その魔術師は二人の弟子を引き連れて、満足げだった。
五十を過ぎた壮年の男と、二十代の青年二人。
使い魔越しの視点で見た、聖杯戦争の一戦目。
春日居港の木暮岸壁で行われた、サーヴァント同士の戦い。
凄まじい戦闘力だった。心が、否、魂が震えた。
サーヴァント、サーヴァント、サーヴァント!
何と素晴らしい。人類史にその名を刻んだ英霊たち、その現代の現身。
あれを解析してみたいと、心底そう思った。
降ってわいたように魔術世界に流れた、偽りの聖杯戦争の噂。
時計塔から距離を置いている男のもとにも届いたその噂に対し、半信半疑ながらも現地に足を運んでみたが、大正解だったようだ。
惜しむらくは、魔術師の手には令呪が宿らななかったこと。
サーヴァントは魔術師の魂をつかみ、聖杯戦争に参戦したいという欲求は一秒ごとに膨れ上がっていき、いよいよ制御できないものになっていた。
自分も聖杯戦争に参加したい。だがそのためにはマスターの証、令呪が必要だ。
複数のサーヴァントが入り乱れて戦っている以上、聖杯戦争はすでに本格始動した。ならば、もう七人のマスターの席に空きはないだろう。これより先、自分に令呪が宿る可能性は絶無。
ならば奪えばいい。今現在、聖杯戦争に参加しているマスターを出し抜き、令呪を奪うのだ。そうすれば自ずと契約したサーヴァントもついてくる。
男は己の空想――というより妄想――に酔っていた。具体的な方策もまだ定かではないのに、もう令呪を手にして、マスターになった気でいたのだ。
そして、己の中にだけある壮大な計画と、華麗な戦いを思い、笑みを零した。
「どうにかしてマスターから令呪を奪いたいものだ」
幸い、彼は心霊医術に対して高いレベルのスキルを持ち合わせていた。マスターを捕えられれば、令呪の摘出は速やかに行われるだろう。その際にサーヴァントもマスター替えに同意するはずだ。するしかない。マスターあってのサーヴァントなのだから。
だから問題は、どうやってサーヴァントを出し抜き、マスターを捕えるか、だ。
「何かいい方法はないか?」
背後についてくる弟子に問いかける。しかし答えは返ってこなかった。
わからない、知らない、そんな回答もなく、全くの無言。
「?」
そこで初めて男は不振を感じて振り返った。
彼にとって、弟子が自分の後をついてくるのは当たり前で、それがないというのは、太陽が西から登ってくるのと同じくらいありえないことだった。
しかしそのありえないことが起こった。
誰もいない。弟子たちの姿も、ほかの通行人の姿も。
「あ?」
呆けた男の五感のうち、まず刺激したのは嗅覚だった。
鼻腔に漂う粘ついた臭い。
血の臭いだった。
「ッ!」
ガチン。瞬間、男の思考回路が戦闘用のそれに切り替わる。
だがすべては遅かった。男はもっと早くから、周囲を警戒し、細心の注意を払って行動し、そしてすぐに逃げるべきだった。
男の視界を、何か巨大なものが横切った。
鼻腔を刺激するのは獣臭い息遣い。
遅すぎた結果、彼はすさまじい衝撃とともに意識が暗転した。
ゴキン。男が最後に聞いた音は、己の首の骨が折れる音だった。
◆◆◆◆◆◆
春日居市内某所、???。
魔術師が目覚めると、そこは闇の中だった。
体が動かない。男に継承された魔術刻印のおかげで、首の骨を折られても命は拾えた。だが、魔術刻印が持つ、刻印の継承者を死なせない力をもってしても、修復に時間がかかり、男の身体は首から下がピクリとも動かなかった。
感触はある。体の左側に何か硬いものが押し付けられていると思ったが、違う。どうやら自分は左側を下にして寝かされているらしい。ごつごつとした感触は、岩肌か何かだろうか。
とっさに、洞窟の中だろうかと推測する。
とにかく、自分は何者かに襲われ、囚われた。
一体何者だろうか。聖杯戦争の参加者でもない自分を拉致して、何かメリットがあるのか。
と、痛みで散漫になる思考をかき集め、男がそう考えていた時だった。
ゆっくりとした歩みで、人影が現れたのだった。
女だった。
息を飲むほどに美しく、そして妖艶な女だった。
その豊満な胸も、くびれた腰も、張りのある尻も、自然の美というべきか、その美を表現できずに世の彫刻家が絶望し、自ら命を絶ってしまうような、隔絶した美しさだった。
ウェーブのかかった黒髪はつややかで、それが一房ずつ、女の胸にかかっている。ファーのついた、何かの獣のコートを羽織り、その下、上半身は他に何も纏っておらず、下半身は血のように赤いイブニングドレスのスカート姿。
足跡もなく、しかし別に忍び足をしているでもなく、当然のように悠然と、男のもとに歩んできた。
暗がりに目が慣れてきた男は、女の瞳が血を固めて宝石したような、輝く真紅であることに気づいた。
「目覚めたか。悪くない魔術刻印の質よな」
社交界の注目を集める貴婦人のように悠然と、女は魔術師に歩み寄った。
ゆっくりとかがんで、男に向かってほほ笑む。その笑みを向けられるためならば、何でもする。そう思う男は数多いるだろう。魔術師もその例にもれなかった。
嫣然と浮かべられた微笑。退廃的でありながらも、そのあるかなきかの気怠ささえもアクセントに、女の笑みはどこまでも魔術師の心をつかんだ。
魔術的な魅了ではない。そもそも男は魔術師だ。魔術刻印が彼の延命に全力を尽くしているといっても、ただの
だからこれは魔術ではない。ただただ、女の美が、男の魂を掴み取ってしまったのだ。
男は思う。この笑みを向けられるのならば、何をしても後悔しない。
「妾は安堵したぞ。妾の子供たちは強靭だが獰猛ゆえに、そのまま頭部まで噛み砕かれてしまったかと思ったぞ」
傲岸不遜な話し方。人の、生物種の上に立つのが当然と言わんばかりの態度で、女は男の顎に指をかけた。
その感触と言ったら! 男は全身を身震いさせた。もしも今少し若ければ、そのまま絶頂に達して射精していたかもしれない。
つつっと、女の指が男の顎を輪郭に沿って撫でた。
初心な小僧でもあるまいに、男は背筋に走る快楽の波に抗えなかった。言語にもならない喘ぎを零す。
蠱惑さが毒のように滴るのに、女の仕草にはどこか母親のような寛容さ、懐深さがあった。
「そう―――――」
だから、続く言葉の意味を理解できなかったのか。否、理解しても、女の美しさに取り込まれてしまった魔術師は、同じ返答をしたであろう。
「
「なんだ、その程度。大したことじゃない」
「くくっ。当然だ。むしろ我が子の糧になれた栄誉を喜ぶがいい」
くつくつと、女王のように笑い、女は立ち上がった。
男は満足に動けぬ体で足掻いた。女の姿が視界から消えてしまうことが恐ろしかった。あの美を、もう二度とみられないなんて耐えられない。それならば、死んだほうがマシだ!
誠心誠意の彼の祈りは天に聞き届けられた。女が再び、その顔を魔術師に見せてくれたのだ。
「では、妾から貴様に命じよう」
「ああ、ああ。何でも言ってくれ。何でもする、なんだってする」
女は満足したように吐息して、そっと男の頭を両手の間に挟んで、軽く上に上げた。
首の骨はいまだ治療中ゆえ、激痛が男の身体を走ったが些末事だった。女が自分の頭を持ち上げてくれている、その幸福に比べれば、この程度の激痛など痛みに範疇に入らない。
「
「お安い御用だ」
一瞬の躊躇もなく、男は言った。
女に声をかけてもらえ、微笑んでもらえ、触れてもらえ、この上食して貰えるとは! これ以上の幸福はない。この女と一つになるのだ!
「躊躇のない返事、良い心がけだ」
女は満足したように微笑んだ。無垢なる少女のような、その裏で嗤う淫蕩な娼婦のような笑顔。男はこれまでを凌駕する幸福を噛み締めた。掛け値なしの、人類最後にして最大の幸福を。
「では――――いただきます」
傲然さを捨てた、丁寧な咀嚼の言葉。
その声が、男が最後に認識した女の声だった。
暗闇の中、全てが元に戻った。
女は口元についた血を拭い、獣のように笑った。
いつの間にそこにあったのか、安楽椅子に腰を下ろす。
その足元の闇に、のっそりと動く巨体があった。
闇に覆われたこの場では詳細は分からない。ただ、輪郭から四足獣であり、大人三人分は優にありそうな巨体であることはうかがえた。
安楽椅子に座った女はゆっくりと手を伸ばし、足元に寝そべった“獣”の背を愛おし気に撫でた。
「くくっ。今は眠れ。あの魔術師との間に生まれた、我が子よ。いずれ戦いのときが来る。それまでな」
『上機嫌で何よりだ、キャスター』
女王というより、母のような優しげな声音で“獣”に語り掛ける女、否、すでにその正体は知れている。
魔術師を食らい、その魔力を取り込み、そして“獣”を使役するその姿、人間であるはずがない。
サーヴァント。今しがたの念話がその正体の裏付けだった。
「マスターか」
『成果は? お前の宝具の調子はどうだ?』
キャスターに語り掛けるのは男の声。
恐ろしく個性を欠いた声だった。
高くもなく、低くもない。抑揚を欠いており、感情をこめているのかもわからず、平淡で冷淡。
「妾の子らは順調に育っておる。だがやはりというべきか、この時代の
『まぁいい。せっかく聖杯戦争の噂を流し、多くの魔術師をこの地に呼び寄せたのだ。お前の宝具を存分に使い、戦力を増やせ。父親候補なら、いくらでもいる』
「同性でもいいのだがな。しかしやはりもっと質の高い魔力がいい。ああ―――――。生前のような、万夫不当の英雄との間であれば、きっとかつてのような子供が産めるはずなのだが」
『考慮はしよう。あとで今夜の戦況を伝える。映像をつけてな。それで目星でもつけていろ』
念話終了。人間味というものを全く感じさせないマスターだったが、やろうとしていることには協力すると約束している。何ら問題はない。
そしてマスターの方針は、キャスターにとっても望むところだった。
子を産み、この地に増やす。それはキャスターにとっての本願でもあった。
「今度こそ、妾は実現してみせる。妾の子供たちが真に謳歌できる世界。作り出してみせるぞ」
キャスターの声は陰々と、暗い空間の中を漂っていった。