間故の超人もかくやと思えるのはその通読速度と、記憶能力だ。まるでスキャナーに通したかのような速度で一枚を読破し、その内容をしっかりと自分のものにしている。時折その作業のような行為がはたと止まることもあるが、彼が使うことのなかった単語、あるいは初めて見るような単語を調べるためであり、しかも一度調べれば同じ単語を再び引くこともない。自然彼が辞書を引く回数はだんだんと減っていく。当然資料を読み進める速度は上がる。

 まだまだ読み進めるべき資料は大量に残っているが、ふと時計に視線を落とせば充分に深夜と言える時間であった。彼は眠気を感じるでもなく、そのまま資料に没頭していても何も問題はなかったが、それは避けるべきだと判断した。少なくともここで――この世界でしばらくは生きていかねばならない。くわえてリンクス時代のような昼夜を問わない仕事の依頼が来ると言うこともない。ならば、ここの流儀に合わせて生活するのが自然だろう。深夜にこそ活動している人々もいないわけではないが、彼はあくまで一般的な生活様式への順応を目指した。

 眠る時間に休息をとると言うだけで実際に眠るのではない。むしろ眠れる方が珍しい。だが眠らずに休息をとるのは彼にとって慣れたものだ。普通の人間が眠るように、彼もまた休息をとる。

 数時間後、早朝でもないが一般に朝と言われる時間帯だ。彼は予定されていたように目を開ける。実に機械的な起床、と言うのは正しくもあれば誤りでもある。

 ここが地下である以上朝日はなく、照明を消していないためひたすら明るく、毛布を被っていたのでもないため暗さを調整できたのでもない。朝日に関して言えば彼がいた世界でも同様だが、せっかくあるのなら体感してみたいというのが彼の正直な感想だ。部屋の明かりに関しては大して問題がない。明るかろうが暗かろうが、彼にしてみれば大差のないことだ。空調が効いているからなのか、毛布がないことも気にならない。

 さてそのようにほぼ普段通りの生活様式をこちらの環境に修正したところで、クロエの用意した包装済み食料を適当に開ける。彼が向こうでよく食べていたものと比べて、色や香り付けと言った基本的なものは大差ないのだろう。添加物や、なにによって構成されているかは違うのかも知れないが。味については何も言うべきことはない。

 朝食と言うべき食料の摂取を終えて彼のすることは資料の読みすすめではなく、部屋の片付けであった。身近な生活環境の改善を図るのはおかしなことでもないし、彼にしてみればここの散らかり具合は癪に障る。

 部屋中にいくつかの山が衣類によって形成されている。白衣だけでなく、靴下や下着、おそらくは普段着といったものまで――おおよそ年頃の女性が異性にさらしてよい状況ではない。同性にもさらすべきではないだろうが、異性に比べればまだマシだろう。

 平らのまま積まれたコンテナを適当にとり、手早く組み立てる。引き延ばして側面を立てるだけだが、利便性は折り紙付きだ。

 乱雑に放置された衣類を無造作にコンテナへ放り込んでいく。コンテナ一つではまったく足りず、結局コンテナ三つにわけて入れなければならなかった。そのほかにも放置されている機械類などの使い道のよくわからない代物もコンテナに詰め、縦に積み上げていく。邪魔にならぬよう、途中で崩れぬよう部屋の隅に積み、いくらかは部屋を広く見せる。

 とりあえずの片付けは終了した。あとは束に機械類の使い道、破棄方法などを聞くのと洗濯物をどうにか始末するだけだ。これだけの施設なのだから洗濯から乾燥までをこなす機械もあるだろうし、保管しておく部屋もあるだろう。その辺りは彼女たちに任せるのが正解だろう。よもやそんなものはなく使い捨てにしているなどと言った日には彼は激怒を通り越して哀れみすら覚えるだろう。

 もしかすればモニターされているのかも知れないが、彼は彼女たちを呼び出す手段をもっていない。よって、これらは少なくとも束かクロエが来ない限りどうにもできない、というのが現状だ。

 彼としてはさっさと処理したい思いだったが、自分のものでなくなおかつ女性ものしかない下着を含む衣類を持ち歩く趣味はない。そういったものに性的興奮を覚える人々もいるようだが、少なくとも彼は吐き気に直結するような嫌悪感を抱く。

 いくら地下で風景の変化がないとは言ってもここに引きこもっているよりはいくらかましだろうという考えもあり、彼は設備の確認がてら散歩をすることにした。そのついでに彼女らのどちらかを見つけられたらなおよいが、見つけられなかったからなにか問題があるわけでもない。気負うことも、神経質になって探す必要もない。そういう意味では、まさしくただの散歩と言ってもよいだろう。僅かながらの倦怠感とともに、彼は廊下へつながる自動ドアをくぐった。

 




 設定はねつ造していくスタイル。

 なお、話のタイトルに深い意味はありません。
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