その川の水の流れは決して速くはないが、かといって緩やかというわけではない。
溺れた人間は他者の力を借りなければ岸に上がるのは容易ではなく、それが体がガラスのように砕けかけているなら不可能に近い。
だから、川の流れに流されて、下流へと至ったところで岸にかけられた手に正体は推測するまでもなかった。
まず右手の指が岸にかけられた。
手首、腕が上がり、肩が上がる。そこで左手の指が岸にかけられた。
力が淹れられ、一気に体を引き上げる。
現れたのは、不機嫌そうな表情を彫像のように動かさないアーチャー。
ずぶ濡れの身体。顔に張り付き、視線を遮って煩わしいので、右手で前髪をかき上げる。
臍のあたりから血を流した姿は痛々しく、傷も治癒しておらず出血も止まっていない。心なし、アーチャーの顔色は青い。
それでも表情を変えず、左手でマスケット銃を実体化。周囲を窺う。
サーヴァントの気配はない。最近街で囁かれる怪物の気配もない。
ランサーはどうなった? 己の宝具を受けて、なおこちらに肉薄してきたあの白い槍兵は?
いない。だが仕留めたとは思えなかった。
川に落ちた後、それでもアーチャーは引き金を引き続けた。
水の中でもグロック17は十全に動き続けた。腕の筋力をフルに動員し、ランサーの身体に照準を合わせ、『弾丸生成』スキルで弾倉内に直接弾丸を出現させ、自動で装填。引き金を引き続けた。
ランサーは水とアーチャーの抵抗をものともせず腕をがっちりと捉えて離さなかった。
やがて銃に限界が来た。川の中を漂う砂やゴミがこの人類史が発明した傑作を故障させ、ついにただの鉄の塊に変えたのだ。
アーチャーが銃を手放した。その直後にランサーもまた手を離し、アーチャーの腹部に刺さったままの槍を取ろうと手を伸ばした。
その瞬間を狙って、アーチャーは渾身の力でランサーの身体を蹴りつけた。
水中故の遅さはいかんともしがたく、ランサーは右手で槍の柄を握っていた。
が、そのためアーチャーの蹴りを躱せず、硝子のように罅割れ、砕けた部分を蹴られて口内の空気を血とともに大量に吐き出した。
同時に両者の距離が空き、槍が引き抜かれた。
腹部から大量に出血が生じ、水に流されていく。同時にアーチャーもまた、口から血を吐いた。
次に両者がとった行動は真逆だった。
必死の形相で、口端から気泡を漏らしながらアーチャーに肉薄せんとするランサー。それに対してアーチャーはランサーに背を向けて余力を注ぎ込むように泳ぎ始めた。
逃走だ。本質が狩人であるアーチャーは、自身の生存を第一に考える。刺し違えても、という気持ちはなく、ここで仕留めるという気迫も薄い。
故に獣のような、機械のような判断で撤退を選べるのだった。
ランサーは追おうとしたが、ダメージが大きすぎた。罅割れた体はこれ以上無理はできないことは何より本人が一番よく分かっていた。
壮絶な痛み分けの後、両者の戦いは静かに終わった。
ランサーはいったん教会に帰還しなければならない。そこで治療を受けなければ待っている運命は消滅だ。
バーサーカーと相対しているであろうセイバーのことを思い、ランサーは忸怩たる思いだった。
◆◆◆◆◆◆
春日居市新地区、自然公園。
夜の自然公園は、ただでさえ人気が少ないうえに、今は魔術的な結界で一般人を遠ざけているので、より一層暗く、深く、静かでぞっとする。
司はそう考えながら、まだ誰の気配もない自然公園内の、木々の間に身をひそめた。
膝を付き、目を瞑る。
セイバーはうまくバーサーカーをここまで誘導してくれただろうか?
この辺りは人気が無いので、サーヴァントが多少派手に暴れても問題はないだろう。いざとなれば教会にいるはずのシスター・キャロルが神秘を秘匿してくれるはず。
すでに犠牲者が出ている。これ以上一般人を巻き込むのは御免だ。
魔術師の考えからすれば、この考えは異端だろうなと思う。
だが仕方がない。性分だ。一般の世界に浸りすぎたんだろう。
チリチリと右目が痛む。来たと思った時、空が明るくなった。
「?」
視界は司本人のものではなく、彼が自然公園で即席で使い魔にした烏。使い魔に銘じて上を向かせる。
次の瞬間、
炎だった。
赤く、燃え盛る炎が人の形をして空から降ってきた。
まるで砲弾が直撃したような轟音が巻き起こり、衝撃が隠れていた司の許まで届いた。
自然公園の歩道部分に敷き詰められていた石畳がめくれ上がり、破片と土砂が宙を舞う。
視界を覆う粉塵の中から、そいつが現れた。
燃え盛る炎の魔人。黒銀の鎧姿、牙をかみ合わせたような装飾、焼き潰された何か。――家紋みたいなものか? と司は推測する――。
腰に下げた剣。
即席使い魔の視界越しに、司はその名を告げる。
「バーサーカー……」
セイバーは見事自然公園にバーサーカーを誘導してくれたようだ。
だが肝心の彼女の姿がない。地面に着弾し、膝を付いていたのもつかの間。立ち上がったバーサーカーは夜空の月に届けと上体を逸らして軋んだ咆哮を上げた。
全身から炎が吹き出て周囲を赤く照らす。
自然公園の遊歩道は、今や昼間のような明るさを伴っていた。
炎の熱で景色が歪む。その凄まじい熱量に司が顔をしかめる。
炎の魔術を使っているが故この熱量の凄まじさが肌で感じられる。このバーサーカーにはこちらの魔術は一切通用しないだろうし、狂った相手に視覚に訴えかける幻覚が通用するとも思えない。そもそも蜃気楼の幻も、より強い熱量で吹き飛ばされるだけだ。
想像以上に厄介な敵。ともすればこの場にいること自体が危険になると思った時、月光を背景に彼女がやってきた。
まず目についたのは剣。
特に装飾もない武骨な直剣が七本、矢のように苛烈にバーサーカー目指して飛んできた。バーサーカーはそれを腰から引き抜いた剣と体から噴き出る炎で打ち払った。
その隙に着地する小柄な影。
月光に溶けるような金髪、白い肌、凛とした意志を秘めた青い瞳、胸や腰などだけを守り、動作への支障を最低限にした鎧姿。そして従者のように引き連れる宙に浮いた剣。
司のサーヴァント、セイバーだった。
バーサーカーの炎によってカゲロウが立ち昇る。その、微かに揺らめく視界はバーサーカー自身のもの。
視界の中心に、セイバーを捉えた。
「■■■■■―――――――――!」
獲物を発見した獣、そんなレベルではない咆哮を上げ、体中から炎をなおさら噴き上げて、バーサーカーが地を蹴った。
石畳がバーサーカーの後方に向けて散弾のように飛んでいく。
炎を纏った砲弾のようなバーサーカーが肉薄してくる。セイバーはサイドステップでバーサーカーの左側に回る。剣を持たぬ方向に移動することで追撃を防ぐためだった。
すでに最高速度に至っていたバーサーカーは止まれない。まさに砲弾のように熱量を伴ってセイバーの傍らを通過する。
直後、黒銀の鎧の隙間から炎が蛇のような鎌首をもたげて一斉にセイバーに向かって殺到した。
「ッ!」
息を飲むセイバー。地を蹴って跳躍。追いすがる炎の蛇を浮遊する剣で切断し、叩き伏せる。
だがそのころにはバーバーカーが方向転換。小回りの利く重戦車のように、石畳の破片と土砂を後方にまき散らしながら迫る。
咆哮が月下に轟く。炎を纏った黒銀の騎士という姿は、まるで古い童話のようでいっそ幻想的で恐怖もマヒする。
だがセイバーの身体に吹き付けてくる熱波は現実のものに違いなく、迫るバーサーカーの圧力もまた本物で、幻想などどこにもない。
狂化しているがゆえに技量も何もない振り下ろしの一撃を、セイバーは左に回避する。
そのまま地面に左掌をつけた。
そこから影絵の茨がさぁっと広がり、石畳を渡ってバーサーカーに肉薄する。
二次元故に触れられない茨はバーサーカーに到達すると三次元の厚みを得てするするとかの騎士の左足に巻き付いた。
足首から脛、膝に伸びたところで炎が噴出した。
ものに干渉できるようになったため、逆に干渉されるようになった影絵の茨が、鎧の内側から迸る炎の圧力に押されて拘束が緩み、外れた。
その少し前にバーサーカーの体勢を崩そうとし、茨を引くために左腕を引いていたセイバーは、思わぬ力の消失にすっぽ抜けた。
「あっ!」
セイバーの身体が流れる。その隙を、バーサーカーは見逃さない。
「■■■■■―――――――――!」
彼我の距離が一気に詰まる。バーサーカーが振り下ろした一撃を、セイバーは十分な体勢で迎え撃てない。
激音が響いた。振り下ろした一撃を手にした剣でガードに入ったが、完全に受け切れず、セイバーの身体が地面と平行に飛んだ。
「―――――――――!」
背中から地面に落ちてバウンド、跳ねたセイバーの身体を追って、バーサーカーが跳躍する。
「■■■■■―――――――――!」
両手で握りしめた剣戟。力任せに振り下ろされた、炎を纏った
受け切れない。剣身の半ばから砕ける二本の剣。セイバーの身体が叩き落とされた。
激突。粉塵が舞うなか、セイバーが落ちた場所に向かってバーサーカーが追撃を吐ける。
振るわれる狂戦士の左腕。その軌跡に沿って炎弾が放たれる。
炎弾のシャワーがまだ粉塵に包まれたセイバーの落下地点に向かって放たれる。
光と熱、そして音の乱舞。そこから飛び出したのは三本の剣。バーサーカーが炎で叩き落とすと同時に、剣に巻き付いていた影絵の茨が剣から離れてバーサーカーの首に巻き付いた。
首の骨をへし折らんばかりに、茨に力が籠められる。
たまらずバーサーカーの攻撃が途切れる。黒銀の騎士が石畳に着地する。
粉塵の中からセイバーが現れた。その身に茨たちが巻き付くさまは鎧か呪いか。いずれにしろ尋常なものではなく、宝具の茨によって上昇した防御力が、セイバーを守った。
だがダメージはあった。彼女は荒い息を吐き、肩も激しく上下している。
(セイバー! 一端森の中に入るんだ!)
対応を誤れば、鎧ごと両断されかねない圧力。
足を狙った下段の一撃――――跳躍して回避。
上空へと襲い来る炎の群――――中空に打ち出した剣を足場にして回避。
天地を逆さにするセイバー。頭上――客観的には地面――にいるバーサーカー向けて、足元――頭上――に出現させた剣を蹴って加速。距離を詰めつつ一閃。
炎がしぶいた。
セイバーの剣戟はバーサーカーの左肩を傷つけた。
鎧を切り裂き、内部の肉にまで届いた。
だがバーサーカーは直前に身を逸らしたため、骨までは断つことができなかった。
そして切断された鎧の断面から炎が噴き出したのだった。
「ッ!」
炎に捕まれ、たまらずセイバーは距離をとる。
その差を即座に詰めてくるバーサーカー。右手だけの横殴りの剣戟が炸裂する。
甲高い金属音。
セイバーが両手に剣を握り締め、腰を提げた防御の構えで迎え撃った。
炎を纏っていても、バーサーカーの剣もまた、宝具ではなくただの武器。サーヴァントに効果を上げることはできるがそれだけだ。
それはセイバーも同じ。故に打ち合っても互いの武器が破壊されない理由は分かるが、膂力という一点では『狂化』スキルで強化されているバーサーカーに、セイバーが敵う道理はない。
理由はセイバーの足元。彼女の宝具である影絵の茨がセイバーと地面を繋げていた。
茨が楔になり、セイバーの身体が吹き飛ばされるのを防いでいた。
「く――――――ッ!」
歯を食いしばったセイバーの唇の間から、苦鳴が漏れる。
セイバーを援護するように、虚空から出現し直剣がバーサーカーの剣を打ち据える。
金属音と小さな火花が連続して上がる。
剣を狙うだけでなく、セイバーの剣の群がバーサーカーの身体にもその切っ先を向ける。
切り、裂き、突く。そのために振り下ろされる銀剣を、赤い炎が迎え撃つ。
炎の鞭が剣を打ち据え、さらにバーサーカーの両腕に力がこもった。
セイバーの身体の方に向かって剣が押し込められる。セイバーの剣の群が下から打ち上げ用とバーサーカーの剣に拮抗する。
「――――――――――――」
バーサーカーの兜の隙間から、炎のように熱い呼気が漏れる。
兜の奥から、
「え?」
セイバーの口から疑問が漏れた。
バーサーカーの兜の奥から、咆哮や唸り声とは違う“言葉”を聞いたからだ。
「今、なんと?」
敵の剣戟に抗いながら、セイバーは疑問を拭うことができなかった。バーサーカーの剣に拮抗しながら、セイバーは問いただした。
バーサーカーの兜の奥から、先ほどと同じ言葉が漏れてきた。
「En……g……land……ッ!」
「ッ!」
その言葉を聞いた時、セイバーの身体が硬直した。その隙をつくように、バーサーカーが剣に込める力を増した。
セイバーの身体がぐんと沈む。即座にセイバーをフォローするように剣がひとりでに宙を舞い、バーサーカーに肉薄する。
銀の閃光は紅蓮の炎によって迎撃される。
その隙を縫うようにセイバーが自ら身体を沈めた。
剣とセイバーの間にできた空間。そこん潜りこむように彼女は地面を転がって距離をとる。さらに茨が地面を伝って伸び、バーサーカーを拘束しようと迫る。
だがバーサーカーの動きはセイバーの予想を超えていた。
バーサーカーの右足がかすむ。それが体重を乗せ猛りだとセイバーが気付いた時には、すでに彼女が喰らっていた。
砲弾のような威力の前蹴りがセイバーの身体に叩き込まれ、彼女の小さな体は地面と平行に吹き飛ばされた。
「か――――――ッ!」
セイバーの口から赤い血が零れ落ちる。バーサーカーはここぞとばかりに攻め立てる。
膝を折って疾走開始。一歩、二歩、三歩目で大きく跳躍しようとして――――
「ッ!?」
疾走中に急にバランスを崩したため、バーサーカーの身体がつんのめり、地面に激突したのみならず、その運動エネルギーを殺しきれずに石畳を粉砕しながら滑っていく。
地面に激突して派手にバウンドしたセイバーは、それでも何とか地面に着地。ダメージの抜けきらない体ながらも油断なくバーサーカーを見据える。
バーサーカーは倒れているが、立ち上がろうともがいている。
だが立てない。いったい何が起こったのか分からない。ただ、バーサーカーの左足に黒い靄のようなものが巻き付いていた。
呪詛のようだ、という発想がセイバーの脳裏をよぎり、それが他者による外側からの呪詛ではなく、自己による内側からの呪詛ではないかと思った。
それが生前の事実から賦与されたものなのか、他者のイメージによって幻想である身に付け加えられた外付けの鎧なのかは分からない。
とにかくチャンスかと思ったが、体はまともに動かず、さらにバーサーカーの身体からあふれ出る炎が厄介だ。あれのせいで半端な攻撃は叩き落される。
ならば今はマスターの指示に従おう。セイバーはダメージの残る身体で、影絵の茨を自然公園内でも特に大きな森の木の幹に縛り付け、自分の身体を引き寄せた。
とにかく、仕切り直しだ。
森の中に入れとマスターが言ったのなら、何か策があるのかもしれない。昼のアサシンとの戦いといい、消耗した状態で無理に戦うよりも、まずはマスターの指示に従おう。