”あの箱゛でなんども繰り返された、やさしい虐待。
チカチカと、空が信号のように瞬いた。
いつのまにか、胸腔から9つの棘が飛び出して、
横隔膜は今にも泣き出しそうに、震えている。
(ぼくの身体!)
少女は笑いながら既に血まみれであった手を振り、こちらに襲いかかってきた。
だから。
だから?
殺したのか? あんなに。あんなに。あんなに厭うていた人殺しにぼくはなってしまったというのか? ぼくは知らぬ間にアパートの部屋の中で啜り泣いていた。知らぬ間に、だ。意識することもなく、たやすく人を殺せてしまう自分はいったい何者なのだろう。そんな分かり切ったこと今さら考える必要もない。
嗚咽を漏らしたまま洗面所へ行った。吐く。その吐瀉物の中にあの日喰らった生肉が入り込んでいるような気がした。鏡。その鏡の中では顔を血に染めた黒山羊が映っていた。ぼくはそのまま意識を失った。永遠に覚めなければいいのに。
結果的にぼくは救われた。なぜなら、その少女は訪ねてきた捜査官の口から喰種だと知らされたからだ。非常に運の良いことだという。身体能力が人間より何倍も強いやつらに狙われたらその時点で死んだも同然だからである。自分が殺したことは黙っていた。その喰種を素手で殺したぼくの存在を知られたくなかったから、というのは自分にについた嘘の理由だ。
どれだけ現実逃避しても変わらない。たとえ喰種であっても、あのときぼくが殺した少女は間違いなく人間だった。人間だと認識してそれでも殺した。自分よりも強いヤツを殺すことならやったことがある。ならば。ならば。ならば、人間など簡単に殺せるではないか。これほど脆い生物がほかにいるものか。豚以下。
そうなれば東京は餌の街だ。喰種もそう感じているのだろうか。こんなことなら都会に逃げるのではなかった。知ってしまったら耐えられない。ぼくの精神では、とても保ちそうにない。
狙われていることすら知らない人間、いや白山羊の群れたち。この黒山羊たるぼくがどうして殺さずにいれよう。分かっている。覚えている。少女を殺し、その臓腑を右手に擦りつけたあの感触! 顔から浴びた生温かさ! 左手で脳漿を掻き混ぜたあの咀嚼音! 間違いなくぼくは殺人を楽しんでいた。我に返ってアパートの部屋に駆け込み、鏡を見た。
あのとき、たしかにぼくは笑っていた。人を喰うことを覚えたら、もはや人間ではいられない。あの愉しみを知ってしまったら。ああ、ぼくは母の言うリンゴを食べてしまった、哀れなアダムだ。だが、ぼくは一人だ。孤独だ。誰でもいいから、ぼくを助けてほしい。
ナイフを風呂場に並べた。大振りなものから投剣用のものまで十三種類ある。そのすべてに血が染み込んでいる。殺すたびに洗ったはずだが、なかなか取れないのだ。もう東京からは去った方がいいかもしれない。殺し過ぎた。喰種の殺人に見せかけるのには限界がある。本職の捜査官の手にかかればすぐさま正体を突き止められてしまうだろう。
喰種。ぼくは喰種に生まれたらどんなに良かったことだろう。中途半端に人を殺すことが簡単に生きがいに変わってしまうとは。ぼくは人間じゃなかった。喰種でもなかった。こんなに惨めな境遇へと追いやった父を恨む。母を憎む。
最後にあの電波塔に登ろう。血にまみれた彼岸花の如く咲き誇るあの場所で。死体を積み上げたような、弾丸を積み上げたような、あの素晴らしい場所へ。