魔法陣からほとばしる魔力光が消える。雷が消える、突風が消える。代わりに現れたのは、おおらかで暖かな雰囲気を放つ女性。
「伺いましょう」
女が問いかけてきた。その声の凛とした響き。それでいながらどこか母や姉のように包容力のある佇まい。矛盾しつつも完全に両立したそれに、司はすっかり魅入られた。眼前の脅威である白い槍兵の存在も忘れて。
「貴方様が、
サーヴァント・セイバー。この偽りの聖杯戦争で召喚されるサーヴァントの、七騎目。最後の一騎。それがついに盤上に現れたのだ。
「あ、ああ、うん。そうだよ」
月下に映えるセイバーに見惚れながら、司は呆けたようにそう言った。マスターであることを証明するように、右手の甲にある令呪を見せる。
剣を三画に分けたような刻印が、そこにあった。
「了解いたしました。ここに、契約は完了です」
凛としながらも落ち着いた、柔らかい声音。セイバーは司に対して微笑み、凛とした視線を槍を構えたランサーに向けた。
「敵ですねマスター。お話はあとで。まずは、迎撃いたします」
一言おいて、セイバーは地を蹴った。
ランサーに肉薄するセイバー。その背後の空間が
いずれも飾り気のない大量生産品と思われるもの。セイバーがすでに右手に握りしめている一本と全く同じものだ。
そして、八本のうち四本が弾丸もかくやという速度でランサーに向けて放たれた。残りの四本はまるで護衛のように切っ先をランサーに向けたままセイバーの周囲を浮遊していた。
自身に向かって飛来してくる四本の剣を、ランサーは手にした槍で打ち払う。大気を叩く槍。叩き落とされた剣が甲高い金属音を奏でる。
その隙に肉薄するセイバー。右手の剣を一閃。ランサーはバックステップで回避。
「あっ。待ってください!」
なぜか焦ったようなセイバーの声と台詞。だがそんな言動と裏腹に、彼女の剣からは殺意満点だ。逃がさないとばかりにセイバーの周囲を浮遊していた剣の一本が追いすがる。
短い呼気と共に槍を一閃するランサー。迎撃の一撃が迫る剣を弾く。
だがランサーも攻められてばかりではない。先手を譲りはしたが、彼とて英霊、歴戦の戦士。剣を弾いた動きを止めず、むしろ槍の遠心力を利用して旋回。弧を描く横薙ぎの一撃をセイバーの右手側から放つ。
対してセイバーは残る三本の剣を右手側に展開。防御に回した。
激突。砕かれる剣の壁。だがその後ろにさらに三本の剣が壁となっていた。その奥にさらに三本。次々と補充される剣にランサーは眉をしかめた。
結果、合計九本の剣の犠牲をもってセイバーはランサーの攻撃を凌いだ。後に残ったのは攻撃を放った直後のランサーと、いまだ右手に剣を握り締め、疾走を止めないセイバーの姿。
「行きます!」
セイバーが加速する。彼女の足元が爆発したかのように土塊をまき散らす。踏み込みの威力故で、砕かれた石畳の破片や土塊、野草が後ろに散弾のように吹っ飛んでいく。
彼我との距離が即座に0に近くなる。右足を軸に旋回するセイバー。ランサーの左側面――槍を手にしていない側だ――から首を狙った一閃が放たれる。
鮮血が舞い、地面を汚した。
息を呑んだのはセイバー。彼女の一閃を、ランサーは掲げ上げた左手で受け止めていた。
剣が食い込むが、それはランサーの鎧と、左腕の筋肉と、骨の半ばまで埋め込まれて止まった。
「離れろセイバー!」
魔術で視覚を強化した司は、一連の動きを傍観者的視点で眺めることができた。だからこそランサーが肉を切らせて骨を断つ覚悟であることを知れた。
しかし警告は間に合わなかった。警告を放つ前に行動は終わってしまっていた。
これがサーヴァント同士の戦い。
司の指令通り、剣を手放して離脱しようとするセイバー。だがランサーはそれを許すほど甘い男ではない。
跳ね上がるランサーの右足が、砲弾のような勢いで激突。まさしく鉄骨をフルスイングされたような衝撃がセイバーを襲い、彼女の身体を砲弾のように吹き飛ばした。
大気が押しのけられ、セイバーの身体が地面に激突する。轟音と土塊、石の破片、その他の欠片を巻き上げてバウンドし、さらに祠堂の屋敷の壁に激突した。
セイバーを蹴り飛ばしたランサーだったが、彼はその場から動かなかった。
冷静に考えればセイバーが
だがランサーの頭によぎったのは疑問だった。
セイバーを蹴り飛ばしたときの手応え。それが妙だった。そう、妙に硬かったのだ。であれば、セイバーへのダメージは少なく、戦線復帰は容易だと見るべきだった。
ならばここでマスター狙いに移行してセイバーに背を向けるのは得策ではあるまい。
そう思い、槍の穂先を祠堂邸の空いた穴に向けた時、反応が返ってきた。
いまだ立ち込める粉塵を突き破って迫る三本の剣と、それに一歩遅れて疾走してきたセイバーだった。ランサーの予想通り、その身にダメージは見られない。
三本の矢と化してランサーへと突き進む直剣。そして自身を四本目の矢と化して肉薄してくるセイバー。それらを、ランサーは槍一本で迎え撃った。
司は違和感を覚え、困惑していた。
ランサーの動きがおかしい。不調があるのではない。その逆だ。ランサーの動きにはあまりに阻害感がない。
ランサーは先ほどセイバーの剣撃によって左腕を傷つけられたはずだが、司が見る限り、彼の槍捌きに翳りは見られない。両手を使って槍を自分の手足の延長のように自在に操っている。そこに傷による負荷は見られない。
また、司がセイバーを召喚する前――司もランサーも知らないことだが――アサシンの宝具、
何らかのスキルか宝具なのは間違いない。だから司は叫んだ。
「セイバー! ランサー相手に長期戦は不利だ! 理屈は分からないけど、ランサーは自分の傷を回復させる
「承知しました!」
凛としたセイバーの
剣と槍の英霊が再び激突した。
剣戟が響き、火花が散る。音が一つ奏でられる度、火花が一つ咲くたびに、祠堂家の中庭は破壊されていく。
ガス灯が根元から折れ倒れ、地面は抉られ、花々が散っていく。セイバーとランサーの戦いは一進一退だった。
セイバーが繰り出す剣をランサーの槍が弾き、カウンター気味に放たれる槍の一突き、一薙ぎはセイバーによって躱される、或は彼女の周囲を浮遊する剣によって阻まれる、または逸らされる。
顔面狙いの刺突を首をひねって回避し、数歩後ろに下がって槍の距離を開けたランサーは思案する。
セイバー自身の剣は正道を行く。英霊の一席に連ねるだけあって、踏み込みは力強く、剣の振りは鋭い。だがそれらはあまりにも正直すぎる。言ってしまえば教科書通りの正統派。戦場で培われた技術ではないため、怖さを感じず、読みやすい。今もまた、刺突を躱され流れたセイバーの、空いた下腹に槍の柄を叩き込もうと槍をしならせた。
たいていはここで当たり、セイバーの呼吸を乱せるはずだ。
が――――
「ッ!」
流れたセイバーの身体を補助するかのように、虚空から剣が飛び出してランサーを牽制する。
この剣自体は一級品でも何でもない。そこらの雑兵が持っていてもおかしくない量産品にすぎず、特別なものは何もない。サーヴァントの持ち物なので、勿論同じサーヴァントを傷つけられるがそれだけだ。
だがその数は異常だった。何度叩き落とし、へし折っても次から次へと新しい剣がセイバーの手の中、または彼女の周囲に現れる。
おそらくその剣を収納する“蔵”のようなものが彼女の宝具だと思われるが、それにしてはやはりおかしなことがある。
先ほどの一撃を躱された時も感じたことだが、この剣はセイバーの意志を離れているように感じられた。
御しきれていないのだ。彼女は。
再び火花が散る。セイバーの踏み込みに対して機先を制し、ランサーが穂先を彼女に叩き込んが、突如現れた剣がそれを阻む。今の一撃は完全にセイバーの意識の外だったはずだ。にもかかわらずの反応は、やはり宝具自体に何か別人の意志が介入しているとしか思えない。
それも一人ではなく、複数。
ならばとランサーは戦法を変えた。槍の柄を短く持ち、あえて距離をセイバーの剣に合わせる。
刺突による引き戻す時間を最小限に、ランサーは槍を繰り出した。
切り替わったランサーの戦術に、セイバーはわずかに困惑したようであった。
ランサーは構わず攻め立てる。
突き、突き、薙ぎ払い、足払いを使った奇襲からフェイントを織り交ぜ、さらに突き、柄を短く持っているが故に剣の様に使うこともあれば、持ち手を反転させて長いこん棒のように振り回す。
「く――――――。あっ!」
そしてついにセイバーはランサーの槍捌きに絡めとられた。
足払いがかかり、セイバーの両足が地面から離れ、浮き上がる。
転倒こそ免れたが、空中で体勢を整え、着地に備えたセイバーは迫るランサーに対処できない。自動迎撃に出た剣でさえもその影を捕えられなかった。
ここにきてランサーの速度はいや増した。今までも決して手を抜いていたわけではないが、ランサーはここぞというタイミングで己の速度を最大限に発揮したのだ。
もはや
狙いは鎧に守られていない、セイバーの後ろ腰。ここにまず一撃。そして追撃を加えるつもりだった。
行く。柄の中ほどに持ち替えての刺突の一撃が、狙い過たずセイバーの後ろ腰を捕えた。
「な――――――――」
しかし、驚愕の声はランサーの唇から漏れた。
ランサーの一刺しは確かにセイバーを捕えていた。だが、槍の穂先はセイバーの皮膚で止まっていた。正確には、セイバーの白磁の肌の上を走る、黒い茨によって。
茨の痣。セイバーの左わきあたりに螺旋を描いていたはずのものが、いま彼女の背面に移動していた。どうやらこの痣は痣の形をしたセイバーの宝具らしく、――先ほどの蹴りからセイバーを守ったように――防御力を向上させるのかとランサーが思った瞬間、茨の影は意志ある物のごとく蠢き、ランサーの槍に絡みつき、柄を伝ってランサー自身に迫った。
「く――――――」
苦痛の呼気が漏れる。平面の茨が槍からランサーの手首に巻き付いた瞬間、焼けるような痛みと締め付けられる痛みが彼の痛覚を刺激したのだ。
セイバーが左足を軸に旋回した。すると茨は痣ごと移動し、セイバーのへそ周りへ。しかしランサーの腕を締め付ける力も茨も消えはしない。
地を蹴りセイバーから距離を取るランサー。だが茨は物理的な干渉力と拘束力を持っており、ランサーを捕えて離さない。
いつの間にか、平面の茨は三次元空間にその足を延ばしており、立体化し、本物の茨のようにランサーの腕に巻き付いた。
影の茨が手首から二の腕に這い上がってくる。
この熱と痛み。これは――――
(呪い、か)
何らかの呪詛、怨嗟。そういうものの具現だ。分類としては悪霊、怨霊に近いかもしれない。間違いなくセイバーの宝具。そしてランサーは、セイバーの真名がまっとうな英霊のそれではなく、いわゆる反英霊に属するものと当たりをつけた。
セイバーが迫る。影の茨で互いにつながっている、いわばチェーンデスマッチ状態なので、下がるにも限度がある。
リーチの長さを生かす、という槍の利点は完全に潰された。寧ろここは剣の、即ちセイバーの間合いだ。
果敢に攻め立てるセイバー。ランサーは槍の柄を再び短く持って応戦する。
上下左右、ショートレンジに立て続けに繰り出される剣に加えて茨が振られ、ランサーの体勢を崩そうとしてくる。
厄介だ。だがこの茨の本質が霊体であり、怨霊の類であれば――――
「――――――――――――」
ランサーの唇が紡いだのはある詠唱。効果は劇的だった。茨の鎖自体が身悶えするように蠢動し、自ら離れたのだ。
「洗礼詠唱!?」
セイバーはそのからくりをすぐさま見破った。ランサーは口角を吊り上げて笑った。
ランサーは距離を取って槍を繰り出す。
突きによる点の攻撃、かと思えば長柄を使った回転運動、線、円の攻撃に移行し、再び点の攻撃に帰結する。そして刺突が連続し、抉り、削り、磨り潰すような制圧面攻撃へと変貌した。
変幻自在のその槍捌きを、司は戦慄と愕然を抱え込んで見入っていた。否、既に視覚で捉えられる限界を超えている。何が起こっているのかはまだわかる――槍ではなく、ランサーの腕の動きを見ているのだ――がこんな攻撃を捌けるわけがない。
だがセイバーはそれに渡り合っていた。ランサーの槍を受け、躱し、捌き、それでも掻い潜られる一撃は自動防御の剣で受け、さらにそれさえも打ち払われれば茨の痣がセイバー本来の鎧となって防ぐ。
直接影の茨を巻きつければ、ランサーは『洗礼詠唱』スキルで脱出できただろう。だがこうしてセイバー自身の鎧となり攻撃を防ぐことはできる。それだけでも十分なのだ。
「このままではらちが明かきませんね。ならば!」
ランサーは地を蹴り、セイバーと大きく距離を離した。着地と同時に穢れを知らぬ白い槍を構える。
瞬間、まるで背骨が極太の氷柱にでも変わってしまったかのように、冷たい悪寒が司を襲った。
槍を構えたランサーから、言語にしようのない危険を感じたのだ。
そしてその感覚はセイバーも共有していた。それは魔術によるものではない、同じ戦場で同じ陣営にいる者たちが得られる天啓的な直感だろうか。
「宝具を使う気ですね」
「その通りです」
セイバーが身構える。迎え撃つという覚悟を、彼女はすでに決めていた。
ランサーの構えは槍術としてみれば特異なものではない。強いてあげれば、穂先を通常よりも地面に向けていることくらいか。
宝具発動の前兆か、ランサーの、とくに彼が持つ槍から魔力が零れ落ちる。
まるで嵐を凝縮し、槍の形にしたかのような、凄まじい乱流だった。だがそこに、禍々しさはない。悪寒を感じるのはあくまでも、相手の宝具に対する戦慄ゆえだ。
そのことからセイバーは、ランサーの宝具が呪いを帯びた武具や、魔槍の類ではないと推測した。もとより、槍兵でありながら『洗礼詠唱』スキルを持っているランサーに魔槍の類は似合うまい。自分とは違う。セイバーはそんなことを頭の片隅で思った。
セイバーが胸中で何を考えていようとも、彼女もまた呆けていたわけではない。彼女の身体を、茨の痣が這いまわる。螺旋を描いて一塊になっていた影の茨は今その蔓を伸ばし、絡め、セイバーの身体を覆っていく。さながら鎧か、或は逃がさぬと意思表示する拘束の戒めか。
いずれにせよ、これでセイバーの防御力は向上した。さらに彼女の周囲には八本の剣が浮遊している。八本、さらにその数は増え、前面に壁として展開した。
これがランサーの槍を迎え撃つ障壁だ。剣の壁、そして茨の鎧。セイバーが行使しうる防御手段の全てをここに注ぎ込む。
これでたとえ宝具を受けたとしても、少なくとも即死は免れるであろう。あとはカウンターで勝負。それがセイバーの考えであったかもしれない。
だが司は、セイバーの対処は間違いだと直感していた。
何故かはわからない。自分でも説明できない。ただ、ランサーの槍に対するセイバーの対処を見た瞬間、それでは駄目だという直感が、落雷のような衝撃を伴って司を貫いた。
目が痛い。ランサーの槍が魔力を渦巻き始めた瞬間、あれはセイバーにとってとてつもなく危険だと何故か理解できた。
ランサーの槍、白い槍が、穂先から赤い雫を垂らし始めた。血だと、鼻腔に来る微かな刺激から理解できた。
ランサーの宝具は発動秒読みだ。今からでは何を言っても間に合わないし、下手な助言、指示は返ってセイバーを困惑させ、致命的な隙を見せてしまうことになろう。
では魔術でランサーを攻撃し、宝具の発動を阻止するか? 論外だ。司には、マスターが持つ透視能力で、既にランサーのパラメータをある程度把握していた。
その透視能力から読み取れる、ランサーの持つクラススキル、『対魔力』のランクはA。事実上、ランサーは現代の魔術では傷つけられない。まったくのノーダメージならば牽制の意味さえない。
だがこのままランサーの宝具開帳を、セイバーの防御任せにしていてはいけないという焦慮にも似た思いは漆黒の暗雲となって司の心に広がっていった。
彼が決断を下したとき、ランサーが動いた。
「受けられますかセイバー。神を殺せし、罪深き我が聖槍を――――!」
ランサーが地を蹴った。槍から流れる血潮が飛び、地面に点々と散った。
「
一瞬にして速度は最高値を叩きだす。槍が走り、セイバーを貫こうと、二人を隔てる剣の壁さえもないもののように、その刺突は放たれた。
「
宝具解放。その真価が発揮される。セイバーは、次の瞬間に己の眼前に現れた事象を、一瞬理解できなかった。
壁となって連なる剣の群。それらが一斉に道を開けたのだ。正確には、槍の穂先が剣に触れた瞬間、触れたか所から剣自体が分解されていく。
まるで大海を割り、民を導いた古の聖者のエピソードの再現。血潮に赤く濡れた白槍は一瞬の停滞もなく、セイバーに向かって突き進む。
槍の軌道はまっすぐ。そこにフェイントなどの虚偽はない。が、その速度が凄まじい。セイバーは躱せない。だからこそ己の茨を信頼することにした。
剣が彼女の意志も、
(
一瞬をさらに寸刻みで引き延ばした時空間の中で、セイバーは決意を固める。そしてランサーを迎撃しようとした瞬間、セイバーは己の身体が急に沈むのを感じた。
驚愕がセイバーの脳裏をよぎった。その原因が、
司はランサーを止められず、かといって今セイバーに指示を出せば彼女自身を困惑させてしまうとわかっていた。だから彼は第三の行動をとったのだ。
司は行使した魔術はなんてことない、
だから司が狙ったのはセイバーではなく、その足元の石畳だった。
セイバーの左足下。そこは彼女が迎撃のために体重をかけていた場所だった。その地面が崩れたため、必然、セイバーもバランスを崩した。それが彼女を救った。
沈み込んだ標的を、ランサーの宝具はとらえきれなかった。左胸、即ち心臓を狙った一刺しは体の位置が低くなったセイバーの左肩を貫くにとどまった。やはり、茨の防御は槍の触れた瞬間から分解され、何の効果も発揮しなかった。
ニ騎のサーヴァントが交錯する。
「く……!」
地面に背中をつけて後転、起き上がりと同時にバックステップで距離を取るセイバー。その左肩口から血がとめどなく流れ落ちている。分解されたかに見えた茨はすでに元に戻っていた。だが己の宝具による防御が通用しなかったことに、セイバーは少なからず困惑していた。
「躱しましたか、我が神殺しの槍を」
仕留め損なったランサーが呟く。その右肩には剣が一本、突き刺さっていた。己の肩口を穿たれながらも反撃にはなったセイバーの一振りであった。
ランサーの視線は直死の一撃を回避し、己に一撃加えたセイバーからそのマスターに映る。
今、セイバーが九死に一生を得たのは彼女の力というより、マスターの働きによるところが大きい。
こちらの妨害は叶わぬ、セイバーの制止も不可能とみて、あのような実力行使に出たのだ。そして今も治癒魔術でセイバーの治療を行っている。
良きマスターだと、そう思った。自然、ランサーは笑みを浮かべた。難敵に対する賞賛の笑みだ。
「セイバー、無事かい?」
「はい、マスター。申し訳ありません、お手を煩わせてしまって」
「いいよ、そんなことは。君も無事だし。それより、ランサーの宝具の名前。あれは―――――」
司が言いかけたことを、セイバーは正確にくみ取った。
ランサーの宝具、白い聖槍の名。
ガイウス・カシウス。またの名を、聖ロンギヌス。
かの救世主が背信の弟子に裏切られ、十字架に掛けられたとき、その身を槍で貫き処刑したローマの百人長。一説には死した救世主の左脇腹を突き、生死を確認したともいわれている。
もともと盲目であった彼は、その際に出血した救世主の血が目に入り、視力を取り戻し、改心。洗礼を受けたともいわれている。
「間違いなく聖人認定されている英霊だ」
ランサーの真名を知れた。これは非常の重要な事柄だ。
だが同時に後に引けなくなったと、司は感じた。
通常、聖杯戦争において敵に真名を知られることは死活問題となる。
何しろ真名が分かれば、生前の死因の再現によって死を強要されたり、弱点が割れたりする。
ならば情報漏洩の被害を最小限にするにはどうするか? 答えは簡単かつ乱暴だ。口封じすればいい。
つまりランサーは、情報漏洩のリスクを消去するため、ここでセイバーと決着をつける必要が出てきたのだ。
とことんやり合う覚悟を司とセイバーは消える。ところが、ランサーは思いがけない行動に出た。
ランサーが構えを大きく後退する。まるで、どころか、まさしく撤退の姿勢だった。
「ッ! 宝具まで披露しておきながら、逃げるのですか!?」
「マスターの命令がありましたので。宝具は餞別にして名刺代わりです」
ランサーの視線がセイバーから司に映る。司は射抜かれたように肩を震わせた。
「セイバーが私の宝具を回避しえたのは、あなたの咄嗟の行動ゆえですね。で、あれば、あなたは戦闘全体を見る良い“眼”を持っている。その眼、大切に」
ではと敵意も害意もない言葉を残して、ランサーは撤退した。セイバーは追わなかったし、司も追わせなかった。セイバーもダメージを受けている。治癒魔術でも治りがいまいち遅い。これが己の腕の未熟さが原因であればいいが、ランサーの宝具の効果なら侮れない。深追いは避けるべきだと思ったのだ。
静寂が祠堂邸の中庭に降り立った。
とにかく司はランサーの襲撃を退け、セイバーを召喚で来た。あわただしいが、聖杯戦争の初戦はどうにか乗り切れたとみてよさそうだった。
ほっと一息ついた時、司はこちらを振り向いたセイバーの様子がおかしいことに気づいた。
「セイバー?」
こちらを見ているセイバーはどこかぼうっとしている。目の焦点が合っていないのに、瞳が潤んでいる。まるで熱にうかされた病人のようだ。
「えっと、いきなり戦闘だったから話もまともにできなかったけど、ひと段落したし、とりあえず中に入って――――」
自己紹介と、今後について話をしよう。そう言おうとした司だったが、その視界が急速に回転し、気づいた時には地面に倒れて夜空を見ていた。
「え?」
何が起こったのかわからなかった。分かったのは自分はあおむけで倒れていることと、
セイバーに力任せで押し倒されたのだと気付いた。
「セイバー?」
心臓がドキドキ鳴っている。月明りに照らされたセイバーの姿からは清廉とした雰囲気は消え去り、退廃的で妖艶な気配が漂っていた。
外見の美しさは何一つ変わらず、
潤んだ瞳がこちらを見ていた。唾を飲み込む。頭のどこかで今が危機的状況だと分かっていても、セイバーの瞳から目を離せない。抵抗できない。魔術師である自分に魅了の魔眼の類は効果が薄いのだから、これは魔眼の効果ではなく、セイバーの姿に見入っているからだと、どこか冷静な部分が分析していた。
「ど、どうしたの? 何で押し倒されてんの?」
「―――――――――申し訳ありません、マスター」
言いながらセイバーの顔が近づいてくる。
こんな状況で、司の観察眼はセイバーの唇の間から僅かにこぼれ出るものを見ていた。
白いもの。犬歯にしてはいささかか鋭いそれは、牙のように見えた
何だ、なんだこの状況は。自分は何をされるんだと混乱する司。そのままセイバーの顔が近づいてきて――――すっと顔横を通り過ぎた。
「え?」
ちょっと拍子抜けした司だったが、直後、セイバーの熱っぽい息遣いが首筋に当たって、甲高い悲鳴を上げてしまった。
「な、何を!?」
セイバーが何をしたかったのか、司は痛みとともに知った。
首筋に鋭い痛み。次いで何かが抜け落ちていく喪失感。
体が冷たくなっていく。力が抜けていく。自分の生命力の根幹が零れ落ちていく。
ぴちゃぴちゃぴちゃ。セイバーの舌が司の首筋の傷口を――セイバーに噛まれたところを――舐めている。
得も知れぬ快感に、背筋がぞくりとした。
痛みと、快楽の波が押し流していく。
次第に司の視界が暗くなった。深い穴に落ちていく感覚。
これやばいんじゃ? どこか他人ごとに思いながら、司の意識は黒くて深い闇に堕ちていった。