1.
公路様の望みを第一に叶える。それが臣下の務めだが、邪魔が居た。
「知ってる? 最近、賊が増えたんですって」
書類を持って来た孫策は俺の机に腰かけると世間話を始めた。肌も露な露出の多い薄着も見慣れたはずだが、目の前にするとやはりドキッとする。
「まったく迷惑ですね」
世間で賊が暴れている。理由は貧困だ。
黄巾賊が各地で出没し始めていたが、公路様の領内に混乱は見られない。
「ああ、でも蓮華からは異常無しと報告が上がっているわ」
「当然と言えば当然ですが、それは良かった」
流民に荒れ地の開墾をさせたのも、一纏めにして監視しやすく成ったのも利点の一つだ。開墾が終われば自分の土地に成る。二年間の税免除、農具の貸出しと言うのも大きい。
真面目に働けば安定生活を送れるのに、わざわざ刃向かう者も居ない。
「楽就さん、失礼します」
「うん」
俺の執務室にやって来た北郷は、孫策と顔を合わせた後、頭を下げる時に顔を見ずに胸を凝視していた。
「な、何……この子」
鼻息の荒い北郷の視線に耐えかねたのか、薄衣の胸元を隠すようにして孫策が脅えて出て行ったのも珍しいが、正気に戻った北郷が錯乱しやがった。
「誰ですか、あのおっぱいは! もしかして彼女ですか!? チクショーッ!」
「恐ろしい事を言うな、馬鹿者」
その後、北郷は乳について熱く語って仕事に成らなかった。何だろう、疲労感を感じた。
「楽就さん、この後は空いてますかぁ~?」
昼食を食べに廊下に出ると
「ええ、この間に蕎麦でもと考えていました」
北郷の提案した蕎麦の利用が素晴らしい。何処でも育ち、食料として利用価値も高い。
「楽就さんばっかり、美味しい思いをして羨ましいぞ。チクショーッ!」
陸遜の胸と俺の顔を見た北郷は、何やら叫んで走り去って行った。あいつの思考が分からん。
陸遜と連れ立って、役所の前の蕎麦屋で食事をしてると話しかけられた。
「あのぉ……」
「食べ終わるまで待て」
仕事の合間の貴重な休憩時間だ。余計な気を使いたくない。
麺をすすり、汁を飲み干す。
「で、何ですか」
間延びする口調を改めて陸遜は訊いてきた。
「我が主家である孫家の御二方と親しく付き合う事の出来る貴方は、何故、袁術に従うのですか?」
下らない問いだ。
「愚問ですね。家族を守るのに理由が必要ですか? 貴女方が孫家に忠を尽くす様に、私は公路様に忠を誓った。今回の失言は許しますが、次に公路様を愚弄すれば反逆の意思ありと見なし処断しますよ」
「え……」
顔から血の気が引いている。何だ。俺が公路様より孫家に味方すると思われていたのか?
「そうだな、はっきりとさせておきましょう。俺だけじゃない。他の者も孫家を警戒してる。潰す機会があれば潰そうとも考えていた。だが、あの二人は公路様に協力する事を誓った」
仕える主の数だけ、家臣もそれぞれの違う想いを持っている。孫家の独立はこいつらの宿願だった。そしてこいつは軍師だ。
「……ああ、成る程、貴女は軍師なだけに納得してない。二人の言動は公路様の油断を誘う為の偽装と考えているのだろう。まったく、私の立場で言う事では無いが、貴女の失言で孫家は立場を無くすぞ」
孫権は信義を重んじるが、家臣の説得に失敗したらしい。これは要注意だ。
「失礼しました」
その後、陸遜と別れた俺は姉の方に話を通して置く事にした。
~~~~~~~~~~
孫策の部屋で俺は一通り話した。
「そう。
妹と同じ空色の
「ふふっ」
孫策はそんな俺をからかう様に顔を近づけて来た。
ああ、少なくとも彼女は約定を違えない。そんな確信を持った。
「……そう言えば貴女の親友である周公瑾殿は我々に協力してくれている様ですが、何も仰らないのですか」
夢を捨てる。それは大きな決断だ。
「怒られたわよ」
孫策は柔らかな口調で微笑んだが、内心で思う事もあるだろう。
「でしょうね。そうだけと言う事も無いでしょう?」
俺が心配するのは公路様の障害と成るかどうかだ。
「まぁ家督は蓮華に譲ったし、私も独立にそこまで拘って無い。そうなると旗頭に成る者が居ないし、方針は決まった物よ。嫌なら孫家を離れて自分が頭を張れば良い。違う?」
「そうですね」
手を握られた。振りほどいても良いが気弱な孫策はらしくない。
弱ってそうな孫策を邪険に出来ずしたい様にさせた。
なおこの後、俺が手を握りあって居たと言う噂が流れて、張勲殿から「孫策さんの臭いがします。最近、仲良過ぎじゃないですか?」と睨まれた。
孫策は袁家にとってまだ信頼出来る部下では無いから扱いや距離感が難しい。張勲殿が心配するのも当然だ。
「私は懐柔されたり転向した訳ではありません」
「ふーん、そうですか」
それでも疑いの色は残っている。
これも孫策の罠か。北郷を孫策にけしかけてやろうと誓った。
2.
君主とは、その気に成れば幾らでもわがままを言える。それ
そして俺は武官で文官ではないが、公路様の名代として俺は本初様の元を訪れた。
翡翠色の瞳と金糸の様な髪は、公路様と同じ袁家の血筋だ。
「おーっほっほっ」
公路様ではないが、本初様の高笑いにうんざりする。
どう、私は! 私を見て誉めなさいと、態度が語っているのだ。名族とはそれなりの風格を周りから求められるが……うーん。
困った顔を浮かべた
「
彼女と
「ええ、分かります。公路様も時おり……あ、うん。忘れて下さい」
親近感の気安さから、つい言葉がこぼれた。途中まで言って喋りすぎたと口を噤むが、顔良殿は気にした様子を見せなかった。
「あはっ。楽就さんも苦労されてるのですね。やはり袁家の血筋でしょうか」
素直に肯定しにくい話題で苦笑してしまう。
公路様と本初様が対立すると、袁家は割れて多くの犠牲が出る。御二方の妥協による代償として豊かな暮らしが約束される。
共存共栄を目的に親睦を深めましょうと定例会を開いていた。円滑な交流こそ公路様の為に成る。
俺の不在の時を狙い、公路様潰しを画策する者が居るかも知れない。蜂蜜をもっと欲しいとねだる公路様の相手をしながら、張勲殿は睨みを効かせているが、やはり張勲殿一人に全てを任せるには心配で早く帰りたい。
「そう言えば、荀文若殿は見受けられませんが、どうされました?」
本初様の配下に荀文若と言う女性が居た。後に曹孟徳殿に仕え、その才を余すところなく証明した荀彧殿だ。
「
前の時、本初様に才気を見出だせず荀彧殿は袁家を出た訳だが、筆頭軍師である
(お互いに才のある者同士で強情だからな……このまま曹孟徳殿の元に向かうのだろうか?)
そんな事を考えていると文醜殿が話しかけて来た。
「あれ、アニキは桂花みたいに胸の小さい女が好みなのか?」
「胸の大小で人を判断しませんよ」
俺は北郷では無いんだから。むしろ大きい女は孫家の連中を思い出させて食傷気味だ。
顔良殿は困ったように微笑んでいた。
「言っとくけど
そう言って顔良殿の胸を背後から鷲掴みする文醜殿。手が早いぞ。
「ちょっと、文ちゃん!」
じゃれ合うのは良いが、本初様が相手をされなくてご機嫌斜めだぞ。これが油断を誘う演技なら大した物だが、それでも中睦まじく良い家臣をお持ちだと思う。
~~~~~~~~~~
「楽就、妾の土産は?」
定例会から帰り報告をしようとすると、俺が口を開く前に満面の笑みで両手を突き出して来た公路様。
「公路様、良い子にしてましたか」
嬉々として首を振っていたが、信じて良いんですよね。
肩を寄せて来た張勲殿が囁く。
「留守中、
「う、嘘じゃ!
手をバタバタさせる公路様の背後で北郷がブルッと身を震わせて呟いていた。
「袁術様がおねしょ……。はぁ……、はぁ……」
あ……。
「……北郷君、首と胴体が離れたらどうなるか試して見るか?」
「北郷さんは、美羽様を邪な目で見る変態さんだったんですね。ガッカリです」
股間を高ぶらせていた北郷は、俺と張勲殿の視線で
「ご、ごめんなさい! マジすみません!」
意味が分からずキョトンとしていた公路様は俺の腕に触れると催促の続きをした。
「のう、お土産はまだか?」
この空気を壊してくれる公路様はやはり名君の器があるのかもしれない。
「北郷君、次は無いからね」
「はい、ごめんなさい!」
北郷が無意識の内に節操無しである事は知っていたが、公路様を欲望の対象と見る事は不敬で許されない。俺は公路様の幸せを願っている。だから北郷を去勢してやるべきか……。
「お土産!」
市井に紛れても隠せない高貴さを輝かせながら、公路様はもう一回言った。
自分の派閥に取り込む接待でも、癒着による不正や賄賂の要求でも無い。
3.
自分を変えようとする事は、今までの人生の否定でしかない。自分を変えのではなく周囲を変えれば、勝者と成る。
例えば公路様の様に。
「お嬢様、此方を向いて下さい」
「うん?」
宴の席、満面の笑みで土産の菓子を食べる公路様は、蜂蜜で顔を汚して張勲殿に拭って貰っている。
土産の菓子が入った袋を大切そうに抱えている姿を見て、気に入って頂けたと嬉しく思う。
公路様には健やかに過ごして頂きたいと思う。
甘い溶けた様な表情で土産の蜂蜜酒を飲みながら孫策は尋ねて来た。
「彼、何で土下座をしてたの?」
北郷の事だ。
俺の帰還を知った孫策は謁見の間に顔を出した。その時、土下座をする北郷を目にしていた。
「公路様を邪な目で見てたからだ」
「えっ」
俺の言葉に孫策は、まじまじと北郷に視線を向けた。
今は他の家臣と同様に、北郷も末席で大人しく食事を楽しんでいる。
「彼ってそう言う趣味なの」
彼女の瞳が揺れている。驚きながら孫策は疑問を口にした。
「どうだろう。胸の大きい方が好きだとばかり思っていたが、ただの節操無しじゃないかと考えを改めさせられた」
北郷の
「そうなんだ……
末妹の孫尚香は、公路様とさほど変わらない幼い容姿をしていた。
考えたら、北郷も女体に関心のある年頃だ。二回目の人生を送る俺と違い恋の経験すら少ないだろう。
「人柄は悪くないが、異性関係は年相応だから、その方が良い」
孫策にそう助言した。
「あいつも、いつか良縁に巡り会えるだろう」
……多分。
その後は公路様がお休みに成られるまで宴が続いた。これって俺の帰還祝いだったはずだが?
定例会から戻って来ただけで大袈裟だが、何だかんだと理由を着けて皆も騒ぎたいだけだ。
楽しく過ごす。これが公路様の造り出した家風と言えるだろう。
~~~~~~~~~~
「お帰り。お役目ご苦労様」
留守中、職務を代行してくれていた紀霊将軍に挨拶に行った。
「仕事を代わって貰って有難う御座いました。これ、土産です」
「わー。有り難う!」
紀霊将軍から業務を引き継いだ俺は、今週の訓練計画を見直した。
金の計算ばかりが俺の仕事では無いからな。
「持続走って体育の時間割が多いな……」
朝議の後は北郷発案の体育を行う。体操と言う奇妙な動作で体を解し、当直勤務者以外の武官と兵が走り込む持続走で足腰を鍛え、持久力を身に付ける。事後、各隊の整備。終礼前に再び各自で走る。
この際、武官なのに鍛練も行わないデブの根性を鍛え直してやる。
「──そう言えば、草刈りもしないとな……」
公路様の領内に雑草が繁殖して来ている。秩序の維持、平和を維持する以外に領内整備も仕事の内だ。
「楽就よ、街に行くぞ! 供を致せ」
「はい?」
頼むから突然、飛び込んで来るのは止めて頂けないだろうか。
脈絡も無く、そして当然の様にお願いして来る公路様。
「街じゃ、街が妾を待っておる!」
黙っていれば文句なしの美少女なのに残念過ぎる。
「張勲殿はどうされたのですか」
席を立つと俺は、廊下から此方を覗く北郷に声をかけた。
「張勲さんは、都から董卓の使者がやって来て接見しています」
「董卓だと……」
董卓は宦官と接触し朝廷に影響力を持っていた。
本来の役職とは異なるが、宦官は皇帝の目や耳と成り、地方の監察も行っている。威圧された地方の官吏は、宦官やに
公路様にきゅっと裾を握られ、くいっと引っ張られた。
「七乃は北郷だけだと危ないから楽就に附いて貰えと言っておったぞ」
俺は納得した。女官や護衛の兵も居るが、一番近いのは、身の回りを世話する側仕えの者だ。
孫策よりは信頼出来るので北郷を使っていたが、公路様の愛らしさに北郷が我を忘れる様ならば、俺の剣で素っ首叩き切ってやる。
「はぁ……」
公路様は若くてまだ未熟な部分もある。それを補い、毒牙から守るのも臣下の務めだと自分を納得させる。
「ほれ、早くせぬか!」
公路様は楽しそうな色を浮かべていた。
街は公路様の兵が巡回しており、安心して歩く事が出来る。陽が傾く頃まで買い物に付き合わされた。帰ったら張勲殿から「お楽しみでしたね」と睨まれた。
貴女が俺に振った役割だろうと思ったが、面倒な流れに成りそうなので話題をそらして、董卓からの使者の件を訊いた。
「董卓さんは
手土産として本初様を
「例え何があっても私達は公路様に着いて行きますが、董卓の人物を見極めないうちは返答を避けた方が良いでしょう」
この先、董卓の専横により反董卓連合が組まれる事を俺は知っている。滅ぶ相手に付き合う必要は無い。それなら距離を置いて時勢を見極めるべきだ。
「そうですね。それに、うちの反応を探りに来たのでしょうが、喋ってるのは専ら御付きの女の子でした」
張勲殿からほのかに甘い臭いがするが、それより使者の動向が気になった。
「女の子?」
「ええ。陳公台と名乗ってました。中々、頭の回る賢い子でしたよ」
陳公台、聞き覚えがあった。曹孟徳殿の配下であったが、呂布を誘い入れて反逆した忘恩の徒だ。この時期に董卓陣営に所属していたとは、俺の知ってる過去とは違う。
「それで使者の方は」
「赤毛の女の子で、名前は呂奉先。長旅で疲れてるのか立ったまま眠そうな人でした」
呂布。天下無双の武人であると同時に裏切りを繰り返した外道だった。
この世界ではどうなのか俺には分からないが、これからの董卓陣営は要注意だ。
俺達は誰の家臣か。公路様の為に成る事だけを考えれば良い。
「とりあえず、お嬢様は出かけていると言う事にして返事は待って頂きました。今は宿で休んでます」
確かにそれは正しい選択だった。
かつての呂布や陳宮を相手に、今の公路様を会わせれば、馬の鼻面に人参を差し出す様な物だ。必ず食われてしまう。
今なら呂布の首を取れるのでは無いか。全ては公路様の為。そんな考えが浮かんだ。
「ああ、楽就さん。手出しは駄目ですからね」
けど張勲殿に釘を刺されてしまった。
4.
俺の周りで遠慮を見せる者は少ない方だろう。勿論、身分と言う物はあるが、それでも董仲穎と言う人物は、奥ゆかしい可憐な少女だった。
「
董卓が自然と口にした遠慮がちな言葉に俺は感心した。袁家と公路様の威光があるとは言っても、俺など一介の武官に過ぎない。
「此方も早急に
黄巾賊討伐に官軍が差し向けられる事と成り、彼女は手勢を送り出す。本初様、公路様も包囲の一翼を担う事となっていた。
公路様と董卓による会談に先立ち、日程の調整で洛陽入りした俺は、董卓と話をする機会を得た。
董卓配下の担当者と協議を想像していたが、まさか直接、董卓本人が出てくるとは思っていなかった。そして、豚の様に肥えた巨漢の董卓と言う先入観を一変させた。
「……そうですよね。民の為にも、協力して賊徒を征伐致しましょう」
民の暮らしを第一に思うと言う彼女の柔らかな口調に真心を感じた。そうでなければ
張遼、華雄、彼女を慕い忠を尽くす者達も良い瞳をしていた。主と同じ気持ちなのだろう。
秀でた者達が社会を導く。それが社会の有り様だ。
「はい。共に太平の世を取り戻しましょう」
彼女の深い赤みのかかった瞳を見つめて俺は頷いた。
黄巾賊が世間を騒がせていたが、公路様の民は、投資によって世界を、視野を広げるする。権利ばかり主張する無能な輩と違い、投資を通して自己責任と言う物を学んでいた。
一段落着いた所で、彼女の入れてくれた茶を冷めない内に口にした。
「ほう。これは美味い」
俺は風流や茶の味など分からん武骨者だが、絶品だった。
その後は互いの領内で民の暮らしや嗜好品、趣味を話題に無難な雑談を交わした。
「……それで、捕らえた者はどうなりますか?」
膝元に置かれた両手の指を落ち着きなく組み変えていた董卓は、話題を変えて訊いて来た。
安穏とした日々は終わりを告げた。否応無しに暴風に巻き込まれる。だけど彼女は優しく決意が足りない。
俺が心配する筋合いはないが、彼女も選ばれた人間なら、無能を切り捨てる事も必要な選択だと決断して欲しい。
「それを決めるのは朝廷です」
賊徒に救いは無い。だがこの優しい少女に真実を告げるのは
「へ、へぅ……」
それでも賢い子だ。口にしなかった答えを読んだのだろう。苦悩に滲む呟きを彼女は漏らした。
~~~~~~~~~~
袁家同様に政策金利で董卓の下で、債券が発行され資金が調達されていた。株式を導入していた
董卓の方では、債券が安く広まれば、利回りは増え投資家に還元され、民の暮らしも良くなる。そう信じていたらしい。
「だめ、だめ! どうして、うちの株価が暴落してるのよ」
眼鏡の奥の瞳を細めて報告書を握り潰して、そう言うのは董卓の重臣である
長く結い上げられた深い緑色の髪を震わせて、彼女は市場の激しい値動きに悲鳴をあげていた。
「それは最近、債券の発行を発表したからじゃないですか」
現在、本初様の軍勢は
豫州において汝南郡は袁家の影響力が大きい。張勲殿が策動する必要もなく、義士は挙って公路様の旗の下に集った。
俺達は左中郎将である
公路様は我らの家、
初め、公路様は自分も戦場に行くと仰られていたが、皆が皆、反対し行く事が許されなかった。その辺りは董卓陣営も同じで、一門の党首は帰る家を守る事で送り出された将士に安心を与える。
俺の言葉に賈駆は目を伏せて答える。
「雇用が増えて景気も良くなっていたから、ちょっと債権の発行を増やしただけじゃない」
公路様の領内が栄える状況を聞いて賈駆は真似をしたらしいが、それだけでは上手く行く訳がなかった。
「長期的な投資を行う側からしてみれば、株より安全資産な債券に目が行くわけで、債権を買う為に株を整理した。あるいは利益確定で五銖銭に変えたのかもしれません」
金儲けとは、一人一人の心にある欲を動かす事で、年間を通しての利回りを考えて長期的金利の上がった債券を選んだのは当然の帰結だった。
「心配するのは分かりますが、今は賊徒の討伐を考えましょう」
俺は彼女を真っ直ぐ見てそう言った。
賊徒は何故、周りを平穏を壊そうとするか。社会に貢献しろと言わない。大人しくさえしていれば命を失う事は無いのだから。
漢室の権威は衰えている。だが公路様の為にも、新たな抗争を引き起こさない。その為、諸侯に協力するのであり、行儀の悪い連中は苦しみの海に沈める。
「互いの主の為にも、この馬鹿騒ぎを終わらせましょう」
「……そうね」
彼女は董卓の軍師であると聞いていたが、隙を見せて内情を漏らすとは抜けている。
真面目な気質があるだけに、後で自分を責めるかもしれない。
孫策に比べて大人しめの胸の前で腕を組み、ぐぬぬと少女らしからぬ唸り声を漏らしていた。
その間も、行軍の行程は進み陽が暮れた。警戒を残して俺は宿営準備の指示を与えた。
夕食の席では当然の様に酒盛りが始まった。
「付き合ってくれないの?」
「なんや、自分、つれないな」
「明日も早いから、御二人とも酒は程ほどにして下さいね」
盛り上がっていた張遼と孫策に注意を促し、自分の天幕に戻った俺は従卒を下がらせた。
「今日はお前達も休め」
「はい、将軍」
その後は寝床に倒れ込み疲れから眠りに着いた。
数刻後、関節の痛みから目を覚ました。俺は誰かに抱き締められており、酒の臭いがする。甘い吐息が頬をくすぐった。
「……は?」
相手は熟睡しているのか、すうすう寝息が聴こえる。
顔を動かせば紫の髪が見えた。張遼だ。
「酔ってるのか」
彼女も魅力的な女だが、胸の感触を楽しむ以前に不味い。この状況は不味過ぎる。
酔っ払いに正論は通じない。不埒な真似をしたと騒がれたら俺の人生は終了してしまう。
巻きつく腕を引き剥がして俺は、起こさない様に天幕を飛び出した。
「何で俺の周りは酒癖の悪い女ばかりなんだ……」
思わず愚痴が零れた。
寝不足で朝を迎えるのは不味いので、結局、寝床を取り戻す事は諦めて他の天幕で寝た。
「いやー、昨日は飲み過ぎてしもたわ。悪いな。自分のとこで寝てしもうて」
翌日の張遼は、俺の苦情に対してあっけらかんとしていた。
「ちょっと、
「ええやん、こんな美女に添い寝されたんやから御褒美やろ。あ、ご免な。
賈駆を挑発する様に胸を寄せて言うと、俺を抱き締める。
武官として鍛えられた張遼の身体は均整が取れており、その胸は凶器である。賈駆より女を感じさせた。
賈駆には言いたい事が直ぐに伝わったのだろう。
ぶるぶるっと怒りで震える様を見て、俺は面倒臭い連中だと思った。
「ん……、どうかしたの?」
孫策が眠そうに自分の天幕から出て来たが、寝起きの顔は新鮮だった。
うん、やはり女は化粧で化けるな。
5.
恨みと恥は岩に刻み忘れてはならない。失敗も同様だ。次の成功に活かさねば意味がない。
前回、公路様が敗れたのは我ら家臣が不甲斐なかったからだ。
同じ失敗を繰り返せばただの阿呆だ。公路様の名を高め、多くの名士、英傑を味方に付けるには我らの戦働きにかかっている。
現状、
長社突囲戦において前世では、かの曹孟徳殿が火攻めを行い、
では俺はどうするかだが、そのまま策を使わせて貰おう。張遼と孫策を呼ぶと指示を与えた。
「御二人には
「何でやねん。黄巾のやつらは長社を攻めてるんやろ」
孫策も首を傾げて俺を値踏みするかの様に見つめて来た。
先走って説明が足りなかった事に気付いたが、賈駆が面白そうな表情で頷くと、説明を補足してくれた。
「今、官軍は長社に向かっているでしょ。そして官軍の数はどんどん増えていく。そうなれば賊軍も退く事になる。そして逃れて来る先が陽翟。そんな所でしょ」
「へぇ~」
二人は感心するが、過去の出来事をなぞっているだけだ。
今回も曹孟徳殿が火攻めを行う可能性は高い。
魚を焼くのは任せよう。皿を横から貰うのが俺達で、美味しく頂くのは公路様だ。
~~~~~~~~~~
漢は改革を求められている。それは出鱈目な連中によって行われるべきではない。
「将軍は周りに美しい女性が沢山居て良いですね」
そう部下に言われたが、こいつらの目は節穴だ。容姿に目を惹かれるのは当然だが、本質を見誤っている。
「お前らだって出会いはあるだろう? この後、何してるの。飯でも食いに行かないって軽く誘えば良いだろう」
「それが同僚だともう慣れて異性って認識をしないんですよ」
「ふむ」
部下達と駄弁りながら昼食を摂る俺に、従卒が茶碗を差し出して来た。
「将軍、水をどうぞ」
「うん、ありがとう」
百害あって一利無しの、馬鹿やって阿呆丸出しの連中──長社を攻囲する敵の軍勢を前に、俺は兵を休養させていた。
目の前では賊軍に対して、友軍が果敢と言うか、無謀と言うか、突撃をしていた。しかし賊軍は掘り下げた壕で自軍後背を確保していた。勇んで突き進んだ兵は次々と壕に落ち、圧死して行った。勇敢な者ほど早死にする。
「楽将軍、貴軍は何故、攻撃に参加されない!」
談笑していた空気をぶち壊し督戦するのは、朝廷から戦目付として送られて来た小役人だ。
「壕を越えられず、敵の矢に頭を抑えられた状況で闇雲に兵を進ませるは愚か。公路様よりお預かりした士卒を無駄に損なう事は出来ん」
「これは漢に反逆した賊徒を誅する義戦です。命を惜しまれるか」
朝廷と言う権威を笠に着てるだけの小役人風情が舐めやがって。舌はよく回るらしい。
「公路様は民を慈しまれる御方。ならば主の意を汲み、士卒の命を無駄にせず惜しむは当然」
兵などしょせんは消耗品だが、俺達が兵の命を軽んじれば公路様に味方する者は減る。逆に無駄死にさせず、勝利と共に生きて帰らせる事が出来れば、公路様の人徳は広く領内に伝わる。
「それに俺は戦を生業とする武官だぞ。誰に口を
こいつに道理を説明するのは無駄だ。素人の口出しにうんざりしていた俺は剣を抜いた。
「戦場で不運な死は付き物だ。いっぺん死んでみるか」
「ヒイィッ!」
恐怖から手足をばたつかせ
それは触りたくなる胸の持ち主──にこりと笑った孫策が居た。
出発準備の報告だろう。
声を出す間も無く孫策が剣を薙いだ。ぼとりと落ちる小役人の首は、呆気に取られた表情で固まっている。
「余計なお世話だったかしら」
洗練された剣筋は漢でも随一の腕前だろう。
「いえ、ありがとうございます」
「それじゃ、行ってくるから」
殺した事を気にもとめていない。良い根性してる。
ま、相手は何の思想も持たない、権威を履き違えただけの阿呆だ。
「宜しくお願いします」
すると孫策は顔を近付けて来て、「行ってきますの口づけは無いの?」 ととんでもない事を口にした。
俺は彼女の頭を軽く叩いた。
「あんた馬鹿か。付き合うどころか、恋は始まってないでしょうが」
そうだ。俺達は今でこそ肩を並べてるが、不倶戴天の敵であった。特別な感情など生まれる訳がない。だから恋の始まりはない。