鎌のような風が吹き、建物を揺らす。
矢のような雨が道行く人々に降り注ぐ。
天を裂くような雷が、刹那に暗闇を照らし出す。
嵐の夜。来るべき聖杯戦争を一週間後に控えた冬木の街は近年稀に見る天候であった。嵐の前の静けさとは良く言うものの、これほどまでに騒がしいのもまた妙な話である。まあ、あの聖杯戦争が嵐程度で終わるかと言えば疑問ではあるが。
〝聖杯戦争〟。
六十年周期で冬木市を舞台に繰り広げられる魔術師同士の殺し合い。願望機と呼ばれる聖杯を狙うのは、聖杯に選ばれた七人の魔術師と彼らに召喚されし七人の英雄たち。歴史上に名を残した英雄豪傑たちがサーヴァントとして召喚され、最後の一人になるまで殺しあうバトルロイヤル。参加者は御三家と呼ばれるマキリ、遠坂、アインツベルン、そして外来の四人の魔術師たち。その一人であり、アサシンのマスターである言峰綺礼は教会で一人、神へと祈りを捧げていた。聖堂教会の神父という外面から見れば、それは何の不思議もない光景。されどその心の内にあるのはただただ満たされないという諦めにも似た虚しさ。その虚淵を満たすため、彼はこの世に生を受けてからあらゆる試練に挑み、鍛錬を積み重ね、神へと祈りを捧げた。
しかし、満たされない。
仕事に没頭した。
満たされない。
妻を娶った。
満たされない。
妻を亡くした。
満たされ…
その先へと思考することを、綺礼は本能的に拒絶した。それを考えるということは、彼自身の罪深き、堕落した己を認めてしまうことになりかねない。埋没していく思考を止めたのは、蝋燭の火を揺らした風。否、自身のサーヴァント。アサシン、ハサン・サッバーハ。
「報告します」
跪いたのはアサシンの中でも統制役である長い紫紺の髪を後ろ手に括った女。髑髏の面をした暗殺者に、綺礼は感謝の念を送った。
「敵マスターの情報を掴んだか?」
綺礼の心臓が高鳴る。もしや、衛宮切嗣の居場所が分かったのではないか、と。
衛宮切嗣。魔術師殺しとも呼ばれる魔術師を専門としたフリーランスの殺し屋。目的のためなら手段を選ばず、魔術師最大のタブーである魔術の隠蔽にも躊躇しない悪辣な輩。しかし、同時に自身の満たされない心に、答えを与える者として期待している男でもある。
「いえ、違います。子供です」
「子供?」
「はい。近くの崖で子供が倒れているのを、我が分身であるアサシンが発見いたしました」
その言葉に若干失望しながらも、子供が倒れているとあっては神の教えを守るものとしては捨て置けない。
「ならば近くの病院に」
連絡をしよう、として手が止まる。教会には電子機器がないことを思い出したからだ。魔術師たるもの、科学技術を信仰することなかれ、という師の言葉に内心舌打ちする。綺礼の視界を、稲妻が照らし出した。
十
「これは…」
このような暴風雨では傘など意味をなさない。土砂降りなどでは生温い、さながら戦場に降り注ぐ矢のような雨に濡れながら、綺礼は現場を確認する。現場の確認だけならば、アサシンとの視覚共有で事足りる。しかし、子供の救出となると話は別である。アサシンに治療のスキルはなく、また病院に運ぶにしても髑髏の仮面をつけた全身黒タイツではこちらが通報される。かといって病院の前に捨て置く訳にもいかない。
綺礼の目に映るのは無惨に引きちぎられたガードレール。そしてその下には雨で大分鎮火されているが、闇を照らすように火が灯っていた。大方この暴風雨で車がスリップし、ガードレールを突き破り崖下へ転落といった所か。ありふれた話である。元々人通りも少なく、加えてこの天候では誰も通りかかるまい。鎮火されつつある炎が、それを物語っている。
「仕方あるまい」
崖はかなり険しく、深い。常人なら立ち止まり、救助を要請するだろう。だが、この男にそんな常識は通用しない。自力で辿りつけるのなら、行くまで。険しい崖も、元代行者であるこの男にとっては少し急な下り坂のようなものだ。軽く息を整え、一気に駆け下りる。着地の衝撃を、崖の側面を蹴り、空中で回転することで軽減する。数秒後、そこには息一つ乱すことなく崖下へと到着した元代行者の姿があった。
覚えている限り、最初の記憶は真っ黒な空と、目を開けるのも辛いほどの雨。そして時折光る雷。全身を濡らす雨が、どんどんと体温を下げていく。激痛に身体を強張らせながら、それでも少年は天へと手を伸ばした。無意識か、助けを求めてか。はたまた両方か。天よりも暗い瞳を宿す少年の手を掴んだのは、無表情な漆黒の神父であった。
(不味いな……)
言峰綺礼は手を取った少年の状態を観察する。あの高さから落ちて五体満足であることは奇跡に近いが、それでも衝撃までは殺せなかったのらしく、折れたアバラ骨や肋骨が臓器に突き刺さり、少年の体内を血の海に変えている。これでは例え病院の治療を受けたとしても、その命を救うことは困難であっただろう。綺礼は少年の最も重症な部位へと手を伸ばす。魔術師としては極めて凡庸である綺礼はしかし、治癒という分野においては本人の起源である『傷を開く』という特性も相まって、現在では師である時臣をも凌駕している。
「少年、名は?」
綺礼は問いかける。意識を途切れさせないという目的もあったが、これから助ける者の名を知らないというのも不便だ。
「し…ろ……う」
日本人には珍しい緋色の髪をした少年は、うわごとのように呟いた。