その日から母子の囲碁教室が始まった。
とはいえ、母は日々の家事や仕事で忙しく、余暇などないも同然の人である。
最初の日こそ基本中の基本、碁の一般的なルールを通して教えてくれはしたものの、それから後は一手打っては畑仕事に、一手打っては家の裏へ回って薪割り、水汲み。ほとんど席を温める間もなく、碁盤の前に座っているのはヒカルただ一人というやや珍妙な形での対局となった。
(まあお前と打つときはいつもこんななんだけどな)
『でも母御はなかなか強いですよ』
母が戻ってきて次の一手を打つまで、ヒカルたちは時間を持て余してしまう。
(そりゃあ、母ちゃんは虎次郎の最初の碁の師匠なんだからな。
この時代はアマもプロも区別がなかったし、全体的に碁のレベルが高いんだろ)
『あま?ぷろ?れベる?』
(あー……つまり碁を仕事にして報酬をもらってる連中がプロ。お前も帝の囲碁指南役だったんだから、そうだろ)
『ほー、私もですか』
(アマはそれ以外の碁を打つ連中のことさ。レベル云々はこの時代の碁を打てる人たちはみんな現代よりも平均的に見て強いんだろうってこと。囲碁を打つ人の数は、現代よりもずっと多いだろうからな)
佐為は扇を口元に当て、ほくほくと喜んだ。
『平安の御世よりもですよ、ヒカル。
囲碁はあくまで貴族たちのたしなみでしたからね』
(だけど母ちゃんの一手を待つ間は、ちょっと暇だなあ。
一手一手を検討していくのにも限度があるし)
『母御はお忙しそうですし、無理を言ってすぐに打ってもらうわけにもいかないですしね』
そんなに忙しいのになぜ打ってくれるのか、とも思う。
もしかすると、長男と末っ子に挟まれて、どうしてもほったらかし気味になってしまう次男と接する時間を、なんとかして作ろうとしてくれているのかもしれない。
『きっとそうですよ。
……でもそれだと一層、無理は言えないですね。母御と碁を打つのはやめておいた方がいいんでしょうか?』
(んー……それもなあ……
俺、現代で碁を誰に教わったかって色々な人に聞かれて凄く困ったんだよ。
幽霊に教わったなんて言えないだろ)
『……ああ、それは……』
(だから今、前倒しで母ちゃんに教わっとくのは後々のことも考えると、悪くないと思うんだよな。俺がお前と打ってる所をついうっかり見られても、誰かに教わってれば言い訳できるだろ、ちょっと苦しいけど。それに何より、この時代の人たちがどんなふうに碁を打つのかも見れるし)
『ではやはり、もうしばらくこのままで?』
(うん……お前には悪いんだけどな。
でもなーあんまり暇でもあれだなーあれだから、するか、佐為。目隠し碁)
『おおおおお!いいですね!やりましょう、待っている間!目隠し碁!』
そういうわけでヒカルと佐為は母の一手を待つ間に目隠し碁をすることにした。
始めのうちは、これはなかなかうまくいくような感じがした。
なにしろ母の仕事はどれもすぐに終わるようなものではなかったので、かなり待つ時間が長かったのである。
しかし破綻は早々にやってきた。
「とらーなにしてるんだー」
「え」
まずその日は、近所の子供たちがやってきてしまったのである。
なにしろ狭い島でのこと、子供はみんな友達、遊び仲間なのだ。
いずれも虎次郎とほぼ同い年の子供たちである。
「具合が悪いの治ったんだろ?遊ぼうぜ!」
「え?いや、ごめん、おれ、碁を打ちたいから」
「えー。碁ー?」
「おれ、鬼ごっこがしたい。虎、鬼ごっこの方が楽しいぜ、鬼ごっこしよう!」
「ええ!?」
(くわーなんでだよ!現代よりも碁が盛んって話したばっかだろ!
老いも若きも碁を打てよ!90過ぎの爺に鬼ごっこは辛いよ!)
『ヒ、ヒカル!がんばってください、せめてこの一局だけ!
まだ私たち、数手しか打ってませんよ!』
(分かってるよー!)
ちょうどそこへ次の一手を打ちに母が戻ってきた。
(やった、母ちゃん、グッドタイミング!)
『ああ、母御!追い返してください、私たちは碁を打ちたいんです!』
「あらあら、お友達が来てくれたのね」
「虎といっしょに鬼ごっこしようと思って」
「とら、行こー」
「虎次郎、行ってらっしゃい。良かったわね」
「え!!?」
『ええ!!!?』
まさかの母の反応にヒカルたちは大いにあわてた。
ヒカルは一生懸命子供らしくしながら訴えた。
「や、やだよ、母様!囲碁が途中だもの!もっと打ちたいよ!」
(こ、こんなんでいいのか?)
『なかなかだと思いますよ、ヒカル!
母御!鬼ごっこじゃなくて碁が打ちたいんです、もっと打たせてください!』
「虎次郎」
母はしげしげと虎次郎を見つめ、やや困惑気味につぶやいた。
「やっぱり、そんなに碁が打ちたいの……」
「うん!」
ヒカルはここぞとばかりにぶんぶんと首を縦に振った。
もちろん横では佐為も同じ勢いでぶんぶんとうなずく。
「……虎次郎」
「はい!」
「……ええ、そうね、やっぱりそうなのかもしれない……」
「?」
「分かったわ。やっぱり最後まで打ちたいものね。
じゃあこうしましょう、母様がしてるように打ちなさい。みんなと遊びながら、母様が打った時だけ戻ってきて打てばいいでしょう。すぐそこの庭や梅林で遊べばすぐ戻ってこられるわ」
「え」
(えええ~!?なんだよそれ?滅茶苦茶めんっっっどくさっ!)
『ヒカル、ヒカル。母御の言う通りにしましょう』
(佐為?)
『母御としては狭い島でのこと、あなたの友達との関係を大事にしてやりたいのでしょう。それにこれ以上私たちが我を通すと、囲碁を教えて下さらなくなるかもしれませんよ』
(……う~ん……お前はそれでいいの?)
『はい、ヒカル。私は碁さえ打てれば、それで』
ヒカルはため息をつきながら苦笑いをした。
(分かったよ。お前がいいんなら、それで)
「分かった、母様。そうする」
「ええ、虎次郎」
「虎ー!じゃあ鬼ごっこだ!はやくはやくー!」
(ああ、鬼ごっこか……ううう……孫としてるつもりでいけばなんとか……)
『ヒカル!がんばってください、今日一日を耐え忍べばなんとか!』
「虎が鬼だー」
「わーい」
「わ、わーい……」
しかし駆け回る息子を見ながら、母は思っていた。
(やっぱりこの子は普通の子とは違うのかもしれない)
兄弟の中で虎次郎の時だけ、なぜか悪阻がひどく、母は碁を打ちながら気を紛らわせていた。生まれた後も、ごく小さな赤子だった時から碁石を好み、どんな食べ物よりも、玩具よりも、側に碁石を置きたがった。
(それに……)
たった今も。少し基本を教えただけだ。
入門が最も難しいとされる碁。それなのに「まるで始めから碁を知っていたかのよう」。
ありえない、と思いながらも考えずにはいられない。
(やっぱり私のおなかの中で、あの子は碁を覚えたのではないかしら?
それにあの子の具合が悪くなった前の夜に見た夢。白蛇に乗った光り輝く人が虎次郎の中に宿ったあの夢はやっぱり、ただの夢ではなかったのでは?
あの白蛇は、梅林にお祀りしている天白竜王様だった……?)
人間が遠く及びもつかない事などを思うだけで、恐ろしいような気がした。
ただ、もし自分が考えていることが見当違いのことでも何でもないのだとしたら。
(あの子が健やかに、まっすぐ育ちますように。
あの子が持っているかもしれない天賦の才を、私が上手くのばしてやれますように)
早くもそんな覚悟を決めようとしている母の前で、虎次郎――ヒカルは、友達たちと声を上げながら庭を駆け回っていた。
(ぐおおお、きっちー!体力的にはともかく精神的にきっちー!)
『ヒカルーがんばってー!がんばってーヒカルー!』