英雄の境界   作:みゅう

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第13話 いのち

 朝の通勤ラッシュはまだどうにも慣れない。特に今日みたいな最悪な日ならば尚更だ。事件翌日の今日は捜査と、今後の対応のために臨時休校となっている。こんな休みは嬉しいわけがない。しかしどうしても家にこもっている気にはなれず、こうしていつも通りの時間の電車に乗っている。

 

 あんな事件があった翌日とはいえダイヤには乱れもなく、人混みの量が特に減るわけでもなく、いつも通りに電車は運行していた。俺たちにとっての世界は昨日一日であんなにも変化したと言うのに、社会というものは意外と丈夫にできているものらしいということを、まざまざと見せつけられた感じだ。

 

 前方の男性が手にした新聞の見出しが偶然視界に入る。雄英についても色々書かれていたが、赤色で塗られた「死者21名」の文字が網膜に刻み込まれた。脳無による死者の数は奇しくも俺たち1-Aの生徒と同じ人数、一体何の当て付けだろうな。

 脳無が街で暴れた件については雄英襲撃の際、捕獲できず逃走した敵が暴れたことになっている。嘘ではないが全てが真実というわけでもない。俺たち生徒が外へ追い出したということは伏せられている。故意ではないこと、正当防衛であったこと、後付けではあったが相澤先生の戦闘許可が出ていたこと、雄英の私有地内であったこと、その他色々なしがらみによってそういうことになっている。

 

 俺たち1-Aは入学後間もないながらも敵連合を撃退したということでどうもマスコミは持ち上げ気味のようだが、学校側に対してはその分厳し目の反応だ。明日の予定もまだ未定。学校からの連絡待ちとなっている。どうやら雄英体育祭も開催が危ぶまれているらしい。

 

 思考を止め、洪水の如く氾濫する人の波に身を任せ、ただ足を動かす。息を止めるようにしてひたすら早足で歩き続け、目の前の景色が変わった事に俺はようやく気づいた。いや、前をほとんど見ず足元ばかりを見ていたからその表現は正しくないだろう。

 

 深く抉れたアスファルト、飛散したままのガラス片、ガードレールを赤黒く染めた生命の痕跡。昨日動画で見た惨劇の跡地、マスコミや警察がたむろする場所から少し離れた一角に俺は辿り着いていた。

 

 少し奥に見える交差点の電柱には花束や缶ジュース、袋菓子などの供え物が集められ、数人の先客たちが手を合わせていた。親族か、友人か、ただの通りがかりの人なのか。そのどれとも俺は違う。加害者でこそないが、この事態を起こした責任の一端は間違いなく俺にある。

 

 あれから一晩たった今もどうすればいいのか、どう気持ちに整理をつけたら良いのかわからない。一番頼りになる天晴兄さんは、俺の身を案じ電話をくれたが何を言ったらいいのかそのときはわからず電話を無視してしまった。朝イチで謝罪のメールを送ったが「天哉、今夜そっちに帰るからちょっとジョギングに付き合えよ!」と一文だけ送られてきた。

 

「兄さんならどうするんだろうな」

 

 一度止めた足をもう一度踏み出した。すると、ぐにゃりと急に地面が歪み右足が沈み込もうとする。左足に全体重を掛けて沈まぬよう踏ん張り、沼から右足を引き抜いて更に前へ一歩踏み出す。

 

「ハァハァ……危なかった。まさかこんな所に沼があるとは」

 

 ――――こんな所で、とはどんな所だ。そこに目を向けて愕然とする。沼だと錯覚した場所は、ただのアスファルトじゃないか。

 

 睡眠不足が祟ったか? 用事を済ませたら早めに家に帰って寝たほうが良いのかもしれない。そして後方の地面を見つめながら左足を前に踏み出す。

 

「ってぇなオイ!」

 

 左肩に軽い衝撃が走る。どうやら声の主とぶつかってしまったようだ。前方不注意とは我ながら不覚だ。謝罪しようとして、顔を上げる。

 

「なぜお前がっ!!?」 

 

 上体を後方に逸らしながら、全力で一歩後方へと跳躍し、半身で構えを取る。

 毛玉の男が、昨日昏倒させ、逮捕されたはずの敵が目の前に居た。毛むくじゃらな男の瞳は険呑としており、苛立ちを露わにした声で言った。

 

「何だよその目はよぉ、眼鏡の兄ちゃん。人にぶつかっておいて謝らないどころか、初対面の人間にお前呼ばわりは礼儀がなってねぇな。見たところ高校生みたいだがどこの学校だよ。真面目そうなのは見た目だけか?」

 

 そう諭されて俺はようやく気づく。人違いだ。よく思い出してみれば毛の色が少し違ったような気がする。俺はなんてことをしてしまったのだ。

 

「すみません、俺の人違いでした。ぶつかったのも俺の不注意です。ぶつかったこととその後の大変失礼な言動、誠に申し訳ございませんでした!」

 

 できるだけ深く腰を曲げる。全面的に俺が悪い。この人の言うことには一片の非もない。

 

「いいけどよ、兄ちゃん。次から気ぃつけろよ。小さな子どもや高齢者だったら怪我してたかもだぜ。じゃあな」 

 

 そう言って毛玉の男性は俺の前から去って行った。確かに彼の言うとおりだ。杖を着いたご老人にぶつかっていたら地面に頭を打っていたかもしれない。ちゃんと前を見て歩こう。

 

 供え物が集められた電柱の前に着くと、両手にそれぞれ抱えてきたフルーツバスケットの内の一つを供え物の山に加え、真剣に手を合わせるご年配の女性の横に座る。もう一つのバスケットを膝の上に乗せるようにして抱え、俺も周りと同じように手を合わせようとする。

 

「貴方もご家族かご友人を?」

「えぇ、そんなところです」

 

 嘘だ。とっさに出てきた言葉には一欠片の真実さえない。誰一人として今回の事件で亡くなった人のことを俺は知らない。心臓と喉を締め付けられるような感覚を覚える。今、俺はどんな顔をしてそれを口にした?

 

「私の孫はね、来週運動会だったの。『おばあちゃん、ぼくかけっこでいちばんとるからみにきてね!』って、毎日のように言っ、てっ……いた、のに、どうして、どうして……こんなっ…………ううっ」

 

 溢れ出す感情を抑えきれなくなったご婦人の嗚咽。なんとか抑えようと絞り出すように出る小さなその声が、俺の鼓膜に、脳内に何度も何度も反響した。しかし、もらい泣きしそうになる自分を叱責する。俺にはここで泣く資格も、慰める資格もないのだと。

 

 悔しさを押し殺して瞳を閉じ、手を合わせた。そのときの気持ちを具体的な言葉では表現できそうにない。謝罪と死者への安寧と、罪悪感と、様々な感情が――――あぁ、そうだ「クソを下水で煮込んだような」そんな最低な表現が一番近いのかもしれない。

 

「奥様、これをお使い下さい」

「ごめんなさい。いいえ、ありがとうね。お嬢さん」

 

 傍で聞き慣れた声がした。瞼を開き、声の主へと視線を向ける。

 

「飯田さんも、これを」

「八百万くん」

 

 差し出された手から、彼女の個性で創られた白いハンカチが現れる。そして俺が今どんな顔をしているのかをようやく自覚した。

 

「みっともないな俺は。散々昨日泣き散らしたというのに、まだ涙が出るらしい。すまないな」

「別にみっともなくはないだろう。俺たちも隣、いいか?」

 

 花束を供えながら轟くんが言う。彼も一緒に来ていたのか。俺の方はあまり見ないのは彼なりの気遣いなのだろう。

 

「あぁ。二人共一緒に手を合わせてくれるか?」

「当然だろ」

「勿論ですわ」

 

 そうして一分ほど再び手を合わせた。供え物とは別にもう一つ花束を抱えた轟くんが口を開く。

 

「病院に行くんだろう?」

「あぁ、何の因果か通い慣れたところだからな。近道がある。俺が案内しよう」

 

 爆豪くんたちの入院先は入試のときに猪地くんと麗日くんが入院していた病院と同じだった。近道と言ったものの、マスコミも居るかもしれないから少し迂回して裏口から行く方が無難か。

 

 病院へ向かう途中、話すべきこと、聞きたいことは沢山あった。轟くん、八百万くんもきっと同じように感じていることだろう。だがどこから会話を始めたら良いものか、それがわからない。俺たちはしばらくの間、無言で歩き続ける。当然のように空気が重い。

 

「そういえば君のお父上、エンデヴァーさんがあの脳無を逮捕したらしいな。流石ナンバー2だ」

 

 ようやく切り出せたのはそんな話題だった。他のヒーローたちも多数参戦したらしいが、一番の功労者として出てきたのがエンデヴァーの名前だった。

 

「単に相性が良かっただけだろう。再生スピードを上回る勢いでただ燃やし続けただけだ」

 

 ぶっきらぼうに轟くんは言う。確かに彼の言うとおり、彼の父親であるエンデヴァーさんの炎を操る個性は強力な再生能力持ちの脳無とは相性が良かったのだろう。周囲のサポートも多数あった。だが再生能力だけでなく、全力の俺や緑谷くんを上回るだけのスピードと怪力まで備えた相手に勝てたのだ。その実力には感服せざるを得ない。

 

「その……失礼かもしれませんが、実の父親に随分と淡白なんですわね」

「あいつは父親でもなんでもねぇよ。ちょっと強いだけのクソ野郎だ」

 

 憎悪さえ感じる口調だった。いつもは感情の起伏を見せない轟くんが垣間見せたその姿は、反抗期などという言葉で片付けられそうになかった。

 

「クソ野郎とは穏やかでないな。家庭それぞれに事情はあるだろうし喧嘩することもあるだろうが」

「アイツ、朝っぱらから機嫌を最悪にして帰ってきやがった。八つ当たりされるのが目に見えてるし、ここに立ち寄ったらお前らが居た。それだけだ」

 

 それだけだと言い捨てた轟くんの眉間は未だに皺を寄せたままだ。あからさまに不機嫌になった彼を前にそれ以上は言えなかった。すると今度はそんな彼の方から違う話題を振ってきた。

 

「そのフルーツバスケットは猪地にか?」

「いや、そういうわけではないが。見舞いといったらフルーツといった気がしてな」

 

 そう言えば花束でも良かったはずだが、自然とフルーツを手に家を出ていたな。そう言えば猪地くんも昨晩は遅くまで病院まで残っていたようだが、もしかすると今日も来ているかもしれないな。連絡を取ってみるか?

 

「そうか」

「入院しているのは男性ばかりですし、お花より美味しいものの方が良いかもしれませんわね。私もお菓子を少々持って来ましたの。砂藤さんは甘いものがお好きなようですし」

 

 確かに切島くんや爆豪くんが花をもらって喜ぶ姿は微塵も想像つかない。だが砂藤くんはお菓子作りが趣味ということもあり、意外と繊細な面があって似合うかもしれないとも思う。実際のところはどうだろうか。そんなことを考えながら歩き続けていると、病院へ向かう途中での目的の一つを見つけた。

 

「うむ、見えたぞ。あの自販機でみんなの分の飲み物を買って行くとするか。あそこが一番裏口から近くて安い」

「思った以上にこの辺、慣れてんな。飯田」 

「とは言ってもこの二ヶ月ぐらいは来ていないがな。100%オレンジジュースが病院内の売店に置いていないから、ここは外せないんだ」

 

 この自販機のメーカーのものはエグみが少なく、とても飲みやすい。酸味の程よさも絶妙でコストパフォーマンスが抜群なのだ。などと色々解説を加えようと一瞬考えたが、以前猪地くんに華麗にスルーされたのでそれはよしておこう。これは普段から他のメーカーのものを飲んでいないとわからないことだからな。

 

「俺は決めているからな。二人とも先に選ぶといい」

「俺は緑茶ならなんでも良いんだが、同じ値段なら玉露入りのにするか。八百万は?」

「私はこのお紅茶にしますわ」

 

 そう彼女が指差したのはミルクティーの缶。だが轟くんは普段の仏頂面を更に微妙な困り顔に変化させて言う。

 

「大丈夫か? 多分それ、おまえがいつも飲んでるような上等な紅茶と全然違うと思うぞ」

「存じていますわ。最近女子会で試してみましたもの。確かに普段のお紅茶とは香りもコクも異なりますが、これはこれで完成された飲み物だと思いますわ」

 

 そう言って八百万くんはミルクティーのボタンを押す。コイン投入口で点滅する“おまけでもう一本プレゼント”のスロットを目線の高さを合わせるようにして眺める。最後の一桁が二つほどずれたのに落胆する彼女。その様子を見るに、特におまけが欲しいということはなさそうだが、自販機で購入することそのものがきっと楽しいのだろう。

 

「女子会か。そう言えば麗日くんたちも言っていたな。全員で放課後に集まっていると」

「男子は全然そういうのないな。そもそも大人数でつるむイメージも湧かねぇ」

「確かに精々二、三人組だな。まぁ全体の人数の差もあるし、男女間での感覚の違いだろう。猪地くんや麗日くんの話を聞いていると多少羨ましくはあるがな」

 

 八百万くんに続けて、お気に入りのオレンジジュースを購入する。入院組に何を持っていくかを三人で相談した上で、スポーツドリンクと日本茶、コーラを選択した。

 病院に着くといつもの裏口から馴染みの守衛さんと受付の人に挨拶を交わし、三人の居る病室へと向かう。平日の朝とあって入院棟の方はそこまで混んでいない。面会は問題なさそうだ。

 

「ゴホン、朝早くからすまない。副委員長の飯田だ。失礼するぞ」

「八百万です。失礼しますわ」

「轟だ、入るぞ」

 

 ノックをした上で入室する。そして病室内で行われている壮絶な光景を目にして思わず絶句した。それはどうやら俺だけではないようで、思わず視線を逸らし隣の二人を見る。

 

「ええっと。何を、していらっしゃるのでしょうか?」

「俺に聞くな。八百万」

「俺の方を見られても困るぞ。まぁ見たまんまなのだろうが」

 

 暑い。暑苦しい。ただひたすらに暑苦しい。

 

 病室にあるまじき熱気が顔にまとわりつく。まるで汗が蒸発してサウナのようになっているみたいだ。見た目はシンプルな四人部屋の病室。白を基調とした寒色に彩られた部屋が醸し出していい雰囲気ではない。

 

「うぉおおおおっ!」

「202……203、204!!」

 

 砂藤くん、切島くんの雄叫びが木霊する。

 

「ペースは変えないでって言ったでしょ、切島くん。早くして楽しない!」

 

 猪地くんの怒号が飛ぶ。

 

「殺す、殺す、ぶっ殺すっ!!」

 

 爆豪くんがいつも以上の勢いで酷い言葉を放っている。

 

「いや、マジで何やってんだ。おまえら怪我人じゃねぇのかよ」

「漢なら筋トレに決まってんだろ筋トレ」

「って、轟、いつの間に?」

 

 ダンベル運動をしていた砂藤くんが手を止めた。みんな一心不乱に励んでいたようだったが、ようやく気づいてくれたようだ。爆豪くんは無視するようにひたすら腹筋をしているが、切島くんも腕立てを止め、医療書らしき分厚い本を片手に持った猪地くんも栞を挟んで本を閉じる。

 

「おはよっ、天哉、百ちゃん、轟くん」

 

 ラフなTシャツを羽織った猪地くんが本をベッドの上に置いて、俺たちに向かって手を振る。そうか前もこの病院で医療書を貸してもらってたな。来る口実があればいつもより深い勉強できるとなれば早朝から来ない理由もないか。

 

「おはようみんな、元気な用で何よりだ」

「おはよう……というかお疲れさんか。暑い」 

「おはようございます皆さん。御見舞に来ましたわ。実家で貰い物の余りで申し訳ないのですがちょっとした焼き菓子を持ってきましたわ」

 

 そう言って八百万くんが紙袋に入った菓子折りを砂藤くんに渡す。受け取った彼が紙袋から赤いバラが描かれた包装紙に包まれた箱を取り出すと、珍しく裏返ったような声を一瞬上げる。

 

「うぉおっ!? これはまさか小高居ホテルのじゃねぇか! こんなの高校生の俺たちが貰って良いものなのかよ。ありがとう八百万、お前ん家やっぱ大富豪なんだな」

「いえいえ、これは貰い物ですし。でも小高居ホテルをご存知だったのですね。やはり甘味にはお詳しいので?」

「個性で砂糖をたくさん摂取しなきゃなんねぇし、自然と甘いものには詳くなったと思うぞ。俺、本当にここのお菓子は一度食べてみたかったんだ。グルメ番組の世界か?」

 

 砂藤くんのあまりの喜びように驚いた切島くんが包みの中を見て言った。

 

「マドレーヌとジャムクッキーか? 見た目は普通だけどそんなにスゲェのかよ砂藤?」

「心して食えよ切島。その普通っぽいの一個だけで札がほぼ一枚飛ぶぞ」

「マジで?!」

「百ちゃん、私も食べたい! よくわかんないけど食べたい!」 

 

 珍しく果物以外のことで猪地くんが全力で挙手する。高級品とは普段縁がないからだろうか、狩人を彷彿させるような鋭い眼光を放っている。

 

「花瓶……あったな花、適当に活けておくぞ」

 

 轟くんはあまり興味がないのか、淡々と作業を始めた。 

 

「飲み物も買ってきたぞ。さぁ好きなのを選び給え」

「俺スポドリで。爆豪はコーラでいいよな?」

「んあ? クソ髪勝手に選ぶんじゃねぇ、でもそれ寄越せ」

「ほいっと、差し入れサンキューなみんな」

 

 あの爆豪くんと上手くやっている切島くんは凄いな。腹筋をやめた爆豪くんは、投げ渡されたコーラを受け取るとすぐ口にした。

 

「じゃあ俺はお茶でって、一本足りねぇな。あ、猪地の分勘定に入ってなかったのか。どうする?」

「んーそんなに私、量は要らないし、オレンジジュースちょっと分けてよ」

「あぁ、それは俺の分と思って買ってきたが、ちょっととは言わず全部飲むといい。俺は後で売店にでも行ってくる」

「やっぱり要らない。お菓子食べる余力なくなるし」

「猪地くん、遠慮はいらないぞ」

「そこのフルーツも食べるからお腹に余裕がないの! それに今はミカンよりリンゴな気分になった。今なった! 剥くからカゴごと貸してほらっ!」

 

 強引に俺の手からバスケットを奪い取った彼女は、備え付けの棚に入っていたナイフを取り出し、くるくると器用にリンゴを剥き出す。

 

「非常口、峰田と上鳴が居なくて良かったなお前」

 

 ぼそりと呟いた砂藤くんの言葉に切島くんが頷く。なぜここで峰田くんと上鳴くんの名前が出てくるのだろうか。

 

 そして轟くんと八百万くんも飲み物を手に取り、俺は余ったオレンジジュースを手に取る。それぞれが飲み物に口を付け、八百万くんのお菓子に舌鼓を打った。砂藤くんはさながらグルメリポーターのような解説を口にし、切島くんと猪地くんはひたすらに「うまい」「美味しい」との言葉を繰り返す。起伏が少ない轟くんも僅かに笑顔を見せ、あの爆豪くんも珍しく感謝の言葉を口にするぐらいに、クッキーとマドレーヌは絶品だった。

 

「皆さんすっかりお元気なようで何よりですわ。怪我を見たとき、気が気でなかったのですよ」

「それに関しちゃ、委員長、轟、お前たちがリカバリーガールをいち早く連れてきてくれたからだぜ。本当にありがとうな。それから飯田と猪地も応急手当ありがとうな」 

 

 切島くんが親指を立てて感謝の言葉を述べる。

 

「それにしても、生きてて良かったよな本当に」

「あぁ本気であん時は死ぬかと思った。プロヒーローはいつもあんな場面に出くわすかと思うと、考えるところあるよな」

 

 砂藤くんの「生きてて良かった」発言にみんなが頷く。そして最も死に近かった一人である切島くんが神妙な言葉を返した。そんな彼に向けて、いつも以上に眉間に皺を寄せた爆豪くんが口を開く。

 

「何のんきなこと言ってんだ。遅かれ早かれ、似たような事は経験すんだろうが。色々納得は行かねぇが、経験値は得た。今の自分の実力も理解した。課題も山ほど見つかった。だったら強くなるしかねぇだろうが。次こそぜってぇ負けねぇようによ」

 

 遅かれ早かれ、か。兄さんにその辺りの経験談も聞いてみたほうがいいのかもしれないな。

 

「そうだよ。珍しく気が合うね爆豪。だからリハビリも兼ねてさ、私がみんなの筋トレ見てたの。砂藤くんは元の筋力が高ければ、増幅するパワーも増えるわけだし、切島くんの個性もフィジカル強化必須だしね。爆豪は――」

「オイ、デカお……」

「なるほど基礎代謝が上がれば、体温も上がる。発汗効率が上がって個性の立ち上がりや威力の向上が見込めるということか。しかもリハビリを兼ねているとなれば、うむ。実に合理的な理由だな!」

「勝手に納得して他人のセリフ取るんじゃねぇ。メガネ」

「そうそう。また珍しく気が合うね――って気持ち悪っ!」

 

 しまった。つい考察が捗って被せてしまった。

 

「爆豪くん、猪地くん、被せてしまって申し訳ない」

「とことん爆豪嫌ってんな猪地」

「俺、逆に尊敬するわ」

 

 確かに轟くんが言うように中々の拒絶っぷりだ。砂藤くんが顔を引きつらせながら頷く。でも最近の彼女を見ていると、どことなく本人は楽しんでいる節が見受けられる。俺の気のせいかもしれないが。

 

「ごめん、ちょいとふざけ過ぎた。真面目な話に戻ろっか。朝イチこの四人で話をしてたんだけどね、そろそろ雄英体育祭あるでしょ。もし自粛して中止ならいいけどさ、強行した場合私たち結構やばいんじゃないかなって言ってたんだよ」

「オールマイトを殺すと息巻いていた奴らが、入学したての一年に凌がれた。しかもワープできる奴とリーダーは取り逃してる」

「報復の対象がオールマイトより先に私たちに成りうる可能性が高いということですか。しかも一般人も多数学園内に出入りできるとなれば、早急に自衛の策を練る必要がありますわね」

 

 猪地くんの言葉に続ける轟くんと八百万くん。ワープを用いた奇襲だけでなく、一般人に紛れての奇襲も考えなければならないことを考えると、先生たちに頼るだけでなく各々が気をつける必要があるだろう。

 

「敵連合のリーダー、死柄木と言ったか。どうにも力を振りかざしたい子供地味た言動と気の短さ、あれだけの無茶をやらかした思い切りの良さを考えると、確かに焦らなければならない理由は十分すぎるほどだな」

 

 俺も昨日対峙して感じた死柄木の人柄から推論を述べる。しかも雄英体育祭は全国放送だ。万が一奇襲を防げなかった場合、力を誇示したいという敵連合の思惑にはまってしまう可能性がある。

 

「しかも私たちTVに映っちゃうでしょ。個性も、戦闘スタイルも、弱点もバレバレになっちゃう。襲撃がなかったとしても、十分に研究され尽くした後に襲われるかもしれない。むしろそっちの可能性が高いよね」

「だから俺たちは強くなんなきゃいけねぇんだ。決めたんだよ。割に合わねぇって敵が躊躇するぐらい強くなんなきゃなんねぇ。俺が、俺たちが抑止力になるんだ!」

 

 固く拳を握る切島くん。その目尻からは僅かに涙が流れている。そのまま彼は言葉を続けた。

 

「俺たちは生き残った。でも街の人たちがたくさん死んだ。誰だって後悔してるだろうさ。目が覚めてニュース見て、正直血の気が退いたよ俺は。俺と砂藤がもっと足止めできていれば猪地の個性で敵を抑えれたかもしれねぇのにって。何度もそう考えちまった」

「違う!」

 

 考えるよりも先にそう叫んでいた。決して切島くんたちのせいではない。

 

「俺が勝手に前に出なければ、先生たちの指示に全て任せていれば、俺が囮ではなく脱出の方に回っていれば結果は違ったかもしれない。それに何より脳無を実際に外に解き放ったのは俺だ!」

「そうです。飯田さんだけではありません。もし私がもっと良い案を考えて、もっと早く応援を呼べたならあんなことにはきっとなりませんでしたわ」

「“もし”の話なんてわかんねぇよ!!」

 

 爆豪くんかと勘違いしそうになるほどに切島くんが声を荒げた。他の誰もが口をつぐむ。そして切島くんと昨日同じ立ち位置に居た砂藤くんが胸の内の感情を吐露した。

 

「確かに昨日俺たちはみんなベストを尽くした。でもな、あの中で役割を果たせなかったのは俺と切島と猪地だ。気を失って見てねぇけどよ、緑谷も麗日も、お前も俺たちの尻拭いしてくれたんだろう? ありがとうな飯田。気にするな、なんてこと言えねぇし絶対無理だけどよ。俺たちはこれから先の行動しか変えられねぇ、だから強くなろうって……くそっ、涙が」

「これを使って下さい」

「すまねぇ、委員長」

 

 ハンカチを渡された砂藤くんが豪快に鼻をすする音。その直後に響くノック音。

 

「はいはーい、検査の時間だよ。これがオッケーなら退院だからね」

 

 病室のドアが開き、元気な看護師さんの声が響く。キリが良いような悪いような、ちょっと嫌なタイミングだ。

 

「お友達のみんなゴメンねーちょっと借りてくから適当に一時間ぐらい遊んできてね。三階の談話室は本がいっぱいあるよ」

「検査か。みんなどうする?」

「結果が気になりますし、談話室で待ちますわ。麗日さんと緑谷さんも来るみたいですし」

「俺はやることができた。先に帰る」

「私は井伊先生のところに本を返しに行ってくる。天哉ちょっと着いてきてよ」

「あぁ。構わない。みんな、また後でな」

「おう」

 

 

              ×                 ×

 

 

 

 こうして俺たちは話も半ばのまま解散する流れになり、俺は猪地くんと共に医療書を返却しに内科の井伊先生の所へ向かう。だが、扉を開けた先に広がる光景は薬品臭の絶えない冷たい部屋ではなかった。

 

 雲一つない皮肉な青空。勢い良く吹き抜ける風。燦々と降り注ぐ日光が白い床に反射して、少し肌が暑い。

 

「猪地くん、ここは屋上では?」

「わかってる。ここなら誰も居ないでしょ。少し、二人で話をしよう」

 

 じっと瞳を見開いて、彼女はゆっくりとそう言った。

 

「天哉、あんまり寝てないでしょ。何時間寝たの?」

 

 プラスチック製の青いベンチをポンポンと叩き、彼女の左隣に座るように促しながら彼女は尋ねる。正直何時まで起きていたのか、時計を確認していないのでわからない。しかし座りながら俺は推測で問いに答える。このベンチ温いな。

 

「多分二時間は寝れたと思うが、帰って昼寝をすれば大丈夫だろう」

「それ、全然大丈夫じゃないよ。もう」

 

 彼女の手が額に触れる。スッと頭の天辺から温泉に浸かったときのように疲労が抜けていくような感覚。個性を使ってくれたのか。

 

「ちょっとマシにしといたけど、帰ったらちゃんと寝てね」

「あぁ、そうする。俺のために個性を使ってくれてありがとう。だが猪地くん、個性を昨日から使いすぎていないか? 君の方こそ大丈夫なのか?」

「体調は大丈夫だよ。昨日はしっかり補給しながらやれたしね。あんなこともうやらないって」

「ならば良いんだが」

「ちょっと暑いねここ。そのジュースまだ余ってる?」

「あぁ三分の一ぐらいだが、これで良かったら残り全部貰ってくれて良いぞ。外で買ってきても良いが」

「ううん、これで良いって」

 

 そう答える彼女に飲みかけのオレンジジュースを手渡す。両手で受け取った彼女は缶を口につけると言った。

 

「このメーカーの美味しいね。最近コンビニで臼臼飲料のやつ試してみたけど、やっぱりこっちが飲みやすくて美味しい。天哉の言ってた通りだ」

 

 猪地くんは笑顔と共にピースサインを向ける。

 

「気に入ってくれたなら何よりだ。それより話というのはさっきの続きのことだろうか?」

「うーん、そうだね。そのことも含めてって感じだけど。いつもよりは少しね、突っ込んだ話を天哉としたいかなって。ちょっとズルい気もするけど先に話聞いてもらっても良いかな?」

「勿論だとも」

 

 突っ込んだ話か。猪地くんが並々ならぬ人生を送ってきたことはあの事件で様々なメディアが噂を流していたことで知っている。だが彼女が必死に影を見せぬよう気丈に振る舞っている姿を見ていると、今まで突っ込んだ話をする機会が中々なかった。言い方は悪いかもしれないが、これはいい機会なのかもしれないとも思う。

 

「ありがとうね」

 

 もう一口ジュースを飲んで、一息ついた彼女は語りだした。

 

「私はね。このクラスが大好きだよ。高校生活が今までの人生の中で一番楽しい。ダントツの一番。流石雄英っていうのかな。イジメの気配なんてないんだもん。まぁ偶に気を使ってくれてるのはわかるけどね、でも腫れ物みたいな扱いとは全然違う。いつもギャーギャーやってる爆豪のことだってね、性格は大っ嫌いだけど彼のこと凄いと思うし、普通の人よりはずっと好きだよ。まぁ峰田くんと私の中のランキングでクラスワースト1、2位争いしてるけどね」

「峰田くんとか。彼も、もう少し性欲を抑えられたらな」

「私の個性なら抑えれるけどね。酷く成りすぎたら実力行使も辞さないかも」

「実力行使とは何をするつもりだ。ホルモンバランスか?!」

「んー、秘密☆」

 

 イジメ、か。その言葉に一歩踏み込むべきかわからなかった俺は、彼女の茶化すような言葉の部分にしか反応を返せなかった。途中、青山くんのモノマネをしてみせた彼女は照れくさくなったのか「飲め!」と残ったジュースを俺の口に急に押し付けた。誤魔化すように頭を掻いた彼女は元の話を続ける。

 

「私はね。ずーっと一人ぼっちだった。私に優しくしてくれたのはお母さんの信者か、私の個性目当て人たちばかり。けど、利害関係を抜きにして私に接してくれたのはこのクラスぐらいなもんだよ。ちょっとは他にも居たけれどみんな居なくなっちゃった」

 

 空を仰いで彼女は言う。少し声のトーンが落ちた。長い付き合いとは決して言えないが、それなりに仲良くしてきた自負はある。そんな彼女がようやく俺に対して、今まで隠して来た影の部分を自ら見せようとしているのを感じ取れた。 

 

「でもね。その中でも私にとって君は“特別”なんだ。まだ親友というほど親密でもないし、恋人という間柄でも全然ないけどさ」

 

 彼女の左手の指先部分が、俺の右手の甲に重なる。

 

「もう一度言うね。私にとっての天哉は、君自身が思っている以上に“特別”だと思ってるんだよ。何でだと思う?」

「入試の日、最初に会ったのが俺だからか?」

「違うよ。最初の出会いは本当にただの偶然だし、救急車の件とかはあったけど、私のこと知らない人だったら多分きっとある程度は同じように接してたと思うもん。実技試験で私が倒れたときも、ヒーロー科を目指す人だったら多分他の誰かが助けてくれたと思うよ。実際緑谷くんと茶子ちゃんがそうだったし。あ、もちろん二人にはすっごく感謝してるし大好きだよ」

 

 始めて出会った日を思い出す。最初から波乱万丈だった。あの駅で出会っていたのが他の誰かだったら。確かに他のクラスメイト、例えば切島くんや緑谷くんでも同じような流れになったのかもしれないなと容易に想像できた。

 

「試験の後、ようやく眠りから覚めたとき『うわー私、入学前からやっちゃった』って思ったんだ。このまま眠ったままのほうが良かったんじゃないのかなって正直思ってた。君が喜んでくれる顔を見るまでさ。天哉がすごい勢いで駆け込んできてくれたときね、私、本当にビックリしたんだよ。マスコミが騒いでたのはもう一度会う前に聞いていたからね。あー、バレちゃったなぁって。それでも、君は目が覚める前と同じ態度で接してくれて。たったそれだけのことが私は本当に嬉しかったんだ」

「“たったそれだけ”のことがか?」

「うん、でも私にとっては“たったそれだけ”のことじゃなかったんだよ」 

 

 ゆっくりと彼女は頷く。すると猪地くんはベンチから立ち上がり、ゆっくりと屋上の3m先ほど前方へと歩いて行き、緑色に塗装された安全対策用の金網を右手で掴む。階下の景色を眺めながら彼女は言った。

 

「茶子ちゃんと緑谷くんが御見舞に来てくれたのは嬉しかったよ。でもね、天哉だけが毎日来てくれたんだ。私が寝ているときも、目覚めた後も。生真面目な君にとっては当たり前のことだったんだって、そんなことはわかってるんだけどね。それでも誰かが私のことを心配してくれてるってだけで、私の心は本当に救われたんだ」

 

 そして指を金網から外して振り返った彼女は力強く、この蒼穹よりも澄んだ声で俺に言う。

 

「だからもう一度言うね。本当にありがとう。私だって君に返したいんだ。助けて貰ってばっかりじゃなくて、君の力になってあげたいんだよ」

 

 いつの間にか彼女の瞳には淡い光の粒が宿っていた。それは柔らかな風に吹かれ、頬を伝い、空を舞う。

 

「今、天哉は悩んでるよね。もちろん百ちゃんも、緑谷くんも、茶子ちゃんも、切島くんも、砂藤くんも、みんなか悩んでるのは知ってる。あんな事件があって悩まない人は居ないよね。でもね、私は真っ先に天哉の力になってあげたいの」

 

 再びこちらに歩いてきた彼女は俺の目の前でしゃがみ込み、両手の指と指を重ね合わせる。

 

「真面目なところは君の美徳だけれど、多分ほっとくと勝手に擦り切れちゃうでしょ。きっと最初は怒るだろうけれど、私の本当の気持ちを言うね」

 

 そして彼女が次に口にした言葉はあまりにも衝撃的で、俺にとってはとても受け入れがたいものだった。

 

「私はね。街の人たちが脳無の犠牲になって哀しいって気持ちよりね、みんなが生きていてくれてること、天哉が生きていてくれてることの嬉しさの方が多分勝ってるんだ。だって私にとっては知らない街の人より、天哉やクラスのみんなの生命の方が大事だもん。生命は平等だけど、私の主観上では生命の価値は不平等なんだよ。それは亡くなった人の家族や恋人なんかにも逆のことが言えるんだろうけれどね。自分でも救助関係を目指すものとしてどうなのっては思うよ。でもこれが正直な気持ちなの」

 

 生命の価値。救命現場において治療の優先順位をつけるのはまだ理解できる。彼女の言わんとすることも全く理解できないわけではない。家族や恋人、友人など近しい人と見知らぬ他人とどちらの生命を選ぶ場面に出くわすことがあるとすれば、そういう考え方も必要なのかもしれない。

 

 けれども、その考え方は英雄にとって正しいものではない。俺の中の倫理観がそう告げている。

 

「でも、天哉はそう思えないよね」

 

 あぁ、そうだ。そんな考え方をしていいはずがあるものか。つい直前までしんみりと彼女の言葉に聞き入っていたのが嘘のように、頭に血が上ってしまう。

 

「当然だ!! 言って良いことと悪いことがあるぞ! 21人もの人が亡くなったんだ! もちろんみんなが生き残ったことは喜ばしいことだが、それを比較するのは違うと思う。それに俺は元凶だ。俺が率先して俺が脳無を蹴り飛ばした! 俺だ。俺のせいなんだ!!」

 

 思わず声を荒げ、手を振り払ってしまった。

 

「そう言うと思ったよ。だから、こう考えよう。天哉は21人を救えなかったんじゃない。天哉はクラスみんなの生命を護ってくれたんだよ。誰よりも率先して護ってくれたんだよ」

「……俺が、護って?」

 

 わけも分からず俺はその言葉を繰り返す。俺は間接的にとはいえ人の生命を奪ってしまったのに。

 

「そう。君が護ってくれたの。クラスの20人と先生たちを合わせたら22人。救えなかった人数より多いとか言うつもりはないけれど、22人は確かに君が救ったんだよ。天哉が救ったこの22人の生命に価値はないの?」

「そんなわけないじゃないか。でもそう考えるのはきっと正しくない」

「その正しさは誰が言ったものなの? お兄さん、オールマイト、それとも君自身? まぁ今の君がそう思うんなら正しくはないんだろうね。私みたいに割り切れとまでは言わないよ。強制はしない。でもね。私は何度でも言うよ。みんなを、私を護ってくれてありがとうって」

 

 認められない。認めたくない。相反する気持ちが胸の中でぐるぐると巡り廻る。

 

 だがその言葉を俺は欲して居たのかもしれないと思う気持ちも確かにあった。決してその言葉は免罪にはならないとわかっている。しかし無意味ではなかったと、護れたものが確かにあったのだと、彼女は俺にそう教えてくれようとしている。

 

「今は、そう考えよう?」

「いや、それはできない。してはいけない」

「知ってたけど頑固だね。でも私の気持ちは知っておいて」

「それは理解したつもりだ。納得は、まだ正直できないが」

 

 嘘は言えない。だが彼女の言葉が正しいと思える日が来るのかもしれないし、違う答えが見つかるかもしれない。それまでは安易に答えるべきではないような気が俺にはしていた。

 

「そっか。でも、少し男前な顔に戻ったね」

 

 そう言って彼女は俺のメガネを少し持ち上げ、目尻に溜まっていた涙を指で優しく拭う。また俺は泣いていたのか。

 

 そしてふと思い出した。言い忘れていたことがある。彼女に言わなければならないことがある。

 

「猪地くん、生きていてくれてありがとう。俺に教えてくれて、ありがとう」

「うん、どうしたしまして。一緒に強くなろうね」

「勿論だ」

 

 ポケットからハンカチを取り出し、彼女の涙を拭う。綺麗な顔が台無しだ。

 

「ありがとう。でも何これすっごく恥ずかしい。自分で拭くから貸して」

「あぁ」

  

 彼女にハンカチを渡し、俺は残ったジュースを一気に飲み干した。仰いだ先にふと見えた飛行機雲。まっすぐに上へ、上へと青いキャンバスに白線が伸びていく。

 

「私、すっごく気になって仕方ないんだけど、なんで女物のハンカチ持ってんの?」

 

 白いレースのハンカチは俺が持つには似つかわしくないだろうが、なぜそんな目で睨まれなければならないのだ。解せない。

 

 


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