袁公路様にお仕えして   作:キューブケーキ

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4.公路様と小さな洪水

1.

 決められた人生は楽で良い。せっかくのやり直す機会だ。漢を守る事は命より大切だとは思わないが、正義が約束され暗闇に魂を吹き込む袁家は、漢を支える事が出来る。箝口(かんこう)令を出すまでもなく、南陽郡に暮らす皆がそう思っている。

 奇跡は滅多に起きないから奇跡と言うんだ。俺や北郷の様に未来を知る者が公路様の下に集う奇跡も、天が公路様を選ばれた道理だ。

 太陽のごとく輝く公路様は望む物、全てを手に入れる事が出来る。そして罪人の魂を、洗い清め救いを与える事が出来る。

 その上で公路様がどう言う選択をされるかは分からないが、富を作り人を集め天下に勇躍するだけの選択肢は残すべきだ。

 今回の戦も、荊州を手に入れると言う禁忌(タブー)を合法に変える段取りが必要だ。

 道を外れた戦に正義は無い。いきなり孫策をぶつけては不細工だ。最善を尽くし、出来る事は全てする。

 だから職務には忠実に励む。そして邪魔する者は斬り倒して行く。

 義務を果たせば悔いはない。

 公路様の望みが蜂蜜なら、それを手に入れるのが武官として私の勤め等と世迷い言を言う気はない。調達し供給するのは文官の勤めだ。その為に賊を討伐し、安定的な販路を確保して見せる。

 それなら今回も張飛を生かさず賊として皆殺しにしなければいけないが、俺は使う人間だ。

 外に漏れない限りは揉み消しても構わないだろう。屑共は人の足を引っ張ろうとするが、官吏の一人として上手く立ち回る。俺達が法だと言う現実がある。

 俺が死ぬ時は公路様の臣として誇りをもって死ぬ。永遠は要らない。必要なのは一瞬の生だ。だから未来ある子供を殺したいとは思わない。

「鈴々もおっちゃんと一緒に戦いたいのだ!」

 下の下、負け犬人生から救われた張飛は犬の様に懐いている。放っておけば勝手に着いてきそうな予感もした。俺に出来る事は少しだけ鍛えてやる事か。

 戦場では弱い者より勇敢で力のある者から死んで行く。意外かも知れないが、それが真実だ。

 たった一度の人生を長生きして貰う為にも、今回の戦では従卒として俺の側に置く事にした。

「良い子にしてるなら連れて行ってやろう」

「約束するのだ」

 張飛は微笑み、手をぎゅっと握って来た。彼女も将来、公路様にお仕えする大切な原石だ。生き残る為の戦い方を教えてやろう。

「──知らない人にはついていかない。落ちてるものは拾わないように」

「うん、分かったのだ」

 街道を進んでいると、路肩で派手な色をしたひよこが売っていた。

「おっちゃん、あれ何?」

 まじまじと見つめ、瞬きを数度繰り返すと張飛は訊いてきた。

「あれは鶏の雛だな」

 恋愛するより一時的な遊びや食に意識が向く年頃なのだろう。

 張飛の為に数羽買ってやった。

「いただきます!」

 そう言うと丸ごと口に含んだ。

「お、おい」

 大切なのは日頃からの生活習慣だが、この子には教える事が多そうだ。

 とりあえずはこの世の正義に反さない事からと考えていたが、一般常識の方か。

 

~~~~~~~~~~

 

 黄巾賊との決戦が始まる。賊徒も状況を理解して、戦う前から諦めて降伏すべきだ。そうすれば死ぬのは一部だけで済む話なのに、正しい事をしない。愚かだ。

 俺達、南陽袁家の兵は()州で本初様の軍勢と合流した。顔良殿が本初様に代わって軍務を取り仕切っている。

 流民や不法移民の増加で社会不安を引き起こし治安も悪化していた。早急な収容施設の建設手配等で疲労の色が見える。彼女も苦労をしてるみたいだ。

 紙袋を片手に俺は声をかけた。

「袁公路様が臣、楽就参りました」

「お疲れ様です、楽就さん」

 笑顔で迎えてくれた顔良殿。文醜殿の蒼い瞳も綺麗だが、彼女の赤みがかかった瞳も好ましい。

「差し入れです。どうぞ」

 肉まんの入った紙袋を差し出した。

「うわー、有難うございます」

 食事をする暇も無かったのだろう。顔良殿は食べる快楽に身を委ねて満足そうに咀嚼し始めたので、俺は資料を拝見させて貰った。

「美味そうな臭いがする。斗詩(とし)、何か食ってるのか」

 天幕の外から声がかかって文醜殿が入って来ると、顔良殿を抱き締めた。

「あ、文ちゃんも食べる?」

 勢いよく食べていたので咽喉(のど)から声を掠れさせながらも、文醜殿に肉まんを勧めた。

「アニキ、あたいも貰って良いかな」

「ええ、どうぞ。お二人で召し上がって頂こうと多目に買って来ましたから」

 文醜殿は訊いてきた。高々、肉まんごときで機嫌を買えるなら安い物だ。

「んじゃ、いただきます」

 文醜殿は顔良殿の唇に挟まれた肉まんに噛みついた。

「ああっ、んん……やぁあ、駄目、文ちゃん、駄目だよ……っ」

 淫らな水音が天幕に響いた。何をしてるかって肉まんを食べてるんだよな?

「……あー、私が居る事を忘れてませんか」

 振り返った文醜殿の恍惚とした表情を見て、意味が分からない程、俺も鈍感ではない。

 これは邪魔は出来ないと退席した後、気を利かせて人払いをしておいた。

 それにしても知らなかった。二人がそう言う関係だったなんて。

 それはそれとして、賊との戦いは続いている。

 漢室の威信をかけた討伐で、黄巾賊の士気は低迷していた。包囲に対して脱走が相次いでいたが、投降は認めない。捕らえて使役に耐える者以外は処刑された。

「これまで積み重ねて来た罪を死ぬ前に悔いろ」

 敵陣から見える様に並べられ、一斉に斬首される。

「官匪が何をほざく! 我々の意地を見るが良い」と叫んでいたが、知らん。

 小競り合いが頻繁に起きたが、官軍は強固な包囲で敵に抜かさせない。

 死体は多くの情報を教えてくれる。俺は戦場に遺棄された敵の死体を調べていた。傍らで顔良殿は俺が胃を切り裂く様子を眺めていた。

「連中、食うのも困ってるはずなのにまだや気ですね」

 蒼天がどうのと言うお題目を今なお信じているらしい。本当に大切な物の為なら夢中になれる。

「死に場所はここだと決めているのでしょうか」

 顔良殿の足が震えていた。別に人の死に脅えたりはしてないだろう。

 ただ人の死に苦しんでいる。

 だけど賊を哀れむ必要は無い。罪を憎んで人を憎まずと言っても、連中は自業自得だ。

 家族を抱え込んだ賊軍は食わさなければ餓死するだけだ。それを一押ししてやる。

 皇甫嵩将軍は総攻撃を命じられた。袁家は兵数も多いが、打ち合わせ通りに動けば失敗はしない。

「放て!」

 たっぷり魚油の入った壷に廃品を混ぜて蓋をして、火種を着けると投石機でがんがん撃ち込ませた。静かに俺は攻撃を見守る。

「どっかーんって、凄いのだ!」

 張飛の言う通り、我が部隊は完璧に機能している。風もあって敵陣は火の海だ。

 壷が割れた時の破片効果で負傷者が続出してる様で、叫び声が風に乗って聞こえる。

「もっと勢いよく破裂してくれたら効率的なんだけどな……」

 今後の研究課題にしよう。

 曹孟徳殿や孫策は嗅覚が優れている。この好機を逃さず、兵を進ませ敵陣に斬り込んでいた。

 大剣を振っているのは曹孟徳殿の片腕である夏侯元譲将軍か。いつか戦う事に成るかも知れない相手だけに、この機会に勉強させて貰おう。

「さて、口先だけの腰抜けか、負け犬か、それとも本物の英雄か、お手並み拝見だな」

 張飛に殺戮をさせる気は無かった。俺の護衛を兼ねて待機させた。

 

~~~~~~~~~~

 

 死体をカラスが(ついば)んでいた。数が多いので、捕らえた賊に処理をさせているが追い付かない。

 そんな中で焼け落ちた敵の本陣から三人の遺体が発見された。敵の首魁である張三姉妹と言う事だった。

 益州では馬相の率いる勢力が健在で残敵の掃討は残っているが、この乱もほぼ終わりだ。俺は引き揚げの準備も進めさせた。

「張角達が生きている?」

「は、はい」

 ぶるぶる震えながら捕虜はこくこくと頷いた。

 黄巾賊の首魁は焼死したはずだが、曹孟徳殿が捕らえられていると言う。この証言は使える。

 張三姉妹は民を先導し戦に駆り立てる能力を持っている。だから曹孟徳殿は今後の乱世に備えて手元に置こうとした。

(だが迂闊だ)

 賊の首魁の死を偽装し朝廷を騙した。俺が張飛を保護した事とは違いが大き過ぎる。

 曹孟徳殿は天下を統べる器のある人物だが、過ぎた野心は身を滅ぼす。

 放置すれば今生でも公路様の脅威になるだろう。だけど、潰す機会が向こうからやって来た。

 こうなってはもう看過出来ない。

 どのみち生存をかけた闘争だ。この事を張勲殿に「官吏の身でありながら勝手に賊の首魁を保護し、死を偽装、隠蔽するなど、真に不謹慎、謀叛心の証しなり」と報告した。

 飼い犬にしようとしても駄目だ。確実に曹孟徳殿を潰すなら今だからだ。

 陣を引き払うまでに返事が間に合うか落ち着かなかったが、予想よりも早く答えが帰って来た。

『此方が掴んでいた話では、曹操さんは常々、挙兵の意思を口にしていました。今回の隠匿で謀叛の証拠も十分です。叛意ありと朝廷には此方で働きかけておくので、すぐに捕縛して下さい。これまで曹操さんと袁家がそれなりに付き合っていた事を考えますと、お嬢様にまで迷惑が掛かりますから』

 それと今回の件は、姉妹の関係修復も兼ねて本初様も巻き込めと言う指示が加えられていた。

 生きていれば色々と気を使って先輩を立てる。曹孟徳殿はこれが出来ない。

 だけど身内の公路様は本初様を立てて、悪官を共に討つと言う筋書きだ。

 両袁家が手を組めば怖い物など無い。相手には一騎当千の将も居るが、討伐も終わり奇襲を受けるとは考えていないだろう。そして勝利の美酒に酔ってる隙を突く。

 事後処理は万全だ。曹家の資産は国庫に入れ没収されるが、一部は宦官や官吏の懐を温めるのだろ。

 これから罰が執行される。

 

 

2.

 漢は官吏に甘い。その為、官匪と呼ばれる者が民を苦しめた。

 曹孟徳殿は違うと言いたいが、乱を起こした賊の首魁を匿った時点で全て帳消しだ。

 良い根性だが、色々と考えるべきだった。

 彼女の策謀は滑った。中途半端に手を抜いた様な対応で漢の統治を邪魔をした。これで彼女は消える。

「曹騎都尉、(はん)す」と言う事で官軍の士卒が一斉に曹孟徳殿の陣に踏み込んだ。

 曹孟徳殿の父、曹嵩(そうこう)殿は大尉にまで出世されていたが、罷免は免れないだろう。

 歩哨を抑えた後は抵抗も無く、武装解除は問題無く行われた。

 この場には本初様も駆けつけて来ている。

「華琳様!」

 元から率いていた私兵の数は限られている。重臣と共に曹孟徳殿が引き立てられた。甲冑は身に付けず楽な服装のままだった。

「麗羽、どう言う事なの、これは?」

 本初様は友人であると信じた相手の謀叛にお怒りだった。

「どうもこうもありませんわ。華琳さん、貴女の汚い考えは既に看破されてますわ」

 曹孟徳殿の家臣はいきり立っていたが、張三姉妹が連行されて来ると押し黙った。

 本初様は寂しげな視線を曹孟徳殿に向けられたが視線をそらして命じられた。

「連れて行きなさい」

 逆賊は処断される。曹家の既得権益や資産を手に入れる上でも、朝廷は許さないだろう。

「これも天命か……」

 最後に曹孟徳殿の呟きが聴こえた。

 肝要なのは結果だが、太平を呼ぶ礎として賊の首魁を生かすのは本末転倒で筋違いだ。確かに人は慈愛を求めているけど、これだけの乱を引き起こした張三姉妹を、被害にあった民が許す理由にはならない。

 人は復讐心が強い。賊の首魁が生きていた場合、家族や家、財産を失った者の魂は救済されない。匿った事が漏れれば、積もる怨みがこの世を血の海に変える。

 

~~~~~~~~~~

 

 漢の復興が始まる中、都で張三姉妹は四肢を車裂きで処刑された。漢室に対する反逆者の末路、その見せしめとしては十分だ。

「曹操はこれで歴史の表舞台から退場しましたね」

 北郷は未来を変えれたと思っている様だ。

「そうだと良いんだがね」

 だけど安心出来ない。

 曹孟徳殿は本初様の金と権力に物を言わせた横槍で、袁家の預りと成った。やはり御友人を殺す事は出来なかったのだ。俺は処断すべきだと思っていたが、本初様の決断に影響を与える事は出来なかった。

 これからの事を考えると、黄巾賊の脅威が遠退き、宮中では権力闘争が再開された頃か。

「北郷君から見て、この先をどう考える?」

「周りが女の子とか俺の知る歴史とはかなり変わってますけど、大筋でそのままなら次は何進大将軍の死、董卓の暴政、反董卓連合の戦でしょうか。でも、あの董卓を見たらそんな悪い事をしそうな子には見えないんですけど……」

 未来を知る北郷の知識は、俺の記憶を補完してくれる。董卓に対する見解も同意出来るが、甘く見ない事だ。

「鍵は本初様と董卓だな」

 子はいつか親を越えると言うが、公路様が本初様を越えられるかは分からない。

 公路様は董卓と友誼を結ばれていた。家族としての繋がりを大切にする家風がお互いの共通点であり、相手も袁家と結ぶ利を考えて近付いて来たたのだろうが、今の所、上手くいっている。

 無粋な輩は、穿った見方をして公路様と董卓が、権力の簒奪を狙っているとでも言うのだろう。

 最近の公路様は本初様とも文を交わされている。姉妹仲良くされる事は良い事だ。我ら家臣としても安心できる。

「お二人の仲を取り持つ事が乱を避ける事であり、漢の為、公路様の安寧に繋がる」

 その時、部屋に公路様が飛び込んで来た。

「楽就、北郷! 出掛けるぞ、用意を致せ」

 今日は、公路様が楽しみにしていた川下りの日だ。俺も兵を率いて付き添う事に成っていた。

「おっちゃん、遅いのだ!」

 廊下から顔を出して張飛は、ニコニコ笑いながらそう言った。張飛は公路様によく仕えている様で、張勲殿に護衛として推挙したのは正解だった様だ。

「まぁ、良い。妾は寛容だから許してやろう」

 そして抱き抱えろと腕を差し出して来たので、丁寧に持ち上げる。

「申し訳ございません」

 公路様の顔も笑っているが、主君を待たせた事を俺は詫びた。

 じんわりとした公路様の温もりを感じながら、張飛と北郷を従えて俺は部屋を出た。

 

 

3.

 並べられた料理が冷めるのも気にせず、北郷の教えてくれた奇妙な遊びを俺達はやっていた。 

「せんだ」

 公路様が小さな唇から(おごそ)かに仰った。

「みつお」

 張勲殿が俺を指差すと、隣に座っていた張飛と孫権が手を上げて「なはなは」と滑稽な動きを見せる。

 俺は公路様を指差すのもおこがましいので、孫権を指差した。

「せんだ」

「み、みつお」

 孫家の姫で(うやま)われ、大切に守られて来た孫権はこう言った遊びを知らないはずだが、中々、飲み込みが早い。鋭い眼差しで対面に座っていた張勲殿を指差した。

「なはなは」

 公路様と張飛は楽しそうに手を上げた。

「あははっ、愉快なのじゃ!」

 先程からこの遊びを延々とやっている。

 本来は、流れを止めたら酒を飲む罰らしいが、さすがに子供に酒は飲ませられないとして顔に墨で落書きされている。全員、どこか落書きされていた。

 俺には面白さが分からないが、皆が楽しんでるなら良いか。

 視線を船の舳先向ければ、北郷が河を眺めていた。

「あら、どうしたの?」

 遊びに飽きて途中から抜けて酒を飲んでいた孫策が、俯く北郷に話かけた。

「船酔いしました……気分が悪い……」

 せっかく公路様が楽しまれてるのだ。場の空気を乱す事は止めて貰いたい所だが、嘔吐しないだけまだましか。

 ぐいっと顔を掴まれた。

「おっちゃんの負けなのだ!」

「しょうがないのじゃ。諦めよ」

 余所見をしてる内に、張飛の双眸が目の前に現れた。

(北郷め。罰の内容も吟味しろよ)

 筆がくすぐったい。むず痒さに耐えて公路様と張飛に顔を墨で塗られながら、心の中で悪態を吐く。

 

~~~~~~~~~~

 

 来るべき動乱の時代に備えて人材確保は必須だ。

 目を見れば相手の人柄は見えてくる。

 本初様は曹孟徳殿を囲い込んだ。いつの日か本初様に牙を剥くかもしれない。それでも受け入れた器は公路様に勝るとも劣らない物で、名族の誇りを受け継いでおられる。

 そして曹孟徳殿は監視付きで幽閉されており、その家臣は散り散りに成っているが、主の再起を信じ雌伏してる。

 だが希望を持たれたのでは困る。俺は切り崩しを行う事とした。

 向かったのは()(はい)国の(しょう)。汝南と隣接してるだけに地元の名士に伝もある。

 俺が口説き落とそうとしてる相手は夏侯姉妹。出来れば片方だけでも欲しいが、曹孟徳殿への忠誠心は揺るがないだろう。

 恋に落ちるのと違い、誰かを勧誘するのは利害関係の理屈だ。相手にとっての利を説けば良い。

「あ、お前はこの前の……」

 街に入り、夏侯姉妹の実家を訪ねようとしたら、姉の方に遭遇した。夏侯元譲殿だ。

 袁家は曹孟徳殿の捕縛を率先して行った。逆怨みされても仕方がないと考えていた。

「袁公路様の臣、楽就です」

「うむ」

 背が高くきりっとした表情の夏侯元譲殿は落ち着いている。乱暴な言動も覚悟していたが、主と引き離され心が折れている様には見えなかった。

「お久し振りですと言っても良いのでしょうか。今回は不幸な事がありましたが、元譲殿、貴女と妹御を勧誘に参りました」

「は?」

 噂と言うのは簡単にねじ曲げられる物だが、今回は本当に叛意があった。冤罪では無い。

 身内でも無いので忠告してやろうとは思わなかった。

「私と秋蘭は華琳様の家臣だぞ」

 夏侯元譲殿は、さぁどうだ、と胸を反らして言い切った。

 仕える彼女達には何がどうなっているのか分からなかったとは言わせない。死の偽装と言う企てに荷担し、主の野望を一端とは言え知っていただろう。

「曹家ではなく、曹孟徳殿個人を主として選ばれた貴女方が簡単に(なび)くとは考えておりません」

 往来で話す事では無いので、人通りの少ない路地に入った。

「失礼ながら、今の貴女方は無冠で何の影響力もありません。ですが主に殉じる積もりなら、今は力を蓄える時では無いでしょうか。もし貴女方が公路様に御力を御貸し下されば、本初様の印象も変わるでしょう。曹孟徳殿が復権出来る日も早まるかもしれません」

 自分でもうんざりするが、全ては仮定だ。確証の無い空手形を俺は振ってみせたのだ。

 それでも人は悪い事よりも明るい希望の方が生きる糧に成る。

 ふっと夏侯元譲殿は笑った。

「最近は具の少ない汁を毎日食べてる。確かに袁家の援助を受けられる事は華琳様の為にも魅力的な提案だが、私達が仕えれば朝廷にあらぬ疑いをかけられるとか(おそ)れないのか?」

「公路様の障害に成る様なら切り捨てます。心配は御無用です」

 夏侯元譲殿が曹孟徳殿を大切に思う様に、俺も公路様を大切に思う。それだけで説明は十分だった。

 霞のようにぼんやりとしたままでは話が纏まらない。

 だから俺達は色々と話し合った。これから仕える公路様の事、彼女達の仕えた曹孟徳殿の事、いかに愛らしいか、子供達の未来を守らなくてはいけないか。

 味方に犠牲を出さない平坦な道を築くには、味方以外を利用する事。だから夏侯元譲殿を駒として求めた。曹孟徳殿の忠臣である夏侯元譲殿を懐柔出来れば、他の者も取り込みやすい。

 そしてもう一人、妹の夏候妙才殿は「姉者が納得してるなら私も従おう」とあっさりしていた。

 話をしながら彼女の容姿を観察する時間は十分にあった。右目を隠すように額にかかる前髪は水色で、姉妹にしては同じ腹から生まれたとは思えない。

 そこまで考えて下衆な勘繰りに内心で苦笑した。

 ──馬鹿馬鹿しい。

 誰から生まれようと必要なのは能力だけだった。

 幾つか、確認を済ませた後に、他にも伝えておく事を思い出した。

「ああ、それと妙才殿、元譲殿にも話をさせて頂いたが、私個人としては子供達を戦場に出すのは反対です」

「ほう……」

 彼女の眉根が微かに動いた。

 例えば、うちの張飛や夏侯元譲殿に許褚と呼ばれ可愛がられていた少女の事だ。

「私はそうは思わない。季衣(きい)は自らの意思で戦う事を選び、華琳様の下に加わった。その意思は尊重すべきではないか」

 それを言われると俺も張飛に強く出れない所がある。でも元は大人の責任だ。

「そうですね。子供の死屍(しし)の上に立って主を守れるならそうしましょう」

 妙才殿の言葉を一刀両断には否定しなかった。そして続ける。

「ですが、戦を始めるのが大人達なら始末を着けるのも大人達の役目です。大人の尻拭いに子供達を出そうとするのはいけない。力があろうともまだ未熟な子供達です。そう言う因習は絶つべきでしょう」

 戦と成れば屠城、屠殺で女子供を殺す事も躊躇わないが、兵として出すのは別問題だと考えている。

 人として一番大切な物は富や安定した生活だが、国とは次代に受け継いでいく物だからだ。

 きつい言葉を言ったが、夏侯姉妹は全く動じていなかった。

 少し、二人にして欲しいと言われ、返事は後日かと考えたが予想外に早かった。しばらく別室で話し合っていた。

 戻って来た妙才殿は柔らかな声色で結論を述べた。

「出仕する事は了承した。しかし姉者も後始末と用意がある。先に私が出仕しよう」

「分かりました」

 俺は支度金を二人の前に置いた。軽蔑されるかと思ったが冷笑は浮かんで無く、ほっとした。

「これは?」

「金です」

 金で簡単に買える人間は貴重だ。金を払う仕事は契約であり、金の発生しない仕事こそ信用出来ない。

 二人は金で動く訳ではないが、金の分だけ働け。名誉や誇りでは無く、金の為に死ね。そう言う意味の支度金だ。

「御心配はいりません。貴女達の絆は分かりますが、曹孟徳殿と公路様の区別をつける上でもこの支度金を受け取って下さい。これで身辺整理も余裕を持ってお願いします」

 公路様に仕える者の環境管理も仕事の内だ。準備万端で来て貰いたい。

 (しょう)に数日滞在した俺は夏侯姉妹の他にも、曹孟徳殿の従妹である曹子孝殿と曹子和殿の姉妹や、曹子廉殿と言った曹家の面々と会談する機会を設けた。

 一夜にして転落した一族だが、才気溢れる人材が揃っている。勿論、全てを味方として口説き落とせる等と楽観視はしていない。

 盲目的に主を信奉する者には言葉を尽くしても届かない。逆にいらぬ考えを導き出すかもしれなかった。

 それでも公路様の下で働く張勲殿が、武官の筆頭でありながらも人手不足を嘆く現実を知っており、時間を割いて知己を得ておく価値はあった。

 そう、心悪(こころあ)しき孫家の者を飼っているのも公路様の御為(おんため)だ。決して憐れみからでは無い。

 

 

4.

 人生は泡沫(うたかた)の夢と違い長い。死んだ後、肉体は朽ちるが魂はこうして生まれ変わる。

 帰った俺は日常の仕事に追われていた。

 課業中、珍しく北郷がやって来た。予定表をちらっと確認した。この時間は公路様の勉学に同席してるはずだが。

「楽就さん」

「ああ、北郷君。何か?」

 張勲殿より国中の名医と呼ばれる者を集めて来る様に言われたと伝言を聞いた俺は、最後まで話を聞かずにその場を離れた。向かう先は公路様のお部屋だ。

「公路様、失礼します!」

 振り返った張勲殿の紫の瞳が不安に揺れていた。

「楽就さん……」

 寝台の前で張勲殿と並び膝を着いた俺は御尊顔を拝謁する。

「うーうー、妾は限界じゃ……」

「美羽様、美羽様! お気を確りしてください」

 公路様の御言葉に張勲殿は狼狽えたのか真名を人目も憚らず呼んだ。

 うんうんと唸り寝込む公路様のお姿を見た俺は、直ちに使いの者を各地に飛ばした。勿論、怪しい腕の者や祈祷師は除外する。疑念を持つ相手に公路様の健康を委ねる訳にはいかない。

 指示を終えて戻った俺は張勲殿に訊ねた。

「風邪でしょうか」

「咳はしてませんでした。お嬢様に熱も無い様ですが、頭痛を訴え寝込まれました。ああ、おいたわしい……」

 俺同様、張勲殿も主である公路様に忠を尽くし陰で支えている。重責を担う彼女に精神に負荷がかかる事は好ましくない。

「きっとお元気に成られる」

「そうですね。お嬢様なら、直ぐに蜂蜜が欲しいって仰いますよね」

 いつ目を覚まされても召し上がって頂ける様に、公路様の好きな果物や蜂蜜入りの菓子を張勲殿は用意させていた。だが胃腸の重荷にならない物を選ぶべきではないかと俺は思う。

 これ以上は側に居ても何も出来ないから、代わりに張勲殿の業務は俺が引き継いだ。

 大将軍の肩代わりは中々、骨が折れる。二人分の仕事量だ。病と戦われている公路様の為に俺も少しだけ我慢してみる。

「少し休まれてはどうか?」

 ふわりと漂う茶の香りが鼻腔をくすぐった。顔をあげると、妙才殿が茶を持って来てくれていた。

「妙才殿が来てくれて助かります」

 これは御世辞抜きの本心だ。一人では受け持つ仕事の負担も大きい。

 そして妙才殿はよくやってくれている。新参者と言う事で色眼鏡で見られるが、持った能力で嫉妬や偏見を跳ね返していた。

 最初は曹孟徳殿の配下として行っていた仕事量との違いに驚いていたが、袁家の支配地や影響を考えれば納得出来たのだろう。黙々とこなしていた。

「いや、此方こそ誘って貰い感謝してる。私も、姉者も(くすぶ)っていたのは我が身の不徳で、華琳様を言い訳にする事は出来ない。前を向いて進むべきだ、そう思ったんだ」

 妙才殿は自分の前髪を撫でながら、自嘲めいた笑みを溢した。

「だから私達を選び、掬い上げてくれた恩を少しずつだが還していこうと思っている」

「そうですか……」

 そんな大した事ではないが、否定も出来ない。目線を合わすとなんだかむず痒い。

 茶を飲み干すと手元の仕事に意識を集中する。目下の懸念事項としては宮中の動き以外に、劉表の存在があった。

 歴史は簒奪者が作って来た。公路様が弱ったこの機会に劉表が動くかもしれない。

 劉表の地盤は公路様の治める南陽郡と接した南郡。

 歴史は細かい所で食い違っている。孫堅が死んでおり、公路様や劉表が赴任してる。前提条件が俺の知る過去と違うが、漢の行政区分は秦の制度をほぼそのまま受け継いでいる。

 秦の昭襄王の時代に白起将軍が楚を攻め、(えん)は南陽郡、(えい)は南郡とされたのも同じだ。

 劉表の治める南郡は、項羽が西楚覇王を名乗った時、功績のあった諸侯の一人として共敖(きょうごう)が臨江の王に任ぜられた時に与えられたが、後に高祖劉邦に滅ぼされ漢帝国の南郡と成った因縁の地。

(あの地で起つ者は滅びる運命か)

 金の卵を産む鳥が死ぬなら、鉆石を産む鳥を代わりに飼えば良い。しかし公路様の代わりは誰にも為し得ない。

 幾ら袁家が圧倒的な力を持っていると言っても、病は公路様御本人の戦いだ。俺達は手配をして見守るだけ。

 どうしても公路様の事が心配になるが、無理矢理にでも仕事に集中してると昼に成った。様子を伺いに公路様のお部屋に向かう途中、草刈りを終えた孫策達が戻って来た。

「袁術ちゃんが寝込んでるって聞いたけど」

 草刈りは文字通り草刈りで、公路様のお住まいや城下の環境整備だ。戦場の狂乱とは違うが、身体を動かす事は孫策の気晴らしになった。適材適所と言え、共に汗をかく作業で袁家と孫家の軋轢は緩和される。

「公路様は大事をとって休まれている」

「そう」

 孫策から公路様に対する全否定は無くなった。

 死線を潜り抜け膝を屈した先には平穏がある。弱き者は強き者に庇護されるからだ。

 一人で出来るかな、と無茶をする物ではない。いつか限界が来る。だから孫家は降った。

 公路様に忠を尽くす限り、孫策達は生き延びられる。

 だから頑張ってくれるなら本当にお互いが穏やかに過ごせる。それは幸せな事だ。

「孫伯符殿、少し話があります」

「んー?」

 公路様が今後、戦乱の世でいかに生き抜くか生存戦略を決める上でも訊いておくべき事があった。普段は激しやすいのにさすがと言うか、とても自制されている。

「単刀直入に訊きますが、劉景升殿の首を今でも欲しいと思いますか。色々とあって話辛いのは知ってますが、忌憚の無い意見をお聞きしたい」

 そっと瞼を閉じた孫策は、きゅっと手を握り締めた。

 劉表は孫策にとって親の仇、感情に押し潰されそうになるかと思えば、そうでも無かった。一呼吸置くと口を開いた。

「私は家族が守れるなら何もいらない。でももう一つ贅沢を言えるなら、我が母、孫文台の仇を討ちたい。自分の手で仇を討てたら、さぞ気持ち良いでしょうね。でも、欲しいって言ったらくれるの?」

 ふわりと微笑む彼女に邪心は感じられない。

「公路様の将来を磐石にする為の礎として、南郡を手に入れるべきだとは考えております」

 南郡を手に入れるには劉表を排除するか降すしかない。しかし劉表は景帝の息子、魯王劉余の子孫と言う事で、自称の劉備と違い宗室の末裔である身元がはっきりしている。簡単には手出しが出来ない。

 捏造でも良いが、袁家と公路様を矢面に立たせるなら世間を納得させる何らかの理由、大義名分が必要だった。

 孫策は本能的に理解してる。孫家の中では姉より妹の孫権が現状を一番理解してるだろう。張勲殿や周瑜には劣るが、孫権も頭は悪くない。

 不満を溜め込まれると困るし、俺に答えられるのはこんな物だが、意思は伝わった。孫策の喉が上下する。

「楽しみにして良いの?」

 期待を隠しきれない孫策の瞳が俺に向けられている。だからか、少々息苦しさを覚えた。

「孫伯符殿、軽挙妄動は慎んでいただけると信じています。(うそ)から出た(まこと)になるかは、今後の情勢次第です」

 情報は秘匿してこそ価値がある。知ってる事を全て孫策に話す訳ではないが、確実な未来、それは神以外に知る者はいない。

 

~~~~~~~~~~

 

 公路様が丸一日寝込まれた。二日目の今日もお休み成されている。

 その間、張勲殿と侍女が看病をしている。

 人にはそれぞれの役割がある。公路様の御期待に添うべく、俺は俺の出来る事をする。

 現状、考える事は外敵の動きだ。曹孟徳殿が舞台から降ろされ、次に警戒すべき敵は劉表。仲間に引き込めるなら良いが、荊州の王は一人で良い。

 だから俺は劉表を始末する方法を模索する。孫策と違って親を殺されムカつくとか個人的感情は存在しない。あくまでも公路様の障害と成るからだ。戦の抑止とは、荊州における公路様の基盤強化に他ならない。

 荊州を流れる漢水の中流域、その南岸に位置する襄陽(じょうよう)は北岸の樊城(はんじょう)と共に重要な拠点と言える。係争地に成っていないのは、章陵(しょうりょう)郡と言う緩衝地帯を間に挟んでいるからだ。

 劉表にしてみれば章陵郡は自分の勢力圏の積もりだろうが、実質的に南陽郡に組み込まれている。

「楽将軍」

 ちょこちょこと歩いて来たのは章陵郡の太守である黄射。にっこり微笑む表情に俺は頭を下げた。

「本日は如何なされましたか?」

「公路様のお見舞いにやって来たんだ」

 黄射は黄祖の一族と言う事で孫策にちょっかいをかけられていた所、「お嬢様の役に立って下さるなら、孫策さんから保護しげあげますよ?」と張勲殿が囁き、自陣営に抱き込んだ。

 過保護な親の様に公路様を甘やかしてはいても、やはり家臣は家臣だ。自分の職責を忘れず、主の為に率先して動いていた。

 良い家臣は主の視点で物事を見ようとする。歴史上の宰相はその類いが多い。張勲殿も公路様に関しては信頼出来る。

「楽将軍。公路様は一度、お目覚めに成ったがまたお休みに成られた」

 柔らかく優しい口調で黄射は語る。公路様は蜂蜜水をたんと召し上がったそうだ。

「御用があれば直ぐに駆けつけるが、公路様には十分休んでいただき御無理をさせるな」

「承知しております」

 きっかけは何であれ、黄射は忠を尽くしている。

 親と違い世間知らずな黄射は簡単に転向した。そして救われた事を恩義に思い、公路様に信服している。結果として南陽郡の防波堤として役立ってくれていた。

 孫家との遺恨、復讐による負の連鎖に囚われず、孫策に比べれば扱いやすい相手だ。

「見知らぬおっさんよりも、身近な可愛い女の子を守りたい。男女問わず普通じゃないですか?」

 北郷は黄射をそう評価していた。

 味方は万難を排する意味でも多い方が良い。劉表を排除するとして都の連中はどの様に反応するか。

 民の視点で物事を見ても国は動かせない。同じ地べたに這いつくばっても共感以外に得る物は少ない。地位、名声を与えるのは民ではない。

 未来や権益は他者から奪い取る物だ。平和的に得た物でも、金の力や武力で必ず奪われる。力の無い者は食い物として淘汰される。だから諸侯や宦官と言った有力者の動きこそ警戒対象だった。

 俺が武官だからと言う訳ではないが、真の上策とは戦う事だ。戦は全ての問題を解決する。普段でも、四の五の言わずにぶん殴れば大人しくなる。当たり前の事だ。

 だが相手は一筋縄で行ける様な人物ではない。

 劉表が宗室の末裔、名族の立場に胡座をかいて油断し慢心してるなら簡単だが、俺は老獪な人物と記憶している。それでも今生での劉表と齟齬もあるだろう。情報の擦り合わせを行った。

 相手は公路様の見舞いに董卓の代理として来た賈駆だ。諸侯の動向に目を光らせており、意外な事だが荊州の事情にも通じている。

 劉表に積年の恨みを持つ孫家の連中から聞き取りをした情報もあるが、偏見もあるだろう。第三者の視点で語られる事は貴重だ。

「劉表の噂は様々よ。身長は八尺余りで容貌は温偉。将来の投資として知恵者である司馬()の私塾を援助しており、人材面で油断ならないわ。その政は、周辺諸侯との調和や地域的価値への配慮も成されているけど、失敗は許さない苛烈な一面も持っている。一方で女癖が悪く、弓の名手である配下の黄忠は美しい女性で言い寄っており、夫を死なせたとか、そもそも娘の種は劉表であったとか様々ね。司馬()の援助には、こう言う話もあるわ」

 賈駆は見て来たかの様に語る。

 漢は今後、乱世を迎える。少しでも学のある者なら官吏として高みを目指し生き残ろうとする。

 男より優れた女なら尚更だ。

 しかし才を持ちながら、偽善でも博愛でもない。不殺を誓う女が居た。

 司馬()その人である。

 聞く所によると司馬()は争わないにはどうしたら良いか悩んでいたそうだ。

「民を上手く飼い慣らし、『無能な良い人』を増やせば統治は容易い」

 それが彼女の結論だった。

 具体的には、漢のために異民族を排斥するのではなく文化の多様性を認めるべきだと考えていた。価値観を共有する者も中には居るからだ。

 それ以外は初めから相手をしなければ、殺さなくて良い。

 長生きしたければ戦には関わらない。他者と関わる回数を減らすと問題は減る。

 個人で出来る事もある。常日頃から他者と関わらない様にする。その為に司馬()は私塾を営むと言う名目で、一日一回しか外に出ない生活を送っていた。

 しかしある日、劉表に名指しで仕官と身体を求められた。

「貴方の自由になるぐらいなら自害します」

 劉表の名代としてやって来た官吏は立腹した

「身の程を弁えよ。自害出来るものならやってみなさい」

「私は私だけの物。ましてや好まぬ相手に抱かれるなんて真っ平ごめんです」

 司馬()は短刀を喉に突き刺し自害しようとした。

「な、何を!」

 血を吐きながら司馬()は笑った。

「くひ、くひひひひ」

 私塾では師が自殺未遂を起こしたと、家人や弟子達の間で大いに問題となった。報告を受けた重臣の蔡瑁(さいぼう)は、担当していた官吏を叱責し、劉表の醜聞と成る前に揉み消しにかかった。

 今後、司馬()には関わる事はしない。代わりに弟子を厚待遇で採用すると言う事で手打ちとした。

 それが諸葛亮、鳳統、徐庶、孟建、韓嵩、向朗ら門下生である。

「聞く限り悪党ですね」

「そうね。それも噂の一つに過ぎないわ」

 下世話な噂話にも通じてるとは、優れた耳を持っている様だ。それに、あざとい態度を取る孫策と違って話しやすい。こんな有識者がうちにも欲しい。誰か紹介してくれないだろうか。

「緩急をつけた統治は悪くは無いですが、公路様に仕える身としては周囲が彼の御仁に抱き込まれるのは望ましくありませんね」

 劉表の評判から見えて来た本質は、油断成らない相手だと言う事を再認識させた。

 きりっと引き締まった表情で賈駆は答える。

「同族であると言う事から益州の劉焉とも(よしみ)を通じてる。その影響力は無視出来ないから、疑念を抱きたくなるのは当然よ。私だって月を苦しめるなら追い詰めてやるけど……」

 思い込みで敵視するのは危険だが、相手は宗室の末裔。高祖劉邦は圧倒的劣勢と思われる戦況から、約定を違える事で西楚覇王の軍勢を破り逆転した。

 だから侮って失敗はしたくない。やらないで後悔するより、対処の用意をして置くべきだろう。

「この後、お食事でも如何ですか」

 ふられても死ぬ訳ではないし、恋愛感情からではないから気楽に誘えた。

 情報提供の謝礼よりも、公路様の見舞いに来てくれた。そちらの方が重く、接待も必要だと考えたからだ。

「ありがとう。でも今日は遠慮しとくわ。このまま洛陽に帰るし」

 にこっと笑いながらも断られた。主命を果たした以上、速やかに戻ると言う。

 それはそうだろう。

 融通の利かない人だとは思わない。今回は物見遊山ではないからだ。

 賈駆の忠勤には納得出来た。彼女も仕えている主の傍に控えられる栄誉と職責の重みを知っている者だ。

「そうですか。では、お見送りだけでもさせて頂きます」

「ええ」

 賈駆はふっと笑った。

 

 

5.

 あれから十日ほど経ったが、公路様は未だに寝所で横に成られたままだ。

 剣で守れる者に限界は無い。病魔であっても医師を守り連れて来る事が出来る。

 こう言う時にこそ領内の警戒を厳にして、民政の安定に寄与するのが俺達武官の仕事だ。既に漢女(おとめ)道なる怪しげな連中の目撃情報が入っており、劉表の手の者かと考えられた。

 黄射と孫策の連係をさせるべく俺が(えん)を離れている内に、公路様を五斗米道(ゴット・ヴェイドー)の使い手である名医の華佗(かだ)が治してくれた。

「七乃、妾の蜂蜜水を持て」

「美羽様、流石です。病なのに体調とか空気とかを読んでない所とか最高です」

 急いで戻ると公路様は起き上がっていた。しかし完全に病が癒えたとは言えない。

 張勲殿もいつもの調子で盛り上げようとしていたが、他の者の目があるのに真名を呼び合うとは、張勲殿も公路様が回復の兆しを見せて気が緩んでるのだろう。

「けほっけほっ」

「あらあら」

 張勲殿は公路様の背中をさする。

「うー、咳をしたらぽんぽんが痛くなってきたのじゃ……」

 目を瞑り痛みに耐える公路様がいじらしい。

「張勲殿、少し宜しいですか」

「あ、はい」

 俺は張勲殿を促し部屋の外に出た。

「公路様の病は治ったのでは無いのですか?」

 死の病ではなく風邪だと聞いていた。張勲殿も表情を歪めて考え込み、視線を俺に戻した。

「楽就さん。此方の都合ばかりで身勝手ですが、華佗さんをもう一度、連れて来て下さい」

 華佗は益州の漢中郡に向かったと言う。まだ領内に居るのかは分からないが、追いかけよう。

「承知しました」

 その後、部屋に戻り公路様に出かける挨拶をした。

「気をつけて行ってくるのじゃぞ」

「はい公路様」

 儚げに微笑む様子は逆に心配になるが、か細い手を振る公路様に頭を下げた。部屋を出ると、公路様と張勲殿のやり取りが聴こえた。

『七乃、桃の蜂蜜漬けが食べたいのじゃ』

『駄目ですよ、美羽様。楽就さんが、華佗さんを連れて来るまで大人しくお休み下さい』

 主の健康と幸せを心の底から望む。その健康を維持するのも家臣の勤めであり忠義だ。

 華やかな声を背に、華佗を必ず連れ帰ると誓った。

 世の中に完璧は存在する。本当に完成された物は経年劣化以外の綻びは存在しない。

 それが身分や財力だ。

 主人は明るく健やかで将来は安泰。後は周りの家臣が釣り合う物であれば良い。

 武器の良し悪しが戦では極め手となる。同じ様に、金で健康が買えるなら買う。

 逆に金で健康を害する事も出来る。使用人を買収する。あるいは初めから間者を紛れ込ませておく。

 実際、これまでに公路様を狙って、分家筋や豪族が様々なやり口を見せてくれた。

 勿論、遺憾の意を表明して牽制しながら、裏では血の雨を降らせて報復済みだ。

 そんな一連の出来事があるからこそ警戒心は深まる。

 何も為さなければ公路様は周囲の悪意に負けてしまう。だから俺や張勲殿は己のすべき事をする。何があっても公路様だけはお守りする。これまでと同じ様に、全てをかけてこれからも。

「うん。公路様に悪い虫が付かない様に注意しておく。塵は始末して良いんだよな?」

「まさか。四肢を切り落とす位にして下さい。訊く事もあるでしょうから」

 留守中、劉表陣営の謀に対する備えを同輩の紀霊殿に任せた俺は、捜索に配下の者を動かした後、自ら馬を走らせて西に向かった。

 道行く民に話を聞いた。

「───え? そんな偉い先生はお見かけしておりませんが」

「そうか。邪魔をしたな」

「いえ、お役に立てず申し訳ありません」

 途中で情報を集めたが目的の華佗は見つからない。

(華佗は漢中に入ったか?)

 他国では身軽な方が良い。配下の者を残して俺は益州に入った。

 公路様の領内は治安も良かったが、益州に入ると街道には首や四肢を失った裸の死体が転がっていた。

 旅人が襲われて身ぐるみ剥がされたのだろう。

 漢は荒れている。南陽郡だけは別世界で穏やかだ。外は危険。当たり前の事を痛感させた。

「おっちゃん! やっと追い付いたのだ」

 声をかけて来たのは張飛だ。

 ────公路様の警護を命じていたはずだが。ああ、張勲殿の手配か?

 張飛の語彙(ごい)は少ないが、聞いていて心情は理解出来た。

「着いて来たのか。……まったく仕方の無いやつだな」

 きつい一言で追い返す事も出来たが、益州まで追って来た心情を考えて怒る事はしなかった。

「おっちゃん、何か面白い話は無いのか?」

「そうだな……お気に入りの話がある。一体何処からやって来たのかは分からないが、ある時、空から落ちて来た赤い竜が、死の病を流行らせ──」

 張飛に寓話を聞かせながら足を進めたが、供を連れていても安心は出来ない。この世には不運や偶然と言う物がある。

 そして俺も、賊の襲撃を受けた。

 公路様の御用で急いでいると言うのに鬱陶しい輩だ。

「痛っ」

「おっちゃん!」

「たかが矢の一本や二本で死にはしない」

 衝撃と共に自分の足を貫通した矢を一瞥すると、俺はへし折って引き抜いた。そして剣を抜き構える。

「狙うは楽就の首だ!」

 ゆらゆらと揺れそうになる所に、そんな声が聴こえてきた。

 益州では飢えた民が賊と化しており、それを防ぐ為に東州兵が組織されていると聞いている。だから賊かと思ったが、人違いとか偶然では無く、俺を狙った刺客らしい。

 聞いた事の無い声だが、敵意と殺意は伝わって来る。

 痛みが限界を超える前に片を付ける。

 敵の声は聴こえるが姿は見えない。矢によって釘付けされていた。

「────おっちゃん。ここは鈴々に任せるのだ」

「何?」

 俺は張飛を凝視した。

「今まで鈴々に良くしてくれてありがとう」

 そう言うと飛び出して行った。

 それを見て不快な感覚がした。

「ああ……。糞、俺の柄じゃないが、仕方無い」

 英雄は私利私欲に従い、屍の山を築き上げた者を言う。張飛もそんな英雄の一人だが、死ぬには早すぎる。張飛は公路様にとって親しい者に成っている。こんな所で死なせる訳にはいかなかった。

 俺は矢を叩き落としながら張飛の後を追いかけて、窪地に引きずり倒した。

「おっちゃん……」

 頭に血が上がっていた。

(たわ)け。我らは公路様に仕える立場だ。簡単に死のうとするな」

 やがて矢が尽きたのか、敵は突っ込んで来た。千里の道も一歩から、とにかく前向きなのだろうか? 向かって来る連中の気持ちは分からない。

 見た感じでは袋の鼠だ。俺を生きては帰さない積もりだ。

 

~~~~~~~~~~

 

 騎乗した敵は居ない。だが数だけは多い。

 何人斬り倒したか。俺も張飛も疲労が重なっていたが、意気軒昂。しかし腕がだるい。だがやりもせずに諦めない。最期まで戦ってやる。

 傍らの張飛が膝を着いた。休む暇が無く、荒い呼吸を繰り返している。

「勝ったぞ!」

 その様子を見て張飛の側に敵が殺到した。しかし突然、突き出された槍の一閃で薙ぎ倒された。

 ざわめきが周囲に満ちた。

「お困りの様ですな。私で良ければ手をお貸ししましょう」

 そう言って現れた槍の持ち主である女は、美しく凛々しい相貌をしていた。軽やかな身のこなしは服装も加味され白い蝶を想起させる。

「御助勢感謝する。礼は後程」

「そうですか。では美味い酒とメンマを御頼みします」

 予想外の言葉に目を合わせると、女は目を細めて微笑んでいた。ふざけた台詞だが様になる。

 美貌よりも強い眼差しが俺の心を惹き付けた。逞しく良い女だと思った。

 そんな事は、戦場でどうでも良いのに。

「……承知した」

 俺達のやり取りを耳にして女も始末しようと敵は襲いかかって来た。

 今生で出逢う女は手弱女(たおやめ)なだけでは無く武の技量も持つが、それでも女相手に問答無用とは、こいつら腐り果てているのか、雇い主に忠実なのか。それでも焦っている事だけは理解出来た。

 戦いながらも一つの可能性が見えて来た。

 俺の動きを知っていたと言う事は、公路様の周りに間者が居て目を光らせていたと言う事だろうか?

 胸を震わせるこの気持ちは自分自身への怒りだ。公路様の身辺に善からぬ輩を野放しにしている。誰かに(あざむ)かれたのではない。目が節穴だった。失態だ。

 悔しさを反省に活かそう。

 一枚の木の葉を注視する観察力は、木の全体が見える様に鍛えられる。一本の木の植生が分かれば森全体を見通す事が出来る。

 細かな目配りが出来なければ、足下をすくわれると実感した。

 懸案事項が山積しているが、帰ったら先ずは掃除だ。必ずや見つけ出して、八つ裂きにして打ち首にしてやる。

「────鈴々、背中は任せたぞ」

 真名を呼んでやると張飛は笑った。

 俺と張飛がやり取りしてる間にも戦いは続いている。殺すのは相応の覚悟が必要だが、助太刀の女は楽しんでいた。

「たわば!」

 また一人、倒された。

 彼女は中々の猛者だ。敵の目と耳が彼女の動きを捉える前に、必殺の槍で敵を(ほふ)る。

(世界は理不尽で出来ている……)

 武に関しては天に愛された者が存在する。生まれながらに素質、才能のある者は、持たざる者の努力を易々と越えていく。これは間違い無い。

 だが悔しくは無かった。嫉妬もしない。

 武の腕前があるにこしたことはないが、将の真価は状況判断の指揮能力にある。地形、地物を利用して主導権を握り続ける賢明な将に率いられた百人の奴隷は、万人の士卒を殺し尽くす。一騎当千の強者であっても殺して見せる。

 適度に残った敵を処理しながら俺は後を追った。

 

 

6.

 生き残りを捕らえ尋問を終えた俺達は街で宿を取った。

 雇い主は吐かなかったが、劉表の手の者だと言う事は状況証拠から分かっている。

 政を司る者は高潔であらねばならない言わないが、大義名分無くして南陽郡を攻めれば漢への謀叛と成る。以夷制夷、だから益州を使って公路様の力を削ごうとしていた。それが今回の襲撃だと考えられた。

 朝。身体は痛むが歩けぬ程でも無い。

 起床して階下の食堂に降りると宿屋の亭主にからかわれた。

「おはようございます。ゆうべはお楽しみでしたね」

「戯け」

 負傷した痛みから体調が(かんば)しくなかった。だから、女を呼んで楽しむ余裕なんて無かった。

「楽就殿」

 助けてくれた女は大量のメンマを食べていた箸を止めて声をかけてきた。昨日、山ほど食ってたのにまだ食い足りないのか。

 突っ込みを胸の内に抑えて、俺も挨拶を返す。

「おはようございます」

 女は趙子龍と名乗っていた。その名前は劉備の家臣の一人、趙雲だと記憶している。

「楽就殿、出発の刻限にはまだ早い。まだ寝ていてはどうですか」

 俺の傷を気遣ってくれたが、それよりも興味が優先される。

「いえ、昨夜はあまり話せなかったので続きを、と思いまして」

「左様ですか」

 趙雲の細い手首が目に留まった。この細腕で何百もの敵を葬って来たと言う。

 そして昨夜は武の心構えを聞かされた。

「幽州で客将をしていたのですが、上役がお人好しで身分が下な者達に舐められてもヘラヘラしており、あんな馴れ合いを履き違えた連中の元で働くのは、私の矜持が耐えられませんでした。あの様な者の下では苦労します」

 冷たい様で、本質を見誤っていない。話していて心地良かった。

 諦める心は割り切りであり何にも勝る。無能な上役や職場の地位に執着すれば、損失を増やす。損切りは大切だ。

「次は人の上に立つ器を持つ、仕えるに価する主を見極めたいと旅をしてる途中です」

 彼女は主を探す旅と言っていたが、聞けば何処でも戦っている。信念の為に死ぬ覚悟があった。

 貪欲に強さと戦いを求めて各地を巡っている。そこは孫策の様な獣と通じる物がある。

 強さと言う目的に集中し、それ以外を切り捨てる事が出来る。目的がはっきりとしており、それは素晴らしい事だ。

 ただ彼女は孫策とは違う。礼儀と道理を知る。

 秀麗な趙雲の顔を見ていて俺は『彼女が欲しい』と言う気持ちが沸き起こった。

 彼女の滑らかな肌は男の視線を虜にする。それ以上に、公路様を支えるに足る有望な士に出逢えたからだ。

「我が主、袁公路様は耳聞こえの良い理想を語るだけではありません。南陽郡では口減らしに子供を殺して食う事も無い。武器を持たせるのも本人の意思です。理想を実現し貴殿の期待に応えられる力と将来性を御持ちの方です」

 真の男なら自分の魅力で口説き落とすのだろうが、俺は公路様の臣であり情ではなく利を説く。

「それに荊州は漢の衢地(くち)であり、公路様の南陽郡は、洛陽以上に物や情報が集まる。例えば貴殿が好むメンマ一つを取っても、地方によってその風味は異なる。その全てを求める事が出来る場所です」

「───っ!」

 メンマと言う言葉に反応した様に見えた。そんな単純なと思ったが、利益とは見方の違いに過ぎない。

「楽就殿、私は……」

 趙雲の柔らかな指先にそっと触れる。彼女の迷いを感じ取り、これは公路様の配下に迎える事が出来るかもしれないと思ったからだ。

「公路様を、南陽郡の民を守る手を貸して下さい」

 俺は逃がさないように趙雲の手を握り締めて頭を下げた。

「手をお離し下さい」

 暗澹(あんたん)たる気持ちに成った。手を握ったのは、いささか不躾だったか。

 しかし趙雲はくすくすと笑った。

「ふふっ。楽就殿は中々、情熱的なお方だ。その様に求められては否とは言えませんな」

 気がすすまないなら諦める積もりだったが、楽しそうに微笑む趙雲を見てほっとした。上手く勧誘出来た様だ。

 人こそ力、こうして勇士が集うのも公路様の御威光による御導きだろう。絶対、劉備には渡さない。

 

~~~~~~~~~~

 

 常に本分を忘れず、信義には応える事を目標として生きて来た。しかし張勲殿の依頼は達成出来なかった。途中で引き揚げ命令が届いたからだ。

 公路様が回復なされたと言う内容が添えられて無ければ無視していた所だ。

 急ぎ国元に帰り埃を落とした俺は御挨拶に伺った。

「楽就、ただ今戻りました。公路様の御回復を心よりお喜び申し上げます」

 勉学の御時間で、手元に置かれた書を退けると公路様は駆け寄って来た。

「遠路はるばる大義であったな。楽就は妾の誇りじゃ!」

 論語、孟子、大学、中庸、詩経、書経、易経、礼経、春秋。四書五経、何れの書も君主にとって必要な教養だが、それよりも戻った俺を公路様は労ってくれた。ありがたい事だ。

「恐悦至極に存じます。公路様の御為ならば労を厭いません」

 公路様のお心を嬉しく思う。やはり、齟齬(そご)が生じる前に戻れて良かった。

「お帰りなさい楽就さん。それとお嬢様はお勉強の続きをしましょうね。誤魔化されませんよ~」

 張勲殿の言葉に切羽詰まった表情を浮かべる公路様。

「な、何を言っておる七乃よ。妾はその様な卑怯な真似はせぬぞ」

 平静なふうを装っておられるが、隠しきれていない。公路様は俺に助けを求め視線を向けて来られたが、こう言う時の張勲殿は反論を許さない。

「あらあら、そうですか。嘘はいけませんよ」

 公路様と張勲殿のやり取りを耳にして、感謝の気持ちが少し(しお)れたが、南陽郡に帰って来たと実感する。

「──それで楽就さん。劉焉さんは御自分の領内で好き勝手させた事、劉表さんは配下の者を監督出来ていなかった責任を追求する方針で行こうと思います」

 底の浅い考えで動いた連中は、知性の低さで自分の魂の醜さを表現した。王道を歩む公路様とは大違いだ。

「手引きした者は目を離しません。直ぐにでも処分したい所ですが、もう少し泳がせて利用します。楽就さんも堪えて下さい。この件は私が処理します」

 俺に対する苦痛や悲しさは耐えれても、公路様への屈辱は忘れぬ。同じ様に張勲殿も公路様が居ない日々を望まないだろう。

 張勲殿の言葉に俺は頷く。表で笑みを見せ裏から鉄槌を下す。

 女が権力を握れば怖いと言うが、身の程を弁えぬ邪悪な輩には因果応報だ。

 これは私情ではなく政の話だ。生かせば禍根を残すし、問題が生じれば責任を取るだろう。

「はい、肝に命じ承知しました」

 一人一人平伏させるより、纏めて処理をした方が早い。その時は慈悲など与えない。

「それで土産は如何した?」

 上目遣いの公路様に俺は頭を下げながら答える。

「はい。槍の名人を拾って参りました」

「それは蜂蜜より良い物か?」

 公路様はばっと顔を上げられた。

「蜂蜜の壷千個以上に値すると存じます」

 趙雲は一騎当千の猛者だが、良い酒とメンマの壷で雇える。それは公路様の好まれる蜂蜜よりも安い。

「おおっ! それは凄いのじゃ」

 不思議な縁で仲間と成った趙雲は客将としてだが俺の補佐として配属した。

「貴女の人柄は知っていますが、いきなり公路様のお側に置く事は出来ません。よろしいですか」

「しかと承りました」

 早速、趙雲は夏侯姉妹や紀霊と挨拶代わりに武を競い合った。

 新参者が増えると北郷も刺激された様だった。

「楽就さん、俺も何かお役に立ちたいです」

 北郷は紅裙(こうくん)を侍らして怠惰に過ごしていた訳ではない。

「ふむ。それは今の仕事以外で、武官としての仕事もやりたいと言う事ですか?」

「はい」

 北郷の瞳に本気の色が見て取れた。軟弱な気質と思っていたが、やる気があるのは良い事だ。

 この世には個人で乗り越えられない事象が満ち溢れている。だから同じ価値観を持った優れた指導者を選ぶ。

 劉焉や劉表が権力を求めるのは宗室の系譜による影響力や権力を求めるからだが、公路様は違う。袁家の威勢を高めるだけの実力があった。

 北郷もそんな公路様に心を揺さぶられたのだろう。流石は我が主、公路様だ。

 人柄の良い統治者は周りが支え、民を守る事が出来る。上に立つの者は下々を慈しみ、民は上を敬う。その典型的事象で、異邦人である北郷も自ら献身しようと言うのだ。

「良いでしょう。北郷君、最初はおんぶにだっこで格好を付けるだけで良い。世の中は狼虎が群れていますが、人は日々成長する。無理をして背伸びすれば、限界を越えて実力が伴って来る事もありますが、ほとんどの場合は限界と言う死線を越える前に死ぬでしょう」

 武器は半身とは違う。消耗品だから使い潰す。人は違う。簡単には揃えられない。

 兵の教育期間は一律だが習熟は個々のやる気によって異なる。鍛えれば農民でも下馬石程度には使える。

「でも萎縮しては成長しないから、困難に遇えば諦めなさい。死ななければ負けではありません。何度、折れても良い。大切なのは生きて公路様に仕える事です」

 卑怯者、臆病者が役に立つ。死を覚悟する者はいらない。時期を待ち機会を待てる者、己の命だけを考える者は、今日、明日を生き残らせる事が出来る。それが現実だ。

「それで、希望の部署や将来の目標等はあるのですか?」

 孫家の面子や夏侯姉妹、趙雲とは違う。死なない程度の仕事を考えてやろう。

 公路様の身辺警護は張飛に任せているから、街の治安維持を担わせても良い。配属候補を考えながら訊いてみた。

「はい。出来れば、軍師か指揮官でお役に立ちたいです」

 能天気な台詞に舐めてるのかこいつはと思ったが、生まれた時代も立場も違う。現実を知らないだけだ。大切なのはこれから死ぬまでに何をなせるかだろう。

「そうですか。その為にも、先ずは基礎を確りと身に付けて下さい。北郷君には、期待してますよ」

 武官に限らず、本質を決めるのは仕事だ。良い仕事をするなら信用する。納得させる実積が北郷には無い。

 自分の足で歩く、自分の腕で得物を振るう事を経験せずに公路様の兵を預ける事は出来ない。俺はそう思っている。

 

 

7.

 日が随分登った昼過ぎ、開墾作業の一環として郊外の荒れ地に、肥料として生ごみを埋める作業が行われていた。

「そこ、土をもっとかけろ。()()()()()ぞ。それでは獣が掘り起こす」

「はい将軍」

 作業の監督に注意を促した俺は、縄張りした区画の外周を走る北郷に視線を戻した。

 俺が兵の調練を直接指揮する事は少ないが、今日は北郷の相手をしてやっていた。

 この厚遇も将来の布石だ。

 公路様にとって北郷が名臣でなくても忠臣であれば良い。事ある時に身を捨てて国に殉じるのは俺達の仕事だが、北郷には最悪、公路様を連れて落ち延びて貰う。

 そこに張勲殿の側仕えである女官がやって来て、命令会報を挟んだ書簡が手渡された。

「楽将軍、例の者が辞職致しました」

 従事の一人であった荊州出身の豪族だ。南陽郡統治の為に袁家に取り込んでいたが、地縁繋がりで劉表に踊らされていた。

「へぇ、以外に早かったですね」

 忠義の道を外れ劉表の犬に成り下がった卑しい者達に対して、張勲殿の切り崩しが始まった。仲間を売る代わりに本人と家族の安全を保障する。

『──を以て官職を退く事と致しました。私としても袁家を辞するのはとても悲しいものがあります。また今まで温かく御指導頂けた事を嬉しく思います。大変果報者だと思っています。今まで、本当にありがとうございました』

「ふーん」

 事情を知ってるから、退官の辞を読んでも何も感じない。こいつも張勲殿から逃れる事は出来ない。

 今後の事を考えると、北郷には殺す度胸もつけさせないといけない。

 戦場では若者から死んでいくが、平時では老人から死ぬのが自然の摂理だ。だから公路様を邪魔する劉表のような老害には退場して貰うが、とりあえず北郷には罪人の処刑でもさせるか。

 歴史は強者が作り、弱き民を導くもの。人の生とは良き君主に従う事だ。

 種さえ蒔けば、女は一人でも出産し、子育ても、仕事と家庭の両立も出来る。だからか、この世界で女は強く男は弱い。

 剣を元譲殿、弓を妙才殿、槍を趙雲と、一般の兵よりも恵まれた環境で鍛えられても、教わる側が耐えられなければ意味は無い。

「ひぃ、ひぃ」

 彼女達、英傑のようになれとは言わない。努力など才能の前では塵以下の価値だが、たかだか二十里を走っただけで顎を出している。公路様の士卒は朝晩、課業中に二度は走っているのに北郷は軟弱な体をしていた。

「北郷君、君は体力が無さ過ぎる。そこらの農夫の方が君より動けるぞ。だが不毛では無い。前よりは長持ちするようになった。ニ、三刻休んだら再開するぞ」

「えええっ……」

 失礼な奴だ。北郷は屠殺される家畜のような目をして俺を見る。

「君は私を信じれば良い」

 それに誇るべきだ。公路様にお仕え出来ているのだから。

 世界は優しく死は平等に与えられる。人はいつでも転がっている物に気付かないだけで、日々の平穏こそ幸せなのだ。

 北郷に戦場で生き残る為の技術を教え始めて数日が経ったある日、張勲殿より呼び出しを受けた。

「楽就さん。そろそろ、この前の仕返しをしましょう」

 目を細めるように微笑みながら張勲殿がそう言った。

 ……まったく。この人は公路様の事になると自重せず素直だ。

「具体的にはどうすれば宜しいのですか」

「水攻めを行います」

 荊州を治める顔として劉表は、蔡瑁(さいぼう)や重臣の助言で荊州を流れる長江で大規模な治水工事を行っていた。

 支流である漢水の川沿いには洪水から田畑や街を守るなめに堤防が作られていたが、これを破壊しろとの指示だ。

「洪水を起こす事で劉表さんの支配地では食糧に打撃を受けますが、それは問題ありません。その後、豪族や民に支援を行う予定ですので、寧ろ此方にとって良い事です」

 洪水による水害の被害は計り知れない。数千、数万の民が家を無くし、疫病が流行り死ぬ者も出るだろう。だが否とも言えぬ。

 優しく微笑む張勲殿だが、言ってる事は苛烈だ。

「自作自演ですがお嬢様の評判は上がります。民を落とすには暴力や恐怖は不要です。徳を持つお嬢様に恩を感じ、従う民は増えます。そうなると劉表さんも民の流出を放置出来ません。賊に見せかけた略奪や襲撃で妨害してくるでしょう。不法な行いは自分に返って来るのに」

 戦いに綺麗事は禁物だ。老獪な劉表相手に通用しない。

「劉表さんも馬鹿ですよね。お嬢様に牙を剥いて、ただで済ませる訳が無いじゃないですか」

 張勲殿は憤慨していた。そしてその怒りを解き放った。

 復讐を成し遂げれば公路様の益となる。それなら俺も成果を出すべく努力しよう。

「承知しました」

 俺は張勲殿に頭を下げ、襲撃に連れて行く者を選ぶ事にした。

 

~~~~~~~~~~

 

 公路様に勝利を捧げるのは当然として、敵に対する思い込みは危険だ。連中は暗殺や誘拐、買収と悪知恵が働くから油断出来ない。

 戦いに勝つには新兵器も新戦術も必要無い。大切なのは情報だ。妓楼(ぎろう)の女や商人として現地入りさせていた協力者から情報を受け取り分析した。

「劉表の配下は富んでおり、出仕させた韓嵩(かんすう)を通じて徐庶(じょしょ)鳳統(ほうとう)と言った知恵者が味方しておりますが、女癖が悪く不満が溜まっているそうです」

「権力に溺れてる様だが、部下に任せて上手く行ってるなら、人使いは上手いと言う事だな」

 簒奪者である太祖劉邦。その一門の卑しい血を継ぐ劉表は心も卑しいが、人の動かし方も継いでいた。豪族の調停を行い互いに譲歩させる様でありながら、最終目的の利益と相反する者は排除していた。

 不満が溜まっているなら火を着けるのは簡単だ。

 前段階として周囲の地勢、地質等を考察するに敵の活動を阻害すべく糧沫と資材、舟を焼き払う事を構想した。資材確保が出来なければ洪水の被害は阻止出来ない。

「将軍、これは戦に成るのでしょうか」

 出発準備を終え報告に来たた甘寧を労うと、考える所があったのか聞いて来た。

 疑問を感じたら質問する。部下の成長に(よろこ)びを感じる。

「劉表は切れ者だけど、君主としての器が小さいから公路様を嫌う。最終的には向こうから喧嘩を売ってくるだろうね。まぁ、私は命じられた事をやるだけさ。思春、帰るまでが策だ。背中は任せたよ」

 甘寧は誠実で忠良な人物だが、出自が宜しくない。だが俺は記憶から彼女が使える者だと承知していた。甘寧は下賎な身から召し抱えられ信頼の証として真名を預けて来た。

 求めれば身体も命も差し出すだろう。その心意気を感じ、二人だけの時は真名を呼んでやった。

「はい、楽将軍。承知致しました」

 いつもきつい眼差しだが、俺の前で示す甘寧の反応はまさに犬だな。

 信頼を向けられる。それは不快な感覚では無い。

 そう思いながらも緒隊の行動を決定した事から、俺は参加する士卒に命令を下し前進拠点に進出した。

 

 

8.

 ヒビが入った壁を直すのは簡単だ。一度、破壊して作り直せば良い。

 荊州の王を自称する劉表だが、そろそろ退場して貰おう。時代が新しい主役を求めているからだ。

 轟音が鳴り響き、濁流が洪水と成って南郡を襲った。

 流される家屋や流木に掴まれる者はまだ良い方で、多くの者は飲み込まれ沈んで行った。善も悪も老若男女の区別無く、死への道連れにされる。

「すまない。公路様の為だ」

 犠牲は無駄には致しません。

 皆で生きるにはこの世界は小さ過ぎる。

 最近、売り出されている成功者の書いた『南陽群大富豪の教え』『七十七つの習慣』等、を読めば、人生を豊かに進みたいなら他人を倒せと教えてくれる。

 戦場で無くても弱者はどうあがいても死ぬ。だったら強くなれば良い。

 短絡的だが強者は何をしても許される。

『被災した民を幾らか拐って来て下さい』

 嘘をついても利益誘導さえすれば、奇跡が起こせる。

 張勲殿の仕込みの一環として、その様に命じられていた。

 俺がどう考えるかは重要ではない。負ければ戦えない。勝てば何度でも戦える。

 劉表の政が不味ければ反乱を起こさせ、鎮圧に協力すると言う形で傀儡にする事も出来た。

 劉表には優秀な臣下がいる。今回の件で、虚言、流言で不信感の種を植え付け、追放や処刑されるにように手も回していた。

 それにいざとなれば、諫言を行い不興を買うより我が身が可愛い。だから忠臣は数える程しか居ないのだ。

 泥々の濁流で南郡民は死に絶える訳ではない。荊州を巡る戦いに生き残るのは、慈悲深い公路様の臣民であり、水の洗礼を受けて南郡の民は霊的進化を遂げる。

 南郡の民に対する救いとは、劉表の支配状態から、公路様の善なる統治状態へと復する事であり、先ずは死の運命を超越する事が彼らの試練だ。

 劉表は公路様の領と接する第一線地域に兵を張り付かせると共に、自領後方地域の安定化を行っていた。その為、結果的に敵の兵力にも損害を与える事となった。

 だが劉表がその気になれば兵は幾らでも徴用出来る。劉表も人の動かし方を心得ていた。

「戦慄恐怖すべき荊州的大戦争で、世の終わり近付きけり。悔い改めよ」と戦が近い事を示唆しながら扇動していた。

 ただ単にそう言うなら邪教と代わりが無いが、漢に仕える者として役目を果たしていた。

 そして領民に対し完璧な奇門遁甲による運命学──大宇宙占星学とやらを教え、「私の様に修行を修めれば、無行の闇を超えて超越神通力が使える様になる訳だが、日々の生活に追われる大多数の者はその時間が無いだろう。ならば供物を捧げよ。供物を捧げれば応期(おうき)がやって来るだろう」と説き、塩水を飲んで一気に吐き出す修行を科せたり、神仙民族を目指させた。

 劉表の現体制は、物心両面で民を支配し手足の様に使う。名族であるだけに影響力もあり、まったく質が悪い。

「ま、それもこれで終わりだ」

 胸元に手を添えて懐中に納めた物の感触を確認した。綺麗な蜂蜜色をした御宝髪だ。

 公路様に仕える最高幹部や幹部には、忠誠の証として袁公路様御宝髪と書かれた紙袋が御守りとして配られている。

「将軍?」

 部下には被災者を収容する様に指示を出していた。

 民は何処かで絶対的な自由や幸福を求めている。公路様の民として生きる事を望むなら、受け入れる条件は過去を捨てる事、持ち物は最低限の衣類のみ。それ以外は捨てるか国庫に寄付する事。

「遺体は全て荼毘にしろ。作業中の部下に頭痛、めまい、吐き気、疲労感に似た症状を感じた者。あるいは目、耳、手、腕、足など、身体の一部に不快感を感じる者が居たら直ぐに交代して下がらせろ」

 死体を放置しては病が流行る。俺のは習慣による知識だが、北郷もそう言っていたので、病を公路様の領内で流行らせる訳にはいかん。

 とは言っても、城壁も家も全て流され、土砂と瓦礫に埋まった死体はそのままとなる。辛うじて生き延びた民の目の前で、流され転がった死体を、手厚く扱う様を見せる事が目的だ。

 

~~~~~~~~~~

 

 大水害から一週間経った。此方は計画通り、南陽郡から南郡に支援の手を差し出している。

 水が引いた後も死体の発見が途切れる事は無い。瓦礫や土砂の間から突き出た腕が虚空を掴もうとして固まっている。そんな光景も数日で見慣れた。

 公路様の評判が上がって来て、劉表も警戒心を高め始めている。

 これを機会と捉えたのか劉表は、結論を決めて側近から民に精神的圧迫と終末論を広めていた。

「天変地異が続いており、大破局は避けられない。私は正しくない者とは徹底的に戦う。正しくない者とは妥協しない。私はお前達が、私の手足や頭となり、悔いの無い死を迎えられる事を期待する」

 公式発言から、袁家との武力闘争が近い事を理解し、その為に備えている事が判断された。

 身分を隠し情報収集に向かうと、城市で劉表の教えを伝道してる近習に出逢った。

 側近からはもっと危ない物を感じた。

「漢で唯一の名君、劉景升様は荊州の臣民を引き連れ漢の救済に立ち上がり、人々を病苦から解放し、この世に幸福をもたらし、全ての人々の魂を永久の楽園へと導くため、真理の法を説き続けるのだ!」

 呆れた表情を浮かべるのは趙雲。身分を隠しての行程なので、今回は目立たない服装で胸元も隠されている。

「劉表は邪教を広めているのでしょうか」

「さて、どうでしょう」

 しかし着飾って居なくても彼女の美しさは人目を惹く。連れて歩きたくは無かったが、本人が活躍の機会を望んでいたので仕方ない。顔をしかめたくなる。

 そうこうしてる内に、救援物資を運ぶ南陽郡からの商人と劉表の役人や兵と激突した。

 道が冠水してる、橋梁が痛んでいると言った理由で通行止めにしたり、迂回させたり、たらい回しにした結果、荷物検査に名を借りた行いで禁制品を持ち込んだとでっち上げ、持ち物を没収しようとしたりした。劉表配下の過激派による捏造の妨害だ。

「お役人様、もういい加減にして下さい。これは袁公路様より依頼を受けた南郡の民への援助ですよ」

 劉表より公路様の評判が上がるのは都合の悪い事だ。何か変だと思っても南郡の民は聞けない。

 例年と比べれば、水位が危険水位に達してはいなかったが氾濫した。その洪水で多数の死傷者を出した。原因究明と再発防止を声に出来るのは外の者だけだった。

「劉表様に逆らうのは止めろ! 支配流転双生児王の裁きによって地獄に落ちるぞ!」

 南郡社会の混乱や周辺に影響力を高める南陽袁家への脅威から、劉表の支配を阻害する者は不純分子として敵視した。劉表にとって良い領民でない場合は捕まる。とても正気ではなかった。

 やがて無力な民を守るべく義勇兵が起った。荊州の統治者としては叛乱だが、此方としては好都合だ。

 さぁ、これで劉表は戦が出来る準備が出来た。

 向こうにも都合がある。いつ動くのかは分からないが、手を出して来たら叩き潰してやる。

 政治的背景はともかくとして、戦をする事で未来を作る事が出来る。これも真理だ。

 

 

9.

 袁公路様の政は、寛容さと多様性がある。統治者として意識が高い。その様に民には認識されている。

 実際の公路様は怠け者で、拝金主義で、権威主義で、独占欲も強く過大評価も良い所だが、その辺りは張勲殿や重臣の働きによって誤魔化されている。──そして、いかにも南陽郡的な組織運用の結果、民の期待に応える形で、小さな邑に俺は居た。

 ここ暫くの間、劉表側の妨害で揉め事も多い。競合地域に暮らす民から、巡回強化の陳情があり、治安維持の一貫としてこの邑を宿営地として活用していた。

 日が暮れて終礼を終え、本日の課業も終わった。俺は残業をさせない。自分がしたくないからだ。

 悲しげな吐息が聴こえた。

 妙齢の女性相手に男なら顔を上げるべきだが、演技だと分かっている俺は、素知らぬ顔で帰り支度を続ける。

 すると、唸り声と共に机を叩かれた。

「おっと……」

 崩れかけた書簡の束を抑える。

「主よ。何時まで劉表の歪んだ行いを黙って見ている御積もりですか。あれは性根の腐った裁くべき者です!」

 燭台の灯に照らされ口を開いた美女は、眉根を寄せて詰め寄って来た。

 趙雲だ。

 美しさと艶を持つ女性の関心を惹ける事は嬉しいが、弱者を救う事を正義と信じる揺るぎない信条と信念を持つ相手では面倒な話題だ。

 私は貴女の主ではないとか、公路様のお言葉が優先されるから指示待ちだと言えば、話が長引きそうなので止めておく。

「流民は受け入れ、家や職を与えていますし、孤児は里親に援助を与えていますよ」

 すると趙雲は唇を吊り上げた。

「はぐらかさないでいただきたい。劉表と戦をする話です。このまま封殺し看過する御積もりではないのでしょう?」

「当然です。何れ共に手を取り合いう民達に罪はありません。最優先すべき事を考えれば、今は不用意に動かない事です」

 その後、甘寧と合流して三人で夕食を共にしたが、酒の入った趙雲からは不満を聴かされた。部下の不平不満、愚痴を受け止める事も、管理職である上司の務めだと諦める。

「──どういう育ち方をしたら劉表みたいな者になるのでしょうか。名族の生まれであると言う事を除けば、劉表のやってる事は卑劣な悪趣味で、邪教を広め民を支配すると言う倫理や道徳心を全く持っていない事で、漢にとっては戦慄の危機です」

 趙雲の言葉に甘寧も同意見なのか視線を感じる。この場合、愛を感じない視線だ。

 二人共、頭は悪くないのだから今は動く時では無いと理解して欲しい。

「下手な介入は戦いになります。相手は荊州を統べる者、戦うと決めるなら、相応の名目や手立てが必要なのです」

 趙雲は頬を赤らめむくれていたが、話を聞いてくれているので続けた。

「勝ち負けよりも大切なのは、相手が漢に対する害虫で駆除しても良いと言う大義名分です。それが無ければ官吏としても失敗です。家臣としては意味の無い戦を始めたり、手抜かりの責任を主君に転換してはいけません。公路様の名を逆賊として汚す訳にはいきません。ここでは間違う事が出来ませんから、慎重に期を待ちます」

 自分の選択が本当に意味のある物かどうか、漢に暮らす民に貢献しているか疑問に思ったのだろう。実際、南陽郡では公路様の考え以外は無意味な物だ。それが理解出来る様に成れば楽なのだが、まだまだだ。

 人を動かすのは正しさより感情だった。だから付け加えておいた。

「ま、いざやると成ればやるしかないから、その時は思う存分、悪党どもを退治して頂きますが、命令に反対は許しませんよ」

 納得したのか趙雲は頷いた。

 これ迄に数えたら、三桁の小競り合いが生じている。事前の想定に比べたらまだまだだが、釜の中は煮えたぎっており、本格的に血を流すその日も近い。

 そう考えていたら、早朝、張勲殿は公路様が行幸で視察に来られる事を知らせて来た。

 この時期、この情勢で公路様のお姿を曝すのは好ましくない。だが公路様に耽溺(たんでき)する張勲殿だ。彼女の深い考えがあるのだろう。

 何事にも時期と言う物がある。漢が堕落し混乱しても南陽郡は変わらないが、公路様に何かあれば一大事だ。

 張勲殿の計画と俺の受け取り方に乖離(かいり)が起きては問題と言える。早速、手配をして公路様の出迎えに伺った。

 大軍を率いて来られた訳ではないが行列から直ぐに分かった。

「七乃よ。何故、妾がこの様な何も無い所に来なければならんのじゃ?」

 眠そうに(まぶた)を震わせて頭を揺らす公路様のお姿が見えた。公路様の移動は、食べて寝ての繰り返ししかないから、疲れていらっしゃるのだろう。

 現実と現場を知る張勲殿は、寝癖の付いた公路様の髪を治しながら答える。

「民は(わざわい)に遇いました。お嬢様が憐れな民に、慈悲の心でお姿をお見せ下さる事が慰めに成るのです」

「ふむ……。つまり妾の可愛い姿を見せれば皆、喜ぶのじゃな?」

 確かに公路様の(まばゆ)い金髪、翡翠色の瞳は、美しく目を惹く。閨中に引きずり込むには年若く成熟とは程遠いが、将来の成長一端を感じさせる物があった。

「はい、お嬢様! 性格破綻者や狂犬でも困った時に与えられた恩は忘れません。民はお嬢様の慈悲に感涙し、御恩に報いようと南陽郡への門扉(もんぴ)を叩く事でしょう。お嬢様の理解が早くて七乃は嬉しいです」

 薄っぺらで糞の様なお二人のやり取りを耳にした趙雲は、静かな声で尋ねて来た。

「……楽就殿。袁公路様は、民が苦しむ事を御望みではないと言う話だったのでは?」

「勿論です。ほら、あれを御覧なさい」

 行列には公路様のお供以外に、民の援助物資を積んだ駄荷が続いていた。品質の悪い食糧や衣類が見えたから間違い無いだろう。

「ふうむ……」

 南陽郡とは公路様が人臣の声望を集め、太陽の様に世の中の光と成る人を作る地である。民が諦めるのは官吏が本気に成っていないからだ。

 個性を活かすには純粋に思う様に生きれば良い。全身全霊で好き勝手をすれば、大樹に寄り添う事こそ幸福であると気付く事が出来る。

「あ、楽就さん。出迎えお疲れ様ですー」

 柔らかく微笑むと手を上げる張勲殿。公路様にお仕えする同志として彼女の事を能力的にも信頼している。

「出発と同時の手紙では、先触れとしての連絡の意味がないと思いますが……」

 眉を顰めて言うと、張勲殿は目を瞬かせると、優しい声で囁いた。

「あはは。抜き打ちの方が視察に成るじゃないですか。……私は狡い女なんですよ」

「ま、確かにそうですね」

 敵は神に選ばれた劉邦の末裔であり、荊州州牧であり、全ての支配者であり、全ての元凶でもある。

 拝金主義者を味方に付けるべく『犬でも儲かる株式取引ノウハウ99』『金持ち母さん南陽郡大富豪の教え』等を、地域の名士や知識人相手に売り捌かせた。

 我らが生存競争に敗れれば、南陽袁家は逆賊だが、州牧である劉表が倒れたら公路様が荊州を導き統べる事になるだろう。

(劉表は公路様の下馬石(ふみだい)に成るのだ。楽に殺して差し上げよう)

 調和は荊州を崩壊から救い、速やかに纏め上げるだろう。そして荊州の安定は南陽郡の平和に繋がる。

 南陽郡こそ、世界の本来あるべき姿である。新しい荊州の秩序は、南陽袁家の秩序でなければならないと俺も、張勲殿も確信している。

 だから公路様を御守りする為には強く有らねばならず、その為の手段は正当化される。

 確かに劉表は偉大な指導者かもしれない。だが南陽郡で暮らす俺達から見れば、不十分だ。

 劉表排除は公路様を守る手段だ。その上で最大多数の最大幸福が実現出来る。基本原理が確りとしているならば、死んだ者の魂も残された者も安らぐだろう。

 とは言っても他者を欺き、殺す罪は赦されない。しかし官吏の職にありながら思想、信条で職務の放棄するのは論外だ。

「──公路様を餌に劉表を釣る?」

「そうですよ。いつまでもだらだらと飯事(ままごと)遊びには付き合ってられませんし面倒ですから。それに、この事は向こうに広めちゃいましたから、多分、数日の内に攻めて来ますよ。その時は頑張って守って下さいね」

 男なら女子供の盾に成って下さいと、事も無げに命じる張勲殿に俺は眉をひそめた。

(女は産むだけで親になれるが男は違う。だから明日の為に男は犠牲になれと言う事か?)

 彼女の目を見て考え過ぎだと思った。

 張勲殿は秦を私物化した趙高と違う。冗談めいた口調であったが、目は真剣だった。だから俺も不満を飲み込み真摯に応え様と思った。

 劉表とは軍事的、政治的に対立していた。洪水による復興は民の流出による資金不足で、人員の確保すら困難に成っていた。実力主義の南陽郡では人格や人望よりも実績が重んじられる。有能な者は身分の劣る者でも引き上げられた。

 それも劉表の機嫌を損ねた理由の一つだろう。南陽郡からの親切、善意が余生なお世話だった。その状況で噂を広めた。火に油を注いだ様な物だ。

「……ああ、成る程、そう言う事ですか。これは十分に気をつけねば成りませんな」

 戦には勢いがある。よく分からない相手に喧嘩を売って勝つのも勢いだ。劉表は勢いの大切さを理解していた。

 ──そして公路様が出て来たと言う餌に劉表は食らいついた。

 邑は俺達が来てから最低限の防備として、堀と柵が追加されていた。これだけでも安全だが、今回は公路様が宿泊されると言う事で、いつもより警戒部隊の数を増やしていた。

 賊に偽装した襲撃があった。

 装いこそ統一されていないが、連携の動きは調練を受けた兵の物だった。侮れない。

 しかし俺は張勲殿が公路様の安全の確保に手抜かりは無い確信していた。玉体を守る事は使命であり、生きる意味だからだ。

「楽就さん、後はお任せしました。危なくなったら私とお嬢様は逃げますけど、貴方がお嬢様を守った美談は作って起きますから安心して下さい」

 張勲殿の明け透けな物言いに苦笑が浮かぶ。女ってどこまでも利己主義と言うが、それで良いと思う。

「美談は不要です。それにここは公路様の死地ではありません。であるならば、武官としての本分を果たすだけです」

 同じ死ぬなら、姦臣と呼ばれるより忠臣として死にたい。だからやるべき事は幾らでもあった。

 別れる前に、瞼を閉じて言葉を選びながら張勲殿はおっしゃった。

「今回の件が終わったら、長沙郡の太守を孫権さんに任せようと思います」

 長沙は景帝の子(はつ)が王に任じられた所縁の地だが、孫家に任せる事は意外でも無い。孫権は配下を上手く纏めている。直参並みの厚遇恩に感じて大役もこなしてくれるだろう。

「それは宜しいかと思います」

 光武帝では無いが、降った者を重用する事は人心を集める徳に繋がる。

 涙をぽたぽたと溢して感謝する孫権や、裏を読もうと首を傾げる孫権の姿が脳裏に浮かんだ。

 甲冑を身に付けた俺は部下の将士に指示を出す。

(民を(みだ)りに殺傷せねば良いが……。連中にしてみれば、富む南陽郡の暮らしに劣等感と嫉妬をぶつけ、公路様を討ち取れる好機だろう)

 邑の民を避難させ、自警団も防備に着かせた。

 一度武器を向けて来たのなら容赦はしない。部下には厳戒警備で発見次第即刻、不審者を殺せと命じていた。形骸と化しつつある漢帝国だが、法と秩序は守るべき規範だ。

 櫓の上から侵入者を見下ろす。

「歓迎しますよ。悪に堕ちた貴方達ですが、袁公路様は寛大な御方だ。だから慈悲を与えましょう。貴方達の罪は死んでも終わらない。ですが(にえ)ぐらいには役立つ。貴方達の犠牲を無駄にはしません。貴方達の分まで我々は生き、人生を楽しむので許して欲しい」

 指揮官らしい男が口髭を震わせて文句を言って来た。

「ふざけるな……へっ? ぎゃああああああっ!」

 最後まで口上を聞かず、俺は顔面を狙って矢を射る。それを合図に部下が攻撃を始めた。

 真実を都合の良い様に歪めて解釈するのは、狂信者にありがちな事だ。連中が劉表に仕える者として矜持を持ち、与えられた使命をやり遂げようとしていた。

 だが弱者は駆逐される。こいつらは逃げられる内に逃げておくべきだった。公路様の御命を易々と取らせる訳が無かった。

 朝廷が怖れるのは秦を倒した様な反乱であり、黄巾賊の様に民に感染する事だった。

 張勲殿は宮中の宦官や有力者に賄賂を贈る事で公路様の正当性、劉表よりも価値がある事を証明している。荊州は呪縛から解かれ新しい時代がここから始まるのだろう。

「死ぬのは嫌だあああぁぁぁっ!」

 考え込んでいる内に、粗方の処理は済んだ様だ。

 戦をする上でも劉表側が攻めて来た証拠だから逃がす積もりも無い。

 殺し尽くし逃がさない。必要なのは死体だ。

 敵に矢の雨が降り注ぐ狂乱の中で、俺は感謝の気持ちから声をかけてやった。

「これで公路様は更なる高みに登れる。貴方達には感謝しますよ。本日は御足労頂き、本当に、本当にありがとうございました」

 有りとあらゆる殺し方を試すのは次の戦いからだ。

 翌日には、『劉表に公路様が御命を狙われ襲撃を受けた』と言う事実が、荊州の内外に広められた。そして荊州の名士の間では劉表排除の方向に流れが出来ていた。

「このままだと荊州は誤った道を進み酷い事になる。だからこそ太祖の亡霊に縛られるべきでは無い。今倒すべきは劉表であり、奴を放置は出来ない」

 侠の者は起った。俺達からしてみれば甘い奴等だ。

 だから南陽郡から恩を売れば役立つので、金をばら蒔いて協力をした。

「袁公路様の治める南陽郡は救いたい者を救っている。荊州が壊れた今、荊州を元に戻すのは南陽袁家しかない」

 ごちゃごちゃ言う前に、義士は挙って公路様の下に集った。我々は何ら恥じる行動はしていないから受け入れた。

「劉表の支持者は多い。時には体当たりで行かねば解決出来ぬ事がある。澱みを取り除き荊州を浄化するのだ」

 学識のある者は、どの様な結果に成るか先を読んだ。価値の無い権威を笠に着た粗悪品に忠を尽くす訳がない。

 最早、卑劣な動きをした劉表を支持する者は居ない。瀬戸際でどちらが勝つかは明白だろう。

 

~~~~~~~~~~

 

 危険な膠着状態から緊張が高まって、そして決着を着ける時が来た。

 奇襲攻撃として、劉表に対して反乱を起こさせる。

 ならず者に我々の怒りと力を断固として見せつけるのは良い。必要とあれば何処にでも攻め込むが、抜け出す事が出来ない戦闘では困る。

 南陽袁家の兵が動く前に、現地の協力者に蜂起させていた。洪水から救われ、劉表の洗脳が解けた農民を兵として教導した。やはり、いきなり戦わせて殺しを覚えさせるより効率が良い。

「私は洪水で妻を失いました。家族で逃げていると、どさくさ紛れに襲って来たのは役人達で、犯された娘は自害しました……」

「安堵せよ。公路様は民を大切に成される御方だ。そして悪は相応しい酬いを受けるであろう。お前達は公路様の民と成る。教えた事を忘れて貰っては困るぞ」

 盾を持つ者の後ろには弓を装備した者。その後方に戟、槍を装備した者という三人一組で、当たる術を教えていた。素早く無くても統制された動きが勝利に繋がる。武力支援を行うのが公路様と言う事は確り伝わっている。

「重々承知しております」

 民の支持があれば敵味方の区別もつくし、荊州南全土へ着実な前進が出来る。

「攻撃目標は劉表。劉表を(ほふ)れ。穢れた王を倒し、荊州は一から出発するのだ。決意を見せろ。全ての力を解き放て!」

 進撃開始、初日。一斉攻撃が始まると、暗殺や誘拐、襲撃で、劉表の政を支える官吏や教育者、張勲殿に目をつけられていた者が三千人ほど殺された。時勢を読むのに秀でた者は、早々に鞍替えして来ていた。残るのは何らの理由があるか、狂信者だけだ。

 敵は甲冑を来た兵以外に殉教者の民兵が存在した。

 実際に戦が始まれば嫌でも内面で考えさせられる。

 殺すとはどういう事か。楽しむ者も、嫌がる者も、役目だと割り切る者も居た。

 正しいと思っていれば相手を殺せる。狂う事が出来る。

 全てが順調に進んだ訳ではない。地形、地物を利用した狂信的民の抵抗で、無数の矢や石が飛んで来て、一歩進む度に死傷者が出た。良い隣人に思えても、邪教は邪教だ。

 戦災から逃れ様とする民の流れが混乱に拍車をかけ、進撃を遅らせた。

「このままでは敵に兵力展開の余裕を与えてしまうか。囲んで抑えの兵を残して先を急ぎましょう」

 趙雲は声を低くした。

餓殍(がひょう)──兵糧攻めですか」

 避難民も逃げ出せない厳密な接合部によって、間隙は消滅し、敵に負担を与えていた。

「餓死者が沢山出るだろう。早めに降ってくれたら良いのだが……これは公路様への責務です」

 荊州を救いたいなら全身治療で劉表を排除するしかない。

 公路様の民と成る者達を救うべく粉骨砕身、全身全霊、責任のある仕事をやり遂げようとしていたが、問題は世間の見る目だ。

「人間の記憶は曖昧です。不幸にして亡くなっても、事実を整理すれば要らぬ誤解を受けなくて済む」

「……事実の改竄ですか?」

 民を逃さず敵と共に包囲の中に閉じ込める。公路様の正義の是非を問う問題だが、汚れ仕事をするのは家臣務めだ。

「大人になりなさい。これは南陽袁家全体の問題です。果てしの無い戦いをすれば、結果として民の暮らしに影響する。袁家の一員として責任を果たせ」

 目の前の正義に拘って劉表を取り逃がせば、救える者も救えない。本末転倒も(はなは)だしい。

 赤の他人の人生と公路様の政とどちらが大切かは考えるまでも無かった。

 その時、その時、最善な策を取るのが将軍と呼ばれる者だ。小事にかまけず趙雲にも理解して貰いたい。

 袁家の軍勢は、人口密集地で敵と遭遇し拘束される事を嫌い、決戦を避けて劉表の居城を目指し分散進撃した。特に孫家の連中は、公路様に真価を見せようと頑張ってくれている。

 これだけ派手にやってるのも宦官を抱き込んだからだ。

 連中にとって扱い辛い名族は少しでも排除したい所だ。その点、公路様とは良好な関係であり、お互いの利害が一致してる。兵を動かす上での根回しは済んでおり、荊州を任せると内示も受けていた。

 だから下手を打つ訳にはいかない。

 

 

10.

 公路様を後世の史家がどの様に記すのかは分からないが、家柄だけで語られる事は無いだろう。

 漢水の南岸、襄陽城の高い城壁は敵の攻撃を阻むべき築かれた。しかし、その城郭や水路を生かす事なく、内部からの手引きによって開城し陥落した。

「漢に(そむ)き俺達から搾取する劉表を倒せ! 袁公路様こそ荊州の希望だ」

 食い物、家、仕事、日々の生活を保証してやれば人は動かせる。

 抵抗するなら容赦する積もりはなかったが、襄陽城で屠城(とじょう)を行わなかったのはたまたまだ。

 この世の中、頭を使うより命を賭けないと生き残れない。太守が州牧を倒すのは人聞きが悪い。だけど簒奪者とは言わせない。

 朝廷が味方に付けば、道理の通った戦と認められる。

 劉表が州牧の立場を利用して邪教を広めていた証拠は集まっている。宦官を抱き込んだ以上、悪い方向にはいかないだろう。

「劉表は益州の劉焉を頼る様です。重臣の蔡瑁(さいぼう)蒯越(かいえつ)、劉表に(したが)う連中は、街を捨て後を追いました」

 報告をする甘寧は眉を(しか)めていた。ま、こいつが唇に微笑を浮かべるのは少ないから、平常と言えば平常だ。

 今回はこいつの手の者が流言や放火、誘拐などで活躍してくれた。

「彼ら民にも仕える主を選ぶ自由はある。望んで従う主の共ならば、冥府の道も楽しいのかもな」

 出自から言っても劉表の係累を三族まで殺す事は出来ない。だけど身柄は押さえねば戦をした意味がない。だから命じた。

「引き続き追撃する」

 俺達はあらゆる手を使い、容赦なく敵を叩く。劉表に従う避難民の群れも再戦力化されれば厄介だ。

「刃向かう者は斬っても良いが、出来れば捕らえろ」

 世間体を考えて、邪魔なら殺せとは言えなかった。

 部下は気が利いていた。言葉にしてない考えを忖度されて、各々の判断で劉表に従う信者は蹴散らされた。不幸にも殺してしまった場合は、死体を燃やすより山に埋めさせた。

 それでも処理が間に合わない。敵に味方する者の屍体が転がる街道を、さらに劉表を追って軍を南下させた。

 戦で急ぐのは良い。少しでも足を止めれば隙を生む。兵は動かし、部隊は遊兵化させない。立ち止まる事がいけないのだ。

 戦乱が人の本質であるように南郡、武陵郡の通過する城市(まち)や邑では治安が乱れていた。路上で殺人や強盗、暴行が横行していた。

 死が近付くと、子孫を残そうと言う本能が働くのか、男女を問わず身体を貪る様に快楽に溺れ現実逃避する者も居た。

 皆で生きるにはこの国は狭すぎる。人が多すぎるんだ。

 劉と言う氏を持つ者は神の様に扱われるが、愚かな王には愚かな民が付く。猿ばっかりだから一々対応していたら手間だ。臨時雇いの義軍に巡回と治安維持を命じた。責任者には趙雲を当てた。

「不埒な行いをする者はごろつきだ。身分の区別なく捕らえて罰しなさい」

「承知しました!」

 刃向かってくるとは言っても、民百姓相手に得物を振るうのは気が進まなかったのだろう。鬱々としていた趙雲は、正義の行いに活力を得たのか職務に励んだ。 

 義士と言うのは厄介だ。使う場所を誤ると離反されるからだ。

 部下には感傷に流されるな。追い詰めたら始末しろ。頭と理性で考えろと常々、指導している。

 

~~~~~~~~~~

 

 金を持つ者は強い。公路様に荊州を捧げようと起った義軍によって袁家の軍は様々な支援を受けた。

 袁家の財力を前に、連戦連敗の劉表軍。

 公路様は鎧を身につけず捕虜や民の前に出て、これからの様々な改革と安心と安全を保障した。

「うははー、妾は南陽郡太守袁公路じゃ。これからこの地は妾の王国に成るのじゃ。見知りおれ」

 幼くも堂々とした声だ。「きゃぁー」と歓声が沸き起こった。

「天下非常、この世は貧乏人に地獄で辛い事ばかりじゃが、国家有為の人材を妾は求める。未来永劫の幸福な暮らしを夢見るなら、数々の悪行に手を染めて荊州に跋扈(ばっこ)する不逞(ふてい)の輩を捨てて妾の下に来るが良い!」

 丹念に育てられた公路様は純粋無垢な御方だ。その言葉は決して悪意や不快な物は無く、真摯で甘く蕩けさせる。心に響く物であった。

「身分、出生をとわん。じゃが、今までの様にはいかん。これからは無駄を無くし、税の不公平を無くす。人生にとって生きる意義は何か、心してかかれ」

「お嬢様、台本通り完璧です!」

 公路様の背後で共に控える張勲殿の言葉に俺も頷く。

 霞を食べていける訳でもなく、劉表の旧臣や民の中でも頭の回転の早い者は膝を屈するだろう。

 土地を買い占め、開発を行う事で雇用も生まれる。役目変えで文句を言いそうな豪族は、手段を問わず潰す。

 公路様の王国と言う発言は危険だが、主の求めに応じて動く事が忠義、そして合法なら何をしても正義だ。

「劉表さんが頼みとするのは劉焉さん。劉焉さんが劉表さんの保護を名目に、間も無く動くでしょう。攻めて来る前に荊州と劉表さんの身柄を押さえませんと面倒ですよね」

 公路様の下に出仕して、微禄(びろく)ながらお仕えして来た。

「何分、この辺りは司隷より離れ目が届かない所です。どの様な手を使ってでも仕留めます」

 漢の宗室に叛くは逆賊。そうなる前に荊州を手に入れる。

 落ち着き払った声で張勲殿は答える。

「貴方も心配性ですね。北郷さんの言葉を借りるなら、金はある所にある。劉表がどう画策しようと変わりません。全ては予定調和ですが、多少の台本の手直しは良いですよ」

 勝たなければ意味がない。

 公路様に利益相反する事はしない。

 劉表を信奉する民の一部は洗脳が解けず、袁家への投降を拒み劉表に従い益州へ向かって撤退していた。

「民を引き連れて蜀に向かうって、劉備と劉表の立場が入れ替わってるのか?」

 北郷の記憶する話を聞くと合致する状況が幾つかあった。

 例えば、水も物資も断たれ孤立した長坂には敵の殿軍が残っていた。

「本当は張飛が殿軍に残って曹操軍を相手に戦っていたんですよ。でも色々と違う事もあるし……。俺にも先は読めません」

「うん。まぁそう言う物だろう」

 敵の指揮官に投降勧告を行った。降伏か死か。しかし敵の返答は拒絶だった。

 敵に強硬派が居るのは分かっていた。だから益州への撤退を阻止すべく巫を制圧し、白帝城方向から劉焉の増援阻止を狙った。

 だが相手は老獪で此方の網を掻い潜ろうと動いている。

 劉邦が西楚覇王に敗れても再起を図れたのは誇りの無い屑だったからだと言う評論がある。同じく劉表も屑だけあって頭の使い方は上手かった。

 益州へ直接逃げる様に経路を偽装しながら、本人は当陽(とうよう)経由で南東の江陵(こうりょう)から長江の水路を利用する形跡があった。

「荊州の人民は団結して、侵略者とその全ての手先を打ち破れ。民草の犠牲は漢再興の礎となる。勝利の後は政を(あらた)める。死を無駄にはせぬぞ」

 戦や政は大きな演劇と言え、人を魅了する演技をした者は称賛され、崇拝を勝ち取れる。

 後衛として残る麋芳(びほう)士仁(しじん)は正義を信じていたが、正義は弱い。利用されてるだけで、我が軍への生け贄として捧げられる。

 荊州の平定を考える上では、劉表と熱烈な信者の排除による方法が最も確実な方法である。しかし公路様の兵を損なう事は極力避けたい。戦以外の調略等の方法も使った。

 孫家に仕えていた将の一人、虞翻(ぐほん)は友人、知人の投降を勧告した。

「友よ、勝敗は決した。これ以上の抵抗は止めて袁公路様の下に降るのだ。拙者が悪いようにはせぬ」

「すまぬな。だが我が義、我が忠に揺るぎはない。努力をすれば主を救えるかは分からぬ。運もあるだろう。故に命を繋ぐ為に戦おう」

 真の忠臣は二君に仕えても生きて戻ろうとするだろうが、自分の意思で動いていると思い込まされているから抵抗は続いた。

 後悔するだろうが、過去を無駄にしたくないと言いたいのだろう。馬鹿な矜持に囚われている。

「努力をしなくても、良い主に出逢えるのが運だな……」

 悪い主を選ぶ。多分、多くの官吏がやってしまう一番の失敗。大人とは現実に妥協出来る者を言う。その後、主に見切りをつける事が出来るかがやり直しに大切だ。

(女たらしの北郷ならどう口説き落とすのか……)

 些末な考えを吹き飛ばすかの様に、田畑を見ていた張飛が稲穂を啄む雀を指差して言った。

「唐揚げなのだ!」

 その後、張飛は雀を狩り集めて夕食のおかずの一品にしていた。

 食事を取りながら北郷の知識と現状の擦り合わせを行った。

 北郷の知識だと、劉備軍は孫家と手を結び曹操軍と対決したと言う。

「先回りして夏口(かこう)を押さえましょう」

「確かに舟で逃げられては厄介だね」

 北郷の進言を入れて、漢水を下り漢津から追撃を行いながら、夏口にも兵を送り停泊する舟を確保させた。

 夏口で手に入れた計画書に寄ると、劉表は此方の予想よりも大胆な迂回を準備していた。江水からさらに下り洞庭湖から(げん)水を西へと進む選択だ。

 だが、これで水路は断った。

 劉表の信者である農民や兵の遊撃隊が反袁遊撃運動を行っているが、公路様に味方すべく立ち上がった荊州救国義勇軍や長沙自衛軍、南郡鉄血軍を名乗る義士が対処しており、此方の勝利は揺るぎ無い。簒奪と呼ばれるかもしれないが、荊州では袁家から恩顧を受けた民の方が多い。

「にゃーにゃにゃー」

 あれは南蛮の民か。何やら鳴き声をあげながら街道を歩いている。呑気な連中だ。

 戦に成ればどれだけ戦えるのやら。

 その点、我等が民は義兵としての志も持っている。

 南陽袁家で大切なのは処世術ではなく忠義だ。土民こそ力であり、主従制に基づく忠義こそ土地を守り、土着の民を導く。

 公路様を守り立てる事で我々は団結し、反動的勢力に対抗出来る。

 無垢な笑顔を見ていて思い出した。夢見る公路様は可愛らしい。あの寝顔を我ら家臣は守らねば成らない。

 欲しい物は力で守るしかない。全ては公路様のお心お健やかに過ごしていただく為に。

 仕える主君の何処を好きになるかは人それぞれだが、忠義とは家族を守る無償の愛と同じだと信じている。

 袁公路様は偉大なり。公路様を讃え、揺るぎ無い信念で戦う。舐めた屑は腐った血で贖う事になる。


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