ヒカルは佐為が去ってから因島や秀策囲碁記念館などに何度か行くことがあった。
そのため、秀策の生涯や逸話がどのようなものであったか、後世に伝わっている程度のことは知っている。
(3.4歳の頃には碁石を与えればすぐ泣き止み、だったか)
逸話を思い出し、とりあえず石を並べてみる。
すると生粋の碁打ちの悲しさ、すぐに夢中になってしまった。
「虎次郎、そこまでになさい。
お父様が帰ってきましたよ」
声をかけられるまで熱中してしまった。
あわてて石を片付ける。
「今日はすぐにやめられてえらいわね」
母が微妙な褒め方をして碁石を押入れの中にしまい込む。
(いやまて、まだ分からない。
姉さんがいるんだったよな。この頃だと奉公に出てるのか。妹の名前は信。
親父さんの名前が桑原輪三、お袋さんの名前がカメだ。
もしそれが違ってたら、虎次郎は虎次郎でも別の虎次郎ってことになる)
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま、カメ。
直太郎、虎次郎、信。いい子にしてたか」
「あなた、このお酒は?」
「本家が輪三にといって特別に持たせてくれた土産だ」
輪をかけて呆然とするヒカルを見て父、輪三が不思議そうに言った。
「なんだ、虎次郎。随分大人しいじゃないか。
腹でも壊したか」
「ううん、ちがうよ。
お帰りなさい、父様」
「お?随分しっかりした物言いだな。これは驚いた。
3歳になったばかりなのに。母様に教わったのか」
「いいえ、私じゃありませんよ」
「兄様の真似」
「ははは、そうかそうか」
食事をすませ、入浴、就寝となる。
その全てが現代の日本の生活とはかけ離れたものだった。
ヒカルは眠ることもできず、横になったままじっと天井を見つめ続けた。
(どうしたってこれは夢じゃない。
こんなにリアルな夢があってたまるか)
体に引きずられているのか、思考も精神も若返っているように感じる。
少なくとも臨終寸前の老人のものではない。
(一体どういうことなんだ。
虎次郎は?本当の本因坊秀策はどこに行ってしまったんだ)
今では進藤ヒカルの人生の方が夢であったかのようにぼんやりと感じる始末だ。
ただ烏帽子をかぶった囲碁の神様との記憶だけが鮮やかだった。
その瞬間、ヒカルは雷鳴に打たれたかのよう飛び起きた。
(佐為!
そうだ!佐為がいるんだ、ここには!)
隣で寝ていた兄が寝返りを打つ。
ヒカルはぎょっとして、起き上がったままその場に一時停止した。
兄、直太郎はむにゃむにゃと言いながらそのまま寝入っている。
ヒカルは迷った。
佐為のことに思い至ってしまった今では、もう絶対に寝るなんてできない。
こんな時間に、とも一瞬逡巡したが、どうしても確かめたいという欲求が勝った。
逆にこんな時間だからこそ、とも言える。
ヒカルはそろそろと音を立てないよう細心の注意を払って起き上がった。
兄の寝ている枕元を慎重に通り過ぎ、押入れに近づく。
虎次郎の生家は裕福な農家だ。
家は広く、押入れのある部屋は兄と虎次郎の二人が寝ていて両親と妹は隣の部屋だ。
押入れの戸に手をかける。
(げ)
ごとっ、と思いのほか大きな音が出た。
ヒカルは動きを止め、周りを見回す。
ほっと息をついて戸を開ける作業を再開した。
3歳児には思いのほか、重労働だった。
戸が重い木でできていたからだ。
息をきらしながら押入れから碁盤を取り出す。
部屋にひとつだけある窓の隙間から、細く月明かりが落ちてきていた。
ヒカルはその下に碁盤を置いた。
「………あった………」
月明かりの下、碁盤の上にしみが浮かんで見えた。
「………しみ……あった………」
―――――見えるのですか?
「うん、見えるよ」
ヒカルが顔を上げる。
そこには碁盤の上、月明かりの中に透き通った一人の青年の姿が浮かび上がるところだった。
「これ……お前の涙のシミだったっけか?佐為……」
――――――そう……それは私の涙の染み………
そこまで言って目の前の幽霊は不思議そうに首を傾げた。
――――――なぜあなたは私の名前を知っているのですか……?
「知ってるさ、お前のことならなんでも。
名前だって……お前の碁だって……!」
――――――碁………!
「打とうぜ、佐為!
俺、お前とずっと打ちたかったんだ!
何十年も!ずっと!これから先も!何十局、何百局だって……!」
――――――ああ、感謝します………!
そしてその後、佐為の魂の直撃をくらったヒカルの意識はブラックアウトしたのだった。
しかしブラックアウトしながらも、ヒカルは確かに微笑んでいたのだった。