いよいよわからなくなって、ぼくは鉄塔をのぼりだした。
ぼくがふれた手すりは、どこも黒く錆びた。
(やはりぼくは毒で出来ていた!)
(いや、あの女こそが毒そのものだったのだ)
(のぼれ、のぼれ)
あの愛しの鉄塔に向かおうとした。けれど、ぼくは見てしまった。塔の真下に母がいた。何故。何故。ここにいるのか。そんな疑問が湧く前にぼくは全速力で逃げた。突如として反転し、人間たちの群れを掻き分けて走り出すぼくはさぞ異質なことだろう。
だが。こいつらには、わからない。この白山羊どもには。喰われることを想像すらしていない愚かな者たちには捕食者たる黒山羊を嗅ぎ分けることすらできないこいつらには。
見つからないでくれ! 同じような怪物になってしまったぼくには理解出来る。自分のような歩きたての殺人鬼では到底かなわないあの雰囲気が。寒気のように伝わってくる。頼む。頼むから!
あまり人がやってこない路地裏までやってきた。ここなら。だが、確かに普通の観光客ならここに入らないだろう。しかし、殺人者なら? もし母が獲物を求めてやってきたのだとしたら? それならばここにいる方がまずい。逃げなくては。
「どうして逃げるの?」
悪寒。殺気。声とともにそれを感じた。だが。この声は母ではない。
「誰だ? 何のことだ?」
「分かっているくせに。おかあさんから、黒山羊から逃げたでしょう?」
振り返る。そこにいたのはぼくよりも少し年長と思える少女。最初は麦わら帽子に隠れていたからわからなかったが彼女は老人のように総白髪で、年齢に合わない蠱惑的な笑みを浮かべていた。それは、母の笑みだった。
「お前は、いったい……」
「初めまして、黒山羊の卵。もしくはカズキ?私は、そうね、あなたのお姉ちゃんで言うなればイヴかしら。名前はアイ。よろしくね」
塔の展望台へ上るエレベーターの中、奇跡的にぼくは少女とふたりきりだった。いつもなら心が湧き立つ御馴染みの空間だが、今回はどこか他人行儀でよそよそしく感じる。静かな昇降音と共に彼女が言う。
「わたし、昔は東京に住んでいたんだけど、そのときはゆっくり見る時間が無かったからたのしみ」
「……お前は何が望みなんだ。ぼくを警察に突き出すのか?」
「そんなわけないじゃない。誰が将来の旦那様にそんなことするの?」
「は? なに言ってんだよお前。誰がお前なんかと結婚するんだ」
「カズキよ? さっき言ったでしょう? わたしはイヴ。あなたがアダム。おかあさんが決めたことなのだから、カズキも従うしかないわよ?
」
「嫌だ。何故そんなことをしなくちゃならない!」
「次世代の黒山羊を作るためよ」
「どういうことだ?」
「カズキは無知なのね。黒山羊は何もおかあさんだけの呼称というわけじゃない。あなたの家の一族が連綿と受け継いできた業であり、栄誉あるものなの」
「業……」
「そう。山羊でありながら同族を喰らう悪魔の一族。もともとはヨーロッパの出だと言われていて殺人をする際は黒山羊の仮面を着けていたらしいけど、それはとうの昔に失われたみたいね」
「そんなことはどうだっていいだろ! めいわくな話だ! ぼくはその業を受け継ぎたくなかった! それが栄誉あるもの?ふざけるな! この忌まわしき血はここで終わりだ! だからお前も……」
唇に温かな感触。まるで昨日殺した白山羊のような。忘我の一瞬からぼくを現実へと引き戻したのは殺気。少女の左足からの強烈な。
「……安心した。それくらいの技術はあるみたいね。とは言え、こんなにも簡単にキスさせてくれるなんて意外にカズキはこの結婚に乗り気なのかなー?」
ぼくの口から唾液で糸を引く彼女はぞくりとさせられるくらい妖艶だった。殺したい。
「なッ! そんなわけがない!」
「だとしたら殺人鬼としてはやっぱり問題。この程度で先手を打たれているようじゃあまだまだね。やっぱり失敗したのね」
「失敗?」
「そう、あなたの親は、あなたを育てるのに失敗した。本能では殺人を求めているくせに理性が邪魔してしかも必要なスキルも持っていない。わたしにしてもそうよ。わたしにとって殺人は手段以外の何物でもないわ。人を殺しても何にも思わない。それでは黒山羊を継ぐことは出来ない」
「……ぼくにとってはその方が好都合だけどな。あの女の企みが失敗する、それほどうれしいことはないさ」
「おかあさんにずいぶんひどいことを言うのねえ。あんなに優しい人なのに」
「お前はぼくより強いかもしれないが、目は節穴みたいだな」
「あら辛辣。というかいつまでも「お前」呼びは年上に対して失礼よ? 今日初めて会った女の子を姉扱い出来ないのならせめて名前で呼んでほしいわ」
「……アイ。これでいいんだろ?」
「よくできました」
あいにくの曇天で展望台からの風景はあまり良くなかった。それでもアイはコインを入れて見るタイプの双眼鏡を楽しそうに覗き込んでいた。白髪からうなじが見える。さすがにここでは目立ちすぎる上に逃走手段も無いがアイを殺してしまえば、この面倒な事態からも解放されるのではないだろうか。彼女の話によると母は事件記事でぼくを発見したらしい。
アイを殺してどこかへ逃げてそのまま誰も殺さなければ……。唾を呑み込んだ。このうなじをナイフで刺したらどうなるのだろう。殺人者の血でも綺麗なのだろうか。ぼくの愛するこの鉄塔のように赤い赤い花が咲くように立ったまま死んでくれるのだろうか。
気になる。ナイフは懐だ。刺してしまえ。殺してしまえ。殺せ。殺せ。死ね。死ね死ねしねシネシネ………………!
「そんなに気になるのー?わたしのこと」
気付かれた。当然だ。アイはぼくより優れた殺人者なのだ。いや。それより。ぼくは。自分でもわからないまま殺人をしようとしていた!まさしくぼくにはあの女の血が業が流れているのだ。アイがこちらを見る。
「思ったよりも理性が効いてないわね。だめよ? こんなところで人を殺したら捕まってしまうわ。それともそんなことどうでも良かったのかしら?」
「いや、ぼくはその、違うぼくはぼくは」
「違わない。なかなかどうして、黒山羊とまではいかなくともあなたは立派な鬼ね」
「鬼……
」
動悸が止まらないぼくを見てアイは母のように、あの女のように笑った。
「…………殺しても…………いいのよ」
その声に。ぼくは。