俺と巡理くんがようやく戻ってきたときに、応援席にいたのは切島くん、芦戸くん、口田くん、砂藤くん、障子くん、葉隠くん、梅雨ちゃん、八百万くん、耳郎くんだった。残りはレクリエーションに参加していたり、決勝に備え別の場所で待機しているらしかった。
「随分と遅くなってすまない。これは差し入れだ。みんなで分けてくれ」
「ありがとー副委員長、めぐりん。でも全員分だと結構したんじゃない? 貰って良いの?」
芦戸くんがジュースの入ったビニール袋を受け取りながら言う。
「良いよ。入場整理のお手伝いしてたら、虎さんからちょっとしたオヤツ代にでもってポケットマネーからお小遣い貰っちゃったし」
「なら遠慮なくね。ラムネ貰いっ! はい、切島!」
巡理くんの言葉に安心した芦戸くんが次に回していく。とりあえずこの場に居るメンバー全員に行き渡ろうとしていたときだった。
「ちょっと待った―! 飯田、何テメェ買収していやがんだ。異端審問の時間はこれからだぞ」
レクリエーションから戻って来たらしい峰田くんが妙に脂ぎった手で何かを揉みしだくような所作をしながら声を張り上げた。
「聞きたいことは色々あるけどよ。まずはこれだ、一体この写真は何だ? これお前と猪地だろ?」
同じく席に戻って来た上鳴くんがスマホの画面を俺の眼前に突きつけた。そして彼は薄っすらと赤く腫らした眼で問いかけてくる。SNSにアップされた写真に映っているのは、プッシーキャッツと共に口上のポーズを取る俺と巡理くんの姿だった。
「八百万くんには説明したんだが、メビウスのロビー活動で入場口が混雑していたらしくてな。彼らに顔の効く巡理くんにプッシーキャッツから要請がかかっていたんだ」
「相澤先生に許可も貰ってるし、証拠だって……」
「違う。俺たちが聞きたいのはそういう事じゃねぇ!」
「峰田ちゃん、とりあえず手についたその背脂を拭くべきだと思うわ」
一体何があったら背脂が手に付着する事態になるのだろうか。艶やかに光る指先を巡理くんに向けた峰田くんが激しい声を上げる。
「顔を効かせるのが目的なら何でメガネまで掛けて変装してるんだ? そしてその髪はなんだ猪地! いつの間にゆるふわウェーブにしやがった?! ギャップで欲情するじゃ――」
「公共の場で恥ずかしい言葉叫ぶな。峰田」
いつの間にか峰田くんの背後をとった巡理くんの手刀が、彼の後頭部に鮮やかに決まり一瞬で沈黙させた。
「流石、猪地。いつもながらやっぱり動き出しに気づけねぇ。横にいる俺でもこう感じるってことは、視線じゃなくて。うーん……」
USJ以降向上心をクラスで最も全面に出している切島くんが、脳味噌を振り絞って真面目に今の動きを分析する。模擬戦のときに俺もやられたが、個性を利用した気配の消し方や初動の滑らかさが上手いな。普段は後方支援に回る彼女だが、ソロで彼女と相対するときにはそのあたりの攻略が必要になるだろう。
巡理くんは間違いなくトーナメントを上がってくるはずだ。目の前の試合に全力を尽くしつつも、しっかりと俺も対策を練らなければならないな。
「学外に出るまでの間、あんまり目立ちたくなかったから変装してたんだって。でも入場口で元に戻しそこねてたの。眼鏡とそばかすは戻したけど、髪を真っ直ぐにするのは籠手がないと難しいからそのままなの。はい、おしまい!」
パン、と一つ手を鳴らし話を終わらせようとする巡理くんに対し、上鳴くんがまだ質問を加える。
「ちょっと待て。まだ納得行かないことがある。猪地が飯田と行動していたのは、自由行動は二人一組って決めてたからまだ理解できる。だが飯田、お前いつから猪地のこと下の名前で呼ぶようになった?! 朝は違ったよな。何かあっただろ。吐け! 吐くんだ!」
「吐け、吐くんだー!」
「ちょっ、透ちゃんまで?!」
「名字の方で呼ぶと外で目立つだろう。だから下の名前で呼び合おうということになったんだ」
簡潔に質問に答える。だが確かに下の名前で呼ぶ理由もなくなった。普段通りの呼び方に戻した方がいいのだろうか。だが名前呼びは親密さを表すと言う。梅雨ちゃんも下の名前で呼んでいるのだし、このままの方がいいのか。故に判断を彼女に委ねる。
「巡理くん、俺は君に対してどっちの呼び方をするべきだろうか?」
「名字呼びはお母さんと一緒だから、あんまり好きじゃないかな」
呟かれた言葉は“名前が良い”ではなく、“名字が好きではない”という後ろ向きなもの。再び陰を垣間見せる彼女に対して今の俺にできるのは――――
「わかった。巡理くん、と」
この一言を届けることだけだ。
「うん」
「ふふふ、オイラの嫁になれば名字も変わる。万事解決だぞ」
片膝を付きながら立ち上がる峰田くんが、不敵な笑みを浮かべる。背脂と涎まみれになっている彼はおそらく良からぬことを考えているのだろう。
そんな彼に向けて冷ややかな目で「断固お断りだね。恋愛感情以前の問題」と一刀の元に斬り伏せる巡理くん。
「ぐふぅ?!」
「……いつの間に起きたんですの?」
「勝手に精神ダメージ受けんなって峰田。地の底に落ちてるお前の好感度なら当たり前だろ。まだ爆豪と言われた方がツチノコの存在程度には信じられる」
コーラを口にした砂藤くんが、両胸を抑え悶え苦しむ峰田くんへと辛辣な正論を浴びせる。峰田くんの評価に対する的確な形容に、女性陣からは盛大な拍手が送られた。
「そう言えば名前といったら、B組の塩崎ちゃんとアドレスを交換したときにから噂を聞いたんだけど、毎年の流れだと体育祭の次の登校日にヒーロー名を決めるらしいわ」
「ヒーロー名か。確かにヒーローになった後は、家族以外から本名で呼ばれることはかなり少なくなったと兄も言っていたな」
「おおっ! ヒーロー科っぽいな。もうそんなに早く決めるのか。高ぶって来るな」
切島くんが自らの拳を重ね合わせ、気合を入れるような仕草を見せる。
「切島くんはもう決めてそうな感じだね」
「おう、前々から考えていたからな! でもまだ発表はみんなと一緒にな。そう言う猪地――って呼ばれるのは嫌いか。いやでも女子みたいに“めぐりん”とか“めぐめぐ”とかは流石に気恥ずかしいしな」
「普段から飯田みてぇに女子にも“くん付け”している訳じゃねぇし……」
切島くんと砂藤くんが頭を捻らせていると上鳴くんがポンと手を鳴らした。名案でも思いついたようだ。
「“イノっち”とかどうだ? 学校に一人くらい居るけどよ。語感もイメージも大分変わるんじゃね?」
「呼びやすいし、上鳴にしては珍しく良い案じゃない? めぐりはどう思う?」
賛同する耳郎くんに対し、上鳴くん自身は「珍しくってなんだよ」と抗議の声を上げている。
「うん、“イノっち”か。いい名前考えてくれてありがとうね。名字呼びよりはそっちで呼んでもらえると嬉しいかな」
「よっしゃあ! イノっち採用! どうだ峰田、こうやって女子から好感度は稼ぐんだぜ!」
「でもチアガール未遂の件、上鳴くんも共犯だったよね」
「あの、それは未遂ってことで……」
「未遂でも君たちは女子に恥をかかせるところだったのだろう。それは良くないことだぞ」
「好感度もプラマイゼロですわね」
俺たちの言葉でがっくりと肩を落とす上鳴くん。かなり際どい衣装を公共の場で晒してしまう寸前だった周りの女子たちも「うんうん」と頷いている。
「あ、切島くん。さっき私に何か言いかけていたみたいだけど何?」
「別に大したことじゃねぇけど。イノっちはヒーロー名考えてるのかって、流れで聞こうとしていたんだがよ」
「うん、決めてるよ。ずっーと前から。でもきっとみんなビックリするから、発表は授業のときでね」
サラリと流すように言葉を発する巡理くん。他のみんなはというと、あのヒーローの名はセンスがあるだとか、シャレが効いているだとかのヒーロー名談義で段々と盛り上がり始めている。
俺もその間数メートルほど離れた場所に移動して、兄さんに電話をかけてみた。しかしおそらく仕事中だったのだろう、電話に兄さんは出なかった。こうなったら優勝の座をもぎ取ってから報告したいものだ。そう気合を入れ、みんなの下に戻ろうとする。
どうやら巡理くんは賑やかに語り合うみんなの様子を見ながら、青リンゴを齧っているようだ。今日の食事いつもと比べて野菜や果物が少なかったから試合前に補給の必要があるということだろう。
「私がレスキューワン、か。悪い冗談だよね」
掠れた小さな声で。だが間違いなく彼女がそう呟いたのを俺は聞き逃さなかった。そして、彼女も個性で後方に居る俺の存在に気づいたのだろう。
「天哉?! もしかして、今の――――聞こえてた?」
瞳孔を見開き、普段のトーンよりも一段と低く抑えた声を出す彼女。そして彼女が食べかけのリンゴを取り落としたのを、地面に触れる前に何とか俺は空中で掴み取ることができた。
「あぁ、聞いてしまった。だが、その名前は――――」
“君の父親が殺したヒーローの名前だろう。その名を名乗るつもりなのか”
他の誰かが聞いていてもおかしくないこの場で、そう発言するだけの勇気は俺にはなかった。故に俺は口をそこでつぐんでしまう。
「気を使ってくれてありがとうね。でも、これが私の
リンゴを受け取った巡理くんは、伽藍堂の瞳で俺にそう語り続けた。その瞳を見て、あの病室での日々を不意に思い出す。
「お母さんのやり方じゃなくて、
彼女はそう主張する。“
「その考えが決して歪だとは言わないし、君の事情を全て知っているわけではないが、義務感に囚われ過ぎではないのか? 気負い過ぎは良くないぞ」
だから巡理くんを思いやったつもりで俺は言葉を投げかけた。そう、自分なりに思いやった
「言いたいことはわかるよ。でも気負うしかないじゃん。だって楽に生きていく道なんてないんだもん。私は君みたいな良家のお坊ちゃんとは違うんだよ」
いつの間にか俺に向けられた語気が、峰田くんや、爆豪くん、相澤先生に対するものに近くなっている。先程はごくごく当たり前の意見を述べたつもりだった。こんな態度を取られる覚えは他にないが、目の前の事実として巡理くんは妙に苛立ちを見せていた。
「それに義務感でヒーローになりたいって人、なったって人はいくらでも居るでしょ、きっと。モテるためなんかよりマシじゃん。それに前々から思っていたけど――――お兄さんへの憧れ以外でさ、ヒーローになる動機を君は持っているの? その理想や動機は借り物じゃないの? 私と君で何がどう違うの?」
「それはっ…………」
その続きを俺は言わなかったのではない。言えなかった。今までこの命題について全く考えたことがないわけではなかった。だが彼女に返せるだけの明確な答えを今の俺は持ち合わせていない。そして数秒の沈黙の後に俺はようやく口を開く。
「巡理くん落ち着け、別に君を責めたいわけじゃない。先程から君はわざと論点をずらしていないか。ただ、要らない苦労まで新たに背負う必要はないのではないかと言いたかっただけで俺は――」
「全部が全部とは言わないけどさ。結構上から目線で物を言うよね、
俺の言葉を遮るようにそう告げた巡理くんは、もう話すことはないとでも言わんばかりにリンゴを再び口にした。
× ×
『さぁ待たせたな。ヘイガイズ、アーユーレディ!?』
セメントスの会場設営がようやく終わり、プレゼントマイクの声が鳴り響く。昼休憩も終わり、出番の近い人間以外はまとまって着席していた。
「いよいよ始まるな。みんなで緑谷くんを応援するぞ!」
「おー!」
俺の呼びかけに対し、快くみんなが答えてくれる。芦戸くんと葉隠くんはチア衣装のボンボンを手に持って頭上で振っている。せっかく作ったのに、使わないと勿体無いからということらしい。
『頼れるものは己のみ! 最後はこれだぜガチンコ勝負!』
声掛けの後、俺も席に着くと左隣の障子くんが小声で話しかけてきた。
「飯田、実はさっきの口論を聞いてしまったのだが、大丈夫か?」
「俺は大丈夫なんだがな。彼女の方があの様子のままだ。君はどこから聞いていた?」
「あのヒーロー名を呟いたところからだな」
「あ、ゴメン。ウチもそれ最初から聞いちゃってた」
右隣の耳郎くんがこっそりと呟く。この二人相手には流石に聞こえていたか。
「飯田は悪くないと思うよ。さっきのは完全にめぐりの方が悪いって。完全にアレってただの言いがかりじゃんか」
「その内アイツも落ち着くだろうが、犬に噛まれたとでも思うしかないな」
「確かに強引に話を持っていかれた感はあるんだが、俺自身思うところがないわけでもなくてな」
「ウチはどっちも考え過ぎだと思うんだけどね。真面目人間は大変そう」
そう言って手元のスマホを覗き込む耳郎くん。
「午前の部の様子がSNSで結構取り上げられているみたいだね。へー、意外と緑谷人気だ」
「トータルの成績も麗日に次いで二位、かなり目立っていたからな。頷ける結果だ」
「第二種目でかなり制御を掴んでいたようだしな。緑谷くんの動きを良く見ておかなければ」
「ここで緑谷が勝ったら、次は常闇と爆豪でしょ。相性的にどう考えても爆豪が上がってくるし、幼馴染対決になるのか。なんか怖いもの見たさ感あるよね」
「確かに怖いものがあるな。絶対荒れる爆豪の姿を放送していいものかどうか……」
障子くんの最もなセリフに耳郎くんと一緒に頷く。
『早速始めるぞ一回戦! 顔は冴えないが成績は両方二位と冴えまくってるぜ! ヒーロー科、緑谷出久!』
観客席から怒涛の勢いで押し寄せる歓声。最終トーナメントだけあって凄い盛り上がりだ。
『
B組の鉄哲くんは確か身体を鋼のように固くすることができる個性の持ち主だ。切島くんと同じく攻防両方に長けた個性と言えるだろう。緑谷くんの個性無しでの攻撃が通用する相手ではなく、かと言って個性を全力で使ったら大変なことになる。緑谷くんの制御の精度がこの試合の肝となるだろう。
プレゼントマイクによる試合ルールによる説明、簡潔に言えば相手を行動不能、場外もしくは降参させれば勝ちという単純明快なものが行われ、戦いの火蓋が遂に切られようとする。
『そんじゃ始めるぜ! レディースタート!!』
開始の合図と共にリングを縦横無尽に駆け回る緑谷くんのその姿は、直線的な俺の動きよりも爆豪くんのような小回りを効かせた動きをリスペクトしているように感じられる。下半身のみで出力を極小まで絞り込む“
危なっかしくはあるが、きっと彼は勝ち上がってくるだろう。そう信じさせるだけの頼もしさが、今の彼からは感じられる。俺も頑張らなくてはいけないな。
「緑谷くん、頑張れー!」
俺は彼の試合中、力の限り叫び続けていた。モヤがかった胸の内を忘れようとしたいかのように。
初デートの後に初喧嘩。
わりと気分屋で闇が深い彼女と、綺麗な世界で生きてきた真面目過ぎる彼。
そう易々とは恋愛成就させません。