ヒカルはその後、食あたりではないか、風邪ではないかと大いに心配され、布団の中で安静にしていることを命じられた。
危うく尾道から医師まで呼び出されそうになったが、それは体調不良が一過性のものであることを強く主張し、懸命に阻止した。
『す、すみません、ヒカル~
まさか私の悲しみがヒカルの意識を包むことで、体調にまで影響してしまうなんて』
(勘弁してくれよ……)
『で、ですがヒカル』
おろおろとヒカルのそばに座っていた佐為は、心配そうにしながら、しかしはっきりと言った。
『ヒカルがあまりに哀しいことを言うからです。
まるでヒカルはこの先、全く碁を打たないようなことを言うから』
(全く打たないってことはないぜ。
お前と打つって言ったじゃないか)
『私とだけですか?
それではやっぱりヒカルが碁打ちとして世に出られないということじゃありませんか!』
(うぷ……)
『ああ!?す、すみません!』
(だから勘弁してくれって……あれ?そういえば)
『はい?』
(お前、俺のことヒカルって呼ぶのな。なんで?)
『なんでって……』
佐為はしょんぼりと、そして切々とヒカルに訴えた。
『あんな話を聞いてしまっては、他に呼びようがないではありませんか。
あなたは私にとって、大事な弟子で友人で碁敵、進藤ヒカルなんです。
そして今の私には、虎次郎もヒカルも、両方消えて欲しくない大切な棋士なんです』
(消えるも何も。俺はもう死んでるんだぜ、たぶん。
中身はやりつくした90過ぎの爺さんなんだぜ)
『え?い、いやです、そんな!こんなに可愛いヒカルが爺さんなんて』
(いや、何言ってんの。
とにかく爺さんなの。天寿を全うした、やりつくした爺さんなの。
俺にとっちゃ、ここに居るのは死んだ後に美味しいおまけ、褒美をもらったようなものなんだよ。だから俺が今更碁打ちとして世に出たってしょうがないんだよ)
『そんなことはありません!ヒカル!
あなたも世に出て、たくさんの人々を相手に碁を打つべきです!
あなたほどの棋士なら、そうして当然です!
それに死んでるって言ったら、私も同じじゃないですか!』
(うぷ。だから。だからお願い勘弁して、おええ)
『ああ!すみません、ヒカル!で、でも!』
などというやり取りを延々と二人は繰り返した。
やっと事態が変化したのは、ヒカルが寝込んで2日目に突入してからだった。
(だからだな。
俺は、俺自身が碁を打つようになってから結構しんどかったんだよ。誰も彼もお前の碁ばっかり見て。俺の碁なんか、かすみまくっちまって)
『そ、それは……』
(それもこれもお前の碁が凄すぎたからなんだけどな』
『え?いえいえ~それほどでも』
(調子いいなあ。
だけどな、それは今度も起こりうることなんだぞ。二人が一人として打つと、どうしても上手の碁が下手を喰っちまう。
お前の碁がかすんで、みんなが俺の碁ばかり見るような事態になったら、それは俺にとっても……)
ヒカルはそこで言葉を止めた。
ぴりぴりとした、張り詰めた空気を佐為から感じたからだ。
見上げると、そこには普段のものとはかけ離れた、斬れそうなほどに研ぎ澄まされた佐為の表情があった。
『私の碁があなたの碁に喰われる、と?
私の碁はあなたの碁に及ばないと言うのですか?』
ヒカルは言葉を継ごうとして、やめた。
そして少し苦笑いの混じった、懐かしさと親しみを多分に含んだ微笑を浮かべた。
『打ちましょう、ヒカル』
佐為がぴしり、と持っていた白扇をヒカルに向ける。
『私と勝負を。
そして私の碁をあなたに知らしめましょう。
私の碁が決してあなたに劣らないと証明できたならば、あなたも世に出るのです、ヒカル。
私とあなた、二人で共に一人の碁打ちとして世に出る覚悟をお決めなさい』
(お前、相変わらずだなあ)
ヒカルの声が笑っているので、佐為は反射的にとがめようとした。
しかしヒカルが浮かべている笑顔がどういう種類のものか、気付く。とがめる言葉が出せなくなった。
『ヒカル……』
(いいぜ、佐為、打とう。
もちろんそうさ、俺たちは碁を打たなくっちゃ、何も始まらない。
これから打つ何十局、何百局の最初の一局だ。この時代でのな)
『ええ、ヒカル。そうですとも。
打ちましょう!』
(でも)
ヒカルは、はーっとため息をついて軽く肩をすくめてみせた。
(碁盤も碁石も押入れの奥にしまわれて、手元にないんだけどな)
『あ』
「はーっはーっはーっ
きっちー!3歳児には土間から物を持ち上げるだけで重労働すぎるぜ」
『ヒ、ヒカル、大丈夫ですか?そんなに無理をしてどこか痛めてしまいませんか?』
「他にどうしようもねーだろーが。そして今がチャンスなんだよ!」
『ちゃんす?』
「絶好の機会ってこと!」
『ほほう』
家族は昼間、皆表に出て仕事をしている。
その日は父も含めて表で畑仕事をしているはずだった。
ヒカルはその隙を狙って、土間から桶やら箱やらを家の中に上げ、押入れの前に持ってきていたのだ。
「俺とお前の場合、目隠し碁でもそれなりに打てるけど、やっぱこの時代での最初の一局だ。ちゃんとした碁盤で打ちたいからな」
『ヒカル……!な、なんて嬉しいことを言ってくれるのですか!』
「これを積み上げれば……」
『おお!その上に乗って押入れから碁盤と碁石を取り出そうという算段なのですね!』
「ふっふっふ、俺の計画は完璧だぜ、ほら、なんとか届きそうだぜ!」
しかし哀しいかな、3歳児の体では押入れの奥深くにしまいこまれた碁盤を一度で取り出すのは不可能だった。持ち上げるには重すぎたのである。
「くっ、お、重い」
『ヒカル!がんばって!もう少しです!がんばれ~がんばれ~』
「も、もうちょい……」
「何してるんだ、虎次郎!!」
「わあ!!?」
『あ!ああああ!?』
突如かけられた父、輪三の声に、ヒカルは碁盤ごとひっくり返った。
『あああ~!ヒカルうううう!』
そしてその拍子に勢いよく縁側から外へ飛び出した桶は、ものの見事に石にぶつかって粉みじんに吹き飛んだのだった。
「なんてことだ!寝ているかと思えば、こんないたずらをして!」
父は怒り狂った。
尾道から医者を呼ぼう、と一番あわてふためいたのは、この父だったのだ。
しかも心配して様子を見にきてみれば、この始末である。
(いやあーそうだよなあー怒るよなーいたずらにしか見えないもんなー
しかも躾が現代よりも厳しいだろうこの時代だもんなー)
「虎次郎!父様にあやまりなさい!」
何事かと駆けつけてきた母もさすがに厳しく言う。
しかしヒカルは何も言葉を口にしなかった。かわりにムスッとした顔を作る。
『ちょ、ちょっと、ヒカル!?あやまった方がいいですよ。素直にあやまれば、きっと父御も許してくれますよ!』
「虎次郎、あやまりなさい!」
それでもムスッとふてくされているようにしか見えない息子を前に、ついに父の堪忍袋の緒が切れた。
「そんなに押入れが好きなら、こもっていろ!」
ぽいっと押入れに投げ込まれた。
そしてぴしゃり、と戸がしめられる。
ごと、と音がした。ご丁寧につっかえ棒までしてくれたらしい。
人が遠ざかる気配がそれに続く。
聞こえるものは、遠くで響く鳥の声ばかりとなった時に佐為がおずおずと言った。
『ヒカル……すみません。私のために……』
(んー、いいって。俺のためでもあるし)
『でも……どうしてあやまらなかったんです?
すぐにあやまればきっと許してくれたのに』
(ふふん)
ヒカルは佐為を横目でながめ、もったいぶった笑い方をした。
(計画は完璧だって言ったろ?
これで誰にも邪魔されない個室が手に入ったぜ。
そして俺たちの手元には何がある?)
『!!』
転がり落ちたときに、一緒に碁盤と碁石も床に落ちていたのだった。
そして押入れに押し込められるときにも、一緒に。
ヒカルが押し込められた押入れの下段には、碁盤、そしてばらばらではあったが碁石が転がっていた。
『ヒカル!すごいです!本当に完璧な計画ですね!』
(へっへー……っつっても、カンニングだけどな。
虎次郎は小さい時にいたずらをして、罰として押入れに閉じ込められたことがあったんだよ。で、許してやろうと戸を開けたら、一心不乱に中で石を並べてたってな)
ヒカルは碁石を丁寧に拾い集めた。
そして戸の隙間から差し込む何本かの光の前に碁盤を置いた。
逸話のように、その光は細くとも碁を打つには十分な明るさがあった。
『これで碁が打てますね』
「お前、その持ってる白扇で打ちたいところを差せよ。俺たちは先の時代じゃずっとそうやって打ってたんだ。その方が俺も打ちやすいからな」
『ええ!それはいいですね!』
佐為は喜びに満ちた表情で答え、しばらく碁盤を見つめていたが、すっと身を翻し、ヒカルの向かいに腰を下ろした。
『さあ、ヒカル。打ちましょう。
私は強いですよ』
「知ってるよ。だけどお前、忘れてるんじゃないか。
お前の目の前にいるのが誰なのか」
碁盤から顔を上げた佐為は、そこに静かに微笑むヒカルを見た。
「佐光。
27世本因坊佐光、だ。――――――倒せるものなら倒してみな」