国語が得意な一人の少女の手記
乗務員交代をばはや果てつ。二等室の卓のほとりはいと静かにて、蛍光灯の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は同列に残れるは余一人なれば。四年前のことなりしが、
げに東に向かふ今の我は、昔の我ならず、戦車道こそなほ心に飽き足らぬことろも多かれ、浮き世のうきふしも知りたり、人の心の頼み難きは言ふも更なり。我と我の心さへ変はりやすきをも悟り得たり。昨日の是は今日の非なる我が瞬間の感触を、筆に写して誰かに見せん。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず。これには別に故あり。
嗚呼、熊本の港を出でてより、はや四時間余りを経ぬ。世の常ならば何処ぞの客にさへ挨拶などを結びて、旅の憂さを慰め合ふが旅の習ひなるに、物言ふことのなきは、人知らぬ恨みに頭のみ悩ましたればなり。この恨みは初め一抹の雲のごとく我が心をかすめて、遠くの阿蘇の山色をも見せず、安芸の遺産にも心をとどめさせず、中頃は世を厭ひ、身をはかなみて、腸日ごとに九回すともいふべき惨痛を我に負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の
余は幼き頃より厳しき庭の訓を受けしかひに、戦車道の荒み衰ふるところ知らず、県の小学校にありし日も、黒森峰に出でて通ひし後も、西住みほといふ名はいつも首の方に記されたりしに、末娘の我はこの力にて母の心の世を渡りたり。十二の時には黒森峰の学生の称を受けて、我が名を成さんも、我が家を興さんも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて、四十を超えぬ母に別るるをさまで悲しとは思はず、はるばると家を離れて黒森峰に来ぬ。
余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる戦車道とを持ちて、たちまちこの欧羅巴風の新大都の中央に立てり。何らの光彩ぞ、我が目を射んとするは。何らの色沢ぞ、我が心を迷はさんとするは。菩提樹下と訳する時は、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪のごときウンテル・デン・リンゲンに来て両辺なる石畳の人道を行く隊々の整然たる少女を見よ。胸はり肩そびえたる教師の、様々な礼装を成したる、かれもこれも目を驚かさぬはなきに、雲にそびえる楼閣の少し途切れたる所には、晴れたる空に夕立の音を聞かせてみなぎり落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てて緑樹枝をさし交わしたる中より浮かび出でたる記念塔の神女の像、このあまたの景物
余が鈴索を引き鳴らして謁を通じ、西住流の紹介状を出だして来意を告げし黒森峰の隊員は、皆快く余を迎へ、学園よりの手続きだに事なく済みたらましかば、戦車道を修めんと、名を簿冊に記させつ。彼らは初めて余を見し時、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。
ひと月ふた月と過ぐほどに、学園のかたにて、幼き心に思ひ計りしがごとく、戦車道の名手になるべき特科のあること限りなく、これかかれかと心迷ひながらも、二、三の
かく三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来れば包みても包み難きは人の好尚なるらん、余は母の教へに従ひ、人の褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、西住流の後継として良き手を得たりと励ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今十五歳になりて、既に久しくこの自由なる学園の風に当たりたればにや、心の中なにとなく穏やかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は密かに思ふやう、我が母は余を活きたる西住流となさんとし、我が学園は余を活きたる黒森峰戦車道となさんとやしけん。
かの人々は余がともに飲料の杯を挙げず、電子遊具を取らぬを、かたくななる心と欲を制する力と帰して、かつは嘲りかつは嫉みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、この故よしは、我が身だに知らざりしを、いかで人に知らるべき。我が心はかの
続きは気が向いたり今書いてる『広西大洗奮闘記』が終わったら書きます。
因みに筆者リトルアーミー知らないので悪しからず。