星を紡ぎ星を織る   作:菅原すぶた

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棋聖逆行

囲碁をたしなむ者でその名を知らない者はいない。

そして囲碁のことを知らない者でも、彼の名前だけは聞いたことがある。

 

それが進藤ヒカルだった。

 

最年少で本因坊のタイトルを取得。

続いて七冠タイトルを全て得た後、60歳を待たずして27世本因坊を名乗ることを許される。

世界ランキングにおいても数十年に渡って頂点を独占し、正しく最強の棋士となったヒカル。

囲碁で史上、最も強い者は誰かという問いに、ヒカルの名が真っ先にあがるようになったのはいつの頃からか。

 

そのヒカルも今、臨終の床にあった。

 

妻をはじめ、かつての友人、碁敵たちも今は皆、世を去って久しい。

とりわけ思い浮かぶのはいつも生真面目な顔をした生涯最高の好敵手、そして

 

――――――そして懐かしい烏帽子をかぶった碁の神様の姿だった。

 

今でも目を閉じればはっきりと彼の姿を思い浮かべることができる。

 

ただただ碁に。

そして神の一手に邁進し続けた人生だった。

 

(なあ佐為、俺、やれるだけやったよ)

 

若い頃の口調に戻って、ヒカルは思った。

そう、やれるだけのことはやった。

 

(だけどその分、色々取りこぼしてきちまったのかもな)

 

両親や妻には心配をかけ通しだった。

後継者たちを育てあげることも不十分だった。

なにしろひたすらに自分と、そして佐為の碁を見つめ続ける人生だったから。

 

(それでも俺は。

俺はまだ、神の一手を極めていない――――――)

 

神の一手を極められずにあの世に行ったら、佐為はどんなふうな顔をするだろうか?

怒るだろうか。泣くだろうか。

 

あの世でもしお前と会えて、そしてもしお前ともう一度。

もう一度碁が打てたなら――――

 

(俺は――――――)

 

そして進藤ヒカルの意識は失われた。

 

 

 

 

「え?」

 

しかしすぐに目が覚めた。

 

(え?あれ?おれ、死んだんじゃなかったの?)

 

周りを見渡してみてひどい違和感を覚え、ヒカルは混乱した。

今まで周りにいたはずの子供たちや、碁の弟子たち、病院関係者たちの姿がない。

それどころか病院の白い壁や天井はすっかり消えうせ、板張りの床、板張りの壁があるばかりである。

 

(床?)

 

ヒカルは最大の違和感に気が付いて下を見た。

手の下に床がある。

そう、寝たきりだったはずのヒカルは、今床の上に座っているのだ。

 

(うえええええ?)

 

そして皺だらけだったはずのヒカルの手は、ぷっくりすべすべの幼児の手になっていた。

 

(は?へ?なにこれ?夢?夢か、これ?それにしちゃリアルすぎじゃねえ?)

 

あわてて顔を両手でさわってみる。

やはりふっくらもちもち、幼児の肌だった。

 

「えええええええ!?」

「どうしたの、虎」

 

かけられた声に顔を上に上げると、そこにはやはり幼い、しかし幼児であるヒカルよりは明らかに年上の男の子が立っていた。

着物をきて、片手にかごを持っている。

彼はわらじを履いて外に出ようとしているところだった。

 

「どうしたの、直太郎」

「母様、なんだか虎が変な声を出しているんです」

 

縁側から小さな女の子をおんぶ紐でおんぶした女性が顔を出した。

やはり着物。そして髪は結い上げられ、髪油でまとめられている。

 

「え?かあ?え?」

「どうしたの」

 

母様と呼ばれた女性がヒカルのそばまでやってくる。

 

「母様、また虎は碁石がほしいんじゃないんですか」

 

碁石。

その言葉に、ヒカルは思わずはっとする。

 

「碁石がないと、虎はすぐぐずるんだから」

「そうなの?碁石がほしいの?」

 

半ば条件反射でこくり、とうなずく。

すると女性は苦笑いをして押入れに向かった。

 

「いつもだったら勝手に押入れから取り出すのに。

でもきちんと断ってえらいわね。

今日は碁石で遊んでいいですよ」

 

そして押入れを開けて、中から碁石を取り出す。

その奥には碁盤が置いてあるのが見えた。

ヒカルが何か言う前に、しかし押入れの扉はぴしゃりと閉められてしまった。

 

「はい、あなたが大好きな碁石よ」

「よかったな、虎。

でも父様が桑原の本家から帰ってくる前にしまうんだぞ。

押入れにしまわれたのだって、お前が食事も無視して碁石で遊んでばかりいるからなんだからな」

「直太郎の言う通りよ。

分かったわね、虎次郎」

 

桑原。直太郎。碁石。

そして最後の呼びかけ。

 

(虎次郎。

―――――俺は、虎次郎なのか?)

 

ヒカルはただ呆然とするしかできなかった。

 

 

 


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