肉に勢いよく噛みついた。
何物とも知れぬ肉からは黒い汁が噴き出し、口の中に加工前の苦味と臭味が容赦なく広がる。それでもぼくは生きたい。あの女に飼われ、哀れな殺人鬼となるよりは幾分もマシだった。どれくらい走ったのか分からない。
雨宿りのためどこかも分からぬ家畜小屋に避難しているところだった。持ってきた食糧などとうに底を付いている。金はまだ使いたくはない。これはもっと重要な局面で必要になるはずだ。腹がどうにも空いて力が入らなかったので豚が喰らう残飯を失敬した。くだらないプライドなど捨ててしまえ。今はただ逃げることだけを考えればいい。
殺人鬼「黒山羊」。ぼくがこの世界で最も嫌悪すべき悪魔はぼくの母親なのだ。昨日見かけた新聞記事にもその名を轟かせていた。唯一の生き残りである少年が譫言のように繰り返したという単語がその名の由来となっている。その表記はそう外れていないとぼくは思う。
無垢な白山羊の集団に現れた漆黒の唾棄すべき黒山羊。ただの異端ならば良かった。しかし、その黒山羊は草を喰わずに同族を喰う恐るべき悪魔だったのだ。ぼくがものごころついた時には既に母は殺人者で、父親は影も形も無かった。とっくに殺されていたのかもしれない。不思議と警察に通報しようとは思わなかった。
小学生であったころはそれを親の喪失による孤独感と寂寥感の現れだと思っていたが、今は違う。それはぼくがこれまで生きていた理由にも繋がる。ぼくは生まれ違えたのだ。白い山羊となるはずだったのだ。しかし、何ということだろう。ぼくの色もまた黒だったのだ。母はそれを見抜き、ぼくにその方法を辛抱強く伝授した。
いらない、いらない、と拒絶しようが変わらなかった。否応の無い英才教育。ぼくはまだ殺人を犯したことが無いだけで母親と同種の人間なのだ。だから通報したらぼくも捕まってしまうのではないか、そういう恐怖が根底にあったのだろう。
咽せて今まで喰らったモノを吐いてしまう。人間の食べるものでないのだから仕方ない。だが、これではぼくは死んでしまう。萎んだリュックサックから大振りのナイフを取り出した。もくもくと食事を続ける豚を見る。今から死ぬことをまるで知らない分からない哀れな動物に心の中で黙祷を捧げ、刃を上に向けて豚に突き刺した。
それでようやく異変に気付いた豚であったが、逃げられない。その瞬間には既にぼくが退路を奪っているからだ。悲鳴をあげようともこの大雨の中だ。飼い主も気付くまい。自分の数倍は体重の軽いはずの人間を振りほどけない豚は哀願を乞うような黒い瞳でこちらを見てきたが、そんなことで手を止めるほどぼくは甘くない。これは自然の摂理なのだ。仕方ないのだ。誰に言い聞かせているのかも分からない言い訳をしながらぼくは豚を殺した。生で喰うのはさすがに勇気がいるが、血抜きをすれば先ほどの残飯よりは食べられるだろう。
何度も吐きそうになったが、生きるためと思い嚥下した。振り返ってみると味は残飯とそう変わらなかった。しかし、何かが違う気がする。外はまだ雨だ。しかし、ここでグズグズしていると誰かに見つかるかもしれない。カッパを着る。さて、行こうか。
あたまたちは、おかあさんの声でささやくのだ。
「あなた」「あなた」「あなた」 「あなた」
「どうして、愛されると勘違いしてしまったのかしら」
「そんなに醜いのに」
「うう……」
ふと雑踏の中で気付く。少しだけ昔のことを思い出していたらしい。誰かにぶつかり気付いたのだ。こんな所で立ち止まっていたら目立ってしまう。年を誤魔化して働いているバイトの帰りだった。
疲れているのかもしれない。初任給で登ったお気に入りの赤い電波塔を見る。この街の象徴となっているそれは戦車を材料として造ったらしい。そんなエピソードも心惹かれる理由の一つだ。またあそこに登ろうか。そんなことを考えていた。家出してから二年が経っていた。
ここでは黒山羊の話もあまり聞かない。そんな変わり者をわざわざ探さずとも、この街では毎日のように人が死んでいるのだ。くだらない痴話喧嘩や金目的の強盗にホームレス狩り。故郷では全く噂を聞かなかった喰種もいるようだ。
それなら、同じ人間のことなど気にしている余裕がこの街の人々には無いのだ。何物も受け入れてくれる度量の広さを持ちながら、どこかで人間自体の存在を拒否しているようなところもぼくがここに留まっている理由の一つだ。素晴らしい街。漆黒も純白も山羊も卵もここではみな同じ色にさせられている。
下宿のアパートへ帰って来た。今では珍しくなってしまった木造の建物だ。少しめまいがする。明日はバイトも無いし、ゆっくり寝よう。しかし。扉の前に誰かが立っていた。一瞬、母親かと思って総毛だったが、少女のようだ。彼女がこちらを見て微笑んだ気がした。そして。そして。ぼくは。ぼくは。気付くとその少女を殺していた。どういうことだ?何があったのだ?