春日居市内の一角に発生した霧は夢のように静かに、ひたひたと忍び寄って、音もなく広がっていった。
司たちは霧を認識し、襲撃かと身構えながらも手をこまねくしなかなかった。
しかし残念ながら事態はすでに
司たちが霧に気づくより数時間前、事態の進行はここから始まり、その瞬間から終わりへと向かっていたのだ。
春日居市、旧地区、
春日居市には古くから根差した二つの魔術師の家系がある。
一つは
もう一つが、春日居の土地の
こちらは当主の如月
というよりも、聖杯戦争を行う土地を用意できる管理者という立場といい、あからさまに魔術的に強化された屋敷の敷地内といい、本人は決して表に出ていない姿勢といい、声高に
そんな如月邸の敷地内に、染み出るような影が一つ。
スレンダーな体つきの女性。ベリーダンス風の、体にぴったりと張り付く黒の衣装の上に、黒のマント。顔面の右半分には半分に割れた髑髏の仮面。その仮面だけが、黒一色の彼女の唯一の白だった。
アサシンのサーヴァントだった。
「――――――――――――」
如月邸の前庭、玄関付近の壁に阻まれて、表からは彼女の姿は見えない。アサシンは地面に溶け込むようにうつ伏せになり、左耳を土の地面につけていた。
目は閉じている。そして無言のまま数秒。
耳と頬を通じて地面の感触が伝わってくる。アサシンは何も考えなしで敵地でこんな無防備な姿をさらしているわけではない。
耳を主に、全身を使って気配を探る。アサシンもまた、二日目の昼間、セイバーと戦っている時に乱入してきた怪物が、キャスターの宝具によるものだとみていた。
一日目の埠頭での戦いを俯瞰し、ランサー、ライダー、バーサーカーの戦いは直に見た。そしてアーチャーの狙撃も。
セイバーとは直で戦ったので、残るはキャスターしかいない。
この屋敷は魔術的に要塞のような厳重な防備がなされている。それでも自分の宝具を駆使すればこの屋敷の奥深くにまで侵入し、マスターの暗殺を成功することは不可能ではないと思っている。
注意すべきはキャスターと、繰り出される怪物たち。
だが少々奇妙なことに、今のところサーヴァントの気配は感じない。そして耳にも皮膚にも、怪物の息遣いや獣毛の匂い、それに移動の際の振動など伝わってこない。
だが、この場所は屋敷の入り口。ふと通行人が目を向けないとも限らない。ならばと、アサシンが意識を向けるのは屋敷をぐるりと囲むような木々。敷地の入り口から屋敷までも、まるで隠すように木々が囲んでいる。敷地の外から除いた時にはこのような鬱蒼とした木々の並びはなかった。敷地自体が異界となり、外と中で見え方が違うのだろう。
或いはこれこそが聖杯戦争によって作り替えられた如月邸の今の姿なのか。魔術的に空間が歪められているのか、中庭同様、木々が並び、ちょっとした森と思わせるその場所は、奥を見通せない。
もしも怪物がいるならば、これからか。今も主人の命に従って、この異界と化した庭や、屋敷の中で息をひそめているのか。いつ来るともしれぬ戦いの時に備えて。
「――――――――――――」
アサシンの姿が地面に沈んでいく。彼女の宝具、『
この宝具を駆使すれば、どれほど防備を固めようと、最奥に侵入することは決して不可能ではない。そこは生前も、今も変わらない。
アサシンは決死の覚悟を決めて侵入を開始した。
◆◆◆◆◆◆
アサシンの予想通り、森の中には怪物たちの気配はした。
姿は見えない。地中に潜航し、魔力の反応を頼りに如月邸の屋敷へと向かっているため、目視できない。ただし動けば地面を伝わって振動が来るので気配と合わせてどこに何がいるのかは分かる。
ただし今回は相手が怪物だ。振動からある程度の大きさは分かるが、姿が見えなくてはどんなの形状で、どのような器官を有しているのか分からない。
そのため一度手首だけを地上に出し、手首に宝具を使って
怪物の姿はある。が、動いてはいない。主たるキャスターの命があるまでは忠犬のように待機し続けるのか。
と、アサシンに一番近い位置にいる怪物がピクリと動いた。
気づかれたか? 目の前にいる怪物は一見すると巨大な獅子のようだ。見た目は多くの怪物のようなおどろおどろしさはなく、明らかに四メートルは超えているところ以外は美しい毛並みの獅子だ。ただし、その全身、特に毛皮から放出される魔力量が凄まじい。
地面から突き出している手首から先の肌が泡立つようだ。目の前の怪物は、他の怪物とは格が違うらしい。
アサシンにとって幸運だったのは、二日目の昼間、セイバーとの戦いにキャスターの子供、オルトロスが乱入した時、アサシンは最初の不意打ちを宝具によって回避した後、オルトロスの体内に潜航し、その体を内側から引き裂き、心臓を喰らって魔力を回復させた。
つまり体内から攻撃したため、怪物の全容を把握しておらず、だからこそ、相手がオルトロスであることに気づかず、故に、キャスターの正体が怪物たちの母、エキドナだと気づけなかった。
だがこの情報の取得に失敗したことが、彼女の身体を鈍らせることを防いでいた。もしもキャスターの真名がエキドナだと気づいた場合、或いはアサシンは、今眼前にいる怪物に対してどうにかやり過ごせないかと、無駄な時間を費やしていたかもしれない。もしもキャスターの真名に思い至っていたのなら、聖杯から与えられた知識によって、目の前の怪物の正体にたどり着けただろうから。
ネメアーの獅子。この怪物はそう呼ばれていた。
キャスターの真名――エキドナ――に至っていないアサシンは知る由もないことだったが、ネメアーの獅子はギリシャ神話に登場する怪物で、その毛皮にはあらゆる武器が通用しないという。
英雄ヘラクレスは試練の
その後、ヘラクレスはこの獅子の毛皮を剥ぎ取り、最強の防具を手に入れたのだった。
つまり、武器による攻撃ならばたとえサーヴァントの攻撃であっても、この獅子にダメージを与えることはできないだろう。
その情報を持っていれば、アサシンも躊躇したかもしれない。
だが無知ゆえの蛮勇は時に思いもよらない成果を呼び込む。今回が
足を折り曲げて待機していた獅子の膝に力がこもるのを感じたアサシンは即座に動いた。
手首をひっこめて前進。魔力反応を頼りに怪物の下にもぐりこんで、一気に
予想通り、獅子のが目の前にあった。そのまま宝具を展開したまま怪物の体内に潜り込む。
ネメアーの獅子は何かを察したかもしれない。だがすべてはもう終わっていた。アサシンの右手が獅子の心臓を掴み、そのまま引き千切った。
「――――――――――――!」
獅子の巨体がそのまま力なく横倒しになった。こればかりはアサシンにも防げない。
軽い地震と間違えそうな地響きと土煙が巻き起こる。獅子の身体から出てきたアサシンは急いでその心臓を口にした。
まるで獣のように貪る姿はさぞ浅ましいだろうと、アサシンは思う。
だが背に腹は代えられない。何しろ如月邸に潜入してから、アサシンは宝具を発動しっぱなしだった。一度切り離し、設置した部位はその時点で魔力を消費は止まるが、こうして潜航し続けるのは常に魔力を消費し続ける。
それはつまり、病み上がりのマスターに負担を強いることになる。その負担を少しでも軽くするため、アサシンはここに来る前に見つけた魔術師を幾人か
所謂魂食いだ。
地面に潜ったアサシンは急いでその場を離れる。今の地響きと土煙は明らかに異常だ。怪物たちもすぐに集まってくるだろう。
だがこれは好機だ。怪物がここに集まるなら、逆に屋敷への道は手薄になっていることだろうから。
アサシンは屋敷を目指して突き進む。今自分が倒した怪物が、その特性上、他のサーヴァント全てを相手にしてもなお劣らない、エキドナとバーサーカーの間に生まれた子供たちの中でもことさら極上の一体だったことを、彼女は知らなかった。
そして彼女のこの、本人さえも把握していない