(暗い……)
最初に眼に映ったのは、限りないどこまでも広がる暗闇――
その光景を前に、ゾクゾクと頭を刺激する何か――
(何だこの感覚は……)
今までに感じたことのない痛みと興奮――
いや、違う
この感覚を、オレは知っている
今までに何度も経験した、なんでもない出来事――
これは、目覚めだ――
「………汚ったねぇ」
重い瞼を開くと、目の前の光景に思わず言葉が漏れた。
薄暗い空間、多数のひび割れが目立つ天井。
オレはいま、仰向けになって倒れていることを理解した。
「どこだここは……」
何故か感覚が鈍い身体を起こし、周りを見渡す。
眼に映るのは天井と同様にひび割れの目立つ壁と、床には身体に掛けられていたわけではない雑に広げられた薄汚れた毛布のようなもの、隅に寄せられたゴミの詰まった袋。
人が住んでいるような環境ではないが、オレにはどこか生活感が感じられた。
「廃墟かなんかか?ここは……」
オレがなぜこんなところに居るのか考え、そして気がついた。
「……わからない?」
オレは誰だ?
なんでこんなところに居る?
ここはどこだ?
昨日のことが、何も思い出せない。
不意に、頭に衝撃が奔った。
「ヅッ!?ガァッ!!」
耐性のない痛みに思わず身体を丸め、頭を抱えた。
頭の中をかきまぜられているかの様な尋常じゃない痛み。
今までに経験したことのない――思い出せないのにそう考えてしまうほどの衝撃を感じた。
「フゥーッ!!フゥーッ!!」
息を整えて痛みを落ち着かせる。
身体から噴き出る汗が服に染み込み、身体が冷えてきたところで少しずつ痛みが引いた。
「ハァー、ハァー、……クソっ、なんだってんだよ」
何も思い出せないの記憶喪失だけじゃなく、理不尽な頭痛まで出てきて意味がわからなかった。
立ちあがって自分の身体を見下ろす。
黒いシャツにジーンズ、何故これを着ているのかはわからないが、記憶はないのにそれが何を指すのかは理解できている。
記憶喪失にもいろいろあるってことか。
目に映る光景から考えるに、オレの身体はそこそこ伸長も高いようだ。
それに鍛えていたのか体つきもしっかりしている。
しかしどういうわけか身体が重い。意識と動作が一致していない。
何もない床で寝ていたからか?と考え、何故か即座に否定できた。
この程度の環境で何かが変わる身体じゃないと思ったからだ。
「しかし暗いな。今何時ご――」
不意に人の気配が近づくのを感じ、反射的に息をひそめ部屋の隅に隠れた。
あまりにもスムーズな自分の動作に一瞬驚いたが、今は余計な考えをしてはいけない。
感じる気配が2つで、どちらもある程度気配を消している状態だからだ。
(……ここにむかっているのか?)
近づいてきている気配は確実にこの部屋に向かってきている。
もしかするとオレをここにつれてきた存在かもしれないと考えたが、部屋の扉を眼の前にして2つの気配のうち1つが歩みを止め、気配が完全に消えた。
オレに気がついた、と瞬時に理解すると同時に、この2人にとってオレはイレギュラーだと確信した。
唐突に扉が開かれ飛び出してきたのは消えなかった気配の1つ、細身の男だった。その顔には容赦など微塵も感じられない――心地のいい殺意だけを写していた。
迫る男の拳を前にしてオレは――
いつものように人を襲い、いつものように物を盗り、いつものように人を殺す。
そうした生活を続けてきて、もう10年以上になった。
禁止区域で生まれて20年近く、何も変わらない人生。
劣悪とも言える環境で育ち、病に侵され、10歳くらいから身体は成長しなくなった。
この禁止区域でそれなりに顔を利かせてた父親は取引で裏切られ、無残にも殺された。
母親は父親を殺した連中に連れていかれた。たぶん犯され、殺されたんだろう。
女が禁止区域で生きられるのは自分が強い力を持つか、護ってくれる人のそばに居るか。
前者は才能が求められ、後者は禁止区域で成立しない。
ここは誰も信じてはいけない、信頼や絆が自分を殺す世界。
この地で生まれたことで幸運とは言えないかもしれないが、わたしには才能があった。
気配を殺し、確実に急所を突く。最初はリスクが少なく抵抗の弱い子どもだけを狙い、次は自分と同じ非力な女、経験と実力をつけてから男を殺した。
人を殺すのは卑怯で、卑劣で、たぶん善くないことなんだろう。でも一番大切なのは自分。他人の命と天秤に掛けたとき、重いのは自分の命なのだ。
碌な死に方はしないだろうなと考え始めたのは隣を歩く男、須藤恭一と仕事で組むようになってから。
須藤は禁止区域に存在する比佐美駅を拠点とした組織の一員で、元々は表の世界の人間だったらしい。
実力もありかなり頭がキレると同時に、狡猾で残忍な考えを持つ彼は禁止区域でも敵にまわしてはいけない人間として恐れられている。
そんな須藤がわたしの殺しの腕を買い、仕事で協力関係を持つようになった。
須藤は権力者の女を見つけ次第奪い、犯しているという評判を聞いたことがあったが、わたしにはどうでもよかった。身の危険を感じれば殺すだけ。
須藤は実力者だが、リスク管理は徹底していた。須藤も須藤でわたしに対し、未成熟な身体に興味はないと言いきった。
仕事だけの関係は禁止区域においてとても大切なものだ。
「おい、今日はこのあと寝床に女連れるから違うところで寝ろよ」
仕事を終え仮拠点である廃墟のアパートに向かう途中須藤は言った。
須藤は仕事を気分よく終えるとそのあと女をさらってきては犯す習慣がある。
須藤の仮拠点を寝床にしているわたしは特に不満もなかった。
「わかった、毛布を持ったらすぐに出ていく」
「へへっ、お前がいい体つきなら付き合ってもらってたんだがよ~」
「悪い冗談はやめて、殺すわよ」
「ヒヒッこえーこえー」
こういう言葉を交わすのも何度目なのか数えることすらくだらない、仕事終わりの恒例の習慣。
拠点に近いこともあるが、ある程度の実力者が2人もいることでわずかでも気が抜けていたのかもしれない。
「――止まって」
「アン?なん――なんだこいつは」
仮拠点の寝床にわずかながら――神経を集中させてようやく感じる1つの気配、それも気配の消し方が尋常じゃないレベルで上手い。
たとえ気が抜けてなくてもこの距離より前に気が付けていたか自信がないほどの気配の消し方、相当の実力者。
しかしわずかながら感じる気配にはムラがあり、それだけに思い当たる人物が浮かばない。
「わたしは横から行く。須藤は扉から」
「オイオイ、ないだろうけど自分だけ逃げるなよ?」
「それは私のセリフ」
須藤から張りつめた空気を感じ、気配を完全に消してから即座に行動を移す。
隣の廃部屋から寝床の壁を突き破る――壁のひび割れによってカモフラージュされた奇襲用の入り口だ。
まさか使う機会がくるとは思っていなかったが、出し惜しみするものでもない。寝床はこの廃墟でいくらでも用意できる。
廃部屋から須藤が存在に迫るのを気配で感じたと同時にこちらも仕掛ける。
壁を蹴りで簡単に突き破る。破片をデコイに意識を持っていかせ裏を取れば――と考え、目の前の迫る状況に意識を奪われた。
須藤が存在――口から血を垂らした若い男に片手で首をへし折られていた